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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第4回

2015.04.15 更新

芙美は香菜子にヘルメットをかぶせるとカバーを閉めた。
腰を下ろすと部屋中を見渡すことができる。目の前には表示パネルがあり、数字が増減していたりランプが明滅していたりする。もちろん、香菜子には、そのような表示が何を意味するのかわかるはずもない。ただ、手の届く範囲にキーボードやいくつものスイッチのようなものがあるので、デイ・トリッパーは香菜子がいる内部からでも操作することができるのだと想像できた。芙美は壁際の装置を点検しているから、彼女は外部から操作するのだろう。
芙美の声が耳元で聞こえた。
「香菜子さん。聞こえる?」
「はい。聞こえます」
「まだ意識がちゃんとしてるのね。もうしばらく待って。今、香菜子さんの脳波を見ているところだから。ベストの状態になったら跳ばすから」
「はい。目は閉じていたほうがいいですか? 何も考えていないほうがいいですか?」
「どちらでもかまいません。こちらで適切なタイミングを探します。数を数えているのも一つの方法かもしれない。伯父も最初はそうしていたらしいわ」
眠気は感じていなかった。香菜子は言われたとおりに数を数え始めた。時々「本当に時を跳ぶことができるのだろうか?」と疑問が浮かんでくるが、その思考のせいでタイムスリップが失敗しそうであわてて打ち捨てた。

heart

いくつまで数えたのだろう。香菜子はいつのまにか自分が意識を失っていたことに気がついた。眠りから醒めたような感覚だった。
「香菜子。香菜子」
名前を呼ばれた。それも懐かしい人から。
その声を聞いてあわてて身を起こそうとした。ゆらゆらと身体が揺れている。自動車の助手席にいるのがわかる。
そして誰が自分の名を呼んでいたのかがわかった。
大きく息を呑んだ。大介が生きているなんて。
車窓から海が見える。運転しているのは大介だ。
夢を見ているのだろうか? と香菜子は思いながら、反射的に「はい」と答えた。
温かい掌(てのひら)が香菜子の額(ひたい)に触れた。香菜子には、大介の匂いがはっきりわかった。
「ああ、よかった。眠っていて、急に呻(うめ)くような声をあげたから、どうかしたかと思ったよ」
大介が、前を向いたままそう言った。
「うなされたのかな。悪い夢でも見たの?」
そう問われて、香菜子は何が現実なのか、わからなくなった。うたた寝していて悪い夢を見ていたのだろうか? 何だか悲しい出来事に出遭ってしまったような。ああ……大介が死んでしまう……そんな悪い夢を。
「そう。なんだか怖い夢を見ていた」
大介が香菜子の額から手を離す。「そうか。夢でよかった」
大介の匂いが遠くなる。代わりに薄く開いた窓から海の香りが入ってきた。
あ、これは現実だ、と香菜子は思う。なんと最悪な夢だったことか。運転している大介を横目で見る。よかった、夢で。
「でも、うなされるほど怖い夢ってどんな夢だったの? 眠り込んだのは一瞬だったろう? うとうとした間に見た夢なんだよね」
妙に現実感のある夢だった。大介が存在しない夢。大介が死んでしまった夢。
「ううん。夢の中のことだから目が醒めたら何が怖かったのか忘れてしまった」
大介に言うわけにはいかない。あなたが死んでしまった夢、だなんて。そんなことを言われたら、誰だって気持ちいいはずがない。
熱い風が、窓から入ってくる。
「冷房が効かないから、窓は全部閉めちゃって」
ということは、今は夏? と香菜子は首を傾げた。今は何月? 何日? 昨日は何日だった?
