キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
バックナンバー  1...1920212223 

第23回

2017.01.15 更新

機敷埜老人は、すぐには答えず、じっと香菜子を見た。それから、おもむろに口を開く。
「一回の過去行きでは、ご主人への想いが断ちきれないということですかね。それは、何度試みようとこれで満足したと納得できることはありませんぞ。香菜子さんがご主人を慕っておればおるほど。また、現在に引き戻されたら同じ苦しみを味わうことになる。そうなると、それは地獄の責め苦に等しくなる。何度あなたが過去へ戻ってもご主人を救うことがかなわないまま。無限地獄です。もちろん、過去へ行くことは可能です。でも、同じつらさ悲しさを何度も味わってもいいと言うのですか?」
「はい! 大介の……主人の横にいることができれば……それだけでいい」
「今度は自分の正体をご主人に打ち明けるつもりでいるんですな。運命を変えるために」
香菜子は黙った。 
「それでご主人が助かるとは思えません。まずは、救う治療法を確立させないと。打ち明けてご主人を救えなかったら、どうするんです。運がよければご主人を救えるのではないか? そんな甘い考えでは運命は変わりませんよ。香菜子さんがご主人を救えると信じて行動した結果が、かえってご主人を苦しめることになる可能性もあるということを知っておいたほうがいい。それでも行きたいと言うのですか?」
もちろん行きたい。大介のことが好きだから、もっと一緒にいたい。それは大介のためというより、自分のエゴなのかもしれない。でも、自分の気持ちは欺けない。
「お願いします。主人の前では病のことは口にしません。しかし、私はできる範囲で大介を守りたい。そして大介に会いたい」
機敷埜老人は、そのとき博士の顔に戻っていた。そして大きく頷く。
「私は、香菜子さんに大きな恩がある。だから、あなたがそう望むのであれば、もう一度、過去へ送りましょう。ただし、今回は自動的に送り返されることはないと覚悟してください。今度は、ご主人の死を再体験し、そして現在までを過ごさなくてはなりません」
「そしたら、機敷埜さんを捜します。そしてうまくいくまで、もう一度」
「それは無理です。あなたは最初のデイ・トリッパー使用のときに、必要な薬品を二種類飲まずに跳んでいる。あなたが跳べるのは、せいぜいあと一回。今回、もし使おうとしても、跳べる確率は、50パーセント以下と思ったほうがいい。他にも意識障害の可能性も考えられる」
そこで、機敷埜老人は念を押した。
「それでも行くかね」
「お願いします」
機敷埜老人は、それ以上、香菜子を止めることはなかった。
二人は同時に同じ方向に視線を向けていた。
そこには、カバーに覆われた遡時誘導機があるのだ。それから、二人は顔を見合わせた。
「すぐにでも行きたいのですか?」
心が過去へ跳ぶのに必要な準備は何もないと香菜子は思う。もしも、今回跳んで運命を変えられなければ、大介を救えなければ、二度と過去へ跳ぶチャンスは失われてしまうのだ。だが、そんなリスクは覚悟の上だ。過去へ行かなかった後悔よりも、行ってできなかった後悔のほうがましと思えた。
「はい。すぐにでも」と香菜子は答えた。
