キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

DOOM

島田 裕巳

DOOM ブック・カバー
バックナンバー  12 

第2話

2018.07.27 更新

 私はなぜ入院し、幻覚を見なければならなかったのか。
 医者は、病の原因については何も語ってくれなかった。
 しかし、本人はどうしてもそのことを考えてしまう。私に多大なストレスをかけた原因は、間違いなくOS教団の事件だ。そのことで私の体はしだいに病んでいったのだ。

 なぜ私はOS教団とかかわりを持つことになったのか。そのきっかけは1989年まで遡る。
 私は当時、千葉県の幕張にある文部省の研究機関につとめていた。放送教育や遠隔教育について研究するのが、その機関の目的だった。
 同じ職場に映画に詳しい同僚がいた。その同僚の紹介で、私は『映画の見方が変わる本』というT社が出しているムックに記事を書くことになった。
 記事は2本で、それではじめて原稿料をもらった。そして、そのムックを編集した編集者とかかわりを持つことになった。その編集者はMといい、後に映画評論家として名を馳せることになる。

 ある日、そのMに呼び出された。
「今度、OS教団についてムックを作ろうと思っているんだけれど、あなたは宗教学者なんだから、何か書いてくれませんか」
 それは、OS教団を糾弾する週刊誌のキャンペーンが行われた直後のことだった。私も、OS教団のことは、この週刊誌の記事を通してはじめて知った。
「OS教団のことは、あまり知らないんだけれども」
「資料はこちらで用意します。それから、誰か教団に入って潜入ルポを書いてくれるような人間を知りませんか」
 私は、そう問われて、宗教学の研究室の後輩のことを思いだした。
「新宗教をいろいろとめぐっている後輩がいるけれど」
「是非、その人を紹介してください」
 私はその後輩をMに紹介した。後輩は多くの教団にすでに潜入した経験を持っていたので、いわば「免疫」ができていた。
 後輩は、OS教団に潜入し、信者になった。といっても、潜入するのは容易で、教団の道場を訪れれば、誰もが歓迎され、修行をすることができた。辞めるのも自由で、道場に行かなくなれば、それ以上、修行を続けるよう説得されることもなければ、教団に残るよう責め立てられるわけでもなかった。
 
 後日、私は後輩から教団潜入の話を聞いた。そこで連想したのが、ディズニーランドだった。
 別に教団が素晴らしいおとぎの国だと思ったからではない。ディズニーランドのアトラクションは皆、機械仕掛けで、キャラクターも、中に人が入った着ぐるみだ。まさにまがい物である。
 ところが、ディズニーランドを訪れる「ゲスト」と呼ばれる客の方は、園内に入った途端に、まがい物に接していることを忘れてしまう。あたかも夢の世界にいるかのような気になって、幸福に浸るのだ。
 OS教団の信者たちも、自分たちの教団がそれほどたいしたものではないと認識していて、教祖についても崇高な存在だと本当に思っているわけではない。
 それでも、教団や教祖の価値を思いきり引き上げることで、自分たちは偉大な教祖と出会い、その崇高な教えにふれ、他では出会えないほど素晴らしい修行にいそしんでいると考えようとしている。
 私は、後輩の話から、そんなイメージを抱いた。
 その結果、私が教団について書いた文章は、「OS教団はディズニーランドである」というものになった。
 それがすべてのはじまりだった。
 