思いだせない。
香菜子は愕然とした。
そして、それ以上に愕然としたこと。夢の中の自分がいたのが何月何日だったか、はっきりと思いだせたのだ。
四月十七日の金曜日。
おかしい。現実の自分がいる日付がまったく思いだせないなんて。
それがきっかけになって、記憶の紐がゆるゆると解け始めた。
芙美の顔が浮かんだ。この人は、私をここへ送り込んだ人だ。私は過去へ跳んできたんだ。四月十七日の午後から今へ。流線型の砲弾のような機械に乗り込んで。あの機械を芙美という人は何と呼んでいたっけ。
デイ・トリッパー。
そこまで思いだして理解した。そうだ。未来の自分の心だけが、今の私の身体に跳び込んだのだ。
その未来では、大介が死んでしまっていたから。つらくて、どうしようもなくて、もう一度、大介に会いたくてたまらなかったから。
本当に来ることができたんだ。
もう一度、運転している大介を、香菜子は凝視した。
大介。生きてる。
香菜子の視界が突然ぐにゃぐにゃになった。涙が大量に溢れるのを抑えることができなかった。
涙を隠そうと、香菜子はあわてて大介から顔をそむけて車窓を閉めた。
今日は休日なのだろうか? だって、大介と海の見える場所までドライブに来ているのだから。そしてこの風景には見覚えがある。岬に続いている沿岸道路だ。今は海が助手席側にあって、陽は傾いているということは、もう帰途についているのだろうか?
香菜子は、ぼんやりとそう推理した。同時に今はそんなことはどうでもいい気と思った。大介と一緒にいられる。それだけで世界は完結している。
やっと自分の呼吸が整ってきた気がした。涙も渇いたようだ。もう泣いていたことが悟られることはないだろう。
「ねえ、大介。手を握っていい?」平常心を装って香菜子は尋ねた。彼の手はハンドルで塞がっていた。
「ああ、いいよ」と大介は左手を離し、助手席の香菜子に差し伸べてくれた。その手を香菜子はしっかりと両手で握った。大介の温もりが伝わってくる。
「どうしたんだ。余程怖い夢だったんだね。暑いの? 掌に汗をかいてるじゃないか」
「うん。大丈夫よ」と、香菜子は、大介の手を自分の頰に当てた。前にも運転中の大介の手を取って、こんなことをした記憶があった。大介は、変には思わないはずだ。
「香菜子。もうしばらくしたらカーブが続くから、それまでだよ。安全運転しないと」
「うん、それでいい」と香菜子は答えた。
でも、自動車の運転よりも、もっと注意しなければならないことが他にあるはずよ。唐突にそう思った香菜子は、口に出そうとした言葉をあわてて飲み込んだ。
そう、私はあなたが死んでしまった未来から跳んできたのよ。もう一度、あなたに会いたくて。
どのくらい大介と過ごせるのだろう?
いや、今はいつなのか? 今が何年の何月何日なのか?
どう尋ねれば大介は不思議に思わないかしら。今日は何年の何月何日? そう尋ねるのが一番確実だが、大介は不思議というより奇妙に感じるはずだ。帰宅すれば、わかると思う。新聞を見ればいいし。
ジーンズのポケットに手をやると、何かが触れた。そっと手に取る。携帯電話だった。以前、香菜子が使っていた折り畳み式の古い型のものだ。開いてみた。待受画面に日付と時間が表示されていた。
二年前の七月。ということは……。
あわてて香菜子は計算する。
この一年半後に、大介は急逝することになるのだ。
またしても愕然とした。それだけしか時間が残されていないなんて。
「どうする。家に着くのは六時を過ぎるけど、晩飯の用意はその後だろう。大丈夫かい?」
大介が夕陽を見やり、そう言った。だが、冷蔵庫にどんな食材を買い置きしていたかもまったく思いだせない。本当ならば、大介には「心配しなくていいわ。豪華にはならないかもしれないけれど、少し待ってもらえれば、私が準備するから」と答えてあげたかった。だが、それもできない。大介は口ごもった香菜子のことを気遣ったようだった。
「今夜は外でご飯食べようか。近所の居酒屋はどう? 今日は休みだし、香菜ちゃんもゆっくりしよう。近所ならぼくもお酒飲めるし」
「わあ。嬉しい」と素直に香菜子は喜んだ。
大介はまず何よりも香菜子のことを考えてくれていたことを思いだした。そして大介の「香菜ちゃん」という呼び方も懐かしかった。
そう。何もかもが嬉しい。