機敷埜老人は香菜子の目にも一風変わった人と映るのだが、香菜子の返事を聞いたあとの行動は何の迷いもなく見えた。ただ、遡時誘導機のカバーをはずし、起動させようと準備を続けながらも、機敷埜老人は、複数回過去へ跳ぶことで予測される危険性について呟き続けていた。自分が予測している意識障害だけでなく、思いもよらない身体への影響が起こっても不思議ではない、と。そして、二度目の遡時で、大介その人に矛盾が生じて、より深刻な症状を早く引き起こす可能性もないとは言えない、と。
しかし、どのような危険性があると脅かされようと、香菜子にとっては、もうどうでもいいことだった。それに本当に世界に危機が訪れる規模のことであれば、機敷埜老人はデイ・トリッパーに近寄ることもしなかったはずだ。
そして機敷埜老人は砲弾型のデイ・トリッパーを開き、底部のメインスイッチを入れた。
壁際の装置群も明滅を始める。見覚えのある光景だ。かつて、香菜子が座った椅子が見えた。
あのとき、あの場所に機敷埜老人の代わりに芙美が立っていたことを思い出す。
あのときと同じ薬剤を飲まされるのだろうか?
「じゃあ、やりますか。そこに座って」
機敷埜老人が言う。そして「本当にいいんですね?」と念を押した。
「覚悟はできています」
香菜子は腰を下ろすと、目の前のヘルメットを自分でかぶった。なるほど、慣れているな、というように、機敷埜老人は頷いた。
これから、あの毒々しい色の液体を飲まなければならないのか、と思うと、嫌な気になる。
機敷埜老人がデイ・トリッパーに近づき、カバーを閉めようとする。
「あ」
思わず香菜子は小さく叫んだ。
「どうしたね」
「いえ。薬をまだ飲んでいないんですが」
「ああ。香菜子さんには最初のときは世話になりました。だが、あれは、トリップする者の体質を慣らすためのような役割だとわかった。いわば触媒のようなものだ。だから次回からは不要になる。もっとも、何度も過去行をやるには最初の薬品で必要な成分を飲んでいるかによるのだが。心配ない。落ち着いて、最初のトリップのときのような心もちになっていればいい」
先程、機敷埜老人が言っていたことはそういう意味だったのか、と香菜子は理解した。だが、本当だろうか?
機敷埜老人はカバーを閉じようとする手を一瞬止めて、念押すように言う。
「香菜子さん。私は必要と思われる忠告はすべてしたつもりだ。後悔はないな」
「ありません」
カバーは閉じられた。
「よし、始めるぞ」と機敷埜老人の声が耳元でした。
「お願いします」
「気を楽にして心を落ち着けておればいい」
そう言われるのが逆効果のように思えてならなかった。胸の鼓動が高鳴っていくのがわかるからだ。心を鎮めるどころではなかった。重低音が響くのがわかる。最初の過去跳びのとき、こんな音が聴こえただろうか? 薬剤の効果ですでに意識を失っていたのではなかったか。とても自分には精神集中させる余裕はないようだ。
今度は、過去に行けない。
低い音が、急に聴こえなくなった。同時に全身が軽くなった気がする。いや、自分の肉体が椅子に座っていないのだ。
光が明滅している感覚だけがあった。椅子に座っていないのではなく、自分に肉体がないのだということがわかった。目が光の明滅を見ているのではない。光っていると心が感じているだけだ。
すでに、機敷埜老人の気配は感じなかった。
そして、香菜子は結論づけた。
今、自分は跳んでいる。胸の鼓動も感じていない。時を跳んでいる。
薬も飲まずに。機敷埜老人が予告したとおりに。
思考が混濁していることは自分でもわかった。大介を救わなければ、という思いはもちろんあった。だが、正直なところもう一度大介に会えるという喜びが勝っていた。
これが、時を遡る感覚なのか。そして、もう、時を遡ることはできないのか。