 ムックが出たのは翌年の7月のことだったが、それはOS教団だけを扱ったものではなく、当時の宗教をめぐる状況をさまざまな角度から扱ったものになった。私も、OS教団のことだけではなく、他にもいくつかの記事を書き、対談も行った。
 このムックは世間の注目を集め、よく売れた。ムックが出た時点で、私は幕張の研究機関を辞め、都心にある女子大の助教授になっていた。
 週刊誌の糾弾キャンペーンが起こってから、ムックが出るまでの9カ月の間に、OS教団はいくつもの事件を引き起こしていた。
 まだ週刊誌の連載が続いている最中に、「OS教団被害者の会」を結成し、その会長になって活動していたS弁護士一家が失踪するという事件が起こる。
 現場には、OS教団のバッジまで落ちていた。当然、教団に疑いが向けられた。しかし、警察は教団の犯行だということを明らかにし、犯行に携わった人間を逮捕するまでには至らなかった。
 S弁護士は、いわゆる「人権派」で、警察に対して相当に批判的で、日頃から対立することがあったため、警察が十分な捜査をしなかったらしい。教団の犯行であることが明らかになるのは、地下鉄サリン事件が起こってからである。
 それから、1990年2月に行われた衆議院選挙への出馬だった。教団はS党という政党を組織し、教祖をはじめ24人の信者が立候補した。当然のことだが、一人の当選者も出せなかった。
 注目されたのは、教団の選挙活動だった。立候補者のいる選挙区では、他の信者たちが、教祖のお面をかぶって街頭に立ち、有権者に挨拶していた。まさにそれはディズニーランドと同じだった。選挙期間中、自宅最寄り駅で降りた私は一度、その姿に接し仰天した。
 教団には若い四姉妹の信者がいて、彼女たちは、象の帽子を被って宣伝カーの上に乗り、そこで教祖の名を織りこんだ歌をうたい、踊った。これも世間の注目を集めることに結びついた。
 そして、その年の5月に、教団は、当時の熊本県阿蘇郡波野村に進出し、そこに道場を開いた。信者たちが修行をしながら暮らすための施設だ。
 熊本県は、教祖の出身地だった。だが、村の人たちは、教団が村を乗っとろうとしているのではないかと疑い、進出に反対した。
 両者の対立は暴力を伴うまでにエスカレートした。さらに、波野村の土地取り引きをめぐって、教団の幹部が5名逮捕されるという出来事も起こった。
 教団と村との対立は、その後も続き、膠着状態となり、解決の糸口が見いだせない状況になっていた。
 熊本県の地元紙は、この対立について長期連載を行っていた。
 私が、その取材チームに属している一人の記者から連絡を受けたのは、12月の中旬のことだった。記者は、「OS教団はディズニーランドである」を読んで、私が勤めていた大学に連絡してきたのだ。
 記者は、東京までやってきた。私は、彼と大学の近くの喫茶店で会った。彼からは、現地の様子について説明を受け、その上で、意見を求められたが、その際、私は、「現地を見てみないと分からない」と答えてしまった。
 たしかに私は、OS教団について文章を書いていた。けれども、教団のあり方について格別強い興味を持っていたわけではなかった。教団はヨーガによる修行や神秘体験を売り物にしていたが、私には、そうした事柄に対する関心がなかった。それまで、修行をしようなどという気持ちになったことはなく、実際その体験もなかった。
 そもそも、記者から熊本へ来てくれと言われたわけでもない。
 私はなぜ、あんなことばを口にしたのか。後から振り返ってみても、そのはっきりとした理由は分からない。
 だが、記者は、「それなら」と、私の熊本行きを諒承した。かくして私は、それから間もない12月25日、クリスマスの日に、空路熊本へむかったのである。

