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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第3回

2016.01.05 更新

理由

 お父さんの家のお風呂はとってもいい。
 新しくしたって言ってたけど、本当にいいと思う。これだけは本当に、本当に良かったかも。これから毎年、夏休みと冬休みと春休みにお父さんの家に泊まりに来るのも、来るとしたら、このお風呂に入るためだけに来てもいいって思う。
 お父さんの友達の大工さんが新しくしてくれたお風呂は、ユニットバスじゃない。タイル張りなんだ。どこかの温泉や銭湯みたいにタイル張りの大きな湯船。それも、新しいし、模様がものすごくキレイで可愛い。
 お父さんは「スペイン風だな」って言ってた。そういうのはよくわからないけど、でもなんとなく日本の模様じゃないなっていうのはわかった。
 私はもっと小さいときから、幼稚園ぐらいから本当にお風呂に入るのが大好きで大好きで、お母さんに「早く上がらないとのぼせちゃう!」って怒られるぐらいに大好きなんだ。どうしてかはわからないけど。
 きっとお父さんもそれを知っていたから、こんなふうにステキで可愛いお風呂にしてくれたんだと思う。
 もし、大人になって、一人暮らしとか、結婚とかして、違う家に住むとしたら、ゼッタイにお風呂だけはステキにしたい。こんなふうに広い湯船にしたい。そういうところに暮らしたいって思ってるんだ。
 お風呂から上がったら、お父さんは台所のテーブルで何かコップで飲みながら、新聞を読んでいた。
 暑いけど、そしてお父さんの家にはクーラーがないんだけど、そんなに暑くはなかった。扇風機が回ってて、その風が当たると涼しかった。
「トマトジュース」
「あるよ。ちゃんと買ってある」
 冷蔵庫を開けたら、あった。いつものトマトジュース。天水はお風呂上がりに牛乳を飲むけど、私はトマトジュース。
 お母さんもトマトジュースで、お父さんは、適当だった。テーブルで、お父さんの反対側に座った。
「天水は?」
 お父さんが少し笑って、アゴをくいっと動かすからそっちを見たら、居間のテレビの向かいのソファで寝てた。あの子、お風呂から上がったらすぐに眠っちゃうんだよね。
 テーブルの上に渦巻きの蚊取り線香が載ってて、煙がまっすぐに上がって途中からゆらゆら揺れて広がってく。
「暑いし、大丈夫だろ」
 大丈夫だと思う。天水はぜんぜん風邪引かないから。
 トマトジュースの缶のフタを開けて、飲んだ。
「お風呂サイコー」
「だろう?」
 お父さんが、ニヤッと笑った。
「風花のために作ったんだからな」
「高かったの?」
「何が」
「工事の代金」
 気にするな、ってお父さんはまた笑った。
「大工さんは友達だから、安くしてもらった」
「そういうのはダメだってお母さん言ってたよ」
「何がダメだって?」
「お友達だから、お仕事の料金を安くしたりするのは良くないって。ちゃんとお金を払ったり貰ったりしないと世の中はどんどんダメになっていくって」
 うん、ってお父さんが真面目な顔をして頷いた。
「それは、その通りだな。大丈夫だよ。ちゃんと友達の損にならないようにしてもらっているから」
 それはよかった。私のためにしてもらったことで、お友達が損したら困る。
「でも、風花はそんな話をしてるのか? お母さんと」
「この頃してる。何があってもお金で苦労しないようにって、お母さんも教えてくれる」
「今からか」
 お父さんは少し驚いたけど、それは、お母さんとお父さんが離婚したせいだと思うんだけど。
 驚いたって困るよ。
「だって、大変なんだもん。家は」
「風花」
「なに?」
「それはな、お前の考え過ぎだ」
「考え過ぎ?」
 お父さんは大きく頷いた。