思わず香菜子は目を閉じた。眩しかったからだ。それから、おずおずと目を開く。そして気がつく。自分は再び自分の肉体に還ってきたことを。
過去の肉体だ。まだ、大介が元気な頃の肉体のはず。
居間に座っていた。夕方だった。ドサッと音がして床を見る。雑誌が落ちていた。居間で読書をしている時だったらしい。まだ外は明るい。時計は六時十分を指していた。
立ち上がるとエプロンをしていることに気がつく。夕食の支度をすませたばかりの時だったようだ。そのまま台所へ向かう。レンジの上には鍋があった。弱火でぐつぐつと煮込んでいた。シチューだということがわかった。すぐに思いあたる。大介は、煮込み料理が大好きなのだ。どんなに暑い夏の日であろうと、香菜子がメニューを思い浮かばないときは、煮込み料理を作れば大介は大喜びなのだ。
そして、気づく。デイ・トリッパーで過去へ跳んで着く場所次第ではとんでもない事故を招きかねない、と。香菜子は運転はしないが、もし、運転中の自分に跳んでいたら。料理中に高熱の鍋を扱っている自分に跳んでいたら。大怪我や大火傷を負いかねない。
すでにシチューはできあがったようだ。香菜子は火を止めた。ということは、そろそろ大介が帰宅するということか。
今日は何月何日なのだろう?
壁のカレンダーは九月になっているが、何日かまではわからない。
慌てて、香菜子は食卓の準備をする。興奮してしまったのか、自分の息が少し荒くなっているのに気づいた。
落ち着かなくては。
七時までには大介は帰宅する。大介を迎える時に動揺を見せてはいけない。どうやれば大介を救うことができるのか、ゆっくり考えよう。大介に死期を悟らせるようなことだけはないようにする。ましてや、自分が大介の死後の時間から来たなんて知られないようにしなくては。
スマートフォンがテーブルに置かれていた。九月二十日。六時十一分とあった。
九月二十日か、と思う。
しかし、九月二十日と聞いて、それがどんな日だったのか思い出せない。
ぴんとこないのだ。大介や自分の誕生日などの特別な日であれば、ぼんやりとどう過ごしたかを思い出すだろう。しかし、そうでなければ普通の日として忘れ去ってしまった一日のはずなのだ。
人の記憶というのは、そのようなものなのだと香菜子は思い知る。この日はなんでもない日の一日に過ぎない。でも、なんでもない大介との日々がいかに幸福だったか、ということはわかる。
ドアの開く音がする。
ドアの開く音だけで、それが生きている大介なのだとわかる。なつかしい気配なのだから。「ただいま」
半袖シャツの大介が姿を見せた。
「部屋の中は天国だなあ。なんて暑いんだろう。もう九月も末だというのに、汗だらけだよ!」
大介は屈託のない笑顔を見せた。思わず、香菜子はその胸に飛び込みたくなる衝動をぐっと抑えた。ただ、溢れ出てくる涙だけはどうしようもない。あわてて下を向くしかなかった。
エプロンをはずして、わからないようにそれで涙を拭く。声が裏返らないように、一度咳ばらいしてから「お帰りなさい」と言う。
「もう準備はできてるわよ。シャワー浴びますか?」
「ああ。そうするよ」と、大介は浴室へ消える。水が流れる音が聞こえる。大介は鼻唄を唄っている。機嫌がよさそうだ。
前にも、こんな瞬間があったな、と香菜子は思った。
やはり、大介がいるって素晴らしい。姿がなくても、こうして気配を感じているだけでも心が満たされていくのがわかる。
シャワーを浴びてくれてよかった、と香菜子は思う。あのまま大介が近くにいたら、感情が抑えきれなくなったかもしれない。
何度か、大きく息を吐くと気分が落ち着いた。
頭をタオルで拭きながら短パンをはいた大介がやってきて、テレビをつけた。
「今日はどうだった?」
どう答えるべきか香菜子は迷った。これは二人が根子島へ温泉旅行をした過去なのか、あるいはひょっとしてしなかった過去なのかもわからない。正確な日付もわからないのに。
「んー。普通よ」と曖昧に答えた。
それから、コップとビールを大介の前に置く。そのとき閃いた。
前に、私は私に宛てて手紙を書いている。あの手紙をショルダーバッグに入れた。 
あの手紙はあるのだろうか?
あれば、未来へ引き戻された後の時間。そして、どんな過去を過ごしたかがわかる。
なければ、手紙を書く前の自分に跳んできたということになる。
いつもショルダーバッグがあるフックに今も吊るされている。目の届くところにあるからショルダーバッグの中を選んだのだ。
何気ないふうにシチューをテーブルに置いてからショルダーバッグが吊るされた壁の前に立つ。大介はテレビに目を奪われているようで香菜子に何も言わない。
バッグを開いた。
手紙はない。
ということは手紙を書く前の時間に戻ったということなのか。
