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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第8回

2015.08.15 更新

香菜子は、自分の耳を疑った。
「お父さんが逝ってしまって、ああ良かったと思うこと」そんなことは少なくとも香菜子にはなかった。愛する伴侶を失くして、何が”良かった”なのか。
「一つだけいいこと……なんですか、それ?」
香菜子が問い返すと老女は、小さく笑った。
「いやね、私ったら言い方が悪かったかしら。私には子どもが三人いるんです。あの二人は、長男の子」
そして、目の前で無心に遊んでいる子どもたちを手で示してみせた。
「子どもたちを育てているときは、大変だった思い出しかないんですよ。すぐに泣き出すし、一刻も目は離せないし、すぐ熱を出すし。成長するにつれて、学校のことやら悪さしたやら、次から次へと問題を引き起こす。高校までやんちゃばかりだったから気が鎮まることがなかったんですよ。子どもたちのことで頭を下げてまわることばかり。何で、子どもなんて生んだんだろうと思ってお父さんに愚痴ばかり言ってましたねえ。早く育ってくれればいい。一人立ちしてくれればいい。そう願って日々を過してたんですよ。早くお父さんとゆっくりのんびり老後を過ごしたいってね。お父さんが定年になる頃ですよ。子どもたちに何の心配もいらなくなったと思えるようになったのは。子どもたちは、それぞれ結婚して、お父さんと二人きりになって、お父さんが定年を迎えて、ようやく、さあゆっくりできる、というときにお父さんが倒れてしまったんですよ」
つらかったのだろうな、と香菜子は想像する。それからの長期の介護。そして伴侶の死。
「今は、どの子たちも見違えるようになりましたよ。特に一緒に暮らしている長男なんか、本当に、これが私にあれほど心配をかけたあの子と同じなのだろうか、と思いますよ。それから……」
老女はそこで言葉を区切り、また二人の幼い姉妹を見やる。
「息子は、こんな素晴らしい孫を私に授けてくれましたよ。今度は、子どもたちを育てるときのように、あくせくしなくていい。もう、この子たちを可愛がればいい。孫たちも、私のことを、ばっばと呼んで慕ってくれるんですから。これが、ああ良かったと思うことなんですよ」
どうだ、というように、そのときの老女はいかにも得意そうに香菜子には見えた。
「子どもたちがいてくれたから。お父さんが私に子どもたちを残してくれたから、良かったんだって思うんです。だから、今の私は孫たちと楽しく過ごせているんです。そりゃあ、お父さんがいないのは淋しいけれど、孫たちがいるから、お父さんがいなくてもなんとか我慢できる。そう思えるようになったんですよ」
香菜子は、言葉の挟みようがなかった。そうなのか、と思い頷くしかない。自分の何倍も人生の経験を積んでいるはずの人の言葉なのだ。そう考えていた。
「気付いたら、お父さんのことをまったく忘れている瞬間もあったりするのですよ。忘れている、というのは、愛した大事な人を失った悲しみを乗り越えたということでもありますからね。ずっと、じゃありません。そんな瞬間があったりする心の余裕ができたからとも思いますよ」
そこで、老女の話は終わった。上の子が老女の手を引きに来たからだ。
「ばっばも一緒に遊んで。大人の人との話ばかりして、つまんないでしょ」
「あっちゃん、楽しそうに砂遊びやってるじゃない」
「あっちゃんは、もーすぐ退屈するって、わかってる。ゆうちゃんも、ばっばが一緒に遊んでくれた方が楽しいから」
老女は、そう言われて香菜子に首をすくめてみせたが、あくまで表情は満足気で嬉しそうだった。
自分が孫たちから、こんなにも必要とされている、ということなのか?
