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風とにわか雨と花

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

風とにわか雨と花 ブック・カバー
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第12回

2016.10.05 更新

別れても同じことの繰り返し

 いくら言っても止めてくれなかった煙草。もちろん、子供たちの前では吸わなかったし、家でも自分の書斎でしか吸わなかった。
 それでも健康に悪いのは明らかなんだから止めてほしかったのだけど、何を言っても無駄なんだなって思ったから言うこともなくなった。
 でも、こうやって、古い家の台所の小さなテーブルに座って、小さな窓から流れてくる夏の夜風に吹かれて吸っているのを見ると、似合っている。
 煙草を吸う理由なんてそんなものだって誰かがどこかで書いていたような気がするけど、本当にそうかもしれない。
「煙草」
「うん?」
「初めて煙草を吸ったのはいつなの?」
 ちょっと眼を丸くした。
「話してなかったっけ」
「聞いてないような気がする」
「小学校の三年生かな」
「そんなに早く?!」
 笑った。
「じいちゃんが吸っていたんだよ」
「あぁ」
 お祖父様。私たちが結婚する頃にはもう病院通いをしていて、式には出ることができたのだけど、それからすぐに亡くなられた優しい笑顔のお祖父様。
「優しい人でしたよね」
「そうだな」
「恵里佳ちゃん、って、いつも呼んでくれたのよ」
 小さく笑った。
「じいちゃんはね、あれで若い頃は随分女遊びをしたらしいよ」
「そうなの?」
 そんなふうには見えなかったけど。
「ばあちゃんが言ってたから間違いない。何でも三人ぐらいの女が同時に家に押し掛けてきてとんでもない騒ぎになったとか」
「えー、聞いてない。そんなに?」
「そのせいで親父が堅物になったんだって言ってたけどね」
 親父。お義父様。
 普段は、おじいちゃんおばあちゃんって呼んでしまう。子供たちがいると、私たちの親はおじいちゃんとおばあちゃん。
 でも、私たちのおじいちゃんおばあちゃんはちゃんといて、孫である私たちに向けてくれたその優しい眼差しも声もよく覚えている。
「何だっけ」
「煙草」
「あぁ、そう。親父は吸ってなかったけど、じいちゃんが吸っていてね。好奇心だよ。誰もいないのをいいことにして、こっそり吸ってみた」
「どうだったの?」
 そりゃあもう、って博明さんは渋い顔をした。
「ひどい目にあったよ。むせるわ気分が悪くなるわ吐きそうになるわでね。でも、具合が悪いって言ったら煙草を吸ったことがバレるかと思って、必死に隠していた」
「その後は?」
「その後?」
「本格的に吸うようになったのは」
「大学に入ってからだよ」
 一人暮らしを始めてから、何となく、って言った。
「その、何となく、って何なのかしらね」
 うーん、って唸った。唸って、また煙草の煙を吐く。
「たぶん、淋しかったんだろうな」
「淋しいの?」
「一人の部屋がさ、なんかこうスースーしていて、確か同じ大学の何人かが遊びに来ていて、誰かが煙草を吸ったんだよ。その煙が部屋を漂うのが、何かこう、いい感じで」
「それで吸い始めたの」
「言葉にすると、そうなっちゃうかな」
 風花と天水はもう寝ている。子供の寝息は本当に甘い睡眠薬のようで、一緒にいるとあっという間にこっちも寝入ってしまいそうになる。
 久しぶりに差し向かいだけど、慣れない家で、そして本当に雰囲気の良い古屋のせいで、何か映画のセットに入り込んだような気持ちになっているのがわかる。
「何か、形になった?」
 少し、意地悪な質問。言葉足らずだけど、博明さんはすぐに苦笑した。
「形と言えば、なったかな」
「本当に?」
「噓はつかない。来月出る本に短編が載る」
 驚いてしまった。これは本当に。
 すっごく意地悪な見方だけど、このまま博明さんは何ひとつ形にならないまま終わってしまうんじゃないかって思っていたから。
 だって。
「もう何年も載らなかったのに」
「五年な」
 そう、五年間、何作も書いたのに一度も載らなかった。書いても書いても、OKが出なかったと言っていたのに。
「それって、やっぱり別れたから良かったの?」
 これは、皮肉とかそういうんじゃなく素直に口から出たんだけど、博明さんは、うーん、って唸ってしまった。
「タイミングとしてそうじゃないかって言われてもしょうがないんだけど、たぶん、スタイルを変えたのが良かったんだ」
「スタイル?」
「具体的な話をするのもあれだけど、要するに今まで書いてきたある傾向のものを捨てたんだね」
「捨てた」
 そう、って博明さんは頷いた。
「もっともわかりやすく言えば、今までは和食をやっていたけど、和食の出汁を使ってイタリアンを作ってみたら思いのほか美味しくできた、みたいな感じかな」
 喩えとしてはよくわかるけれども。
「じゃあ」
「どうしてそれを今までしなかったのか、って言いたいよな」
「そう」
 また苦笑いする。
「考えたことは何度もある。模索する、ってやつだね。離婚がきっかけになったって話になると困るけれど、でも、吹っ切れた部分は確かにあると思う」
 それはきっと、覚悟をしたから。
 自分一人で書いて生きていくという覚悟を決めて、この人は私と別れた。だから、そういうふうに書くことができた。
「でも」
 博明さんが言う。
「自分と別れたほうが良かったんだ、とは思わないでくれよ」
「いつまでもうじうじと一人で悩んでいたほうが悪いんだって言えって?」
「そうそう」
 これは、笑うしかないのかな。でも。
「おあいこかも」
「おあいこ?」