「なんか、探しもの?」と大介が缶ビールを開けながら尋ねてきた。
「ん。なんでもないよ」と誤魔化しながら、香菜子はテーブルに戻った。
「大介は今日はどうだった?」と香菜子も尋ねる。大介が缶ビールを差し出した。香菜子はコップに注いでもらう。
「うん。今日、機敷埜さんというお年寄りが仕事場に来たよ」
香菜子は驚きを隠せなかった。コップが缶にあたり、ガチガチと鳴った。
「香菜ちゃん。……今の香菜ちゃんはぼくが死んだ未来からぼくを救おうと思って跳んできたんだね。遡時誘導機、……デイ・トリッパーで」
「機敷埜さんから聞いたの?」
香菜子は、そう答える他はなかった。何をどう繕って言っても噓になってしまう。
「いや、今日は機敷埜さんは別の用事で見えた。あの方は、何度もこの時間まで跳んで、ぼくがかかる病について治療法を調べてくれていたんだ。今日来たのは、彼が予防ワクチンを開発してくれて、それをぼくに接種するために来てくれたんだ」
大介、まるで世間話をするように、コップにビールを注いでいた。
「ぼくも、予防ワクチンをするのは初めてじゃない。二回目なんだ」
香菜子は大介の話を聞きながら、うまく頭の中で大介の話が嚙み合わずにいた。理解できているつもりでも次々に疑問符が沸きあがってくるような気がする。
「二回目ってどういうこと?」
香菜子はあわてて問い返した。
「ぼくは難しい病気にかかって命を落とすはずだったんだよね。その病にかかっても症状を軽減させるワクチンを接種する必要があると聞かされて、去年機敷埜さんにやってもらった。
おかげで何事もなく年を越せた。そんなときに、街で機敷埜老人に再会した。ぼくは、それまでずっと不思議でならなかったんだ。何故、見ず知らずだった機敷埜さんが、ぼくを救うためにワクチンを持って目の前に現れたのか?と。
そしたら、ぼくはその病で死んでいたという世界があったのだ、と知った。機敷埜さんの発明品でぼくを救うために過去に跳んだ香菜ちゃんから頼まれたのだということを聞いた。
香菜ちゃんは、機敷埜さんのことも救ったんだよね。その恩返しだとあの方は言っていたから」
香菜子は言葉を挟むこともできず、ただ、ただ、頷くだけだった。
そのワクチンで、大介が助かる! それだけはわかった。涙がぼろぼろと流れて、止めることはできなかった。
「じゃあ、大丈夫なの? 病気にかからないの?」
「うん。このワクチンのおかげで、二日ほど発熱するけれど、その程度の症状ですぐ治るということさ」
全身から力が抜けていくような気がする。機敷埜老人の顔を香菜子は思い浮かべていた。
「ありがとう。機敷埜博士。本当に大介を救ってくれたのね」と心の中で思う。
「私が今日、過去に着いたのは、わかったの?」
大介は頷く。「いつもとは明らかに様子が違うと思った。機敷埜さんの名を出してみようと思った。出してもいいと思った」
しかし……。ということは。
「そのときに、ぼくは機敷埜さんから遡時誘導機デイ・トリッパーの存在を聞いた。そしてぼくを救うために過去へ跳んだって。その苦労がどんなものか、機敷埜さんからその話を聞いても実感が湧かなかった。だから、ぼくはその場で機敷埜さんに頼んだんだ。ぼくもデイ・トリッパーで過去に送ってほしい、と。そうすれば、ぼくも香菜ちゃんの苦労がわかる、と。香菜ちゃんだけそんなつらい思いをさせるわけにはいかない。大丈夫なんだよ、と安心させてやりたかった。
ぼくが過去に跳んできたのは、二週間ほど前のことだよ。でも、そのときは、香菜ちゃんはまだ未来の香菜ちゃんじゃなかった。最初に跳んできた香菜ちゃんが未来に還った後だと思う。ぼくに、変な手紙がバッグに入っていた、と見せてくれたくらいだからね。気にしなくていいよ、と香菜ちゃんに伝えて、未来から二度目に来るはずの香菜ちゃんを待つことにしたのさ。やっと来たんだね」
だから、バッグの中に自分に宛てた手紙は入っていなかったのか。
でも、よかった。機敷埜老人は約束を果たしてくれたんだ。歴史は、きっといくつも枝分かれしてくれるものなんだ。大介も助かる世界がちゃんと生まれてくれた。
大介が、香菜子の手を握り、そのまま抱き寄せた。
「ぼくのために、本当にがんばってくれたんだね。香菜ちゃんに感謝するよ。本当にありがとう」
もう何も我慢しなくていいんだ。そんな思いで、香菜子は大介にしがみつき、子供のように泣きじゃくり始めた。

(完)

※長い間、ご愛読ありがとうございました。
本連載は2017年5月に単行本化を予定しております。お楽しみに!

バックナンバー  1...1920212223 

著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

ページトップへ