「じゃあ、孫たちのお相手をしてきますから。失礼しますよ。また、お会いしましょうね」
そう言って、老女は立ち上がった。香菜子も、「こちらこそ。よろしくお願いします」と会釈して老女を見送った。
しばらく、香菜子は、老女と子どもたちの様子を眺めていた。もう、老女も子どもたちも香菜子の存在さえ忘れ去ってしまったかのように、屈託のない笑い声をあげていた。
香菜子は、その様子に少しづつ気分が癒されていくのがわかった。老女は、なんと楽しそうなのだろう。
それからゆっくり立上がって、香菜子は老女の方に一礼して、パティオを後にした。
老女は、香菜子が立ち去ろうとしていることに気がついた様子はなかった。
香菜子は、まっすぐに部屋へと帰った。少し、身体が汗ばみ始めていた。クーラーの部屋へ戻りたい。と、同時に何かに自分は気づこうとしていると思っていた。もう少しだ。
結論に至るには。
そのためには、誰にも会わずに一人きりで考える時間が必要だ。
部屋に入る。ソファに腰を下ろす。心には老女や幼い姉妹のことが残像のように焼きついていた。
エアコンのスイッチを入れる。冷たい風が首筋に触れる。
そのとき、無意識に香菜子は呟いていた。
「もしも、私も子どもがいたら、大介がいなくても、少しは淋しさが軽減されるのかしら」それは、あてのない自分への問いかけだった。
未来の……大介が逝った後の自分はひとりぼっちだった。
何故、子どもを作らなかったのだろう。大介とそのことについて深く話しあったという記憶はなかった。
話題が出なかったわけではない。大介から、尋ねられたことがある。結婚直前のことだった。
「子どもは、どうする?」
そんな大雑把な尋ね方だった。香菜子も、それほど真剣に受け止めていなかったかもしれない。赤ちゃんは天からの授かりものだから。そのころ、周囲のそんな言葉を何度耳にしたことか。

それから、もう一つ。
大好きな大介との生活に入ることが嬉しくてならなかったのだ。赤ちゃんが生まれたら、大介との二人の時間がなくなってしまう。すべてが赤ちゃん中心に動くことになるのには抵抗があった。そして、赤ちゃんに振り回されてノイローゼになりかけたり、まったく自分たちの時間が持てなくなる。そんな話も耳に入ってきた。もし、本当ならば、もうしばらくは大介との二人っきりの時間を楽しんだ後でもいいのではないか? そんな気持ちも、心の隅にあったのは事実だ。
いずれにしても、結婚生活に慣れた頃に、あらためて家族計画を考えるべきではないか、と思った。
だから、大介が尋ねてきたときは、とっさに「もうちょっと待ってから。数年後でも遅くはないかも」
そう答えた。香菜子の答えに大介はそれ以上深く問いかけてくることはしなかった。じゃあ、一年後くらい後に子どものことは考えるか、とか、何人くらい子どもがいたらいいと思う? とか、そんな大介の言葉も覚悟はしていたのだが。それに続く言葉は、一切なかった。それから家族計画については話題に出ることもなく、お互いに「子どもは数年後に作る」がぼんやりとした暗黙の了解となってしまっていたのだった。
けれども突然の大介の発病、そして死。子どもに恵まれる機会は永遠に失われることになった。
もし、大介との間に子どもがいたら……。大介がいなくなった世界で自分はどうしていたろう。そんな可能性をぼんやり思い巡らせてみる。
経済的にも母一人子一人で追いつめられることになったのではないか? そんなことも考える。親しくない遠い親戚から、二人の間に子どもがいないのは幸いだった、また人生をやりなおせる、と初七日の頃に言われたことがあった。悪意はなかったのかもしれないが、あまりにも無神経な言葉にさすがに香菜子は返事をしなかった。しかし、そのような考え方をする人も世の中にはいるのだ、ということを知った。
経済的に追い詰められることはなかった。結婚前から大介は十分な保障額の生命保険に加入していたからだ。そのことは、大介が元気な時から聞いてはいたが、気にも留めてはいなかった。聞いても、なにか別の世界のことを大介が話している、といった程度の印象しかなかった。すべては、そんなものなのかもしれない。
もし、大介が生命保険に入っていなかったとしても、それはそれでかまわなかっただろう。ましてや大介の子が一緒に残されていたとしたら、なんとか自分の力で育て上げようとしただろう。
そう。私は立派に大介の子を育てあげてみせる。その子には、いかにお父さんが素晴らしい人だったかを教えてあげることにしよう。
そう考えて、香菜子は、ふっと我に戻った。
今の自分は、大介の子どもを作ることができるのではないか、と。
そうすれば、大介が逝った後も私には大介と愛しあったという証拠が残るではないか。
そうすれば、大介がいなくなった後も悲しんでいる余裕もないはずだ。自分は必死で、その子に愛情を注ぎ育てあげる。
そして、自分自身も生きていく張りを感じられるのではないだろうか。
未来の自分には子どもがいない。もし、今、大介の子を宿したとしたら……。そこで、香菜子はふっと気がついた。
それは、自分にとっての未来が変わったということではないのか?
