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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第4回

2016.02.05 更新

砂糖入りのミルク

「すぅすぅしてるでしょ。家の中」
「うん」
 私以外、誰もいない家の中。親子四人で暮らしていたのに、博明(ひろあき)さんがいなくなって。
「子供たちもいないから、余計に」
「そうよね」
 こんなのは、独身のとき以来だから、十四、五年ぶり。
「誰かがいることに身体も心も馴染んでいたんだなーって、つくづく」
「だよねー」
 晴海(はるみ)がにっこり笑う。
「私はもう五年だから、それがあたりまえになったけれど」
「うん」
 私よりも先に離婚した晴海。子供もいない一人暮らし。まさか、友人の中でもいちばん仲の良い、付き合いの古い二人が揃って離婚経験者になるなんて。
「風花と天水がね」
「うん」
「お父さんのところに行ったその日はね、電気もテレビも朝まで点けっぱなしにしちゃった」
「淋しくて?」
「淋しいというか、家の中にいろんな音が聞こえないことが、ちょっと怖くて」
 あー、わかるわ、って頷く晴海。
「誰もいないのに音がすると過敏に反応しちゃうのよね。家鳴りとかでも」
「そうそう。それを打ち消すのに」
「テレビの声ね」
 ラジオでもいいんだけど、ラジオは喋りっぱなしだから、ラジオだと思ってしまう。テレビだと、音に間がある。その間が、普通を作り出す。
 誰かがいて、必ず何かしらの音を立てている、それが聞こえている毎日の生活の、普通さを。
「それにしても」
 晴海が居間を見渡した。
「随分すっきりしちゃったね」
「うん。かなり整理したし、模様替えもしたし」
「自分の趣味に」
「そう。お父さんの意見を全部取っ払ったの」
 少し笑った。
 晴海は、今までにも何度も来ていて、ここで一緒にご飯を食べたこともたくさんある。風花と天水も、晴海ちゃんと呼んで親戚のおばさんのように懐いている。博明さんは毒舌なところがある晴海をちょっと苦手にしていたけど、それは嫌がっているんじゃなくて、恥ずかしいからだって。
 誰に対しても親しくざっくばらんに接する晴海と話していると、どんどん〈妻の友達〉じゃなくて自分の友達みたいな感覚になってしまう。それが、ちょっとだけ苦手だって。
 そういう人だったんだ。
 普段、お客様と接して、どんどん親しく話すような仕事をしていても、プライベートでは自分のテリトリーを守る人。ずかずかと入り込んではいかない人。ちょっとひいて、外から見ている人。
「どう?」
「どうって?」
「嫌いになったわけじゃないのに、離婚してしばらく経った今のご気分は」
 貰い物だって晴海が持ってきた赤ワインは、少し甘めで美味しい。もともとお酒は飲まないほうだけど、このワインは美味しいってわかる。感じる。
「淋しい?」
「そりゃあ、淋しい」
 それは、本音。
「でも、いつかは慣れる淋しさなんだってわかる」
 晴海がほんの少し眼を細めた。
「それは、博明さんがそういう人だってわかっていたから? ひょっとしたらって長い間思っていたんだ」
「意地悪」
 唇を尖らせてから、いーっ、て歯を剝いてやった。
「覚えてるわよ。博明さんが無理してるんじゃないかって。結婚してすぐに風花ちゃんができたってわかったときよね。言ったでしょ恵里佳(えりか)自分で。不安だって」
「言ったね」
 覚えてる。忘れるはずない。私が、博明さんの将来を決めてしまったんじゃないかって。無理させているんじゃないかって。
「あえてここで訊くけど」
「うん」
「きっかけがあったの? 博明さんが何もかも捨てて、自分の夢を追うことにしたきっかけが」
「喧嘩なんかしないわよ」
「それはわかってるけど」
「慣れ、かな」
 慣れ、って繰り返して、晴海が少し首を捻った。
「生活の慣れ?」
「私のね。風花も天水も大きくなって手が掛からなくなってきて、私が主婦業に慣れ過ぎちゃって」
 余裕が出てきて、自分の職業を思い出した。建築の世界。設計図を描く楽しさ。家族じゃない、仕事をする仲間に頼ったり頼られたりする毎日の楽しさ。
「そういうものを思い出しちゃって」
「わかる」
 わかるわかる、って何度も晴海は頷いた。晴海も、税理士という自分の仕事を持っている。
「そして、お父さんがもうすぐ四十歳になるっていうのもあった」
 何かを始めるのに遅過ぎるということはないけれども、そこがもうギリギリじゃないかって思える年齢。
「四十歳の上司と、五十歳の上司じゃ全然違う。身体も、心も、四十歳ならまだ、っていうのがあった」
「それもわかるな」
「そして、お義母さんが死んじゃって」
 元々家系の縁が薄かった博明さん。お義母さんが亡くなって、親戚縁者がほとんどいなくなってしまった。
 たった独りになった。そして、お義父さんやお義母さんの保険金や実家を売り払ったお金が博明さんだけに遺された。
「そういうのが、全部いっぺんにやってきて」
「タイミングね。人生の」
「そう言うしかないかな」
 私は仕事を始めたかった。風花も天水も大きくなった。博明さんは、まとまったお金を私たち三人に、渡すこともできる。
「そこで、離婚して独りになって小説を書くっていう思考の飛躍の仕方がちょっとわかんないけど、そういうものなのよねきっと」
「そうなんだろうと思う」
 ずっと、毎日の暮らしの中で少しずつ少しずつ小説を書き続けてきた。家族の時間をまったく犠牲にはしないで。
 夫として、父として、あの人は一生懸命自分の思いを押し隠して私たち家族の生活を守ってきた。
「縁起でもないんだけどね」
「うん」
「お父さん、あの人ね、自殺した人の気持ちがちょっとだけわかった気がするって言ってた」
「何それ」
「魔が差すっていう感じ。自殺しようなんて思ったこともないからわからないけど、あるときに突然、死というものが自分の中に入ってきて飛び降りちゃったりする人がいるわけでしょ?」
 晴海が、あぁ、と、大きく頷いた。
「そういう意味か。もっと他に表現がなかったのかしら作家になりたいって人が」
「でも、なんかすごく腑に落ちた。そういうことかって」
「うん。私も今、なるほどって思った。博明さんはいろんなもののタイミングがぴったり重なって、突然に〈作家になる〉っていう自分の思いに囚われちゃったんだ。もう、それしかなくなっちゃったんだ」
「そういうことみたい」
 それを、その思いを否定なんかできなかった。否定したところでどうしようもなかった。
「何笑ってるの」
「ごめん。また思い出した」
「何を」
「その話を打ち明けられたとき。秋口だったんだけど、急にね、牛乳が飲みたくなったの」
 牛乳? って晴海が笑った。
「何で牛乳」
「全然自分でもわからない。動揺したから、落ち着こうとしたのかな。温かいミルクが飲みたくなって、お父さんにも訊いたら飲むっていうから、二人で夜中にホットミルクを飲んだの。砂糖も入れて」
 甘いミルク。二人でふぅふぅ冷まして、飲んで。
「何でこんな話をしながら二人で甘いホットミルクを飲んでいるのかって、可笑しくなってきちゃって、二人でもうツボに入っちゃってずっと笑ってた」
「変ね」
「変だよね。今でも思い出すともう、あ、ダメだ。笑えてきちゃって」
「何笑ってるのよ」
 また可笑しくなってきちゃって、慌てて堪えた。その場面を思い出す度に笑えてきちゃう。
 ワインを飲んだ。
「だからね。何かもう、悲しい思い出にならなくて困ってるんだ。別れ話は甘いホットミルクの味と笑いになっちゃって」
「そりゃ困ったね」
「本当に困っているのよ」
 正直な話、悲しいよりも先に怒りもあった。どうしてそのことのために私たちを捨てるのか、という思いもあった。でも、それが全部甘いホットミルクの香りと温かさで吹き飛んでしまった。
「何かね、人生の指針を得たような気分」
「指針って」
「この先も、悲しいことや辛いことがあった夜には、砂糖入りのホットミルクを飲めばいいかなって」

