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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第9回

2015.09.15 更新

こんな大事なことを、うっかり忘れているということがあるのだろうか?
子どもを作るタイミングを、先にしようと言いだしたのが香菜子自身だったとは。
そういうこともあったかもしれない。それに同意してくれた大介は、あまり子どもについては興味を持たず「結婚生活に慣れたころ」とうやむやになったままだったのだろう。
少し不安げな表情で大介が問いかけてきた。
「急に、どうしたの? 子どもが欲しくなったの? なにか、気になることがあったの?」
まさか、子どもを作って自分と大介の運命を変えたい、と言うわけにもいかないし、と思う。昔から、香菜子は嘘をつくのは苦手だし、とっさの言い訳も慣れていないのだ。
「いや、ちょっと思い出したの。大介はなんと言っていたっけと思って」
「思い出しただけ? もしかして、誰かと話したの? どこかに出かけた?」
「今日? どこも行かなかった。でも、午前中は、パティオのベンチでのんびりしていたの。そこで、お孫さんたちと遊んでいるおばあさんと話したわ」
「へえ。小さい子?」
「そう。三、四歳くらいの女の子と、歩き始めたばかりの女の子の姉妹を連れていたの。とても可愛かったわ」
大介は、何も言わずに黙って頷いた。
「そうか。その子たちを見ていたら、香菜ちゃん子どもが欲しくなったのか」
それも、確かにある。だが、今、そう言われて考えると、老女との話のことが思い出された。
「それだけじゃないわ。おばあさんの若い頃の話を聞いたの。自分が子どもを生んで育てて、どんな苦労をしたかという話とか、子どもが育って一人立ちするまでの話とか。そして今はご主人が亡くなって息子さん夫婦と暮らしているって。でも、そんな話をしながら、とても穏やかな目をしていたの。そうしたら、ふっと私も目が開いた気になった」
「ぼくたちに、もう子どもがいてもいいってことかい?」
香菜子はこくんと頷いた。言葉で説明しなくても、今は、それだけで十分だと思っていた。
「わかった」と大介は言って、優しくほほ笑んだ。
「じゃあ、あとは神さまがいつ子どもを授けてくれるかということだよね。あ、コウノトリが、いつ香菜ちゃんのおなかの中に赤ちゃんを連れてきてくれるか、ということだよね」
大介らしい言い方だなあ、と香菜子は感じる。だからもう一度、こくんと頷いた。

そして、約束の日は着々と迫っていた。大介の文箱のメモに書かれていた〈香菜子と温泉宿でゆっくり過ごしたい〉という願いを実行する日が。大介が生きていた間には決して実行されなかった、未来の大介の願いがようやく叶うことになるのだ。行先は、まだ聞かないままだが、大介はすでに予約を済ませているようだ。あまり、そのことについて香菜子は触れないようにしていた。どんな温泉宿なのか、当日までのお楽しみにしたいと香菜子が宣言しているから、あえて大介のほうからは、言わずにいるようだ。
ただ、あるときから香菜子がカレンダーにマークしていた出発日の前日に、マークが付けてあった。
「あれっ。言ってなかったっけ」
そう大介は言った。一泊で帰るにはもったいなくて、二泊にしたのだ、と。それでこそ本当に香菜子と温泉宿でゆっくりしたことになる、と思ったそうだ。そのことは、香菜子にすでに話していたと思い込んでいたらしい。
「ごめん。ごめん。何か、都合が悪いことがあったんじゃないか?」
いや、都合が悪いことなぞ何もない。むしろ嬉しいばかりだ。だが、香菜子に変更を言ったつもりになっているというのが、大介らしかった。「だって、二泊だと一日が海の幸で二日目がイタリアンということに……」と言いかけたので、あわてて香菜子はストップをかけた。それ以上話したら、宿の名前まで言ってしまいそうだ。香菜子は、それでもかまわないが、二人の間では、当日までのお楽しみで、それまでは言わない聞かないというゲームのルールになっているはずだった。

午後、香菜子は商店街へ夕飯の買い物に出かけた。時間だけは、たっぷりある。バスは使わずに商店街まで日傘をさして歩く。
のんびりと散歩がてら歩けば、その間にその日のメニューも思いつくのではないか、という気持ちでいた。
