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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第5回

2015.05.15 更新

大介は驚いたように目を開いて、香菜子をまじまじと見つめた。
香菜子は何か間違ってしまったのだろうかと、一瞬怯んだ。いや、そんなことはない。二人で温泉に行きたいというのは、大介自身が望んでいたことだ。
あのメモを文箱で見つけたときからずっと、香菜子もそのことを忘れたことはなかった。私だって、大介と温泉に泊まりに行きたかった。結婚以来、新婚旅行へも満足に行っていないのだ。なのに、いつも仕事に追われている様子の大介には、そんな願いを口にしそびれてしまっていた。あのメモを見ていなければ、ここで口にすることもなかっただろう。
「びっくりした」と大介は言った。「一緒に暮らしていると、夫婦は似てくると言うけれど、まさかここまで考えることが似てくるとは思っていなかった。今も……っていうか、この間からずっと、そんなことをぼんやり考えていたんだ。香菜ちゃんのほうから温泉の話が出たから、本当に驚いた」
香菜子は、どう答えるべきなのかわからず、ただ何度も頷いた。
大介は驚いてはいるが、香菜子からそのような申し出があったことが嬉しくてたまらないという様子だ。
それから、大介が言った。
「うん。必ず行こう。今は仕事が詰まっているけど、もうすぐ目処がつくと思うんだ。それから香菜ちゃんに話そうと思っていた。あと、一週間ぐらいで見えてくるんじゃないかと思う。そのあとくわしい計画を立てようよ。何泊もは無理だけれど、それまでに香菜ちゃんが行ってみたい宿とかをリストアップしてさ。でも、人気のある宿なんかは、随分早くから予約しておかないと、無理なのかなあ」
香菜子は、大介のそんな気遣いが嬉しかった。温泉旅行に大介と行ける。それだけでわくわくする。豪華で有名な宿などでなくてもかまわない。
「大丈夫よ。人気の宿でなくても。仕事が一段落しそうになったら教えて。一緒に考えましょう」
「うん、約束するよ」
大介は指切りする代わりに、ジョッキの残りのビールを一息にくいと飲み干してみせた。それが彼には約束の証のつもりだったらしい。そして空のジョッキを「ほら」とかざしてみせた。これで約束完了というように。
その様子があまりにもおかしくて、香菜子は吹き出してしまった。
大介もそんな香菜子につられて笑う。
香菜子は思わず大介の顔に見とれた。私は、なんと素敵な人と結ばれたのだろう。大介は目も輝いている。笑顔も魅力的だ。
「なにを、ぼーっとしてるの」
そう、大介が言った。
「いや、あんまり大介が素敵だから」と正直に言った。
「いや、いや、いや。また、また、また」
何度言われてもそんな言葉をかけられると、大介は照れてしまうらしい。「ホント今日の香菜ちゃんは」と言って大介は左手を伸ばし、香菜子の肩をやさしく叩いてくれた。
「だから、カウンター席は好きよ」
そう言いながら、香菜子は自分のすべてが幸福に包まれているのを感じていた。
だからこそ、空腹に飲んだビールが急速にまわってきたのかもしれない。
そのあたりから、何が現実で何が夢なのかの境がわからなくなったような気がする。大介に肩を支えられて歩きながら、何か歌も唄った。大介の手の温かみを感じながら、足がふらついた瞬間に、これこそが幸福なのだ、と香菜子は思っていた。
しかし、何かが不安だ。大介が消えてしまうのではないか、という不安? そんな夢を見ていたような気がする。そんな悪い夢を吹き飛ばすためには、二人で温泉へ行かなくては、と脈絡なく考える。
「大介ぇ。温泉行こうね。約束だよ」
「ああ。ちゃんと覚えているよ。約束したじゃないか」と大介が耳元で囁くように答えてくれる。
これが現実なのだ。悪い夢を見ても、しばらくしたらすぐに忘れてしまえる。
「香菜ちゃん、大丈夫かい。今日は、えらく弱いな」
「大丈夫。大丈夫。大介ぇ。大好きだよ。いつまでも元気でいてねぇ」

香菜子が、目を醒ましたのは、大介の声でだった。
「じゃあ、行ってくるから」
目を開き、あわてて身を起こすと、蝉の鳴き声がうるさかった。白いシャツの大介が覗き込むように香菜子を見ていた。
「あ。ごめんなさい。寝過ごしてしまって。すぐに用意するから」
「大丈夫だよ。自分で用意したから。トーストとコーヒーだから、自分でできるさ」
それから、右手を差し出し、まるで香菜子と握手するように手を握ってくれた。「じゃ」と大介は寝室を出ていく。
あわてて起き上がったが、大介が出ていく気配に、玄関のドアが閉まる音が続いた。
