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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第22回

2016.12.15 更新

香菜子は、あんぐりと口を開いた。顎が外れそうになるほど驚いていた。驚いていたのは香菜子だけではない。芙美も予想外のできごとだったということか。顔色が蒼白になっているのが、香菜子の目にもはっきりとわかった。
夢を見ているのではない。機敷埜老人と香菜子は過去世界では顔を合わせている。見紛うこともない。
まさか、機敷埜老人が元気だったとは。過去から出発した時間に引き戻されて、少しずつ現実が変化していることには気がついていた。かつては言葉も交わしていない人たちと顔見知りになっていたり、声をかけられたりというできごとが、その証拠だ。大介が残したメモも微妙に変化している。
だが、香菜子の感覚としては、それほど大きく現実が変化したとは思っていない。ほんのちょっぴり変わったと思っているだけだ。それは、香菜子にとっての優先順位と関係している。トップにあるのは大介の生死。他のことは、ずいぶんと下位にくる。香菜子は気にしない。たいていのことでは驚かない。
しかし、今は違う。死んだとばかり思い込んでいた機敷埜老人が、世の中を超越したような表情で突然香菜子の前に出現したのだから。
永澤は、平然とした様子で機敷埜老人に椅子を勧めていた。永澤という男は、芙美に機敷埜老人の資産を相続してもらえるかと最初に確認していた。それで、てっきり機敷埜老人は死んだものと思い込んでしまったのだ。
「心配したのよ! 伯父さん。何も連絡がなかったから、てっきり、私……」
と芙美が最後は涙声になっていた。芙美も驚かされたことがわかる。そして、どれほど芙美が機敷埜老人のことを慕っていたかも。
「やあ、すまんすまん」と機敷埜老人は肩をすくめ、頭を搔いた。
「そこまで心配してくれていたとは。いや、私もいろんなことを思いついているのでな。それを実現させんといかん。だから後顧の憂いがないように生前贈与を思いたったんだ。私の財産は全部、芙美が引き受けてくれると安心だ。芙美の性格ならすべてを託しても大丈夫だと、私は昔からわかっとる。さあ、永澤くん。私のことは気にせず進めてくれたまえ。気が変わったら、また中途で席を立つかもしれんからの」
「はい。粛々と進めさせていただいておりますから」と、永澤は眉一つ動かさずに答える。もちろん笑みを感じさせない笑顔のまま。
「私に……全財産を贈ったら、伯父さんの生活はこれからどうするんですか?」
芙美は心配そうに問いかける。
「なあに。生活に困ったら、永澤くんに言えば、どれだけでも都合できる手筈になっているよ。有形のものは芙美に渡しても、無形のものでお金を生む方法を永澤くんには伝授してある。今、永澤くんがやっているのもボランティアみたいな仕事ばかりだものな。儲けはこれ以上増やしても意味がないことを知っているから」
それから、機敷埜老人はやっと香菜子に視線を向けた。
そして「こんにちは」と唐突に声をかけた。
「こんにちは」とあわてて香菜子も頭を下げる。
「伯父さん。中川さんのことをご存知なんですか?」と芙美が尋ねると、機敷埜老人は悪戯っぽい表情で、目を大きく開いてみせた。
「ああ。おかげで病気を克服できた。だから、生きながらえてこうして、芙美の前に顔を出すことができた」
「あ」と芙美は納得したように言葉を飲み込んだ。「じゃあ、中川さんの言うとおり、二人は本当に顔見知りだったのですね」
「ああ、これから、中川香菜子さんの所在を私なりに捜すつもりでいた。だから、捜す手間が省けて大助かりだ」
それを聞いた芙美は、香菜子から聞いたことと話が合致することで、腑に落ちたようだった。
「では、笠陣芙美さまが、機敷埜さまの資産の生前贈与をお受けになることが確認できましたので、これから手続きを進めさせていただきます」
永澤が、機敷埜老人にそう宣言すると、老人は大きく頷いた。
「私は、永澤くんを信頼しているから、どんどん進めてくれたまえ。こちらで、中川香菜子さんの所在を調べる手がかりを探しに来るのが、もう一つの大きな目的だったのだよ。今の芙美が中川さんと面識がなくても、いずれ必ず接触があるはずだと読んでいたからね。しかし、ぴったり中川香菜子さんが芙美を訪ねているときに私も出くわすとは、偶然とはいえ、なんという確率だろうね」
