キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
バックナンバー  1...1920212223 

第21回

2016.11.15 更新

何度も指を伸ばしながらもインターフォンを押すことはできなかった。香菜子が過去へ跳ぶ前のカフェが存在しない機敷埜邸。
大きな歴史の変化は起こっていないと思っていた。
過去から還ってきたら、かつての時間軸では顔も知らなかったし、話したこともなかった人たちの過去の記憶に、香菜子は存在していた。これも時間事象改変、つまり史実改変ということになるのだろうが、そんな改変は香菜子は些事としか考えていない。
いや、本当は、些事などではない。
香菜子は芙美から聞かされていた。ほんの少しでも過去の出来事が変われば、遠い未来でとんでもない変化に拡大していくのだ、と。
だが、史実改変の最たるものは、大介が助かってくれることだ。それ以外の変化はとるに足らない。
しかし、カフェ消失という変化には、やはり驚いた。
思いきって、インターフォンを押す。押したことで、胸のどきどきが少し鎮まった気がした。なるようになると開きなおれた気がする。
しばらく、何の反応もなかった。
このまま帰ろうかと、踵を返したときだった。
「はーい。どなたさまですか?」
女性の声だった。芙美の声に似ている。どうしよう、と香菜子は思う。このまま逃げ出したいという衝動も起きそうだった。
思いきって言った。
「中川と申します」
するとインターフォンは何も答えなかった。
香菜子には、長い長い時間が経過したように思えた。もし、今の声が芙美だったら、どうしよう。
ここは、デイ・トリッパーが発明されないまま機敷埜博士がこの世を去った世界なのだろうか?
そうであれば芙美には、何と言えばいいのだろう。芙美は過去へ跳んで香菜子が行った温泉旅行を責めたりするのだろうか?
もう逃げたりはできない。中川と答えてしまったのだから。さっきの声が芙美であれば訪ねてきたのが香菜子とすぐにわかっただろうから。
そしてドアが開いた。
顔を見せたのは、やはり芙美だった。
「はい。お待たせしました」と芙美は言った。
どう切り出すべきか、迷ったが、香菜子は言った。
「帰ってきました。帰ってきたご挨拶にまいりました」と香菜子は言った。
目の前の女は芙美に間違いなかった。ただジーンズをはいてカジュアルな印象だ。
そして、香菜子にこう言った。
「どちらの中川さんですか? どちらから帰られたのですか?」
「中川香菜子です。芙美さんですよね。笠陣芙美さんですよね」
「そうです」
「あなたに、デイ・トリッパーという機械で過去へ送ってもらいました。機敷埜博士が残された機械です」
芙美は、そんなはずはないというように、頭を大きく振った。
「私はあなたにお会いしたことはありません。でも、機敷埜が残した機械ならあります。伯父がデイ・トリッパーと呼んでいたものです。伯父は、それで過去へ心を送りこむことができると言っておりました。私は伯父の言うとおりに操作をしていました。その後、その機械は伯父が一人で扱うようになりました。それを何故あなたが知っているのですか」
かつて、この時間軸で香菜子が芙美に声をかけられた事実は存在していないようだ。だが、初対面の香菜子から顔を知られており、名前まで呼ばれた驚きは隠しきれない様子だった。
「どうぞ中へお入りください。約束の時間までしばらくありますので、お話を聞かせてもらえますか?」
芙美の言葉に従いドアをくぐる。芙美だとわかったとき、彼女から激しく糾弾されることを覚悟した香菜子だったが、まったく違う方向に事態は流れているようだ。
芙美の誘いに応じたのも、芙美との話の中で、より真実に近づけるのではないか、という気持ちがあったからだ。正直、少し安堵していた。
しかし、約束の時間というのは、何のことだろう。
「お邪魔します」
天井の高い広い部屋だった。この部屋の広い空間を利用して、そのままカフェにリフォームしたのだ。
今は応接間として利用されているらしいが、部屋の隅々に荷物や書物がうず高く積まれてその上にシーツをかぶせてある。それらを片付ければカフェ、デイ・トリッパーに変わるのだな、と香菜子は思う。照明も十分ではないので、なんとも薄暗い。研究に没頭する機敷埜博士がいつ物陰から現れても不思議ではないような気がした。
