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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第7回

2016.05.06 更新

現実は意外と簡単

 まだ二人が幼い頃、この子たちがいないと私は生きていけないと思ったこともある。それは、急な発熱で夜間救急病院に駆け込んで、ようやく熱が引いてきて穏やかになってきた寝息を確認できたときとか。そんな大げさな事態のときではなくても、二人で同じような格好をしている寝姿を見たときとか、普段はあまり似ていないのに笑顔はそっくりだと思った瞬間とか、何でもないときに甘えてきたときとか。
 この子たちのためなら私は何でもできると思った瞬間が何度も何度もある。この子たちの成長を見つめることだけが私の生き甲斐なんだと。
 その気持ちに噓はなかったと思う。今でもきっとそう思ってる。
 でも、こうやって、仕事をして帰ってきたときに二人がいない部屋の中で、自分のためだけの時間を過ごしていると、ふいにそれがやってくる。
 子供がいなくても、自分ひとりだけでも毎日は過ごしていける。そういう思い。
 考えてみたらそれはあたりまえのことで、風花と天水が生まれる前はそうやって生きてきたんだから。
 でも、子供のことをまるっきり頭の中から追い出して仕事をしていて、そうして帰ってきたときにふとやってくる後ろめたさ。子供がいないと生きていけないと思ったあのときの自分を忘れるなんて母親失格じゃないかとまで思うこと。
 親が子供を育てるんじゃない。親は子供に育てられるんだってよく言われる言葉だけど、本当にそう思う。
 私は、風花と天水を生んだことで、子供たちがいてくれることでどんどん違う自分を手に入れている。人間としても、女性としても成長したと思う。
 今、こうやって、二人がいない日々を楽しんでいることを後ろめたく思うことも、津田恵里佳という女を成長させているんだと思う。母親としてもひとつ前に進めたんじゃないかと思う。
 そう思わないと、本当に後ろめたくて泣きたくなっちゃうから。
 夏休みが終わる前に、あの子たちは博明さんのところから帰ってくる。きっと、二人ともそれぞれに新しい経験をして、何かを感じて帰ってくるに違いない。それを嬉しく思ったり、少し淋しくも思ったりするんだろう。
 反対に、離婚した父親のところで過ごすなんて、そんな思いをさせて申し訳ないとも思うのかもしれない。
 あの人も、博明さんも、そんなことを考えるんだろうか。それが全部あの人の、作家としての感性の栄養になっていくんだろうか。
 他人になった博明さんのことが嫌いになったわけじゃない。私から離婚したいと思ったわけじゃないんだから、好きなのがあたりまえ。
 もし、博明さんがまた一緒に暮らしたいと言ってきたら、今はまだ、素直に受け入れるつもりでいる。これが何カ月も何年もしたときにもそう思っているかどうかは保証がないけれども。
 そういう話も、離婚前にした。

      ☆

「もしも、急に心が折れてしまったらどうするの?」
「どうする、とは?」
「作家になれずに、本当のところで諦めるようなことになってしまったら、またここに帰ってくるつもりはあるの?」
 博明さんは、ほんの少し躊躇(ためら)うような表情を見せた。
「そんな虫の良いことは考えていないさ。でも、もし仮にそんな事態になって、僕が戻ってくることで風花と天水が喜ぶなら、そして君が許してくれるなら、受け入れてほしいとは思うけれど」
 でも、って、すぐに続けた。
「本当にもしも、そんなことが起こるようなら、君は条件をつけてほしい」
「条件って?」
「きちんとした、安定した収入を得ることのできる仕事を見つけてから戻ってくること、と。そうじゃなきゃ、受け入れないとしてほしい」
 それは、現実的にそうでなければ困るだろうし、博明さんも男としての矜恃(きょうじ)みたいなものもあるんだろう。
「じゃあ、そうする」
「もちろん」
「何?」
 博明さんはまた何か考えてから、言った。
「それ以前に、君は別の愛する人を見つけたら、結婚してもいいんだ。それは、当然のことだ」
「そうね」
 離婚するなら、それは当然の選択肢。
「そして、あなたもそうだってことでしょう?」
「何度も言うが、考えたこともない。でも、そういうことにはなる」

      ☆ 

 本当に愛しているのなら、離婚なんて二文字を思いつくはずがない。離れて暮らそうなんて思えるはずがない。
 そう思った。そう思ったから、素直に言った。
 でも、博明さんは言った。
 二人で生きていくことと、一人で生きていくことと、愛することは別だと。
 私を愛していると。でも、一人で生きていかなければ小説を書けないと今は思っている。だから、一人で生きることを選ぶんだと。
 それは結局、私を捨てることなんだと私は言った。
 少し悲しい顔をして、博明さんは、頷いた。
 そう解釈してしまうのはわかる、と。そう思われてもしょうがないと。でも、もちろん私を愛していると。
 でも、ひょっとしたら、自分だけを愛さないと小説は書けないのかもしれないとも。少なくとも、今の自分は。
 そして、それを選ぶんだと。
 現実は、意外と簡単なんだ。どんなに泣き暮らすか、淋しくなるか、面影を追い求めるかと思ったのに、もうこの生活に慣れている自分がいるから。
 あんまりにも慣れてしまって、ひょっとしたら博明さんを愛していたなんていうのも、単なる思い込みだったのかもしれないって考えるほど。
「そんなことはないけどね」
 苦笑してみる。
 だって、やっぱり淋しい。あの人がいてくれた日々のほうが、楽しかったと思える。でも、それを思い出にしてしまえるかもしれない、自分もいる。