「は、はい」と香菜子も頷く。
「さて、私はこの中川香菜子さんと二人だけで話したいことがある。もちろん、かまわんだろう?」
永澤は、書類を持つ手を止め背筋を伸ばして機敷埜老人のほうを向いた。これ以上の敬意をはらいようがないというように。
「もちろんです。私にそのように気を遣われることさえ無用でございます」
機敷埜老人は、安心したよ、とでもいうように大きく頷き、「裏の棟に行くから」と芙美と永澤に伝え、香菜子に目配せをした。さっさと機敷埜老人は外に出る。あわてて香菜子は二人に礼をして、老人の後を追った。
ひょっとしてと香菜子は思う。機敷埜老人が暮らしていたという棟は……。
「少し汚いかもしれないが我慢してくれ」
振り返りもせずに機敷埜老人は大きな鍵で観音開きのドアを開いた。
「はい。大丈夫です」と香菜子は答えた。
懐かしいにおいがした。黴臭さと甘酸っぱさが溶けあったようなにおいだ。芙美に初めてこの棟に入れてもらったときのことを思い出した。
機敷埜老人は、ここの二階で生活していたのではなかったか? デイ・トリッパーに乗る前の芙美から、そう聞かされていた。
左右を見ると、研究書が棚に並んでいる。
「この本は、すべて読まれたのですか?」
最初に、この部屋に入ったときの疑問が素直に口をついて出た。
「ああ。私は読むのが速いんでな。だが、この年齢になると物忘れも激しくなって、捨てるに捨てられん。よく、確認せにゃならんことができてな」
ああ、やはり読破しているのか!と香菜子は舌を巻く。機敷埜老人は、そのまま奥の部屋へと進む。
「デイ・トリッパーのある部屋ですね」と思わず口にする。すると、それまでそそくさと歩いていた機敷埜老人は立ち止まり、振り返って大きく頷く。
「そのとおり。あなたが過去へ跳ぶ時間軸ですでに来ていたという証拠になりますね」と笑顔を見せた。部屋の中は、これまでの黴臭さに加えて機械油のにおいも加わった。
「ちょっとお待ちください」
機敷埜老人がスイッチを入れると室内が明るくなる。月世界に射ち出される砲弾のような形をしたデイ・トリッパーが目に飛び込んできた。
「遡時誘導機……でしたね。正式には」
「そうです。どうぞ、こちらへ。ここなら、誰にも話を邪魔されることはない」
機敷埜老人は、部屋の隅から折り畳み椅子を二脚持ってきた。一つ渡されて香菜子は、それに腰を下ろした。機敷埜老人も、香菜子の真正面に椅子を置いて座る。彼の生真面目さが伝わる。真っ直ぐに香菜子を見つめていた。
数度、まばたきして機敷埜老人は言う。
「一刻も早く、お会いしてお礼を言わなければならんと思いましてな。芙美に聞けばわかるかと思って訪ねてきてみたら、まさかここでお会いできるとは思わなんだ」
「お礼って……。私にですか?」
「そう。デイ・トリッパーが使えるようになったお礼。そして私が命拾いできたお礼。病を早く発見できたのは、あなたのおかげですよ。デイ・トリッパーをあなたの言うとおりの方法で作動させ、自覚症状もない発病前の自分の過去へ跳ぶことができた。だから、最小限の治療で完治できたのですよ。つまりあなたは……、デイ・トリッパーにとっては”発明の母“だ。おまけに、私の命の恩人ということになる」
機敷埜老人は香菜子が過去へ跳んだ時点ではすでに亡くなっていた。そのことをどう伝えればいいのか。香菜子は口ごもる。必死で、香菜子は言葉を探す。
「私は死んでいた。そう言いたいのではないかね?」
香菜子の様子を見て察したのか、機敷埜老人は博士の顔で冷静にそう言った。香菜子は頷くことしかできなかった。だが、その疑問だけは確認しておきたかった。
「一つ伺いたかったのですが」
「おお。なんでも遠慮なく尋ねてください」
機敷埜老人は、またも背筋を伸ばした。
「私が過去へ跳ぶとき、芙美さんから過去のできごとに干渉してはいけないと言われました。伯父さんがそう主張していたから、と。だから、私はできる限りそう努力をしました。もちろん、完全に約束が守れたわけではありませんが。そして、現在に引き戻されたのですが、いろんなことが少しずつ変わっているのがわかります。過去へ跳ぶまで話したことがなかった人と知り合い、現在へ戻っても親しく話すことができる。他にもいろんなことが。一番大きい変化は、機敷埜さんがお元気でいること。
これって、いいんでしょうか?