隅に置かれていた椅子のシーツをとって、その一つを香菜子にすすめ、もう一つの木製椅子に芙美は座った。
「こんな殺風景なところでごめんなさいね。私も急にこちらに来ることになったものだから、何の準備もできなかった。でも、もう少し遅く着いていたら、あなたと会えなかったかもしれない」
ということは、芙美はこちらで暮らしているのではないらしい。
香菜子は少しだけ迷ったものの、これまでの経過を隠さずにありのままに伝えた。過去へ行くにあたってのさまざまな制約を香菜子に与えたのは芙美である。その芙美に経過を説明するのは、当然の義務のようにも思えた。
芙美は香菜子の話に口を挟むことはせずに、何度もうなずきながら聞いていた。ときには遠くをぼんやり眺めたり、信じられないというように首を振ったりするのだった。
できるだけ香菜子は感情が表に出ないように冷静に語ろうと努めた。いかに大介と再会したかったかを話し始めると、自分でも気持ちが高ぶってくるのがわかる。そうすると、歴史が変わることまで覚悟して、大介を助けようとしたのだと芙美に思われるもしれないので、必死で感情を抑えた。
そして、現在へと意識が引き戻されたのだと話した。結果を伝えるために、礼を述べるために芙美に会いに来たのだ、と。もちろん話していないこともある。過去で機敷埜博士と会ったこと。根子島に芙美が現れ、香菜子に忠告したこと。
隠したわけではない。大まかな経過だけを芙美に知ってもらうために話したのであって、これから芙美から詳細を質問されたときはその都度、話していこうかと思っていた。
「私が、中川さんと会った記憶がなく、ここがカフェでないということは……今、中川さんが本当のことだけ話したというのであれば、中川さんが過去へ跳んで歴史を変えてしまったということなのね」
芙美は、やっと口を開いたとき、まず、そう言った。
「そうです」と香菜子は答える。否定できない。「そういうことになります」
そう答えたものの、芙美から責められることはなかった。何故なら、今、目の前の芙美にとっては、これが正しい歴史なのだから。香菜子を過去へ送った自分がいる世界は芙美にとっては、ありえたかもしれない世界に過ぎないということだ。
「その世界と、この世界は、少しだけ……そうね。数カ月から数年のタイムラグがあるだけで、基本的には同じように流れていくのかもしれないと思えたわ」
香菜子は芙美が言うことの意味がよくわからない。
「それは、どういう意味ですか?」
「こちらに今日、私が来ていたのは本当に偶然なんです。機敷埜の伯父の顧問をやっている法律事務所から連絡があったんです。そして、今日、ここで会うことになった。だから私はここにいた。香菜子さんとお呼びしていいですか? 香菜子さんが、ここへ訪ねてきて話を聞きながら、最初は私を大がかりな噓で誰かが欺こうとしているのではないかと思ってしまいました。でも、今、香菜子さんの話を順序だてて聞かせてもらって、まず最初に思ったのは、信じるにはあまりにも突拍子もない話だということ。逆に、そんな噓か本当かわからないことを私に信じさせて、香菜子さんにどのような得があるのかと思ってしまった。でも、香菜子さんには私が信じたところで何の得にもならないのね。むしろ、香菜子さんはより真実に近づきたがっているにすぎないとしか思えない。だとすれば、これは直感なんだけれど、香菜子さんの話す現実も同時にあるんだ、と思えるようになった。
今日、私がここへ呼び出されている用件もはっきりとは聞かされていません。伯父の資産についての話というぼんやりしたことだけ。今、香菜子さんの話を聞いたら、これから、私がここで法律事務所の人たちから聞かされる話もぼんやり見えてきたような気がしたの」
「そうですか」
