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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第20回

2016.10.15 更新

大介が入院中に残したメモが入っていた文箱。
メモは箇条書きにされていた。たどたどしい文字で、治ったらやりたいことが記されていた。そのうちのいくつかは、大介の仕事上のアイデアだった。病床で思いついて書きとめたのだろう。
そんなメモに書かれていた中のひとつ、
<香菜子と温泉宿でゆっくり過ごしたい>
その筆跡まで、香菜子ははっきり覚えていた。
そのメモを確認したい。
過去に戻った香菜子は、大介の思い残した願いを成就させるために根子島の温泉宿を訪ねた。
楽しい時間だった。
もしも時の流れに何らかの変化を与えたとすれば、その記述は消滅しているはずだった。
だが、メモはあった。
<香菜子と温泉宿でまたゆっくり過ごしたい>
気が抜けるように香菜子の息が漏れた。変わっていない。もう一度メモを見る。
微妙に変わっている。
以前のメモは、<ゆっくり過ごしたい>だった。それが<またゆっくり過ごしたい>に変わっている。その隣の行に<根子島はよかった>とある。そうだ。大介は根子島の思い出を抱いて逝ったのだ。
救うことはできなかったが、大介の思い残しを一つでも叶えてやれたことは、わかったではないか。
<根子島はよかった>
繰り返し目を何度も走らせた。涙が溢れてきた。大介は温泉旅行を喜んでくれたのだ。
嬉しかった。
「よかったよね。大介」と思わず口に出してしまったほどだ。だが、根子島へ行ったことは大介を助けることには繋がらなかった。
だが、大介が遺した思いの一つは叶えてあげることはできた。
それで、よしと考えるべきなのかもしれない。
それから、もう一つ、驚いたことがある。文箱の中から、生命保険の保険証券が出てきた。かつての大介も生命保険には加入していたし、香菜子の生活に必要な保険金は受け取っていた。ただし、今、見た保険証券では保険金の額は大幅に増額されていた。預金通帳を入れた引き出しを開くと間違いない。月々の保険料は過去へ跳ぶ前の数倍もある。
何があったのだろう、と香菜子は思う。
過去へ跳ぶことによって、大介を救うことはできなかった。しかし、いくつか変化していることがある。微妙に跳ぶ前の世界とは違っている。
そして、ソファに腰を下ろして、この状況について自分なりに考えた。
跳ばされる前に香菜子が自分宛に残した手紙が、何らかの効果をあげたのかもしれない。具体的に残った香菜子と大介の間でどのようなやりとりがあったのかは、わかる由もない。ただ、そのやりとりの中で、大介は何かを感じたのではないだろうか。だから、自分にかけた生命保険の額を大幅に増額したのかもしれない。香菜子に気づかれないうちに。
大介だったら、そんな気配りをする気がする。
いずれにしても、大介を救うことはできなかった。それは事実だ。
香菜子は、無意識に自分の下腹部に手をあてていた。
大介との愛の結晶に恵まれれば、ひょっとして大介の運命も変わるのではないかと期待していた。しかし、それは、叶わなかったようだ。
しばらくソファの上で思考停止の状態でいた。どのようにしても基本的な人間の運命は変えられないのかもしれない。自分なりに、やれることはやった。そこまでだった。そう考えると脱力してしまう。確かに大介の喪失は悲しい。しかし、今はもう涙が出ることもなかった。逆に、一睡の夢を見たような気がする。
夢……。
カフェの奥にある研究室で遡時誘導機・デイ・トリッパーの中で薬を飲み眠りについて見た夢……。
そうだ、と香菜子は思う。
デイ・トリッパーは意識だけを過去に跳ばせるものだった。肉体はデイ・トリッパーに残されているはずだ。だから元の未来へ押し戻されるのであれば、デイ・トリッパーの中の肉体に意識が戻るというのが理屈ではないのか?