ぼんやりと大介が言った「海の幸」という言葉を思い出していた。ということは、海に近い温泉宿だろうな、と容易に予測がつく。だとすれば、大介に水着を持っていいかなくていいか確認しなくていいだろうか? でも、そんなことを聞いたら行先が香菜子にバレてしまったと、大介はがっかりするかもしれない。いや、山の温泉でも近くにプールがあるかもしれないし、と言えばいいだろうし。海の近くでも海水浴ができるともかぎらない。もしも海水浴場があっても八月下旬ともなれば土用波(どようなみ)があるのではないか。
それでも、楽しいだろうな、と期待して心は大介との休暇をいろいろと想像してにやついてしまう。
しかし、次の瞬間、香菜子は足が固まってしまった。頭の中が真っ白になった。
商店街の入口に、見覚えのある男が佇んでいた。
男は、視線を香菜子に向けていた。じっと目をそらすことなく睨んでいた。それが誰なのか、香菜子はすぐにわかった。痩せた長身の老人。度の強い特徴的な眼鏡をかけている。
機敷埜風天。竺陣芙美の伯父。そして、デイ・トリッパーの発明者。
機敷埜老人は、偶然そこに佇んでいたわけではない。目的を持って商店街の入口にいたのだ。度の強い牛乳瓶の底のような眼鏡の奥の、目の動きまではわからないが、香菜子が現れた途端にその態度は、劇的に変化した。香菜子が現れるまで張り込んでいたのだ。
どうしよう?
香菜子はどうするべきなのか判断がつかなかったが、先に身体が反応していた。機敷埜老人に背を向け、今来た道を引き返そうとした。すると、足音が聞こえてきた。振り返らなくても、機敷埜老人が駆け寄ってきているのだとわかった。
「待ちなさい。お待ちなさい。お嬢さん。ずっと待っていたんですよ。必ず、ここに現れると思っていた。しばらく。しばらくだけ時間をくれませんか? とても大事なことだと思うから」
香菜子は、お嬢さんと呼ばれたことが不思議だった。老人からしてみれば、若ければ、人妻もお嬢さんも同じに見えてしまうということか。このまま逃げおおせても、機敷埜老人は、必ず香菜子を見つけ出そうとするのではないだろうか。そう考えると、香菜子の足は動かなくなってしまった。観念したと言うべきか。
「すみませんのう。一度、わが家の前でお会いしてから、あなたのことが気になりましてな。それから、ずっとこの商店街の前でこの時間帯に余裕があるときは必ず待っておりました。ここなら、必ず、またお会いできると思っていました」と老人は言った。
「どうして、そう思われたのですか?」思わず香菜子は、そう尋ねた。
「先日も、お嬢さんは、買物をするような姿でしたから。あまり着飾っているわけでもないけれど、近所を歩いてもおかしくないくらいのお洒落をしていたわけでもない。こう言っては失礼かもしれませんが少なくともよその家を訪ねるような姿でわが家のまわりをうろうろしておられたわけではない。つまり、買物のついでに、わが家の前まで足を伸ばしてしまったという感じでしたからなあ」
もう、香菜子が逃げ去ることはないと、機敷埜老人は確信したようだ。また、香菜子も老人から逃げても解決にはならないと考えていた。
「立ち話もなんですから、この近くの喫茶店におつきあい頂けませんかな。ほんの少々の時間でよろしいので」
そう言われて、香菜子は覚悟を決めた。
「わかりました」
「では、そこまで」と機敷埜老人は自転車を押して商店街へ入っていく。振り向かないから、今度は香菜子が逃げずについてきてくれるものと信じているらしい。そうなると、かえって香菜子も逃げ出せなくなってしまう。
商店街の中ほどで、機敷埜老人は店の看板横に自転車を駐めた。
「ここでどうでしょうか」と機敷埜老人は振り返って香菜子に言った。看板には「純喫茶マンボ」とあった。このような場所に喫茶店があるとは香菜子は知らなかった。看板も陽に灼けて色変りしている。ずいぶん昔からこの場所に喫茶マンボは存在したのだろう。何度もこの前を歩いていたはずなのに、香菜子は店の存在も知らなかった。いや、街の風景の一部となってしまい香菜子に見えなくなってしまっていたのかもしれない。
「はい」と香菜子が答えると、機敷埜老人は店内に入っていった。後について香菜子が入ると、店内は明るいのだが、まるで昭和時代のような雰囲気だった。過去へ跳ぶ装置を作りたがる機敷埜老人が好みそうな店だということだろうか。
昼下がりだというのに、店内に客の姿はなかった。代わりにまるまると肥ったキジ猫が首だけ上げて何者だ、というように香菜子を睨んでいた。
「いらっしゃいませ」とけだるそうな声がする。奥の厨房らしきところから中年の女性が顔を見せた。
「こんにちは。こちらでお邪魔するよ」と機敷埜老人が中年女性に手を振ってみせて、「さ、おかけになって」と香菜子に席をすすめて自分も腰を下ろした。