ただひたすら、軽い

 風花と天水の寝顔を、月明かりで見る。
 柔らかい寝息、汗でおでこに張り付いている髪の毛、子供の甘い匂い。
 何もかもが愛おしくて、いつまでもずっと見つめ続けていられる。
 そして、見つめ続けていてもいい。このまま何時間でもずっと見ていて、そのままいつの間にか朝まで眠ってしまってもいい。誰にも迷惑を掛けない。何もかも自分で決めていい日々。
 家庭というものを放り投げてしまったこの身は、自由だ。何もかもが、軽い。心も身体も。罪悪感みたいなもので苦しむかとも思ったのだけど、意外なことにそれほどなかった。こうして風花や天水に会って、どうして離婚なんかしたのかと責められて苦しい思いをするかと覚悟もしていたんだけど。
 それも、なかった。離婚しようと決めたときには、さすがにこれはキツイだろうと覚悟したんだが、それもすんなりと身体に馴染んだ。
 今も、ない。あったとしても一息で飲んだコーラみたいな程度のものだ。一度げっぷをしたらもうそれで消えてしまう。
 自分は、そういう人間だったんだな、と自覚した。
 この年になって自分がどういう人間なのかを改めて知るというのも、奇妙なもんだ。人生いつまでも学ぶものはたくさんある。結婚を決めたときも、風花と天水が生まれたときも、大きくなってきたときもそうだった。
 自分は結婚を嬉しく思う男だったんだと気づいた。
 自分は子供が生まれて嬉しいと思える人間だったんだ。
 大きくなっていく子供たちの成長を喜べる男だったんだ。
 子供の笑顔を見られることが生き甲斐だと感じられる男だったんだと、気づかされた。
 何もかも、びっくりだった。本当に驚いていた。おかしな表現になってしまうが、これが大人になるということなのかと考えてしまった。今までも年齢的には十二分に大人だったわけだが。
 ひょっとしたら、子供になることなのかな、と感じた。
 すっかり大人になっているのに、そこからまた自分の我儘だけで生きていきたいと考えるような男は、ただ子供に戻りたがっているだけなのかもしれないと。
 我儘を通そうとする、子供。
 ただひとつ違うのは、大人になってから子供に戻ろうとする男は、何があろうともその我儘を貫き通さないと、ただのバカだということだ。ただの甲斐性無しに陥ってしまうということだ。
 まだ、覚悟は持てていない。離婚して三ヶ月。ようやく自分の暮らしが身体に馴染んできたぐらいだ。恵里佳もそうだろう。主婦から社会人に復帰して、身体も心もそこに慣れてきた頃だろう。
 風花と天水は、俺がいないことをそれほど悲しんでもいないようだ。淋しさはあるものの、今までだって仕事で遅くなることはたくさんあった。夜遅く朝早く、俺の姿を二、三日見ない日だってあった。
 だから、今も単純に俺が仕事で忙しくて家で会えない日の延長みたいに、天水は思っている。風花は、お姉ちゃんだからな。もう少しいろんなことを考えている。感じている。それを申し訳なく思う。
 思うけど、それすらも、ありがたく感じる。
 何もかもが、子供の涙さえも、自分をどこかへと運ぶ羽のひとつのようだ。これからの日々に感じる全てのものが、糧になる。
 そう思える今の自分の心の軽やかさが、ありがたい。

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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