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縁もゆかりもあったのだ

こだま

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私の藻岩山

2018.11.23 更新

 山奥の集落に暮らす私にとって、札幌は一番身近な「都会」だった。
 小学生のころ家族で札幌郊外にある円山動物園に出かけた日の写真がある。
 おそらく母が揃えたのだろう。私はぴりっと糊の利いた白いワイシャツに真っ赤な蝶ネクタイ、そしてサスペンダー付きの緑色の半ズボンを穿かされ、象の前で困った顔をして立っている。
 衣装と周りからの期待にテンションが追いつかないサーカスの新人団員みたいだ。
 動物園なのに、背景に動物が一切いない謎の大木の下で撮った家族写真もある。誰かにカメラを手渡して撮影してもらったのだろう。集合した私たちは妙に背筋が伸びている。表情は固く、そろって正装なので、親族の結婚式帰りにしか見えない。
 札幌はそれくらい気合を入れて行かなければいけない街だった。

 数年前、持病の手術をすることになり、札幌市内の病院に三週間ほど入院した。真冬だった。中心部の大通り公園には雪が山のように積み上げられ、雪まつりを迎える準備が進んでいた。
 病棟のエレベーターの前に大きな窓があった。夕食を終え、消灯までの時間によく、その窓から夜景を眺めていた。
 雪に覆われた信号機。車道に積もった雪山を除けながら走るタクシー。まだ人影が慌しく動いているオフィスビル。そんな夜景の一番向こうに藻岩(もいわ)山スキー場が見えた。何本もの橙色のライトに照らされた滑走コースが、遠目からは白磁器のように艶めいていた。その滑らかな斜面を眺めているあいだは、数日後、首にメスが入ることを忘れられるのだった。

 しかし、その見晴らしのよい大きな窓は私だけのものではなかった。
 ある日、先客がいた。男は歩行器、女は松葉杖。この病棟でどういう経緯で恋仲になったのか、それともカップルで交通事故にでも遭ったのか。寝巻き姿の中年男女が肩を寄せ合いながら、「私の山」を見つめている。
 嫌だ。私は彼らを背に、反対側の窓にへばり付いた。こちらは住宅街が広がっていた。学校の校舎には、まだぽつりぽつりと明かりのともる教室がある。担任が壁の掲示物を貼り替えたり、明日の授業の準備をしたりしているのかもしれない。教員時代を思い出し「遅くまで無理しないでください」と願う。入院患者に言われたくないだろうけれど。
 背後では松葉杖の女が歩行器の男の肩に、しなだれていた。

 術後の数日はベッドの上で吐いたり、うめいたりしながら過ごした。
 首には妙に立派なエメラルドグリーンのコルセットが装着されていた。お見舞いに来た母は「首だけヒーローみたいになっちゃったね」と笑った。「変身」の掛け声に、そこだけが反応したのだろうか。
 猛烈な吐き気により食事を満足に取ることができず、「横になりながらでも食べられるように」と枕のそばに栄養士さんの握った小さなおにぎりと胡瓜の漬け物が置かれた。
「地蔵のお供えじゃねえか」
 夫は笑いを噛み殺しながら、身動きできない私に言った。みな言いたい放題だ。
 
 ようやく起き上がれるようになった夜、母にも教えてあげようと思い「夜景が綺麗に見える場所があるんだよ」と車椅子を押してもらった。
 ところが、また先客だ。あの寝巻きの中年カップルに占領されている。手をつないでいる。私がサックリと首を切られて寝込んでいるあいだに、彼らのお気に入りの場所になっていたようだ。
「普段はね、ここから眺めてたんだよ」
 小声でそう言うと、母は「どれどれ」と言いながら車椅子を男の歩行器に横付けした。そうして少しずつ窓辺の中央部ににじり寄り、夜景を我がものにしたのだった。
 藻岩山スキー場は変わらず、きらめいていた。
「お母さん若いころあの山でスキーをして足の骨にヒビ入ったんだよねえ」
 初めて聞く話だ。母は続けて言う。
「札幌の伯母さんもあの山で滑って木に衝突して足の骨折ったんだよねえ。あの山、何かあるね。不吉な山だよ」
「私の山」に縁起でもないことを言わないでほしい。
 
 そして、この十一月初旬、思わぬ形でその山と再会を果たす。
 札幌で文庫版『夫のちんぽが入らない』の書店訪問をすることになったのだ。
 すすきのから担当編集の高石さんとタクシーに乗り、郊外の大型書店に到着した。豊平川に架かるミュンヘン大橋のすぐ奥に広がっていたのは紅葉を迎えた藻岩山だった。山裾まで美しく色づいていた。
 札幌は、もう雪虫が舞っているという。それは白い綿毛のような体をしたアブラムシの一種で、ふわふわと風に乗る姿が儚い雪を思わせる。雪虫は初雪の前触れといわれている。もうすぐ雪で覆われるのだなあと感慨深い思いで山並みを眺めた。

 その数分後の出来事だ。店内で自分の新刊が並んでいるのを発見した私は、いつものように記録しようと鞄に手を伸ばし、ようやく気付いた。
 カメラがない!
 タクシーの後部座席にうっかり置き忘れてしまったのだ。
 一眼レフのデジタルカメラだった。その本体よりも、写真データに思いが至った。他人に見られてまずい写真はなかったか。ものすごい勢いで記憶を呼び戻す。
 変なもの撮ってないよな。自分のサイン、昨晩食べたジンギスカン、すすきのの雑踏で見かけたバニーガール、びっくりドンキーの抹茶パフェ……。
 いや、あった。夏の終わりに帰省したときの写真が。
 風呂上がりに着替えがなかったので、下着の上からその辺にあった法被を羽織り、居間のソファでくつろいでいたところ、妹にカメラを向けられたのだ。
「姉さん、踊ってみ」
 私は言われるがまま、パンツに法被という姿で、天に手のひらをかざすようなポーズを取った。
 あれは駄目だ。絶対に駄目。
 応接室に通されるころにはすっかり青ざめ、書店の方が笑顔で話しかけてくださっているというのに内容が耳に入ってこない。視点も定まらず、宙をうろうろするばかり。時間を割いていただいているのに、なんて失礼な態度なんだ。ちゃんとしなきゃ。そう焦るが、言葉が出てこない。
 異変に気付いた高石さんが急に社交性を発揮し、会話をつないだ。
「あれは何ていう山ですか?」

 不意に母の放った一言が頭をよぎった。
「不吉な山」
 予言だったのだろうか。私はさらに顔がこわばっていった。
 終始しどろもどろのまま書店をあとにしてしまったが、その後、高石さんとタクシー運転手さんの見事な連携により、無事カメラが手元に戻ってきた。私はあの画像をそっと消した。
 不吉な山など、ない。 
 

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作品について

著者プロフィール

こだま

主婦。2017年1月、実話を元にした私小説『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)でデビュー。同作は13万部を超える大ヒットとなり、『ブクログ大賞2017』エッセイ・ノンフィクション部門ノミネート、『Yahoo!検索大賞2017』小説部門賞を受賞。映像化、マンガ化でも話題に。二作目のエッセイ『ここは、おしまいの地』(太田出版)は第34回講談社エッセイ賞受賞。また現在、「Quick Japan」「週刊SPA!」で連載中。

作品概要

幼少期からいままで、いろいろな人や場所、ものと交差してきた。
「陳腐」でいとおしいものから、「数奇」と呆れられるものまで――。
著者初のWEB連載は、日常と記憶をたどる優しくコミカルなエッセイです。

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