物珍しそうに香菜子は店内を見回す。「このお店は、昔から使っているんですよ」と嬉しそうに機敷埜老人は言った。そこに、中年の女性が水を置く。
「おや、先生がどなたかを連れてくるなんて、珍しいことですね。しかも、こんなに若くてきれいな方だなんて。先生も隅には置けませんね」
中年の女性は明らかに何やら誤解しているようだ。訂正しておいたほうがいいと「あのー」と香菜子が言いかけると、女店主はかぶせるように「あー。大丈夫よ。私は口は固いし、何も聞かないし、お客さんのプライバシーは大事にするほうだから」
機敷埜老人は、何も気がまわっていない様子だった。
「あー、何か注文しないといかんじゃったなあ。私はコーシーでお願いします。こちらのお嬢さんには……これお嬢さんは何を注文するかね。ジュースとか牛乳とかアイスクリンとか、お腹がすいていたらチキンライスとかもできると思うが」
機敷埜老人は女店主の言葉も意も介さない様子で香菜子に注文をうながす。機敷埜老人は自分が興味がないことについては一切、何も聞こえないし、見えない人のようだ。言葉づかいも妙に古めかしい。老人がそうであれば、と香菜子も開きなおっていた。
「あ。では、私も同じものでお願いいたします」
機敷埜老人は満足そうに頷いて言う。「じゃあ、こちらのお嬢さんにもコーシー。つまり、コーシーが合計二杯となります。お願いします」
女店主は、頷いて奥へと下がっていく。これで、よく成り立っているなと店内を見渡しながら、香菜子は感心した。椅子もテーブルもすべてが四角っぽくて古臭い。椅子は赤い布地で下品な印象が拭えない。テーブルの上灰皿は十円玉を入れると占いが出るというものだ。すべてが時代に取り残されたような喫茶店だ。そして、自分は今、ほとんど初対面の機敷埜老人の前に座っている。なんと奇妙な状況だろう、と香菜子は思っていた。
コーヒーがすぐに目の前に置かれた。えらく早い、と香菜子は思う。「ごゆっくりどうぞ」と女店主は去っていく。
まだ、機敷埜老人は口を開いてくれない。仕方なく香菜子はコーヒーを口にした。香りもなく、ぬるい。ひたすら苦い。何故、こんなにコーヒーが早く出てきたか、わかったような気がした。このコーヒーは作り置きされていたものなのだろう。
一口だけ飲んで、香菜子はコーヒーカップをテーブルに置いた。
すると、やっと機敷埜老人は口を開いた。
「正直に答えてください。あなたは、デイ・トリッパーで未来から来たんですね」
香菜子は、仕方なく頷いた。何をどこまで、話していいのか、何を機敷埜老人に言ってはいけないのか。今の香菜子には判別がつかなかった。芙美から言われたことは、これまで守ってきているつもりだった。しかし、このような状況までは予測もしていなかった。
しらばくれても、目の前で機敷埜老人から次々に問い詰められれば、嘘をつきとおせる自信はなかった。それに、何よりも香菜子は嘘をつくのが下手なのだ。
これは不可抗力なのだ、と香菜子は自分に言い聞かせるしかなかった。
「やはり、そうでしたか。そしてあなたが今の私と初対面であるということは、やはり未来では私はいないのですね。実は、数日前に診断結果を知りましたが、私には残されている時間があまりないことを告げられました。それから、どうするべきなのか、自分なりに考えたのですよ。デイ・トリッパーは今、試験的に作動させることができるというところまではいっておるのです。ただ、それは理論上のことでして、現実には過去に跳べずにいる。どこに問題があるのかと悩んでいたところでしたよ。で、お嬢さん。お名前はなんと言われる? どうやってデイ・トリッパーの存在を知ったのですか?」
香菜子は、自分の名を告げた。それから、どう語るべきなのか、迷った。迷った挙句に「言ったらいけないと釘をさされています。ただ、デイ・トリッパーに乗せて頂いたのは竺陣芙美という方からです。芙美さんから未来のことを口にしないように約束させられました。機敷埜さんなら、おわかりと思います。小さな変化がやがて未来の大きな変化に繋がることを防がなければならないから、と言っていました。そのようなルールは機敷埜さんから指示されたものだとのことでした。バタフライ効果とか、タイム・パラドックスとか。おわかりでしょう」
機敷埜老人は怒った様子もなく、ただ戸惑った様子で右手で首の後ろを何度もぽんぽんと叩いていた。
「亡くなった人に会いに来ているのですか?」
そう唐突に機敷埜老人は言った。どう答えるべきなのか?