大介と香菜子の住むマンションは、横嶋市のはずれにあった。自動車を置いて食事に出かけたときは、もう午後八時を回っていた。あたりはようやく日が暮れて濃紺の空に変わっていた。
居酒屋「酒楽」は、住まいから歩いて十分ほどのバス通りにあった。大介が倒れてから一度も足を運んでいない。だが、この頃はよくこの店に出かけたものだった。値段も手頃だし、メニューも多い。味も悪くなかったからだ。
バス通りへ出るまで、街灯がない場所を抜けることになり、道も暗い。そこで香菜子は大介の腕にぎゅっと摑まった。大介も照れることもなく香菜子を自分のほうに引き寄せてくれた。無言のまま。それだけで大介の心を感じることができる。
こんな場面は前にもあったな、と香菜子は思う。
でも、そのときとは大きな違いがある。
確かに、以前も嬉しかった。幸せを感じていた。しかし、そのときは、この幸せがこれから永遠に続くのだと思っていた。
実はそうではなかったのだ。幸せとは有限なのだと、今は知っている。この一年半後には、幸せはしゃぼん玉のように消えてしまうことを。
思わず、香菜子は大介の腕にさらに強くしがみついた。それは香菜子の衝動としか言いようがない。自分でも抑えきれなかったのだ。
そのとき、大介が口を開いた。
「香菜ちゃん、どうしたの?」
「いや。どうもしない。なんとなく」
芙美に言われたことを、突然降ってきたように思いだしたのだ。
大介には絶対に死期を知らせてはいけない。その約束を守ることで、再び大介に会わせてもらえた。直接、大介に寿命を教えることがなくても、香菜子の行動から疑問を抱かせてしまったら、未来に戻されてしまうのではないか。
「それなら、いいけれど。一瞬どうしたかと思ったよ」
「心配してくれてありがとう。大好きよ、大介」
そう言った。そういえば、自分は一緒にいていつも楽しかったのに、大介に対して好きだということをあまり言っていなかったなと思いだしたのだ。それは言っておくべきことだな、とそのとき思ったからだ。
大介は、ふっと足を止めた。少し驚いたようだった。それから「ありがとう」とだけ、照れ臭そうに言った。
「酒楽」は、休日のためだろうか、客は少なかった。平日は、近くの工場に勤める人々が、一杯ひっかけて帰ろうという溜まり場になっているのだ。この日は、数組の家族連れが奥の小上がりにいるくらいのものだった。
久しぶりに来た、と思って香菜子は見回す。
「何だか珍しそうだね。先週も来たじゃないか」
大介が、そう声をかけた。香菜子はあわてて「んー、どこに座ろうかなと思って」とごまかした。
「今日は、カウンターに座ろうか?」と大介。
「うん。どこでもいいよ」
二人は厨房が見渡せる席に腰を下ろした。
先に注文した生ビールのジョッキが早々と運ばれてきた。二人がジョッキを手に取るまでに、わずかな沈黙があった。香菜子の沈黙は、こうして隣同士で座っていると感情が溢れ出しそうになって、何か話すと泣き出してしまうのではないかという脅えから。そんなことを知らない大介のほうは壁のメニューを眺めまわしていたから。
二人はジョッキを当てて乾杯する。それから、大介は一息に半分ほども飲む。香菜子は、その懐かしい飲み方を眺めながら思わず溜息をついてしまった。
幸福だ。
こんな、なんということのない時間も実は幸福で満たされていたのだと知る。あたりまえの、普通の時間だと思っていた。あたりまえじゃない。なんということもない時間じゃない。
実は、とても貴重な時間だった。今、それがわかる。
大介との時間は、大事に過ごさなくては。
そう思うと、大介の横顔から目が離せなくなる。
「焼きとりを適当にもらおうか。それから酒楽気まぐれサラダと、生麩のバター焼き、あとイワシのフライ。香菜ちゃんは何がいい?」
「とりあえず、それでいいかな。あと冷やっこがあれば」
「よおーし。そんな感じで」と注文した後で大介は、じっと香菜子を見る。
「それで、今日はどうしたの?」と尋ねた。
香菜子は焦ってしまう。どこか変だっただろうか? 大介には、わかるのだろうか? 私が未来から跳んできたことが。
何か、自分では気がつかないミスをしでかしていたりして。
「え? 今日? いつもどおりよ。どうして? 何がどうしたのかって?」