 熊本に着いたのは昼頃で、午後には、阿蘇山の麓にある教団の道場を訪れた。
 私を現地で迎えてくれたのは、教祖の妻と男性幹部の一人だった。
 迎えられた途端、教祖の妻からは、皮肉っぽく、「これでも、ディズニーランドですか」と言われた。
 私の目の前には、道場のある敷地が広がっていた。道場の建物はプレハブで、敷地は全体が土のままになっていた。最近雨が降ったのだろう、いたるところがぬかるんでいた。
 開拓地だ。
 私はそう感じた。
 長靴がなければ、敷地内を歩けなかった。教団が用意してくれた長靴を履いた。
 これと似た光景を見たことがあった。
 それは、私が大学生だった頃、Y会に所属していたときのことだ。その時代、Y会は無所有一体の理想世界をめざすコミューンの一つとして知られ、多くの若者たちが集まっていた。
 私は、主に首都圏にある支部で生活していたが、正月に三重県にある中心拠点を訪れたことがあった。
 その拠点には急に多くのメンバーが集結するようになっていたのだが、そこの食堂は土床で、建物は簡素なプレハブだった。
 Y会は宗教団体ではないし、OS教団のように信者に修行を課すような団体ではなかった。当時のY会に集まってきた人間の多くは、学生運動崩れの若者たちだった。
 そんなところは、OS教団のメンバーには見られなかった。彼らは、修行を通して解脱することをめざしていて、社会を変えるなどという思いを抱いているようには見えなかった。
 私がOS教団の熊本道場を訪れた1990年は、バブル経済の崩壊がはじまっていた時期で、天井知らずで上がり続けてきた株価は急落していた。
 それでも、同じように上がり続けてきた地価は、まだ大きく値を下げてはいなかった。時代の雰囲気は未だにバブルで、金だけがすべてという風潮が依然として日本社会を支配していた。
 OS教団の道場に集まってきたのは、そうした時代の流れについていけないと感じていた若者だちだった。
 実際、熊本の道場では、信者たちが修行に勤しんでいた。
 修行している信者の前には見台があり、そこには教祖の著作がおかれていた。道場には複数の信者がいたが、集団で修行を行うのではなく、一人一人が別々の修行を行っていた。
 教祖の著作を一心に読んでいる者もいれば、瞑想をしている者もいた。ヨーガのポーズをとっている者もいて、おのおのが自分一人のための修行プログラムを実践していた。
 食堂にも案内されたが、調理場で奇妙な光景に接した。野菜がいれてある大きなポリバケツに電極が差し込まれていたのだ。
「尊師のマントラを流しているんです。そうすると野菜がおいしくなるんです」
 その場にいた信者がそのように解説してくれた。尊師とは教祖のことである。私はその理解不能な発想に戸惑いを感じたが、それを口にすることははばかられた。信者があまりに真剣に語っていたからだ。
 道場の建物は、プレハブという点でY会と共通していたが、OS教団のものの方が、はるかにしっかりとした作りになっていた。Y会の時代に私がいた埼玉の宿舎は工事用のプレハブで、普通は資財などを保管するために使われるものだった。その分、壁はぺらぺらで、寒い時期には、外側の冷気がそのまま部屋のなかに伝わってきた。
 OS教団の建物のなかには、石炭を燃やす大きなストーブがしつらえられていた。それは新品で、かなり立派だった。そのため、真冬であるにもかかわらず、部屋は暖かだった。
 熊本の道場では、もっとも多い時で500人の信者が生活していたという。それだけの人数を収容できる施設を作り上げるには相当に金がかかる。OS教団は、それだけの財力をもっていた。
 その金はいったいどこから来たのだろうか。
 教団は、やがてパソコンの廉価販売で莫大な利益を上げるようになるが、私が熊本を訪れた時点では、まだそうした事業は開始されていなかった。
 となれば、財源は信者からの布施ということになる。出家すれば、その際に財産をすべて寄進することになる。
 地元紙の記者の話では、普段の道場は相当に汚いらしい。外部の研究者がはじめて訪れるということで、急遽、掃除をしたようだった。
 
 翌日、私は記者たちと一緒に、OS教団の進出に反対している地元のリーダーの家を訪れた。
 一時は、対立がエスカレートして暴力沙汰になることもあったが、その後は膠着状態になり、教団の側も、地元の側も、双方が監視小屋を作って監視活動をしていたものの、事態は沈静化していた。
 土地取り引きをめぐって教団の幹部が逮捕され、翌日から裁判がはじまることになってはいたものの、いつそれが結審し、判決が出るかは分からなかった。
 地元のリーダーは、「今は手がない。彼らを追い出す具体的な手立てがないんだ」と嘆いていた。
 膠着状態が続き、表面的に事態が沈静化してしまうと、騒ぎは起こらないものの、世間からの注目が集まらなくなる。それこそが地元の人々が憂慮する事態だった。たとえ土地取り引きに不正があったと裁判で認められたとしても、それで、教団を追い出すことができるようになるのか。リーダーはそうしたことを恐れていた。
 Y会も、コミューンを作ってすぐの段階で監禁事件を起こし、世間の耳目を集めた。実際に監禁が行われたのか、それとも、会の方が自分たちの存在をアピールするために、事件をでっち上げたのか、今もって真相が明らかになっていないところがあるが、この事件によって会と地元とは対立関係に陥った。
 それでも、Y会はその土地から追い出されることはなく、今もそこでコミューンを営んでいる。OS教団の場合も、そうなる可能性があった。
 