「えっ?」とだけ漏らした。
「いや、じつはデイ・トリッパーが完成したときに心配したのは、今、お嬢さんが、いや、香菜子さんが言ったとおり、未来の本来あるべき歴史を大きくねじ曲げることになってしまうのではないかということなのですよ。そして、直感的に思いついたのは、用途の制限です。亡くなった人に会いたい。そのことをかなえるためだけなら許可してもいい。そう思いました。だから、デイ・トリッパーの使用について誰かに言い伝えるなら、まず、そう言ってある筈ですから」
やはり、芙美は機敷埜博士の思想を正しく継承しようとしていたのだと、香菜子は実感していた。
「はい。そのとおりです。……と言っていいのかしら。芙美さんとの約束を破ったことになりますが」
「芙美がデイ・トリッパーをすべて仕切っているのですか」
「はい」
「芙美は、ときどき手が足りないときに研究を手伝ってくれている。そうか。芙美に任せれば、安心ではあるな」
そうひとり言のように機敷埜老人は言った。
「芙美さんは、とてもしっかりした方だと思います。だから、こちらに着いてから芙美さんとの約束を守っていたんです。先日、機敷埜さんにお会いしてしまったとき、逃げ出してしまったのはそのためです」
すると、機敷埜老人は、テーブルをぽんと叩いた。
「大丈夫です。それは心配しないほうがいい。あなたが芙美に言われたことは、すべて私が芙美に託したことです。ですから、私が尋ねることには、すべて正直に答えて頂きたい。芙美は私の言うことに逆らうことはありませんから」
「いいんでしょうか?」
「いいんです。香菜子さんも、私に尋ねておきたいことがあれば、遠慮なく尋ねてください。芙美よりも、原理、法則、デイ・トリッパーについてはくわしいつもりですからな。タイム・パラドックスについても、私が、これから考えて最善を探るつもりだから。今なら、今のうちなら」
機敷埜老人は、ぽんぽんと自分の胸を叩いてみせた。それを聞いて、香菜子の内部で、緊張が解けていくのがわかる。
機敷埜老人の言うことを額面どおりに受け取って、そのまま甘えてしまっていいのだろうか。もし、そうだとすれば、尋ねたいことは山ほどある。
しかし、いくら機敷埜老人がデイ・トリッパーの開発者だからといって、実験はまだ途中の段階でしかない。未来の芙美が告げたルールこそが、すべての実験の成果に基づくのだとしたら、機敷埜老人にすべてを伝えてよいのだろうか?
「まだ、迷いがあるようですね」
機敷埜博士は、ちゃんとそのことを見抜いたようだ。反射的に香菜子は頷いていた。
「では、あなたの……香菜子さんのことを、もっとくわしく話していただけませんかね。直感だけで、あなたが未来から来たと知ったものの、実は何にも香菜子さんのことを知らずにいる。香菜子さんは、誰に会いに来られたのかね」
言い終え、機敷埜老人は、香菜子の返事を待つ。
香菜子は口を開いた。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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