「きっとお母さんはお前の将来のためになると考えて、そういう話をしているんだと思う。それはいい。けど、今からお前が家のお金の心配をする必要はない」
「だって」
「お母さんは、真面目だろう?」
 マジメかマジメじゃないかって言われたら、マジメだと思う。
「学校をずる休みしようとしたら怒るだろ?」
 怒る。
「お父さんは怒らなかったけどね」
 そうだな、って笑った。
「お母さんは真面目な人なんだ。そしてそれはとても良いことなんだ。不真面目より真面目な方がいいに決まってる。でも、どんなことでもそうだけど、過ぎるのは良くない」
「何を過ぎてるの?」
「そうやってお前がお金の心配をするから、いい機会だってそういう話をすることだ。ちょっとお母さんは考え過ぎていると思うな。あるいは、風花が考えすぎているかだ。少なくともお父さんは、子供がお金の心配をするのはあまり良くないことだと思ってる。親は、そういう心配を子供にさせないようにしなきゃならないってな」
「でもさ、お父さんとお母さんが離婚して、お母さんは働きに出ているんだよ」
「それはもちろん、お母さんが生きるためだ。これから生きていくためにお母さんが選んだんだ。お金のためだけじゃない、自分の生き方のためにだ。お父さんが作家になると決めたみたいにな」
 その話は、なんとなくわかるけど。
「お前と天水が学校に行って、毎日ご飯をちゃんと食べて、好きなものをたくさんじゃないけど、普通に買ってもらえるぐらいのお金は、お母さんはちゃんと持っている。お父さんが残してきた」
「そうなの?」
「そうだよ」
「お父さん、そんなにお金を持っていたの?」
「持ってはいなかったけどな。退職金とかそういうものだ。会社を辞めるときに貰えるお金だな」
 そうだったんだ。
「でも、それじゃあお父さんが本当にお金がないんじゃないの? 今お仕事はしていないんでしょ?」
「しているよ」
「してるの?」
「アルバイトをしてる。いろいろだ。他の人の仕事を手伝ったりして、毎日ご飯が食べられるぐらいのお金は稼いでいるから心配するな」
「作家になるんじゃないの?」
「もちろん、小説は書いているよ。お前たちがいる間は、お前たちが寝てから書くようにするけれど、いないときには、空いている時間にはちゃんと書いている」
「でも、貧乏なんでしょ?」
 お風呂はすごくよかったけれど、お父さんの家の中にあるものは全部古いものばかり。ソファも椅子もテーブルもテレビも扇風機も炊飯器も冷蔵庫も、食器だって、全部が古いものだってすぐにわかる。
 これはきっと誰か友達から古いのを譲ってもらったものばかりだと思う。それか、粗大ごみをリサイクルしたのを、どこかですごく安く買ってきたか。
 そう言ったら、そうだって笑った。
「でも、使えるだろ? ちゃんと全部きれいにしてある。普通に使えるから何の問題もない」
「でも、貧乏なんでしょ? 新しいのを買えるかどうかもわからないし、作家になれるかどうかもわからない。ちゃんとしたお仕事もない。どうしてお父さんがそんなのを選んだのか、お母さんと離婚したのか、全然わからない。理由がわからない」
 天水にはわかってるふりをしたけど、本当は全然わからない。
「お母さんを嫌いになったんじゃないんでしょ?」
「違うよ」
 わからない。
「私や天水が小説を書くのにじゃまになったから?」
「それも違う」
「じゃあ、なに? 理由がわからない。子供だからわからないの?」
 お父さんが、ふぅ、って息を吐いた。少し笑いながら私を見た。
「いや、わかる。誰にでもわかる理由だ」
「どんな理由」
「我儘だ」
「わがまま?」
「そうだ。お父さんは、お父さんの我儘で作家になりたいから会社を辞めて、お母さんと離婚して、お前たちとも離れて暮らすことにした。全部、小説を書くにはそれしかないとお父さんが自分で勝手に決めてそうした我儘だ。小説を書くのに離婚する必要はないし、子供と別れなくたって書けるはずだ。でも、お父さんはそうしなきゃならないと思った。ただの、我儘なんだ」