 その翌日、私はOS教団の教祖、Aとはじめて対面することになった。
 私は、道場に近い阿蘇山麓の旅館に宿泊していた。
 朝、記者の運転する車で熊本市内にむかった。その途中、一台のバスを追い抜くこととなった。
 そのバスは、まるで廃車のようにおんぼろで、塗装も剥げ、窓もよごれがこびりつき、汚かった。そんな車が公道を走っているのを目にしたのは、そのとき以外にはない。
 それは、元はJRの高速バスのようだったが、乗っていたのは教団のメンバーに違いなかった。私は、そう直感した。
 バスを追い抜いた私たちは、熊本市内のホテルにむかった。そのホテルは熊本城に近く、ホテルの窓からは城の姿を間近に拝むことができた。
 新聞社が部屋を予約していて、私はそこに入った。ソファーに腰掛けて教祖の到着を待った。
 ほどなく、幼い娘に手を引かれて教祖が部屋に入ってきた。
 教祖は、私の存在に気付かなかった。部屋にはほかにも記者が2、3人いたのだが、それにも気づかなかった。
 男は、娘に導かれてソファーに座り、前を向いたまま、しばらく黙っていた。
「Aさん」
 最初に声を掛けたのは新聞社の人間だった。
 それで教祖は、私たちがすでに部屋にいたことに気づいたようだった。
 教祖が私たちに気づかなかったのは、目が見えないからだった。そのことを、私は事前に知っていたが、私たちの存在に気づかないのは不思議に思えた。
 目が見えない人間は、その分、勘が鋭い。そんな考えがあったからだ。
 教祖の目は本当に見えなくなってから、それほど時間が経っていないのだろうか。そのときの私は、そう解釈した。
 教祖は子どもの頃、盲学校に通っていた。目に障害があり、将来において失明の危険性があると診断されたからだ。
 その時点で、本人も、いつか自分が視力を失うことを覚悟していただろう。だからヨガの修行によって、目の障害を治す。少しでもそれを軽減させる。あるいは、神秘的な能力を身につけることで障害を乗り越えようとしたのかもしれない。
 記者は私のことを教祖に紹介した。教祖が、その時点で私のことを知っていたのかどうかは分からない。それでも、教祖は、教団の内情について意外なほど素直に語った。
「信者たちもまだまだです」
「ほう」
「物を大切にするという姿勢が欠けている。甘いんです」
 教祖はそう言って嘆いた。
「いいですか。熊本の道場にも、信者たちの親がやってきたりする。子どもを連れ戻そうとするためだ。ところが、信者の方は、そのように呼び掛けられても、道場のなかに隠れているだけで、親に対して何も言えない。本来なら、堂々と親の前に出て、法を説くべきなんだ。法を説いて、親を説得すべきなんですよ」
 教祖のことばには、未熟な信者に対する怒りが込められているようにも思えた。私は、おんぼろなバスに乗っていたであろう信者のことを思い浮かべた。
「Aさん、教団は地元からも、世間からも激しく叩かれているわけですが、その原因はどこにあるとお考えでしょうか」
「それは、出家の制度をとっているからです。出家というのは仏教の伝統だが、世俗の生活を捨て、家族をも捨てることになる。だから、家族が子どもを取り戻そうとして、やってくるわけだ」
「その出家ですが、教団では集団催眠のような方法を使って、洗脳し、それで無理に出家させているのではないんですか」
 そう尋ねたのは、記者の一人だった。
 この問いかけには、教祖は「ありえない」と声を荒らげた。
「例えばだ。催眠術をかけて、下着をとれとか、ナイフで自分を刺せと命じられても、実行する人間はいないというではないか。催眠術で人間の基本的な行動は変えられない。出家した人間たちは、教団の教えに感銘を受け、自分で変わっていった人たちだ。誰が命じたわけではないんだ」
