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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第7回

2015.07.15 更新

数日間は、香菜子は、静かに暮らすことに専念した。
機敷埜風天との予期せぬ出会い、そしてデパートで探した、未来で香菜子に買い求められることになる文箱との再会。そのいずれもが香菜子にとって気分を落ち込ませる出来事になってしまったのだ。
結果的に、行かなければよかったという悔いだけが残っている。そうすると、芙美との約束がよみがえってくる。
亡くなった人と会うこと以外の目的を持ってはならない、と。バタフライ・エフェクトを引き起こすから、と。
これまでは、慎重に行動してきたつもりだ。機敷埜風天と会ってしまったことも文箱のことも。タイム・パラドックスを発生させる意図など香菜子には毛頭ない。しかし、この気持ちの落ち込みは、過去に覚えのない行動をした結果ではないか。であるのならば、今、やるべきことは、いかに大介と一緒の時間を悔いなく過ごすことに意識を集中することだ。
温泉に行く予定も大介は決めてくれた。どんな宿なのかは大介が予約したのでわからない。大介が言おうとするのを「当日まで言わなくていいから。サプライズにして!」と言ったのは香菜子のほうだ。
香菜子は、それを楽しみに日々を過ごそうと考えた。そうすれば、芙美との約束にそむくことにはならないのではないか、と。
朝は、大介より一時間早く五時半に起きて、朝食と弁当を準備した。
「毎日、弁当を用意してくれるのはとても嬉しいけれど、香菜ちゃんの負担にならないかな。作らない曜日を決めて手を抜いてもいいよ。そのときは外食するから」と大介は言ってくれた。そんなとき香菜子は大介のやさしさを実感する。
朝食は、必ず一緒に食べた。そして、できるだけ大介と言葉を交わした。話の中味はなんでもよかった。その日の天気がどうなりそう、だとか、近所で気がついた季節の変化についてで十分だった。秋の七草って言える? とか。それが気持ちを通わせあう大事な時間だと思ったからだ。
以前はどうだったろう。寝坊して、出勤しようとする大介に弁当を渡すのがやっとだったり、大介が食事をしているときにゴミを外に出しに行っていたりすることもあった。しかし、今は二人で過ごす時間がどれほど貴重なのかを知っている。昔は、それを知らなかったのだ。当たり前の時間だとばかり思っていた。限りあるものだと考えていなかった。明日が来て、そのまた明日が来て、ずっと永遠に続くと思っていたからだ。
だけど、今はそうではないことを知っている。だから悔いのないように過ごしているつもりだ。
一日の予定を大介はこの朝の時間に話してくれるようにもなった。香菜子は、ウン、ウンとにこにこしながら頷くことにしている。専門的な用語があるから内容は正確にはわからないが、それでも大介が一所懸命に話してくれようとする様子が好きだ。それで自分のいない世界で大介が一日どのように過ごしているのか、わかったような気になれる。時々理解できないときに、質問する代わりに、空想の羽を広げてぼんやりしている自分に気がついたりもした。それは、こんな空想だ。自分が身代わりになって大介を救うことができたら。それで、自分が大介を置いて逝ってしまったとしたならば。
それでもいいじゃないか。大介が助かってくれるなら、それでいい。
そうしたら、大介は毎朝、香菜子の位牌の前に座ってその日の予定をお経の代わりに言ってくれる。
そうだったら、どれほど素晴らしいだろうかと。
話し続ける大介に、香菜子の意識が戻る。
テレビはつけない。大介との会話に集中したかったから。
そして、もう一つ理由がある。
この時間帯のテレビはニュースが多い。
一度、失敗したことがある。
アフリカでのエボラ出血熱の流行が報じられていた。感染の拡大が続いていて、テレビではその病の恐ろしさを伝えていた。完全な治療法は不明のままだ。
「どのくらいこの病気は広がるんだろうね。日本で発生したらパニックになるかもしれないな」
テレビを見ていた大介が不安そうに言った。
「念のために香菜ちゃんも外出したら、帰ってすぐにうがいと手洗いね」
香菜子は何の気なしに、うっかり答えた。「大丈夫。日本には入ってこないから。それよりもMERSというのが韓国で流行ったりするのよ」
大介はきょとんとした顔で香菜子を見た。しまったと思った。次の日からテレビをつけるのはやめた。
香菜子は、そんな朝の儀式を終えて、大介を玄関まで送る。そしてそのまま出ていこうとする大介に「ねえ、忘れもの」。
肩をすくめて振り返る大介は、忘れものが何なのかをちゃんと知っている。
香菜子が唇を尖らせてみせると、大介はそこに軽くキスすると照れくさそうに苦笑いを浮かべドアを開ける。
「気持ちがこもってなかったよ。マイナス5点」
「あはは。行ってくるよ。帰ってからマイナスは補うから」
一人残った香菜子は、食卓の椅子にぺたりと腰かけ、大きく伸びをした。
これから夕方まで、また大介がいない世界を過ごさなくてはならないという脱力感に襲われたからだ。
しばらくぼんやりしたあと、やっと立ち上り、朝食の後片付けと洗濯掃除をすませた。九時過ぎには、すべての家事を終えたことになる。ソファに座ってしまうと、そのまま夕方を迎えそうな気がして部屋の中をゆっくり歩く。大介の本棚が目に留まる。大介の愛読書だ。思わず手が伸びていた。
大介の本棚から、未読だった文庫本を選び読み始めた。静かに暮らすのであれば読書だろうと、でたらめに選んだ本だ。
大介が亡くなった後は、とても本を読む余裕はなく、いつか読みたいと思ったものの手に取ることもなかった。またいつか本を読んでみようという気持ちを取り戻すことができるだろうか?