「私、伯父の機敷埜のことはとても変わった人だと思っている。いつも何を考えているかわからなくて、ころころと言うことが変わる。でも、よくわからない伯父だけれど、私のことはとても可愛がってくれた。それに、なにかあると私のことを頼りにしてくれた。だから、伯父は風変わりだけど、私は大好きだった。だから、私は伯父にはあまり干渉しないで、伯父が私のことが必要と考えて連絡をくれたときだけ伯父に会うようにしていた。伯父の研究で彼一人ではどうしても進められないものは、その守秘性も考えて私に頼んできたんです。そんなある日、もう一年以上前になるのかしら。私に打ち明けたことがある。自分は悪い病気にかかっている、と。それで、もしもの時には、自分の資産と研究のすべてを引き継いでもらえないか、と。そのときは、私はまだ本気で考えていなかった。伯父の見た目はちっとも変わっておらず、健康そうに見えた。だから、軽い冗談で言っているのかくらいに考えて、気安く、いいわよと伯父には答えた。それが最後。
それから伯父からは何の連絡もなかった。伯父は気まぐれだから、そのうちにふっと連絡がくるのかもしれない、と思ったり、そんなときに伯父がかかっているという悪い病気のことを思い出したりしていました。でも、伯父はこちらから連絡しようとしてもほとんど連絡がつかない人なのです。だから、気になっても連絡のとりようがなかったし、あまりに長いこと連絡がないから、最近では悪いことばかり考えていた。だから、やはりって。
そうなのね。もう一人の香菜子さんが過去へ跳んだ世界では、すでに機敷埜の伯父さんは亡くなっていて、すべてを私が引き継いでいるのねぇ」
そこで芙美は大きく溜息をついた。そして続ける。
「それを聞いたら、ここに私が呼ばれたのも納得がいく。この世界でも機敷埜の伯父さんは……。タイムラグが起こっていたけれど、やっとこちらの世界が追いついたということかしら。伯父さんの訃報はなかったけれども、相続手続のほうが先になったということなのかしらね。そう思えるようになったところ」
そうなのか、と香菜子は思う。機敷埜老人も助からなかったのか。だから、芙美は、機敷埜老人の屋敷と研究をすべて相続することになるのか。
それでは仕方がない。
くわしい事情はこれ以上知ることはできない。ここへ来ても、これ以上は真実を知ることはできないと痛感していた。
ノックの音がした。
「はい」と芙美が返事する。きっと彼女が言っていた法律事務所からの訪問者だろう、どうしよう、と香菜子は一瞬迷った。自分はここでは部外者なのだ。
「じゃあ、私はこれで」
立ち上がりかけると、芙美が手を上げて、香菜子を制した。
「あ、香菜子さんも一緒に立ち会ってもらえませんか?」
香菜子は驚く。「えっ。いいんですか? お話の邪魔にならないんですか?」
「いいんです。伯父に関してのことであれば、話を聞かれて香菜子さんだからこそ見えてくることがあるような気もします。もし、あれば後で教えていただければ、と思います」
芙美はそう言った。それは彼女の本心のようだった。
「わかりました。では、お言葉に甘えさせていただきます。できるだけ目立たないようにしていますので」
芙美は笑顔を浮かべて扉へと向かった。
芙美が開けると中年男が立っていた。「――法律事務所の――」と聞こえる。芙美が彼を室内へと入れた。それから芙美は部屋の隅へ行き、椅子を摑んで香菜子の近くへと運んだ。
男は、香菜子を見て、少し驚いたような表情を浮かべた。すかさず芙美が紹介した。
「私の親友の中川香菜子さんです。大事な話のときは、必ずご一緒してもらうことにしています」
それを聞いて、香菜子はどきまぎしてしまう。芙美が、平気でそんなデタラメを言ったからだ。逆に、法律事務所の人間とは日頃、芙美は顔を合わせることはないのだ、と安心する。男は、今気がついたかのように香菜子を見て笑顔で数回うなずいた。同席してもかまわないということか。
「笠陣さんが、それでかまわないということであれば、こちらとしては問題ございません。これからは、何度か時間を割いていただかなければならないと思います。できるだけ、スムーズに手続きを済ませてまいりたいと思いますが、署名、捺印が必要となります。急のことでしたのでこちらも書類がまだ揃っておりません。今日はご説明ということでご了解いただきたいと思います」
それから、男は香菜子のほうへ向いて、頭を下げた。
「永澤法律事務所の永澤といいます。よろしくお願いします。笠陣さまの伯父さまにあたられる機敷埜風天様の事務方を全てまかせられ、これまでもさまざまな場面でお手伝いさせていただいております。法律事務所ですが法務事務を始め、司法書士事務や、会計税理事務、特許出願手続まで、全て承っております。機敷埜さまに当事務所は全面的に信頼いただいています」