そう考えると、矛盾が気になってくる。
香菜子は立ち上がる。
そうだ。笠陣芙美に会いに行こう。いや、矛盾を解き明かすためだけではない。もう一度大介に会わせてくれたことのお礼を言いに行くべきではないか。
結果も報告すべきではないか。それが礼儀であり、けじめではなかろうか。
思いついてから化粧をする。大介と過ごしていたときよりも、ずいぶん短い髪型になっているなと鏡の中の自分を見て思った。手入れの必要のない生活を選んでいるのかもしれない。化粧もしているかいないかというエチケット程度のものだ。ただ、服は訪問するにふさわしいものを選んだ。堅苦し過ぎず礼を失しない程度の明るいものを。
ショルダーバッグを持つと部屋を出た。パティオの近くを通ると、まだ姉妹は遊んでいて「香奈ちゃんいってらっしゃーい」とあやとりの手を外して妹は手を振ってくる。”ばあば”も会釈してきた。もちろん、香菜子も頭を下げて手を振って返した。このやりとりだけで、今からの外出がずいぶんと気楽になった。
香菜子はバスを使った。商店街まで乗って、あとは坂道を上がればいい。
車窓から見る風景が、何故か新鮮に感じる。過去に跳んだときの風景と今の風景。見えるものを無意識のうちに比較していた。
商店街が近いな、と思う。「純喫茶マンボ」という看板が見えたからだ。機敷埜博士と、あの店内に入ったのはつい先日のことだったように思える。あのときも昭和時代に取り残されたようなお店だという印象を受けたのだが、車窓から見ると、一層、時代からずれてしまっている感が強い。
というより、あのときも客は他に誰もいなかった。まだ、店は続いているのだろうか? 純喫茶などという店は、レトロなイメージしかない。営業中の表示もないし、店内の様子もわからない。商店街入口で、香菜子はバスを降りた。
ここから正面のだらだらとした坂道を上れば笠陣芙美のカフェに着くことはわかっていた。
だが、香菜子はすぐにそちらに足を向けなかった。
気になることがある。それに急ぐこともない。あわててすべてを知ってしまうほうが怖いこともある。
今の香菜子の気持ちがそうだ。
真実を見極めたいという気持ち。
真実をすべて知り、後悔してしまうのが怖い気持ち。
二つの気持ちがせめぎ合っている状態と言えばいいのか。
足が向いたのは、「純喫茶マンボ」のほうだった。
過去で、機敷埜老人と訪れたのも今のような昼下がりの時刻だった。
一杯だけ、あの泥のようなコーヒーを飲んでから行っても遅くない。
過去に跳ぶまで、その存在を知らなかった喫茶店に寄ってみよう。
思いきって店のドアを押してみた。
ドアのベルがカラカラと鳴った。営業中ということがわかる。入店を知らせるベルだったらしい。
カウンターの上に、まるまると肥ったキジ猫がうずくまっていた。香菜子は思い出した。この猫は前回もいた。
「いらっしゃいませ」と聞き覚えのある声がする。香菜子は一番出口に近い席に腰を下ろした。
目の前に水が置かれ、店の中年の女性が、親しげに「あら、お久しぶりですのね。珍しいわね」と声をかけた。
「は、はい」とだけ香菜子は答える。
「コーヒーでよかったかしら」手に持っているメニューを渡しもせずに中年女は、そう尋ねた。
「ええ。それでお願いします」
中年女は頷く。とてもサービス業の応対ではない。
代わりに尋ねてきた。「機敷埜さんはお元気?」
その質問は意外だった。機敷埜老人の消息を知らないのだろうか。この時間帯では、もう亡くなっているはずだ。
「いえ、最近全然お話ししていなくって。どうなさっているんでしょう」
この女性は、この時間軸ではすでに機敷埜老人が存在していないことを知らないのだろうか。運命が変えられないのであれば、機敷埜老人はもうこの世の人ではないはずだ。
死亡広告など出すような人ではなかったろうし、社会的にも認知されていない異端の科学者だったのだから、新聞やマスコミも取り上げないのも無理はない。
香菜子自身にしてもそうだ。笠陣芙美に声をかけられるまで、機敷埜風天という名前さえも耳にしたことがなかったではないか。
機敷埜老人がいつ、どのように果てたなど、世の中の誰も気づかないままだとしても、なんの不思議もない。
「私も……あれ以来、機敷埜さんとはお会いしていないんですよ。どうしておられるのでしょう」
香菜子はそう答えるしかなかった。確かにそれは噓ではない。