そう思ったのを覚えている。
香菜子が本を読むときは、たいていエッセイが多い。ところが、大介が読んでいるのは翻訳もののSFやミステリーが多い。そういった本は自分は苦手だとういう思い込みがあった。
書かれている情景が、うまくイメージできない。登場人物がカタカナで、なかなか馴染めない。
大介は、根っからそんな本に抵抗がないようで、不思議だ、と香菜子は思っていた。
香菜子が選んだのはミステリーだ。最初にSFを手にしてみたのだが、裏表紙に書かれた「<恨界>と呼ばれるヴァーチャルワールドに潜んでいた異形軍団が、新たに確立された数式理論・混沌集束仮説を用いたコンピューターを介して世界中に同時侵略を開始しようとしていた……」という内容紹介を読んだ途端に読む気が失せてしまった。だから、ミステリーにしてみた。今度は裏表紙の紹介は読まずに、最初から本文に入った。今度は、いけるかもしれない、と思った。一人称の、わたしで始まるからだ。ひたすら集中して読み始めた。三ページまで読み、すぐに殺人とおぼしき不審死をとげた人物が現れた。それも、主人公である“わたし”の庭でのことだった。すぐに警察に通報すると、巡査と刑事が現れ、わたしの妻はパニックをおこし、わたしの同居している父は警察の対応に怒り狂い、わたしの娘は黙って家を抜け出し夜遊び中ということが判明した。近所の粉挽きババアまで野次馬で現れて、すでにカタカナの名前が六名もならんで、香菜子の頭の中はパンクしそうになっていた。それでも必死に集中して読み続けていたが七ページに至り、自分がそのとき他のことを考えていることに気がついた。それまでの物語の流れがまったく掴めていない。四ページまで遡って読みなおそうか、と思ったが、それも無駄なことのような気がして、本を書棚に戻してしまった。
大介の読書傾向と自分の読書傾向は根本的に違うのだ、と実感した。
テレビもつける気になれなかった。
外は陽が射している。晩夏だが、これから気温は急上昇していくだろう。外が過ごしやすいのはこの時間までだろうな。香菜子はそう思った。
このタイミングを逃せば、残りの時間はクーラーをきかせたこの部屋でずっと過ごさなくてはならないだろうな、と思う。とすれば今のうちに外の空気を吸っておくべきではないか。
そんな結論に達してからの香菜子の行動は速かった。すばやく髪をととのえ、日焼け止めだけを塗ると帽子をかぶり、サンダルをつっかけただけでエレベーターに飛び乗った。
香菜子たちが住んでいるマンションは棟が三つあり、三角形をなすように建てられていた。そして、三つの棟に囲まれた空間がパティオ(中庭)になっていた。ベンチが六つ。そして花壇、小さな砂場と噴水のついた水場があった。季節によっては、風がここで渦巻いたりもするのだが、この日は穏やかだろうと香菜子は思ったのだ。どの時間もいずれかの棟が日陰を作ってくれるから直射日光を浴びる心配はなかった。おかげで風も涼しく感じられる。
暑くなるまで、香菜子はここで時間を潰そうと思った。
このパティオをマンションの住民があまり利用していることはないというのが香菜子の印象だった。マンションの住民は自分の部屋と棟の外側にある立体駐車場は利用してもパティオまでは足を伸ばさないようだった。
パティオに出て、香菜子は大きく二度深呼吸をした。やはり、パティオは無人だった。
柳の木がシンボルツリーとして植えられている。その近くのベンチに香菜子は腰を下ろした。
部屋の中にいては味わうことのできない柔らかな風が香菜子の頬を撫ぜていく。香菜子はさっきページを閉じた文庫本を持ってこなかったことを少し後悔していた。この涼し気な環境でならば、気分も入れ替わってさっきの続きを読んでみようという気になれたかもしれない、と。
だからといって心地よい風にあたっていると、わざわざ部屋に本を取りに戻る気にはなれなかった。
風を受けて、ぼんやりとしていた。久々に頭の中が空っぽにすることができた気がした。
目を閉じていた。早く夕方になあれ。そう無意識に呟いていることに気がつく。
そのまま、どれだけの時を過ごしたのだろうか? 長い時間だったような気もするし、意識がなくなっていたのは数分間だけだったのかもしれない。
はしゃいだ声が耳に届いた。
香菜子は、はっと我に返り目を開いた。
誰だろう?