そんなすべての業務を一つの事務所だけで請け負えるものか香菜子は不思議でならなかった。そのとき気がついた。永澤という男は笑顔を浮かべて話しているのだが、細めた目の奥が実は笑っていないということに。彼はこのような作り笑いが身を守るのに有効だと本能的に悟っているにちがいなかった。
「機敷埜様は自分の時間は限られているから、与えられた時間は自分にしかできないことに使う、が口癖でした。だから発明をしてもその後どう利用するか、どう特許をとるか、どう事務処理をしていくかは、まったく考えなかった。そんなことは自分でなくてもできるはずだと。だから、私の事務所にすべてを任せられたのです。ちなみに、この永澤法律事務所は、私、永澤一人でやっております。そして、私どものお客様は機敷埜風天様だけです。機敷埜さまの有形資産、無形資産のすべての管理をやっているだけで事務所は回っていくのでございます」
そして永澤という男は笑顔のまま再び、香菜子に礼をしたのだった。
そのときの永澤の身体つきで思いあたった。――私、この人を前に見ている。
香菜子は思いだそうとする。どこで、この人を見たのだろう。
あのときだ。
まだ香菜子がデイ・トリッパーの存在も知らない頃。沙智とまいと三人でホテルで会っていたときだ。レストランで背後のテーブルに笠陣芙美がいて沙智に声をかけてきた。それが香菜子が芙美を見た最初のときだったはずだ。
そのとき、芙美と同じテーブルにいた男。
彼だ。
あのときも笑顔だった。首をすくめるように頭を下げる仕草。そして笑顔のくせに笑っていない目。
あのとき、芙美は機敷埜風天の正式な相続人として、遺産を相続する手続きをしていたのだ。
たくさんの書類に署名していた。
ということは、今からあのときのように儀式にも似た芙美の相続手続が始まるということか。そうなのか。
やはり、機敷埜老人は、もうこの世にはいないのか、と香菜子は思う。病の魔手から逃れることはできなかったのか。そうであればこれから永澤法律事務所は、芙美が相続する機敷埜老人の資産を管理し、特許で得る利益の運用をこれまでどおりやっていくことになるのだろう。
ここはホテルのレストランではない。そして、あのときは芙美とこの永澤という男の二人だけだった。しかし、これから香菜子の目の前で機敷埜風天の相続手続が行われようとしている。
この程度の歴史の変化は起こって当然という範囲なのだろうか?
「今日、笠陣芙美様に、この機敷埜風天様のお屋敷にご足労いただいたのは、芙美さまの意思を最終確認させていただくためでございます。笠陣芙美様は、機敷埜風天様のすべての資産を相続される意思はございますか? 確認ができましたら、当方ですべての手続に入らせていただきます」
やはりそうだ、と香菜子は思う。微妙な差異はあるにしても、前のデイ・トリッパーが存在した世界の状況に復元されつつある。
「待ってください」と芙美が言った。「伯父とはまったく会っていないんです。研究の手伝いにと呼び出されたのが半年前。それから、何の連絡もなかったのに。伯父が難しい病にかかっているという話は聞いていました。しかし、死去の知らせももらっていないんです。なんだか、あまりにも話が唐突に進みすぎていて……。すみません」
永澤は、芙美を見据えていた。そのときは笑顔が消えていた。
「機敷埜様は、前に笠陣様に自分の資産を相続してもらえるか直接確認したことがあると仰っていました。それに、法的にも相続を受ける権利を有しておられるのは、笠陣様だけになります」
「はい」と芙美はうなずく。「しかし、伯父はいつどこで亡くなったんですか?」
それは、ぜひ香菜子も知りたかった。
永澤は、そこで大きく目を見張った。
「私は、機敷埜様の資産を笠陣様が相続されるかを確認しております。ひとことも私は機敷埜さまが亡くなったなどと申し上げておりません」
そのとき、ドアが開き、誰かが入ってきた。皆がいっせいにそちらを向く。
「やあ、時間がとれたよ。なんとか、私も同席したくてね。永澤くんお世話さま」
機敷埜老人その人が入ってきた。

バックナンバー  1...1920212223 

著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

ページトップへ