大介にとってはいつも通りの朝の行動に過ぎないのだろう。どうせ夕方に仕事を終えて帰ってきたら香菜子に会えると思っているのだろう。
いつも通りの大介だ。現実の大介だ。しかし、香菜子の記憶の中に何か重なるものがある。これはリプレイの世界だ。この延長で、大介が香菜子の前からいなくなり、悲嘆にくれる日々が始まる。そんな世界から自分は戻ってきた。
これから一年半後に大介は死んでしまう。布団の上に座り込んだ香菜子に、未来にいたときの、どうしようもない記憶が蘇ってきた。
しばらく、香菜子はその考えから抜けだせずに、動けないままでいた。それから、やっと身体を無理に動かした。
そうだ。こんなに思い悩むために戻ってきたのではない。大介と一緒に過ごして悔いを残さないように、あの人が戻してくれたのではないか。めそめそとしているだけでは、過去へ戻ってきた意味がない。
立ち上がって台所へ行く。胸が少しむかつく。頭の右が痛い。宿(ふつか)酔いだということがわかった。
香菜子は、専業主婦だ。子どもがいない間は、自分も勤めに出ようかと考えていたのだが、家庭を守ってほしいとは大介の希望だった。「香菜子は家庭を守る。ぼくは香菜子を守る」というのが、結婚前からの大介の言い分だった。香菜子には大介の世話にしばらく集中してほしい、とも言った。大介にはそれだけの収入もあったから、香菜子は黙って大介の希望に従った。いつ子どもができてもいいように。そんな大介の言葉も聞いたことがあったような気がする。
大事にしなければいけない、という気持ちが湧き上がってくる。大介のことを。そして大介と一緒にいる時間を。
本当は、頭が痛くて動きたくない。でも、時間がもったいない。自分は、大介がいる時間をあれだけ望み、願い、大介がいる時間にいるのだから。大介のために何ができるのか考えて過ごさなくてはならない。
頭が痛いくらい、なんだ! と言い聞かせた。
それから、香菜子が驚いたこと。
自分の身体が、大介との日々の暮らしのプログラムを記憶している。洗濯機を回す。ゴミを出す。部屋に掃除機をかける。バスルームを洗う。すべてが一連の動作になっている。掃除機を動かしながら、自動的に頭の中で夕食の献立を検討している自分に気がついて驚いた。
お昼前には室内の家事はすべて終えていた。同時に、ありがたいことに、朝から感じていた頭痛が噓のように鎮まっていた。
それから、いつもならば夕食のための買物だ。そのときも、行動は考えたものではない。身体が動くのが先だ。バッグを握って、外へと出る。
正直、何を夕食に作るかという結論には至っていない。ただ、身体が動くままにゆだねてみようと思った。そうすれば、かつての自分の日常の行動が明確に再現される。そんな考えだった。
バスで二駅のところに商店街がある。香菜子はバスを使わずに、その間を歩いてみるつもりだった。夏の暑い陽射しの下だが、ずっと自分は外に出ないでふさぎ込んでいたという気がする。
歩いていれば、何か発想が湧くかもしれない。今、自分は何をすべきなのか、ということの答えが得られるかもしれない。
香菜子は日傘をさしてひたすら歩く。本当なら夕食のメニューをイメージしながら歩くべきところなのだが、別のことばかり思い描いてしまう。だから、バス停二区間を歩いたというのに歩いた気がほとんどしないくらいだ。
まだ余裕がある。今は、与えられた幸せな機会を享受すべきだ、という考えと、あと一年半しかないはずの大介との生活で、やるべきことをちゃんと考えておかないと、きっと後悔することになる、という考えが交互に浮かび相剋(そうこく)しあっていた。だから、無意識のうちに、表通りの商店街の入口を通り過ぎてしまっていた。
いや、無意識ではなかったのかもしれない。香菜子の潜在意識が、香菜子を誘導したのではないだろうか。
どれだけ歩いたのだろう。汗が首を幾筋も伝うほどだった。そして、ある街角で香菜子は足を止めた。
この場所には来たことがある。
だが、前に来たときと、目の前の建物の様子が違っている。
建物は違っていても、周囲の風景には見覚えがあるのだ。広い道路の割には交通量は少ない。そして、街路樹が続いている。住宅街だ。だから、商店などは見あたらない。
ここは、カフェだったところだ。
「デイ・トリッパー」という名前の。
しかし、外観は違う。古い洋館風の民家だ。カフェとして営業するにあたって、大がかりに改装されていたのだと香菜子は思った。
大介の生前に、自分はここに足を向けたことはなかった。そして、香菜子の記憶にあるこの建物はカフェだった。
夢なんかじゃない。自分は、大介が死んだ未来から、過去へ戻ってきたのだ。
同時に、確かめずにはいられなくなった。
この建物の中に竺陣芙美は居るのだろうか?
もう、ここでカフェ「デイ・トリッパー」は営業しているだろうか?