大きな麦藁帽子をかぶり、ピンクの半袖シャツを着たよちよち歩きの幼児の声だった。歩き始めてどれだけも経たないのだろう。その手を引いている子は三歳か四歳くらい。
「あわてたら、こてんしますよ。ゆっくりだよ。あーちゃん。ゆっくりだよ」
姉妹だな、と香菜子は思って身を起こした。
こんな幼い二人だけで大丈夫なのだろうか、と香菜子は心配になって腰を浮かせかけた。
親はどこにいるのだろう。
あまりにも無責任ではないか。もし、事故でも起こったらどうするのだろう。それとも、いつもこの姉妹は、こんなふうにパティオで遊んでいるというのか?
姉のほうが、香菜子のほうを向いて頭を下げて「おはようございます」と礼儀正しく挨拶をした。ということは、ちゃんとした躾がされている家庭の子かもしれないな、と思う。
挨拶を予期していなかったから、香菜子は虚を突かれたような気持ちになった。だから、あわててぎこちなく「お、おはよう」と返すのが精一杯だった。
姉のほうは立ち止まって目を細め、笑顔を見せた。そして「お姉さん、ここの人?」と尋ねてきた。まさか、この幼い子にお姉さんと呼ばれるとは。
「私は、ここに住んでいるの。お姉さんだなんて恥ずかしいわ」
「じゃあ、なんて言えばいいの? 私はゆいなというのよ。だからゆーちゃん。あっちゃんはあいなだからあっちゃんなのよ」
ゆーちゃんは、はきはきとそう告げた。それから、香菜子が自分の名前を告げるのを待っている。
「あっ。私は香菜子というのよ。だから、香菜ちゃんかな」
そう答えた。いつも、大介は香菜子のことを香菜ちゃんと呼ぶ。だから、そんな呼び名がスムーズに出てきた。
「じゃ、香菜ちゃんでいいの?」
「ええ。それでいいわ」
ゆーちゃんは香菜子の答えに納得したようだ。ゆーちゃんは、頷いて言った。
「本当はね。パパもママも知らない人とは話してはいけないって言ってるの。でもね、香菜ちゃんは悪い人じゃないってすぐにわかったよ。だからお名前きいたんだ。香菜ちゃんは、お友だちがいないの? ひとりぼっちだったから」
そんなふうに子どもの目からは見えるのだろうか。
「お友だちはいるわよ。この近くにはいないけれど」
「そうか。じゃあ、私がお友だちになってあげようか?」
ゆーちゃんは、けっこう積極的な子のようだなと思う。自分の幼い頃がどうだったのかは記憶していないが、この頃から何度も性格は変わっていったのかもしれない。自分も、幼い頃は人見知りなどしなかったのかもしれない。しかし、小学校の頃になると、積極的に男子と話すことはしなくなった。ゆーちゃんの性格も、これから変わっていくのかもしれない。どんな子になるのだろう。
「ありがとう」と香菜子が答えるとゆーちゃんは右手の小指を差し出してきた。「約束よー」と。指切りげんまんということのようだった。
そのときあらためて香菜子は二人の女の子を可愛いと思った。二人とも帽子の下は、おかっぱの髪。そしてくるくる動く大きな瞳。
妹のあっちゃんがゆーちゃんの手を引っ張る。「ねーたん。ねーたん」と。どうも、砂場へ行きたいらしい。
「わかった。あっちゃん、行くよ」とゆーちゃんが妹をあやす。
「ねえ。ここで二人だけで遊ぶの? ママはいないの?」思わず、そう尋ねた。
「パパとママはお仕事。ばっばが一緒だよ。もうすぐ来るよ」
ゆーちゃんがそう答えたとき、同時だった。幼い姉妹が現れた棟から、身体の小さな老女がぱたぱたと出てきた。
「やあ、やっと追いつけた。ゆーちゃんもあっちゃんも足が速いんだから。もう、ばっばは息がはあはあ言っているよ」
そんな老女にゆーちゃんは「ばっばが足遅いからだよ。ゆーちゃんはふつーだよ」と口を尖らせてみせる。それから「私があっちゃんと遊んであげるから、ばっば休んでて」と妹がしゃがみこんでいる砂場へと駈けていった。