 教祖には、記者の質問の背後には自分たちに対する無理解があるという思いがあったらしい。
 教祖との対談は、それほど長くは続かなかった。その後には、教団の顧問弁護士もつとめている幹部の初公判が予定されていたからだ。
 教祖は、私との対談の後、被告となった幹部の接見に行った。私も、裁判を傍聴することとなった。
 裁判では、検察官による起訴状の朗読の後、被告人の罪状認否となった。被告は罪を素直に認めるのではなく、それを否定した。
 その幹部は、大学在学中に全国最年少で司法試験に合格した秀才だった。
 本来なら、弁護士としての知識や能力を生かして、検察側の論理を突き崩していくような弁論をすることも可能だったはずだ。
 だが、彼は法廷に信仰の問題を持ちだし、その観点から、警察による捜査を批判した。宗教弾圧だというわけである。
 傍聴席の私の席の前には、教祖が、2日前に私を道場で案内してくれた教祖夫人と並んで坐っていた。
 教祖夫人の方は居眠りをして、被告人の弁論を聞いてはいなかった。
 教祖の方は、しっかりと前を見つめていた。被告人の弁論が彼の信仰者としての覚悟の話に及んだときには、弟子の決意の固さを喜ぶかのように何度もうなずいていた。
 裁判が終わった後、教祖やその夫人のほか、教団の幹部たちは裁判所の駐車場に集まっていた。私はその光景を少し離れたところから見ていた。
 教祖と幹部との間に隔たりはさほどないように感じられた。付き合いも長いのだろう。仲間同士が話をしているという印象だった。
 駐車場には、幹部ではない、あのバスでやってきた一般の信者たちも集まっていた。
 彼らは裁判所の壁にへばりつくように並んで立っていた。彼らの立っている場所から、教祖や幹部たちがいる場所との間には相当の距離があった。
 信者たちは、きらきらとした目で教祖を見つめていた。教祖は熊本には滅多にこないようで、信者にとっては久しぶりに目にする教祖の姿であったに違いない。
 一般の信者にとっての教祖は、ヒマラヤで究極の悟りを開いた宗教的な指導者である。彼らの修行を指導してくれるグルであり、絶対の存在だった。
 ただ、絶対の存在であるはずの教祖は、熱心に修行をしてきたにもかかわらず視力を失っていた。
 それは、修行が成果を上げられなかったことを意味している。教祖は究極の悟りを開いたはずなのに、その視力を失われてしまったのだ。
 あるいはそのことが、教祖のなかに絶望感を生んでいたかもしれない。
 そして、信者たちの甘さが、彼を苛立たせていたのかもしれない。

バックナンバー  12 

作品について

著者プロフィール

島田 裕巳

宗教学者、作家。
1953年、東京都生まれ。東京大学文学部宗教学宗教史学専修課程卒業、同大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を経て現在、東京女子大学非常勤講師。
著書に『創価学会』『葬式は、要らない』『キリスト教入門』『靖国神社』『死に方の思想』『「日本人の神」入門――神道の歴史を読み解く』『日本の新宗教』などがある。

作品概要

日本を揺るがす大事件を起こした教団を描いた、異色の小説。

おすすめ作品

悪夢か現か幻か

第6回 沈まぬ死体 

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か

第5回 化け猫の事情

堀真潮(ほりましお)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

リコリスの兄弟(前篇)

古内一絵(ふるうち かずえ)

悪夢か現か幻か

第4回 葛籠(つづら)

堀真潮(ほりましお)

ページトップへ