そんな疑問が、当然湧いてきた。香菜子は吸い寄せられるように、その建物に近づいていく。
そういえば、このあたりがカフェの入口だったと思える位置に香菜子は立つ。
記憶の中のカフェ「デイ・トリッパー」は、道路際に店名の立て看板があった。しかし、今はそんなものはない。ドアは色付きのガラスだった気がするのだが、目の前にあるのは渋い木製のものだ。
ドアの横には表札があった。
表札には<機敷埜>とある。
竺陣では、ない。芙美は確か竺陣だったはずだが。
ということは、まだ芙美はカフェを開店させていないということだろう。
そして、香菜子は思いあたった。この家は芙美の伯父の住まいだったのではなかったか。
伯父の名前というのが、奇妙な響きのものだったから、香菜子は表札の字面を見て思いだした。確かに、機敷埜という名前だった。
そう思いあたる。
芙美はまだここにはいないということだろうか。
いや、伯父が発明した遡時誘導機ができあがってすぐの頃から、芙美は機械の操作を手伝っていたと言っていた。だから、ここがまだカフェになっていないとしても、芙美は伯父のこの家を訪ねてきているかもしれない。
数年後はカフェになる洋館の向こう側には、伯父の研究棟があるはずだ。
無意識に香菜子は門の前で背伸びして、建物の奥のほうをうかがった。だが、死角になっていて、研究棟は見ることができなかった。内部の様子はわからなかったが、今にも中からビートルズの曲が聞こえてくるのではないかという気がしていた。
いや、現実には何も聞こえてはこない。しかし、この時代に跳んでくる前のことは、明白に思いだすことができた。奥の研究棟で香菜子と芙美のどのようなやりとりがあったのかが、まざまざと蘇る。
何故、ここまで、自分が吸い寄せられるように足を向けてしまったのかも、その理由が、今は、はっきりとわかる。
悪夢のような未来が、できればただの悪い夢に過ぎないと確認したかった。デイ・トリッパーというカフェのある建物も実在しなければいいと願っていた。しかし、現実には、いずれカフェ「デイ・トリッパー」に生まれ変わるであろう建物は存在していた。
つまり、香菜子はやはり悲劇が待つ未来からやってきたのだ。ただし、条件をつけられて。タイム・パラドックスを起こしてはならないと。
過去へ跳んだ人間が望むことは、悲劇を回避することではないか。事故を防ぎ大事な人を救う。だが、それはタイム・パラドックスを発生させてしまう。だから、芙美はそんな可能性のある者を誘いはしなかった。
治療法のない病でこの世を去った人にもう一度会わせてやるためだけに、過去へ送り込むというのは、これ以上親切な行為はないように見えて、実は残酷なことなのではないか。
しかも、未来から来たことは封印させられて。
香菜子は、そんな思考が渦巻いていて、正直そのときは視界に何も見えていなかったも同じことだった。
香菜子が我に返ったのは、背後に気配を感じたからだ。
他人が見たら、変に思われる、というのは香菜子にとっては当然の発想だ。近所の人にとって、こちらの家を覗き込んでいる人物ということだけで、十分に不審な行為だ。目立ってはいけない。偶然このあたりを訪れ、道を探しているように演じて立ち去ろう。
それが、咄嗟に香菜子が思いついたことだ。
香菜子は、しきりに変だな、というように頭を振ってみせてドアの前を離れて、振り返った。
感じた気配は気のせいではなかった。
香菜子がやってきた道とは反対の方角から男が近づいてくる。
長髪の胡麻塩頭で、背丈の高い痩せた男だった。
独特の風貌だと香菜子は思った。年齢もよくわからない。牛乳瓶の底をレンズにしたような度の強そうな眼鏡をかけていた。そこは緩やかな上り坂になっているので、ぜいぜい息を切らしながら自転車を押してきている。
六十歳過ぎ。いや、七十歳はすでに超えている。ひょっとすれば八十歳を超えているのかも、とさえ思わせた。
自転車前部の籠には大きな茶封筒がいくつも積まれており、坂道を押してきたために足がふらつきながら香菜子のほうへ近づいてくる。
老人は、香菜子の脇を、「失礼」と頭を下げて通りすぎようとした。
老人の顔は香菜子に向いてはいるものの目は泳いでいるように見えた。
香菜子は、老人の自転車の籠に入っているの茶封筒に、表札と同じ機敷埜と書かれていることに気づいた。同時に、思い出した。芙美の伯父はキシキノ・フーテンという名前であったことを。フーテンとは風天という字をあてるのか。
そのとき、よろけた自転車が香菜子にぶつかりそうになり、老人はあわてて体勢を直した。
そこで初めて香菜子の存在に気がついたように、顔を彼女に向けた。さきほど「失礼」と口にしていたのに、実はやっとこの時点になって認識できたらしい。その証拠に香菜子の顔を見て「おや」と言った。
「お嬢さん。あんたは、どこかで私に会いましたかね?」
そう機敷埜老人は、香菜子に尋ねた。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
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