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縁もゆかりもあったのだ

こだま

縁もゆかりもあったのだ ブック・カバー
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事件は風呂場で起きる

2019.01.25 更新

 年末になると夫婦で決まって出かける場所がある。
 雪深い山奥にある温泉宿だ。夕食に蟹が出るのだ。夫は「来週は蟹だ」と自分に言い聞かせて仕事の追い込みをかけ、私は「気分よく蟹と向き合うために」と大掃除をこなしていく。年の瀬のくたびれかけた我々にとって「蟹」という漢字一文字がどれだけ力を与えてくれたかわからない。

 雪に覆われた国道を夫が慎重に運転する。人里離れたその集落には数軒の宿が並んでいる。途中のコンビニで缶ビールやつまみを買うのも忘れない。私は甘いノンアルコール缶を買った。
 宿の玄関には大きな門松が飾られていた。小雪が横風にあおられ、舞っている。氷点下十度。近くを流れる川面には霧が立ち込め、その縁を囲む木々は枝先まで骨のように白く凍っている。見事な樹氷だった。
 夕暮れのかよわい光を浴びて輝く木立に見入っていると、空気が細かな針となって皮膚を刺してくる。「寒い」を超えて、ただ「痛い」。北国の冬がつらいのは言うまでもないけれど、いちばん美しいのもまたこの季節だと思う。
 この宿は五月の連休や年末年始も混み合わない。なぜだかあまり人気がないのだ。温泉があって蟹も食べられるのに繁盛させようという欲が希薄なところも気に入っている。

「今年も一年よくがんばりましたね」と言い合い、毛蟹の身を専用フォークで搔き出す。
 夫はパニック障害を抱えながら働いている。最近は医師と相談の上で減薬し、職場ではほとんど発作を起こしていないらしい。外出先ではまだ注意が必要で、混み合う場所や圧迫感のある壁際の席に座るとたちまち呼吸が荒くなる。
 そのたびに、どちらともなく半笑いで「生きてくの、大変だなあ」と言う。
 それは決して諦めではなく、自虐のようなものだ。夫の精神疾患も私の身体の持病も完全に治ることはないだろうけれど、落ち込んでいても仕方ない。お互いの病と気長に付き合っていくしかないのだ。
 変になっているわりにはがんばったよなあ。
 自分自身を労りながら毛蟹の爪の先までフォークをねじ込み、テーブルの上を散らかしながら黙々と解体していった。
 
「男湯と女湯、夜中に入れ替わるんだってよ」と夫が言った。
 以前もそうだったか定かではない。たいてい朝食時間ぎりぎりまで寝ているので、朝は温泉に入る余裕がないのだ。いつも夜のうちにゆっくり浸かっている。
 女湯には一組の親子しかいなかった。
 私はかつてこの大浴場で派手に転び、太腿からふくらはぎにかけて拷問を受けたような大きな痣をつくった。タイルで足を滑らせ、尻餅をつく格好で浴槽の縁に脚を強打、そのまましぶきを上げて湯船に突っ込んだのだ。漫画みたいだった。赤紫色のタイツを穿かされたような痣は何ヶ月も消えなかった。その「現場」である。
 そんなことをしみじみと思い返しながら露天風呂に入る。髪に落ちては解ける雪の冷たさが心地よかった。
 部屋に戻り、持ってきた文庫本を読む。夫は缶ビールを飲みながらお笑い番組を観ている。まるで家で過ごしているようにゆっくりと夜が更けていった。

 翌朝すっきりと目覚めた私は、ひとり大浴場へ向かった。
 のれんをくぐる。スリッパが一足もない。温泉を独占できるなんて、ついている。
 浴衣を脱ぎ、チューブ式の洗顔フォームだけを持って大浴場の扉を開けた。洗い場には部屋に備え付けの使い捨てカミソリが放置されていた。ワキの処理でもしたのだろうか。刃をむき出しのままにするなんて危ないな。そう思いながらゴミ箱に捨てた。
 顔と身体を洗い、湯船に浸かった。朝の風呂も最高だ。