 うん、って大きく頷いた。
「私ね」
「うん」
「仕事が楽しいの」
 これも、本当のこと。博明さんはちょっと眼を丸くした後に、やっぱり大きく頷いた。
「良かったよ」
「でも、お互い離婚したことで、暮らしぶりに良い結果が出ているなんて子供たちに思われたらどうしよう」
 いや、と、小さく呟いた。
「もちろん、きちんと話したほうがいいよ。特に風花には」
「何か言ってた?」
 博明さんが、ふぅ、と、息と煙の両方を吐いた。
「大人になっていたよ。思っていたよりずっと。だから、天水はともかく、風花には母親より大人の女として話したほうがいいと思う」
 大人の女。
「たぶん、あの子は僕たちが感じているよりずっと、大人びた感性を持っている子なんだと思う。それは、蒲原さんも驚いていたよ」
「蒲原さんが?」
「この間、ずっと風花と話していたんだ。本当に驚いていたよ。あの子にはものを書かせてみたらいいんじゃないかって言っていた」
「そうなの?」
 そんなこと、考えたことも感じたこともなかった。
「あの子、作文苦手よね」
「そういう問題じゃないんだ。書くっていうのは」
「よくそう言うわよね。作家になった人って。作文が苦手だったとか」
 そうそう、って笑った。
「結局、型にはめられるのが嫌なんじゃないかな。そういう資質を持っている子は。それはまぁともかくとして」
「ちゃんと話をするのね。風花には」
「本音で、だ」
「本音」
「大人の小賢しい常識とかそういうのを教えるんじゃなくて、今、君はどんなことを考えて生きているかっていうのを、素直に伝えたほうがいいと思う」
 たとえば、って続けた。
「自分の家の経済状態とかもだ」
「話しているつもりだけど、何か言っていた?」
「仕事が楽しいって話はしていないだろう?」
 していない。
「それは、余計なことかと思っていた。大人の事情だから」
「あくまでも、僕の印象だけど」
 ゆっくりと、博明さんは話す。
「あの子は、君の一生懸命さを、真面目さを、マイナスのほうに捉える傾向がある。つまり、努力を辛いものだって思っちゃうんだな」
「あぁ」
 そんなふうに言われて、少し腑に落ちた部分がある。
「好きなことなら、努力を努力なんて思わないわよね」
「そうそう。それをマイナスに捉えてしまう傾向があるみたいだ。だから」
「もっと肩の力を抜けって?」
「そういうことだ」
 それは、大分以前から博明さんに言われていたこと。博明さん以前に、親からも言われたことがある。
 お前は、真面目過ぎるって。もっと気楽に考えろって。
「前にも言ったけど、それは悪いことじゃない」
「でも、何でも過ぎるのはよくないのよね」
「そう」
 たとえば、博明さんは平日の休みのときに、風花や天水の学校を休ませてどこかへ連れて行きたがっていた。でも、私はそれはさせたくなかった。学校をずる休みさせるなんてとんでもないって思った。
 それは、正しいこと。私は今もそう思っている。親の事情でずる休みなんかさせない。させたくない。
 でも、もしも、そうやって休んで遊びに行ってすごく良い思い出ができたとしたら、それは悪いことだろうか? って博明さんに言われたことがある。
 良い思い出ができることはとても良いこと。それは、あたりまえ。でも前提条件として学校をサボることは、規則を破ることで、悪いこと。
 だから、博明さんのその考え方にはまったく納得はしていない。納得はしていないし、それを真面目過ぎると言われることも少し頭に来る。
 そういう些細な考え方の違いや、方向性の違いなんて、夫婦になって長い時を過ごしていろんな出来事を経ていくとたくさん出てくる。
 そういうのを全部飲み込んでしまうのが、夫婦を長く続ける秘訣なんだと思うけれども、でもそれとはまったく別のスタイルで私たちは別れてしまったわけだけど。
「性分は変えられないんだけどな」
「変える必要はないさ。ただ子供たちには考える選択肢をたくさん与えようって話だよ」
 そういえば、前にもこんな話をしたことがある。どんな場面でだったかは忘れてしまったけれど。
「結局子供の話をするのね」
 そう言って、二人で笑ってしまった。
「そういうものじゃないのか。親なんだから」
「そうね」
 親になったら、子供を持ったのならば、考えるのは子供の将来のこと。それだけ。
「まぁ、それを放棄した僕に言われたくはないだろうけど」
「放棄したわけじゃないでしょう」
「世間的には放棄したのと同じだ。風花にも言われたよ」
「そんなこと言ったの?」
 ほらな、って博明さんは言う。
「驚くだろう? 風花はそこまで考えているんだよ。だから、素直に話すことが必要になるんだと思うんだよ。親としての体裁を整えた意見じゃなくて、男と女としての素直な意見や、感想だ。そういうものが、風花にはもう必要なんだよ。もちろん、そうさせてしまったのは僕だし、それについては謝った」
 謝ったんだ。風花に。
「私も、謝ったほうがいいのかしら。お父さんと離婚しちゃってゴメンって」
「そんなふうに君が思っているんなら、それも含めて素直に話したほうがいいと思うな」
 素直に。子供たちに。
「本音を晒すのね」

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著者プロフィール

小路幸也(しょうじ・ゆきや)

北海道生まれ。広告制作会社を経て、執筆活動へ。『空を見上げる古い歌を口ずさむ』で第29回メフィスト賞を受賞して作家デビュー。著書に『東京バンドワゴン』シリーズ、『ビタースイートワルツ Bittersweet Waltz』『すべての神様の十月』『花咲小路二丁目の花子さん』などがある。

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