そう考えると、急に胸がどきどきし始めるのがわかった。
デイ・トリッパーに乗る前の過去では存在しなかったできごとが積み重なっていけば……。
大介が行けなかった温泉に行って、大介の願いを叶えること。存在しなかった過去だ。そして自分が大介の子を宿したら。それこそ運命が大きく変化するできごとと言える。

そこまで、想像を広げたとき、それだけに止まらず、とんでもない期待まで抱いてしまっていることに気がついた。
そこまで、運命が変更できたら、大介の死という最悪の運命も変わるのではないか?
そうだ。大介が病に冒される。それも、わけのわからない聞いたこともない病で。ある日、突然に体調が変化した。まるで、事故にでもあったかのような亡くなり方だった。いや、まるで雷にでも打たれたように。
温泉に行くことも子どもを授かることも、ないままに。
しかし、これからの時間はデイ・トリッパーに乗る前の過去とは大幅に変わるはずだ。些細な変化は誰も気づかぬはずだ。温泉へ行くとか。もし、子どもを授かるとすれば、少し大きな変化か。笠陣芙美は怒るかもしれない……しかし、作為性はない、と咎められたら言おう。悔いない時間を送ろうとしただけだ、と。他意はない。
少しずつ変化が起こったら、その変化が拡大していって……。芙美はなんと言ったっけ。蝶々の羽ばたきが、小さな変化の積み重ねで地球の裏側で嵐を引き起こす……バタフライエフェクトと言っていた。
もし、それが本当なら、過去の小さなできごとの変化の積み重ねで、大介が元気なままでいてくれる未来という状況も生まれるかもしれないではないか。
そう考えた瞬間、香菜子の頭の中で眩いばかりの電灯がついたような気分になっていた。
気になるのは芙美とかわした約束に触れはしないかということだ。芙美が口にしたことがいくつも思い出される。
亡くなった人と会うために、デイ・トリッパーを使うこと。そう。大介と過ごすことが私の目的だ。ついでに、温泉に行くのは仕方ないことではないか。
死期についても、大介に話してはいけない。その言葉は、これからも守るつもりでいる。
そう、自分に言い聞かせると、随分気持ちが楽になった。厳密に判定すれば、香菜子が考えていることは、いずれも自分に都合のよい解釈ばかりなのだが。もともと、香菜子は自分では気がついていないが、そんな考え方のできる性格なのだ。しかしながら、大切なものを失くしたときは絶望の悪循環に陥ってしまい立ち直れなくなってしまうのだ。大介が逝ってしまってからの喪失状態がまさにそれだった。しかし、このときは、そんな喪失状態からは遠い。しかも、香菜子にとっては希望に繫がる発想なのだ。自分が思いついた発想に欠点があったとしても、どんな論理の矛盾があるかということまでは深く考えない。そんな発想にたどり着けた香菜子は、そのことだけで十分に満足だった。
「よかった」と思わず口にしてしまったほどだ。まだ、何の裏づけもないというのに。
それでも、香菜子の心の隅にあった不安感を消す効果があったようだ。
自分でも気がつかないうちに、ソファの上にへたりこむように眠り込んでしまっていた。クーラーをつけていたという心地よさもあったかもしれないが、それでも、はっと目を覚ましたのが、午後四時を回っていたのは、完全に熟睡していたということだろう。泥のように、夢も見ないで眠るというのは、香菜子自身でも珍しいことだ。
買い物にも行っていない。夕食の献立ても何も考えていなかったことに気がついた。あわてて冷蔵庫を確認した。野菜サラダ、オムレツ、麸とアオサの味噌汁、ハタハタの一夜干し。冷蔵庫の中にあるものだけで、何か準備できそうだ、という結論になり胸を撫でおろした。
夕食の準備をしながら、買物にも行かなかったことを心の中で謝っていた。だが一所懸命に作ることで、それは償えるはずだ。心のこもった美味しいものを大介にはご馳走できると。