 ガラスのドア越しに人の姿が見えた。湯船を独り占めできるのもおしまいである。目の悪い私には、ショートカットのおばさんに見えた。
 だが、その人が浴衣を脱いでいくのをぼんやりと眺めているうちに違和感を覚えた。
 おなかがぽっこり出すぎではないか。そして、どう見てもあれはトランクスを穿いている。
 まさか! 男性!
 早く教えてあげなければいけない、ここは女湯ですよと。
 私は湯船に首まで浸かり、できるだけ大きな声を上げた。
「すみませーん! ここ入ってまーす!」
 トイレの個室からの叫びみたいになった。
 人間は大きな声を出そうとすると無意識のうちに両手を口のまわりに添えるらしい。少なくとも私はそうだった。ヤッホーの構えで、懸命に何度も呼びかけていた。
 しかし、男性は一向に気付かない。それどころかトランクスを脱ぎ始めた。
 これは本格的にまずい。
 同時に昨晩の夫の言葉が頭を駆け巡った。
「男湯と女湯は夜中に入れ替わる」
 私は昨晩と同じ大浴場に向かい、同じ湯船に入ってしまった。のれんの色や文字も確認しなかった。
「入れ替わってる!」
 アニメの台詞みたいな声が出た。
 よくよく考えたら、あの放置された使い捨てカミソリは最大のヒントだったのだ。
 私は湯船から小走りで出た。そして、唯一の持ち物であるチューブ式の洗顔フォームで股間を隠し、ガラスのドアから顔だけを出して声を張った。
「すみませーん! 間違えてしまいましたー!」
 男性はギョッと飛び上がり、タオルでさっと前を隠した。その奥にも浴衣姿の男性が数人いるのが目に入った。
 私は気が動転していたので顔だけを出しているつもりだったが、そのドアはガラスなのだ。丸見えだ。恐ろしい光景だったろう。洗顔フォームで股間だけを隠す、ずぶ濡れの中年女が声を張り上げているのだ。どうでもいいけどチューブ式だ。

 男性はすぐに浴衣を羽織り、脱衣所からいったん出てくださった。
 なんてことだ、私はなんてことを。
 ぶつぶつと己の愚かさを呪い、男性たちを待たせぬよう浴衣だけをさっとまとい、荷物を抱えて走り出た。
 男湯と女湯のあいだのベンチに五十代くらいの男性四、五人が座っていた。
「申し訳ありませんでしたー」
 謝罪しながら彼らの前を駆け抜ける。
「大丈夫だからねー」
 みなさん声をそろえて励ましてくださった。
 真の女湯で身体を拭き、下着を身に着けながらふと思った。
 いや、何が大丈夫なんだ。 

 朝食を食べながら夫に打ち明けると「あんた、連行されてもおかしくないんだからな」と冷静に言われた。私は、ついうっかり何かをやらかして逮捕される種の人間なのだという。おおいに心当たりがあった。
 そんなことを小声で言い合っていると、私の背後のテーブルから「さっき男湯でさ」と聞こえ、直後に笑いが起こった。
「おい、めちゃくちゃウケてるぞ」
 夫は嬉しそうだった。私は振り返ることができなかった。

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作品について

著者プロフィール

こだま

主婦。2017年1月、実話を元にした私小説『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)でデビュー。同作は13万部を超える大ヒットとなり、『ブクログ大賞2017』エッセイ・ノンフィクション部門ノミネート、『Yahoo!検索大賞2017』小説部門賞を受賞。映像化、マンガ化でも話題に。二作目のエッセイ『ここは、おしまいの地』(太田出版)は第34回講談社エッセイ賞受賞。また現在、「Quick Japan」「週刊SPA!」で連載中。

作品概要

幼少期からいままで、いろいろな人や場所、ものと交差してきた。
「陳腐」でいとおしいものから、「数奇」と呆れられるものまで――。
著者初のWEB連載は、日常と記憶をたどる優しくコミカルなエッセイです。

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