選択

 眼が覚めた。
 部屋が真っ暗でびっくりした。
(夜だ)
 ゆっくり起き上がって、お父さんの家にいるんだってすぐにわかって、そしてまだ夜なんだって。じわーってだんだんと自分がどうやって寝たかを思い出してきた。
 お風呂に入って、お父さんと天水とトランプをして遊んで、映画のDVDを観た。天水が途中で寝ちゃったのでお父さんが部屋まで抱っこしてそのまま寝かせて、私は歯をみがいて、それからお父さんにおやすみを言って、ベッドで寝たんだ。
 起きちゃった。
 時計を見たら、二時になっていた。夜の二時。どうしてそんな時間に眼が覚めちゃったんだろう。
 ベッドを下りた。隣で寝ていた天水の寝息が聞こえる。タオルケットを全部けっとばしているから、お腹のところにかけた。お母さんがいつもそうするみたいに。
 戸は開いてる。
 お父さんの部屋に明かりが点いている。そっと、音を立てないように歩いていったら、キーボードを打つ音が聞こえてきて、それが止まった。
 お父さんが、振り返って私を見た。
「どうした」
 笑ったので、私も笑った。
「起きちゃったのか」
「何か、眼が覚めた」
 そうか、ってお父さんが頷いた。
 新しいお父さんの部屋には本が本当にたくさんある。整理されないで床の上にもたくさん積んである。
 緑色の布が張ってある古いソファもある。歩いていって、そこに座った。お父さんの部屋は、少し暗い。机の上のスタンドしか点いていないからだ。あとは、ノートパソコンのディスプレイの光だけ。
「何か食べるか? 飲むか?」
 お父さんが優しい声で言った。
「いい。大丈夫」
「そのままそこに座ってるとそこで寝ちゃうぞ?」
「ダメ?」
 いいや、ってお父さんが笑いながら言った。
「別にいいぞ。今夜も暑いから風邪は引かないだろ」
 もし寝ちゃったら、きっとお父さんがタオルケットをかけてくれるんだ。きっとそうだ。でも、眠くはない、どうしてなんだろう。
「どうして起きたかわかんないの」
 お父さんが、うん、って頷いた。
「疲れていたんだろう。自分が思っているより疲れていたから、ぐっすり眠ったんだ。深く眠ったんで、眼が覚めてもそのまままた眠くならなかったんだなきっと」
「そうかな」
 疲れていたのかな。
「海でたくさん泳いだから」
「そうだな。そう、明日の晩ご飯は、あの浜辺でバーベキューはどうですかって誘われたぞ」
「バーベキュー?」
 そうだ、ってお父さんが頷いた。それから立ち上がって、私の隣に座ったから、寄り掛かった。
 お父さんの匂いがした。
「蒲原さん、という人だ」
「かんばらさん?」
「あの浜辺の持ち主のおばあさんだ」
「作家のおばあさん」
「そうだ。その人からメールが来たんだ」
 ちょっとびっくりした。
「八十歳なのに、おばあさんがメールをするの?」
 するさ、ってお父さんが笑って、私の肩に手を回してきてぎゅっと抱っこした。
「おばあさんでも、昔っからパソコンを使ってきた人だ。お前たちよりパソコンを使いこなすぞ」
「すごい」
「すごいんだ」
「バーベキューって、かんばらさんと?」
「かんばらさんと、ご近所の仲良しの皆さんだ。あそこの浜辺ではよくそういうことをするそうだ。お前たちが来てるなら、一緒にやりましょうって誘ってくれた」
「そうなんだ」
「行くか?」
「行く」
 楽しそう。
「天水もゼッタイ行くって言うよ」
「言うな」
 お父さんの匂い。お母さんの匂い。どっちの匂いも好きだ。お父さんは今、煙草を吸っていたから煙草の匂いがするけど、それも好き。
「お父さんはさ」
「うん?」
「人生の選択をしたんだよね」
 おお、ってお父さんが声を出して私の顔をのぞきこんだ。
「その通りだな。よく知ってるなそんな言葉」
「学校で習うよ」
「そうか」
「その通りだ。人生の選択をした。でもな、それは特別なことじゃないぞ。お前にもすぐに人生の選択をするときが来る」
「すぐに?」
 そうだ、って頷いた。
「ひょっとして、中学?」
「そう。お前は行く中学を選べる」
「選ばないよ」
 私立なんか行かない。
「普通にみんなと一緒に行くよ」
「それが、選択だろう。お前は私立に行かないって選択をしたんだ」
「何も考えなかったよ。考えないで、そのままでいいやって思ってるよ」
 そうだな、ってお父さんは言った。
「それでも、お前の選択なんだ。お母さんもお父さんも前に訊いたよな? 中学はどうするって」
「訊いたね」
「それで、お前は選んだ。この先の人生で、自分で選ぶ瞬間はいくつもいくつも、たくさんやってくる。それは特別なことじゃない。選ぶことそのものが人生だと言い換えてもいい」
 選ぶことが人生。
「選ばなかったら?」
「選ばなかった、という選択肢を選んだことになるんだ」
「よくわからない」
 そのうちにわかる、ってお父さんは私の頭を抱きしめた。
「それがわかるようになるまで、お父さんもお母さんもお前のそばにいるんだ。わかるようになったら、もうお前はお父さんからもお母さんからも離れて、一人で暮らしていけるってことだ」

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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