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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第14回

2016.12.05 更新

海の中は全然違うんだ

「潜るの?」
 中野さんに訊いたら、うん、ってニッコリ笑って頷いた。
「潜るんだ」
「どれぐらい?」
「息が続く限り。でも、無理しなくていい。潜って、ぐるぐる回って浮上して、また潜る。その繰り返し。ま、やってみ」
「うん」
 隣でお父さんも風花ちゃんも頷いていた。だから、みんなでせーので潜った。海の中はうるさいと思う。ボコボコ音がするし、わんわん何かが鳴ってるような気がする。ゴーグルしてるから、潜って泳ぐ風花ちゃんやお父さんにピースしたりして、苦しくなったら立ち上がって、息をして。
 中野さんが、言った。
「どうだ? 向こうの深い方を見たか?」
「見たよ」
「どう思った?」
 訊かれたから、ちょっと考えたけど。
「別に何も。あっちに行けるかなって考えたぐらい」
 そう言ったら、お父さんはなんか中野さんと一緒に頷いていた。
「風花ちゃんは? もっと泳げるようになったら、深い方に行けそう?」
 うん、って風花ちゃんは頷いた。
「行けると思う」
「そうか。じゃあ明日は浮輪や、ボードに乗ってもう少し深い方へ一緒に行って、少しだけ泳いでみよう。今日はここまで」

 午後からは天気が崩れて雨が降って海が荒れそうだから、入らない方がいいよって中野さんに言われたので、お昼ご飯を食べた後は宿題をやることにした。まだ自由研究やってないし。風花ちゃんも絵を描いてなかったし。
 お昼ご飯は、余り物ランチってお父さんが言った。冷蔵庫に余っているものを全部使って、食べちゃう。その代わり晩ご飯は、車で近くのレストランまで行ってハンバーグ。美味しいところがあるんだって。
 レタスとキャベツをサラダにした。キャベツの千切りを風花ちゃんと一緒に切った。すっごい太いけど。ニンジンやじゃがいももあったから、ソーセージとベーコンも一緒にしてグラタンを作るってお父さんが言って、先にニンジンとじゃがいもを茹でたり、牛乳ももう危ないので、それでホワイトソースを作ったり。
 すっげえ料理が上手くなったと思う。だって、もう朝ご飯なら作れる。目玉焼きもできるしベーコンも焼けるし。
「ねぇ」
 お昼ご飯を食べながら、お父さんに訊いてみた。
「なんだ」
「なんで潜るところから始めるんだろうね?」
 中野さんはなんにも言わなかった。サーフィンを始めるなら、まずは潜ってみろって。海の中へ。
 お父さんは、うん、って頷いた。
「お父さんもサーフィンのことはまったくわからないからな。想像でしかないけど、サーフィンは海の中へ落ちるのが基本なんだと思うぞ」
「海の中へ落ちる?」
 風花ちゃんが言った。
「そう。ボードに乗って波に乗る。それがサーフィンだ。でも、失敗したらボードから海の中へ落ちて行く。つまり、海へ放り出されて波に揉まれることがあたりまえにならないと、上手くなれないんじゃないかな」
 そうか。
「おぼれないようにってことか」
「それももちろんある。泳ぎが上手くないとサーフィンはできないだろう。ウェットスーツを着ていれば多少は浮力がついて浮かび上がれるけど、あれだ」
 お父さんは持っていたスプーンであっちの方を指差した。
「洗濯機だ」
「洗濯機?」
「聞いた話だけどな。大きな波でボードから落ちて波に揉まれるとき、まるで洗濯機の中にいるような気持ちになるんだそうだ。それぐらいぐわんぐわんと思いっきり身体が回転するらしいぞ」
「スゴイね!」
 風花ちゃんが眼を丸くしておどろいた。
「だから、そういうことに慣れないとサーフィンが楽しめない」
 お父さんはそう言って、グラタンを食べてからまた言った。
「あれだな。スポーツはなんでも同じだな」
「何が同じなの?」
「そのスポーツで感じる痛みや苦しみを知らないと、上手になれないんだな。剣道だったら、おもいっきり面を叩かれてその凄さを理解して初めて面を思いっきり打てる」
 そうだった。お父さんは昔剣道をやっていたんだった。
「野球だと、打ったボールが身体に当たる痛みを覚えないと守備は上手にならないんだ」
「そうなんだ」
「たぶん、そういうもんだ。柔道だって最初にやるのは受け身の練習だ。畳にぶつかってその痛さを知らないと駄目なんだ」
「海の中を知らないと駄目ってことか」
 僕が言ったら、お父さんがそうそう、って言った。
「それと、海の深さを知らないとな」
「海の深さ」
「そうだ。正直言ってお父さんは海が怖い」
「なんで」
「深いからな。浅いところで泳いでいる分には怖くないけど、深いところまで行くとどこまでも底がわからない。そういうのは、お父さんはちょっと駄目みたいだ」
「じゃあサーフィンできないじゃん」
 お父さんは困ったみたいな顔をした。
「できないかもしれないけど、海で遊ぶのは愉しいからな。頑張ってみるよ」