香菜子がそう答えると、大介は首をすくめるような仕草をした。
「気のせいかな。何か、香菜ちゃんがいつもと違う気がするんだ」
大介が、こんなに勘が鋭いとは思っていなかった。
「いつもと違うって……。どんなふうに違うの?」
問い返すと、大介は首をひねる。
「それが、どこがどうとはうまく言えないんだよ。ほとんど、いつもの香菜ちゃんなんだけれど、何かの拍子に、あれっ? と思うくらいの違い」
「嫌な感じだった? 私」
「そんなことないよ。逆に……素敵だなって思ったよ」
「本当に?」
「本当だよ」
香菜子はあまり面と向かって大介から「素敵だな」と言われたことはない。大介は、そんなことは口にしなくても、わかっているだろう、と考えているらしい。照れるのかもしれないし、好きだ、とか素敵だ、とかを軽々しく口にすべきではない、という美学らしきものを持っているように香菜子は感じていた。だから、照れながらではあるが、大介の口からちゃんと「素敵だな」と言われたことが嬉しくてたまらない。
どうして、大介はちゃんと言ってくれたのだろう。
それから気がついた。この居酒屋に来る途中で、今まで言わなかった「大好きよ、大介」と口にしたときの大介の反応。
香菜子は、芙美との約束を思う。「大介に死期を告げてはいけない」。それは守る。
それよりも、もっと大介に言っておくべきだったと後悔していたことがある。「大介のことが大好き」という気持ちを、十分に伝えていなかったのではないだろうか。思い残すことのないように、その思いを彼に伝えるべきだと。
決めた。
そうしよう。
何かの本で読んだことがある。褒めてやった植物はよく育ち、けなしたり罵ったりした植物は、やがて枯れてしまったそうだ。どうもニセ科学ではないかと香菜子には思えていたが、少なくとも褒める言葉は人を前向きにする効果があるかもしれない。それが、ひいては人間の免疫力を高める要因になってくれはしないか。ストレスを受け続けると人は故障を起こす。自信を与え続ければ、逆に大介の健康を守ることにつながるかもしれない。
香菜子は自分の考えにわずかな希望を見出した。
とにかく、今は大介の横にいることだけでも心がウキウキしている。
やっぱり私は大介のことが大好きだ。
香菜子は、ジョッキを置いて大介の左腕を両手で握った。
「ああ、今日は楽しかった。本当に大介と一緒にいられて幸せ」
大介はジョッキを持つ手を止めて、じっと香菜子を凝視していた。驚いたように。
変だったかな? こういうセリフは大介の好みではないのだろうか。
すると、大介は瞬きを繰り返してから、口を開いた。
「それだ。そこだよ、香菜ちゃんが違うところ。今までは、そんなこと言わなかったろう? 何か、違うものが降りてきて憑いたみたいだ」
「そういうことを言うの、嫌い?」
「いや、そういうわけじゃない。慣れないだけさ。香菜ちゃんのことは変わらず好きだよ。でも、どうして急に言えるのかなあ」
そう尋ねられると、どう答えたものか、少し考えてしまう。しかし、変に言い繕ってもおかしいだろう。
「私、昼間、車の中でうとうとしていたときに気がついたの。私は大介のことが大好きなのに、大好きだとちゃんと伝えていなかったって」
「それは、ぼくはちゃんとわかっていたよ。香菜ちゃんの態度で。好いてもらっているんだなって。嫌いだったら、こうして一緒にいたりしないだろう」
あわてて大介が慰めるように言い添える。
「うん、だから私は決めたの。大介のことが好きだと思ったときは好きだと言おうって。素敵だと思ったときもそう言おうって。そうすれば大介はどんなときが自分が素敵かわかるでしょう」
大介は照れたように頷いて、頭を搔く。
「よくわかったよ。嬉しいけど、あまり褒められることに慣れていないからね」
「これから慣れればいいわ」
大介は、会話の余韻に浸っているように沈黙している。満更でもないという表情だった。
そのとき、香菜子は思いだした。文箱で見つけたメモのことを。大介に言ってみよう。喜ぶのではないか?
「ねえ。温泉に泊まりに行きたいなあ」

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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