私が過去へ跳んだことで、これから歴史も本来のできごとからもっともっと大きく変わっていくのではありませんか? これ以上、歴史が変わっていいんでしょうか?」
機敷埜老人は、香菜子が話す間、背筋をぴんと伸ばしていた。しかし、視線は泳ぎ、途中で香菜子はこの人は真剣に聞いているのだろうか、と不安になった。
機敷埜老人は、そこで上を見上げ、右の掌を上げた。香菜子は口を閉じる。
「以前の私なら、そう言ったかもしれませんな。歴史を変えてはいけない。過去のできごとを変化させれば、未来は大きく変わってしまうから、と。しかし、今は時の流れに対しておおらかな考え方に変わりましたよ。実際、私も何度もデイ・トリッパーで過去を体験しましてね」
「ということは歴史を修正できる方法があるのですか?」
そう香菜子が尋ねると機敷埜老人は肩をすくめた。
「そうじゃないんですよ。過去へ跳べばどんなに注意をはらっても歴史に変化が生じます。これは、元の世界の隣に新しい世界ができあがるようなものです。元の世界がなくなったということではなく、新たな世界が次々と生み出されていく。そうなると、どの世界が正しいということはどうでもよくなるのです。そして、どの世界もどの歴史もアリ、そして正しいということになるんですよ。だから、私がデイ・トリッパーが実用化できなかった世界がある横に、未来から来た香菜子さんがデイ・トリッパーを使えるヒントを教えてくれ、私が病から立ち直ることができた世界がある。それが時を超えたときのあたりまえの現象なのだと考えれば、何も思い悩むことはありませんから」
「それでいいんですか?」
「それでいいのです。私が死んだ世界の横に私が助かった世界がある。私の回りにもいくつものほんの少しずつ異なる世界が生まれたとしても、世界の大きさは無限なんですから。どれだけ変化した世界が生まれても、無限はすべてを包み込める。どんなに変化が生じても、かまわない。やっていけないことは何もない。タイム・パラドックスの話は芙美はしましたかね。私がこのような形で遡時誘導機を作ったのも、これがタイム・パラドックスが一番発生しない方法だろうと私が思い込んだからです。
しかし、タイム・パラドックスなんて恐れる必要は何もなかった。矛盾が生じようとすると、時間自身が解決してくれる。何がタイム・パラドックスかパラドックスでないかも時間に意志があるかのように判断してくれる。だから、我々のほうが狭い了見で判断しようとするよりも、流れに任せたほうがよいことがわかったのですよ。起こってはいけないことは絶対に起こらない。目的を達成しようとしても『時間流』が阻止してしまうのですよ。勝手にね」
「それは、どういう例があるんですか?」
「うん。たとえば一番身近な例では、自分が生まれる前の親を殺そうとするとか、ですかね。思いもよらぬことを時の神は許さなかったり、いろいろですよ」
そのとき思い浮かんだのは大介のおもかげだった。
いろいろと機敷埜老人から話を聞いているうちに、もっと大胆に大介を救う手段はとれなかったのだろうか?と思えてくる。香菜子は、芙美の言葉をいつも思い出して脅えるようにして大介を見守っていた。もちろん、大介と一緒にいられることはこのうえない幸福だったが。
機敷埜老人がもっと早く教えてくれれば、いろいろ方法を試せたかもしれないのに。
歴史は少しずつ変わった。だが、一番大きく変わったのは機敷埜老人が元気で存命であることだ。
なのに、何故、大介はいないままなのだろう?
「時間流」がタイム・パラドックスを防ぐこともある、と言っていた。それは過去の事象には変えられるものと変えられないものがある、ということなのか?
機敷埜老人の生命は救えて、大介の死は不可避だというのか? 大介が助かることを時は許してくれなかったのか?