学校

「あとごにちかん?」
 ベッドに寝転んでいた天水が言った。
「いつかかん、って言うの」
「五日間」
 天水はバカじゃないとは思うけど、まだ日にちの数え方の言い方がおかしい。さんにんかん、とか、よんにちかん、ってたまに言う。
「何が五日間?」
「ここにいるの」
「あぁ」
 夏休みが終わる前に、帰る。あんまりギリギリだったらなんか忙しいから、学校が始まる一週間前には帰ろうって決めていたんだ。
「五日間じゃないね。あと四泊したら、帰る」
「よんはく?」
「一日泊まることを一泊って言うの。ちゃんと覚えなさい」
「ウッス。四泊ね。四回寝るんだね」
「そう」
 楽しい。
 友達と遊べないのはどうかなーって思ってたけど、すっごく楽しい。友達と会えなくても、ここで知り合った大人の人たちが皆いい人ばかりで優しくしてくれて、そして今までやったことなかったことばかりできるから。
「もうこのままこっちに住みたい?」
 天水に訊いたら、うーん、って言った。
「それは、どうかな」
「どうかな、ってなに」
「そうなったらそうするけど、別に向こうでいいし」
「そうするって?」
「お母さんが、天水はお父さんと住んだ方がいいって言って、お父さんも来いって言うんだったら来てもいい」
 そうか。そんな感じなのか。
「私と一緒に住めなくても? 私がお母さんのところで、天水がお父さんのところってなってもいいの?」
 また、うーん、って言った。
「いいって言ったら風花ちゃん怒る」
「怒らないよそんなの」
「そうなったら、そうするよ。でもそうならなくてもいいんだよ」
 天水が起き上がって、私を見た。
「だって、別れて暮らすったって、こうやっていつでも会えるんだからさ。それでいいんじゃない? 楽しいんだし」
「そう?」
「だって、一緒に暮らしたって、朝学校に行って帰ってくるまで会わないんだし、帰ってきたってご飯食べるのだけ一緒であとはバラバラだし。こうやってここで会ったらずっと一緒だし、変わんないよ」
 そうか。そういう考え方もあるか。
「でも帰るよ」
 天水が言った。
「お母さん、淋しいと思うから。僕たちがいないと」
「そうだね」
 お父さんは? って訊いた。
「お父さんは私たちいなくても淋しくないのかな」
「それは、男が決めたんだから」
 天水が言った。
「男が決めた?」
「離れて暮らすってお父さんが決めたんだから、それでいいんだよ。淋しくたってガマンするんだよ」
 そうか、男だからガマンするのか。
 なんだかちょっとおかしくて、笑いそうになったけどガマンした。天水だって、いろいろ考えてるんだ。

暮らしって、前に進むこと

 あぁ、久しぶりって、思った。
 家に帰ってきて、玄関の鍵を開けて、一人で誰も居ない部屋に向かって「ただいまー」と小さい声で言って。荷物を置いて、ふぅ、って息を吐いて、まだ外は明るいので閉めておいたカーテンを開けて夕暮れの光が部屋の中に差し込んできて。
 誰も居ない部屋に帰ってくる、感覚。
 もちろん、風花と天水が一緒に暮らしている気配は部屋のあちこちに漂ってはいるんだけど、それでも部屋を空けてどこかに泊まってきて、戻ってきた感覚。
 やっぱり自分の家はいいな、って一人で思う気持ち。
 結婚して子供ができて、すっかり忘れてしまっていたものを思い出す。風花と天水があの人の家に行ってしばらく経つから、それから一人でいたんだけど。
 どこかに泊まってきて戻ってきて一人というのは、本当に久しぶり。
「そうなのかな」
 一人で呟いてみる。
 博明さんは、こういうものをもう一度手に入れるために一人になったのかな。そうしなければならないと思ってしまったんだろうな。
 だって、この気持ちは、楽しい。
 淋しいけど、楽しい。
 何をしても、一人。それは淋しさと引き換えの自由。そういうものがないと、あの人は小説を書けなかったんだろうな。
「うん」
 荷物を、片づけよう。
 部屋着に着替えて洗濯物をボストンバッグから出して、洗濯機に放り込んで、スイッチを入れる。化粧品を出して、洗面道具を片づけて。
 顔を洗ってお化粧を落としてさっぱりして化粧水をつけて。その間に買い物に行かなきゃって思って冷蔵庫を開けてないものを確認して。
(牛乳と、パンと卵)
 近所の商店街で間に合うものばかり。今日の晩ご飯は、って考える。そうだ、冷凍してあったカレーはそろそろ片づけないと。今晩食べて、明日の夜もそうすれば片づくかな。サラダと、カツを揚げて変化を付ければ二日続けたって平気。
 この気持ちにもきっと慣れちゃう。慣れちゃうどころか、忘れちゃう。もう少ししたら天水も風花も帰ってくるから、そうしたらまた日常の中に埋もれちゃう。
 遊びに行ったことで、離れて暮らしていることのいろんなもやもやもきっとあの子たちの中から消える。私の中からも。ひょっとしたら、おじいちゃんやおばあちゃんと会うような、同じ感覚であの子たちはお父さんとの月日を過ごしていく。
 それが、平和になっていく。
 もしも、この先に何か細波が立つとしたら、平穏な日々に何かが生まれるとしたら、それは私に、博明さん以外に一緒に暮らしたいと思う人が現れたとき。あるいは、博明さんに恋人ができたとき。もしくは、博明さんが何か大きなことを成し遂げたとき。
 いつまでも、別れた夫婦という気持ちでいることは、天水と風花のためにもよくないし、何よりも自分自身にもよくない。
 別れた夫婦という事実は変わらないけれど、少なくとも前に進むために博明さんはその道を選んだ。私だって、仕事に復帰した。それは、前に進むためだ。天水と風花の手を取って、こうやって何があっても人生は続いていくんだよ、と、教えるためだ。
「買い物に行かなきゃ」
 商店街には、いつも部屋着のままで行ってる。ちょっとだけ隠すために軽い上着を羽織って。財布だけ持って。
 いつもの、でも、少しだけ前に進んだ暮らし。それを続ける意志を、しっかりと意識しなきゃならないって思う。だって、博明さんだけ前に進んでいるのは、ちょっと悔しいし羨ましいから。
 私だって。

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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