「わがままはダメなんだよ」
「そう。だから、お父さんはお母さんに怒られた。本当に怒られた。お前や天水にも怒られてもしょうがない。お父さんは謝るしかない」
「大人だからわがままを言って勝手にやっていいの?」
「いや、大人だからじゃない」
 お父さんは、うん、って小さく頷いて、少しマジメな顔をした。
「いいか? 今はわからないかもしれないけど、よーく聞いてくれよ」
「うん」
「我儘を貫き通すってことは、その我儘の結果で起こったことに対して、何もかも自分で責任を取るってことなんだ。だから、我儘を言って許されるのは大人の場合が多いんだ。子供はそれができない。どうしてかは、風花ならわかるな?」
「子供は、子供だから、責任が取れないから?」
「そうだ」
「責任ってなに? お父さんがわがまま言ってお母さんと離婚して私たちと別れて暮らして、私と天水のなにに責任を取ったの?」
「お金だ」
 お父さんが、ゆっくり言った。
「お前たちが大人になるまでの間に掛かるお金を、お父さんはお母さんに預けてきた。さっきも言ったけど、贅沢は全然できないけどな」
「お金だけ?」
「お金だけだ」
「気持ちは? 天水はお父さんと暮らせなくなってすっごく淋しがってるよ? その気持ちには責任取れないの?」
 泣かないように、気をつけた。
 こんな話をするつもりは全然なかったのにそうなっちゃった。
 声も大きくならないように気をつけた。天水が起きたら困るから。
 天水だけじゃなくて、私だって淋しいから。
 その気持ちが、声に出ないように気をつけた。
 うまくいったと思う。
「気持ちには、責任は取れないんだ」
「どうして?」
「心だから」
「心?」
「気持ちは、心だ。そして心には形がない。形があるものなら、壊れたら直せばいい。新しいものに換えればいい。でも、形のないものは直せない。心に思うことには、形のないものには誰も責任を取ることはできない。お母さんの気持ちにも、風花の気持ちにも、天水の気持ちにも、お父さんは何にも責任を取れない。それが、我儘っていうものだからだ。だから、その代わりに、お父さんは我儘以外の心を全部お母さんや風花や天水にあげることにしている」
 わがまま以外の心?
「それは、なに?」
「真心だ」
 真心。
「お父さんはもう、一生お母さんにも風花にも天水にも、絶対に嘘はつかない。全部本当の話をする。お父さんにできることは何でもするし、できないことはできないと言う。格好つけて見栄を張ったりしない。お父さんが小説を書くこと以外のことは、全部お前たちにあげるんだ。そう決めている」
「全部?」
「全部だ」
「全部って、どんなふうに?」
 お父さんが、ちょっと首を捻った。
「もし風花が、学校が始まって、帰り道に急にお父さんに会いたくなって迎えに来てと言われたら、お父さんはアルバイトをしていてもすぐに駆けつける。その後一緒にご飯を食べてと言われたら食べる。でも、その後もずーっと一緒にいてと言われたら、小説を書く時間は欲しいから家に帰ると素直に言う。そうやって毎日毎日呼び出されたらお金がなくなるから、少し我慢してくれってお願いする。そういうことだ」
「アルバイト、クビになっちゃうよ」
「なっちゃってもいいんだ。それはお父さんが責任を取るんだからお前たちには関係ない」
「ご飯食べられなくなっちゃうよ」
「どうしてもお腹が空いてしょうがなくなったら、死にそうになったらそれも素直にお母さんに言う。ご飯だけ食べさせてくださいって。そして、お前にも少しの間アルバイトをさせてくださいってお願いして、アルバイトをする」
 それが、お父さんの、お前たちに対する真心だってお父さんは言った。

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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