「そうですか」と中年女性は言った。「機敷埜さんはしょっちゅう顔を見せる人ではなかったけれど、時折ふっと、そう、忘れた頃に顔を見せる、そんな人でしたから。来たらこの席で、ぶつぶつ独り言を呟きながらメモを書いている、といった人だったから。コーヒー一杯でずっと。そしてお腹が空くと、オムライス作ってくれって。で、食べ終わってお皿を下げるとき機敷埜さんは、ボーッとした顔で宙を睨んでいるんですよ。私が大丈夫ですかって尋ねても何も答えない、またたき一つしない。それで大声でもう一度名前を呼ぶと、ワッ、びっくりしたって。何度も呼びましたよ、って言うと、聞こえなかったって。そんな人なんですよ。考えごとしていたと思ったら、いつの間にかテーブルの上に代金を置いてふらっと帰ってるような方ですから。あなたと一緒に来店されたときが、一番まともそうでしたよ。ちゃんと注文して、あなたと話をして帰っていった。まともでしたよ」
この店に一緒に来たとき、香菜子にとっての機敷埜老人は相当に変わった人だったのだが、それでもこの店にとっては、「まともでしたよ」の評になるとは。
そして確認できたのは、過去に跳んだときに香菜子は、確かにこの「純喫茶マンボ」に機敷埜老人と来たということ。それを店の中年女性も覚えていてくれた。
出されたコーヒーを飲みながら、その味のまずさで、より鮮明に記憶が蘇ってくる。そうだ、この味だった、と。
このまずいコーヒーに辟易しつつ、機敷埜老人にデイ・トリッパーについて教えたものだった。それだけではない。自分が未来からデイ・トリッパーで何故跳んできたのかを告げた。そのすべてを機敷埜老人は批判することなく受け入れてくれた。
そして、彼は悪い病気に罹っている自分を何とかデイ・トリッパーを使って救うと香菜子に宣言していた。
しかし、それは成功しなかったのではないか?
機敷埜老人は、大介の病のことで何かわかったら香菜子に知らせに行くと約束してくれた。
しかし、未来に引き戻されてみたら、大介は助かってはいなかった。
デイ・トリッパーは完成したのかもしれない、と思う。大介が助からなかったということは、機敷埜老人自身も救えなかったということなのか。香菜子が機敷埜老人に薬剤をデイ・トリッパーで過去へ跳ぶ際に併用するといいと教えたことは、定められた運命だったのかもしれない。しかし、それ以外のできごとは定められた歴史以外のできごとなのか。
変わりようがない。
そういうことなのか。自分がやったことは運命に組みこまれたことの一部だったが、願ったことは変えられないのだ。
突然、大介が目を細めて白い歯を見せて笑う顔が脳裏にくっきりと浮かんだ。
もう会えない。
涙がぽろぽろと溢れ出し頬を流れていった。気持ちが落ち着くまで十数分の時間が必要だった。嗚咽が漏れるところまでいかなかったのは、幸いだったのだが。
そのときは、すでに中年女性は奥に去っていた。香菜子は思わず「よかった」と呟く。
ひょっとして、涙で目が赤く腫れ上がっているのではないかと思ったからだ。それからコップの横に置かれた紙の金額を確認して、ぴったりの小銭をテーブルの上に置き、機敷埜老人がやっていたというように、そのまま店を出た。
店の中は、薄暗かったのだろう。外の日射しはまぶしかった。次に向かう場所は決まっている。
もう、道ははっきりと記憶している。バス通りから商店街とは反対の方向へ歩く。だらだらと続く坂道を伝うのだ。商店街の入口近くのケーキ屋で、手土産に焼菓子を買った。
芙美に挨拶するのに手ぶらで行くのもおかしいと思ったからだ。
ゆっくりと、坂道を歩きながら、初めてこの道を歩いたときのことを思い出していた。
最初にこの坂を登るときは、すべてが半信半疑だった。
初めて会った正体のわからない女性から、突然、大介に会わせてやることができると切り出された。どのようにして大介に会うことになるのか、“研究”の内容も説明を受けたと思うのだが実感は湧かなかった。ただ、ただ、もう一度大介に会いたかった。
だから、あり得ないと思える話でも香菜子はすがるしかなかった。
そんな馬鹿なことは期待しないほうがいい、と思いつつも、この坂を登ったのだ。
そして二回目は過去へ跳んだとき。
蛾が燈明に吸い寄せられるように、機敷埜老人の屋敷へ足を向けてしまった。
あれほど芙美に、機敷埜老人の家へ近付かないようにと釘を刺されていたにもかかわらず。
だからこそ、デイ・トリッパーの発明者である機敷埜老人その人と会うことになったのだが。
だらだら坂は長い。香菜子も途中で息が切れて何度か立ち止まり、大きく息をした。もうすぐだ。もうすぐ、芙美のカフェに着く。そしたら、どのような顔で芙美は迎えてくれるのだろうか。
なごやかに迎えてくれるだろうか? 