そこで、機敷埜老人が再び口を開く。香菜子は我にかえった。
「質問にはお答えしたが、それでいいかな」
もちろん、香菜子は完全に納得できたわけではないが、ありがとうございます、と答える。
機敷埜老人は続けた。
「それでな、話というのは……」まだ、機敷埜老人は話の本題に入っていなかったのだということがわかる。
「まだ、あなたとの約束を果たしておらん。それが気がかりでな」
「約束……」
「おお。香菜子さんのご主人のことですよ」
機敷埜老人は覚えていてくれたのだ。香菜子のほうこそ、その一点こそが機敷埜老人に尋ねたいことだ。思わずごくりと生唾を飲んだ。商店街のはずれの喫茶店で、香菜子は大介の病気について、できる限り、知っている限りの話をした。
機敷埜老人が医学について門外漢であるということは香菜子にもわかる。しかし、希望を託すとしたら、機敷埜老人しかいなかったのだ。
あやうく、感極まって涙が溢れそうになった。
「はい。覚えています」
そう答えるのが精一杯だった。そして次の機敷埜老人の言葉を待った。
だが、よい報せであれば、すぐに話してくれるはずだ。これほどためらった話し方であれば、期待しないほうがいいのではないか、と香菜子は自分に言い聞かせる。
「あれから、私なりにご主人の病について、勉強もした。非常に珍しい劇症の難病だなあ。罹患して短期間で死に至る。自覚症状を訴えたときはすでに手遅れだと。結果的に今の段階では、私は治療法にも予防法にもたどりついていない。それをまず報告して謝りたかった」
やはり……。
香菜子は必死で涙をこらえたが、できることではない。頬を伝うのがわかる。
変えられない運命もあるということなのか。
「短期間で、この結論に至ったわけではない。まず、デイ・トリッパーの研究をあれから再開した。あなたの言うとおりにさまざまな薬品を用いて試した。そして目的を果たした。あなたと同じように過去へ跳ぶことができた。それから先ず手を着けたのは己の病の克服だ。発病前の段階から自分の体質を変えることで、予防できた。そして現在に至っている。自分がかかる病については自分で研究して誰よりも詳しくなっていたから、発病前の自分の体質を改善することで解決しました。このことで私は、歴史上のできごとは変化するということに確信を持ったのですよ。絶対の運命はないのではないかと。それから私がやるべきこと。あなたとの約束を果たすことを最優先したのです。何度も過去から現在に引き戻されつつ、ご主人を救う道を探ってきたのです。医学の基礎を学び、過去へ跳び、ご主人ともそれとなく接触しました。さまざまな症例も可能な限り自分の目で確認してきた。もう一歩のところなのだが。未知のウィルスが関与しているのではないかという仮説を立てたところです。そこまでたどり着いていることをお知らせしたい。その思いで香菜子さんに会おうということにしたのです。
ご主人の治療法にたどり着いてから会いにくればいいではないか、ということであれば、まさにそのとおり。しかし、あと何度、過去跳躍を繰り返せば胸を張ってあなたの前に姿を見せられるか。
今回、目の前に来て、香菜子さんに話しているというのは、報告もありますが、もっとしっかりやれよ!という己への𠮟咤の意味もあったのですよ」
「では、望みがないというわけではないのですね」
「はい。自分に対しての動機づけです。誰のおかげで今、生きながらえているのだ、と。恩に報いなくてどうする、と」
「わかりました。大介の死は時が変更を許さないできごとというわけではないのですね」
一瞬、機敷埜老人は口ごもる。ということは、そんな可能性もゼロというわけではないのか。
「お願いがあります」
「何でしょう」と機敷埜老人は香菜子を凝視する。
それは、機敷埜老人の話を聞いて思ったことだった。
彼は、何度も過去へ遡行して大介を救うために研究をしている、と言っている。
香菜子は過去へ跳ぶことは一度しかできないことだ、と思い込んでいた。芙美からデイ・トリッパーを利用するか尋ねられたときも、たくさんの条件を出された。その条件を守ることを約束させられた。
それほど枷(かせ)が多い装置であれば、利用制限はあって当然だと思ってしまうのは仕方のないことだ。
しかし、機敷埜老人の話を聞いていると、あたり前のように何度も過去へ跳んでおり、それが自分の努力の証のように話している。
香菜子は、機敷埜老人の報告を聞きながら少し腹が立っていた。
「遡時誘導機は、一人一回しか使えないということではないのですね」
「どういうことですかな?」
香菜子は思いきって頼んだ。
「私をデイ・トリッパーでもう一度、元気な大介に会わせてください」

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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