老女は、香菜子の存在に気が付き「こんにちは。お隣いいですか?」とベンチに腰を下ろした。香菜子はその老女とは初めて顔を合わせる。
「こちらのマンションにお住まいですか?」と老女のほうから尋ねてきた。
「え、ええ。お子さん。お孫さんたちですか」と香菜子も尋ねる。
「ええ。そうです。息子夫婦が共稼ぎで、昼は私が孫たちの世話をしているんです」
この近くに保育園があるのだが、入園できずに空き待ちをしているという。「別に保育園に入らなくても、私はいいんですよ。私も、孫たちと一緒にいられて楽しいし」
このマンションで暮らすようになって、四カ月だと老女は言った。
「それまで田舎のほうにいたんです。三年前に主人が亡くなりましてね。それで一人暮らししていたんですが、息子が一緒に暮らそうと言ってくれてね。それで、息子に甘えてこちらに来たんですよ」
老女の夫は十年前に倒れて七年間闘病していたのだと香菜子が尋ねもしないのに言った。麻痺があって、言葉もうまく話せなかったらしい。息子は長い看病を続けてきた自分に「父さん寿命だったんだよ。母さん、よく頑張ったよ」と言ってくれたけれど、決して寿命だったとは思わないと言った。それから一人暮らしになったけれど、お父さんがいない自分は淋しくて淋しくて、と。その気持ちは、香菜子にも痛いほどわかる。デイ・トリッパーに乗ってこちらに来るまでは、自分も同様だったのだから。
「どんなに身体が言うこと聞かなくなっても、どんなに面倒かけられても生きていてくれるだけでいい、と思いましたよ。一人で、家にいると、ふっと横にお父さんがいるような気になることがあるんですよ。でも、そんなはずはない。お父さんはいないんだってわかると、もうどんなに悲しい気持ちになるか」
香菜子はそれを聞いて自分の身と照らしあわせた。大介と死に別れたのが若いうちだったせいで、これほど悲しいのか、と考えたこともある。年齢を重ねてからであればひょっとしたら悲しみは少なくなるのではないか? と。しかし、この老女の話では、そうではないようだ。年齢を重ねるというのは関係ないと知る。どんなに老いても愛し合った相手を失う悲しみに変わりはない。自分だったら、よりたくさんの思い出を大介と共有することで、より悲しみを増幅させることになるのではないか、という気がしてならなかった。
それでも、この老女は最愛の伴侶を喪失した悲しみから立ち直っているように見える。どのようにしたのだろう。三年という月日が流れたことで悲しみが癒されたのだろうか?
「もう悲しみを克服なさったのですか?」
香菜子が問いかけると、老女は首を大きく横に振った。
「悲しみがなくなるということはありませんよ。でも、お父さんのいいところばかりを最近は思い出せるようになってきたのよ」
そういうものか、と香菜子は思い、頷いた。
「あらあら、不思議ね。初めてお会いしたあなたに、こんな辛気臭い話ばかりしてしまって。ごめんなさいね」
「いえ。いいんです。すてきな旦那さんだったんですね」
「そうなの? あなたは聞き上手でいらっしゃるのねえ。だから、普段は口にしないことをべらべらとお喋りしてしまったのかもねえ」
ひょっとしたら老女は香菜子に自分との夫を亡くしたという共通点を見抜いてしまったのかもしれない。 そんなことを、ぼんやり想像してしまった。
「でもね。お父さんが逝ってしまって、ああ良かったと思うことが一つだけあるの」

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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