その日も、大介はいつもの時間に帰宅した。
食卓について、二人はビールを注ぎあって「お疲れさまでした」「いただきます」で最初の一杯を飲み干す。それから、まず大介はオムレツに箸をつけた。
「うん。美味しい」と頷く。香菜子のオムレツはたまねぎとひき肉の入ったマッシュポテトを半熟の玉子で包み込んだものだ。香菜子なりに、工夫して作ったものだけに、大介に褒められると、嬉しくて仕方がない。
「美味しいと言ってくれて、ありがとう」と素直に礼を言う。
「いや、本当に美味しいから」
「そう?」
すると、大介は箸を止めた。それから、じっと香菜子の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」と大介が尋ねてきた。逆に香菜子のほうが焦ってしまう。
何か、変なことを言ってしまったのだろうか? 自分が言うべきではない未来のことを何か口にしたのだろうか?
「いや。気のせいか、わからないけれど、今日は、香菜ちゃん、何かいいことがあったの?」
「えっ。どうして?」
予想外なことを大介が言う。何故なのだろう。
「いや。さっきから、話していて思うんだけれど、出がけに話したときよりも、何だか、すっきりした印象なんだよ。何か、いいことがあったのかな、と。宝くじが当たった! とか」
香菜子は、そう思われた理由をあわてて考えてみる。さっきまで、昼寝で熟睡していたから、すっきりしたということなのか? いや。午睡の前に考えたこと。
ひょっとして、大介の不幸を止められるのではないか、という可能性を思いついたこと。
「宝くじは当たっていないわ」と答えた。
「それは残念」
「そんなに、すっきりしてるように見えるの?」
「ああ……」
すかさず、香菜子は大介のコップにビールを注ぎ足す。
「毎日、大介の顔を見られることに感謝しているの」
以前だったら、照れて口にできなかったかもと思いつつ、正直に伝える。大介のほうが照れくさそうに、ぼりぼりと首を描く。
「そうなんだ。でも、ホントにいい顔になっていたな、と思ったから。あ、いや。今も、その、いい顔、続いているよ」
大介と一緒で本当に良かった、と香菜子は思った。そして、どのタイミングで話題にしようかと思っていたことが、素直に言葉になって出た。
「ねえ。大介。ちょっと、尋ねておきたいことがあるけれど、いいかな?」
そう香菜子が言うと、大介は、コップを置き、背筋を伸ばした。笑い顔が急に真顔に変化した。香菜子の目を凝視する。
「はい。なんだろう」
それが、大介の真面目なところなのだ。そう構えられると、話しづらくなってしまう。
「ほら、私たちが結婚する前に話していたこと覚えている?」
「いろんな話をしたからなあ。どんな話をしたっけ? あっ、ごめん。だいたいは覚えているつもりだよ。なんか、約束したままで、約束を果たしていないことがあるのかな? それとも、ぼくが、なにか契約違反をやったとか? 思い当たらないんだけれど」
逆に、そう問い返されて香菜子のほうがあわててしまった。
「そんなことじゃなくて。大介は、何も約束を破ったりしていないわ。尋ねておきたいことがあっただけ」
大介の肩が劇的に、すとんと落ちた。安心したのだろう。
「尋ねたいって? 何を?」
「ほら、私たち、子どもをいつ頃作ろうかって、話をしたじゃない。それで、数年は子どもはいらないよね、って言ってたじゃない」
そう言いながら、香菜子は喉がカラカラに渇いていくのがわかった。大介は口を挟まずに頷きながら聞いている。
「ああ。覚えている。その話のこと。でも、それを言いだしたのは香菜ちゃんのほうからだったよ」
 

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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