根子島で芙美が現れたときの、彼女の表情を今でも香菜子ははっきりと思い出すことができる。
あれほど芙美に釘を刺されていた機敷埜老人宅へ足を向けてしまったという引け目もあった。芙美は知っているにちがいない。
とにかく、再び大介に会えた礼を言おう。気をしっかり持って取り乱さぬように。
そして……。
芙美が責めたら、言い訳をせずに、しっかり受け止めよう。
芙美との約束を破ったのは自分なのだから、何を言われても仕方がない。
償えと言われたら、償うしかない。しかしどう償えばいいのかわからない。まさか、金銭で償えるとは思えない。金銭で償えと言われたほうが気は楽だと思えるのだが。
登り坂だからというわけだけではなく、足を運ぶ速度が鈍った。
カフェをやっているのに焼菓子の手土産というのはズレていたかな、という考えも浮かんだ。まあ、いいか。プライベートな時間帯でつまんでもらえばいいし。
過去に跳んで、無意識にカフェを訪ねようとしたときは、商店街あたりから、いつの間にかたどり着いてしまっていた。坂道だったという意識さえもない。
ただ、住宅街に植えられた街路樹の印象だけが強い。
しかし、今日は商店街からの距離が遠いように感じる。やはり、無意識のうちに、芙美と会いたくないと思っていることの表れだろうか。
だらだら坂を登りきった。そこに、カフェ「デイ・トリッパー」があるはず。
ない。
目を疑った。過去へ跳んだときの古い洋館風の民家が建っているだけだ。
過去へ跳んだときの記憶にある風景と寸分変わらない。
あのときも驚き、立ちつくしていた。そして坂道を自転車で機敷埜老人が登ってきたことは忘れもしない。
カフェ「デイ・トリッパー」は何処へ消えたのか? 何かが大きく変わったということなのか。 
カフェの奥で自分は薬を飲んで過去へ跳んだ。
心だけ。
だから、未来へ押し戻されるときは、元の「デイ・トリッパー」の装置の中にいる自分の肉体に戻ってくるものだとばかり思っていた。
カフェ「デイ・トリッパー」が存在しないなら、装置の中に香菜子はいないことになるではないか。
当然、他の場所にいる香菜子の肉体に戻ってくるしかない。
論理的に合っているかどうかは、わからないが、現実的にはそうだったではないか。
それが、自宅の布団の上で気がついた理由ということになる。
洋館風の民家に香菜子は近付く。
あのときのままだ。
カフェの気配もない。ということは、ここに笠陣芙美はいないということなのか?
木製ドアの表札には見覚えのある書体があった。
<機敷埜>
この屋敷は芙美の手に渡らなかったのか? 機敷埜老人亡き後、ずっと空き家になっているということか?
いやひょっとして、芙美が相続したが、カフェはやらなかったという可能性もある。
勇気を出して香菜子はインターフォンに手を伸ばす。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
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