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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第19回

2016.09.15 更新

夕方、一人のときだった。夕食の準備で台所にいたら全身を風が襲ってきた。だが、それまでの経験で自分を連れ去ってしまう程のものではないとわかった。久々の“時の風”だったが、香菜子は内心ほっとした。この風じゃない。まだ、大介といられる。そう自分に言い聞かせていた。
これまで幾度も“時の風”を感じてきた馴れもあったのだろう。
風を感じて、まず香菜子は手に持っていた包丁を流しの上に置いた。ゆっくりとしゃがみこみ、片手を冷蔵庫にあてて自分の身体を支えた。そして、風が去るのをひたすら待つつもりだった。
香菜子の予期したとおり、ある一瞬を過ぎると彼女を未来へと押し戻そうとする力は、徐々に鎮まっていく。ゆっくりと香菜子は立ち上がり独り言を呟く。
「助かった」
その“時の風”の圧力が強くなかったことは幸いだったが、しばらく“時の風”を感じていなかっただけにショックだった。このまま風はなくなってくれないだろうか? そう願っている自分がいた。
だが、風は忘れていなかった。
そのことがショックだった。
風が鎮まっても肩から震えがなかなかとれなかった。
大介が帰宅したときは、香菜子は平静を装っていた。「おかえりなさい」と迎えた香菜子を見て、大介が言った。
「どうしたんだ。香菜ちゃん」
大介は何かを感じたのだろうか、と香菜子はあわてた。「え? え? 何が? どうしたの?」と香菜子は尋ねる。大介が、人差し指で自分の唇を横になぜる仕草を見せた。
「え? 私の唇? なにかついているの?」
大介は呆れたように首を横に振り、眉をひそめていた。
「いや、香菜ちゃん、唇が真っ青だよ。血の気が失せたみたいに。貧血じゃないの? 身体がふらふらしないか?」
思わず、香菜子は自分の唇に指をあててみた。まさか、唇が真っ青になっているとは思いもしなかった。大介がそう指摘するのであれば、そうなのだろう。
「何故だろう。わかんないよ。でも、なんともないから心配しないで」
香菜子としてはおどけてそう答えるしかなかった。
「本当に大丈夫か? 無理をしないで調子が悪かったら早めに医者にかかったほうがいいと思うよ」
これでは、まるで逆ではないかと香菜子は思う。
「わかった」と答えた瞬間、突然大介は強くハグしてきた。予測できなかったから、思わず香菜子は身を硬くしてしまった。すると、大介が呪文のように「なんともない。なんともない」と呟くのが聞こえた。心の底から大介は自分のことを案じてくれているのだ。
すると反射的に香菜子の目から涙が溢れてくるのだった。
食事のときは、大介は香菜子のことをそれほど心配しなくなっていた。心中はわからないが、晩酌を始めてからは少し緊張がほぐれたのだろう。
酒をすすめたのは香菜子のほうからだ。少しでも大介に心配をかけないようにしようと智恵を絞った結果だ。アルコールで心地よくなった大介は、よく笑った。香菜子もご相伴することで自分の顔色がよくなったのではないか、と思えた。
この充実した時を感謝しなくては。
大介が元気だったとき、昔の香菜子は明日も、明後日も、そしてその次の日も今と同じような日が続くのだと思っていた。そして、それは当然なのだと考えていたと思う。
だから、あたりまえの今日も、今日に続く明日も、何も考えなかった。来週は大介とおいしいものを食べに行きたい、くらいのことを考えているだけだった。しかし、今はちがう。一日を一緒に終えられることに心から感謝できる。素晴らしい時間を持てているから。
あたり前の時間なんてないのだ。気づいていなかっただけなのだ。
眠りに就く前に、香菜子は大介に言った。
「心配させて、ごめんなさい。大介ありがとう」と。
「ああ、いいよ。驚いただけだから。おやすみ」と、すでにいつも通りの大介だった。
眠ったまま、未来へ押し戻されるのは嫌だった。熟睡して、目が覚めたときに大介のいない未来に戻ってしまっていたらと思うと恐怖だった。だから、いつも眠りは浅かった。
このときも、香菜子は闇の中で大介の左腕をしっかりと握った。一刻も彼と離れていたくないという無意識の行動だった。
やがて、大介の寝息が聞こえてくる。その寝息を聞いているだけで、香菜子はほっとできる。緊張が解けるのと同時に睡魔がゆっくり忍んできた。
そのとき、突然にアレが来た。
香菜子の全身が震えた。激しく。これまで感じた風の中でも特別のものだった。横になっているから激しいのだろうか? いや、そんな生易しいものではない。まるで烈震だった。
こらえきれずに、ついに香菜子は叫んだ。
「大介! 大介! つかまえていて、私を!」
大介の寝息が消え、次の瞬間には身を起こしていた。
「香菜ちゃん、どうしたの!」
そして、大介は香菜子の手を握った。風が強い。起き上がれない。
何かを言わなければいけない、と香菜子は思う。自分のことはどうでもいい。大介のこと。大介が助かるために、何と言ってやればいい。
しかし、名前一つ言えない。何か言おうとしても大きく荒い息を吐くだけで、言葉にならないのだ。大介が握る手を握り返すのがやっとだ。
病気に気をつけて。離れたくない。助けたかった。私って腑甲斐ない。そんな想いが交錯していた。
尋常ではないと思った大介が香菜子を抱き締めて、そのまま抱えあげようとする。
「医者へ行こう。連れていくよ」
次の瞬間に凄まじい圧力が香菜子を襲った。それはもう、風という生易しいものではなかった。
悲鳴もあげられなかった。意識が遠のいていく。何も考えられなかった。なにか、途方もない哀しみが自分の中で充満すると、何もわからなくなった。

目が醒める。いつもと同じように。何か、悪い夢を見たような気がする。
反射的に手を伸ばしてまさぐった。
何も手応えはない。胃の腑を嫌な感触が走り、跳ねるように身を起こした。
外は明るかった。陽の光が窓から差し込んでいた。
布団は一つだけだった。そして、大介の気配はない。
パジャマ姿だった。この時間まで横になっていたようだ。
そのまま振り返った。脅えながら。
やはり小さな仏壇があった。大介が死んで買ったものだ。その仏壇には位牌が置かれていた。位牌に書かれている戒名は一字も間違えることはない。中で「大」の字が使われている。仏壇には写真も立てられていた。それほど大きいものではない。大介が笑顔のもの。目を細め、白い歯を見せている。穏やかで、優しそうな、香菜子が大好きな写真だった。アルバムの中から、その一枚を香菜子は迷わずに選んだ。
それだけで事態を悟った。
自分がいた未来へと引き戻された。夢などではない。これが現実なのだ。
さまざまなできごとが奔流のように思い出されてくる。
しかし、不思議なことに、悲しみにまでは至っていない。大介を亡くしてから、あれほど泣き暮らしたのに、今はまだ疑問のほうが多い。
さっきまで、大介が横にいてくれた、という余韻が残っている。だから、まだ完全な喪失感があるわけではない。
横に大介の姿はなかったものの、呼びかければ部屋の向こうから彼の返事があるような気さえする。たとえ仏壇があったとしても、それは別物に思えてならなかった。
枕元に、スマホが置かれていた。その画面を見た。
間違いない。元の時間軸に戻っていた。はっきりとした日もわかる。安井沙智と中原まいに会った翌々日だ。スマホに表示された日時と壁に貼られたカレンダーの書き込みとも一致する。
香菜子は布団で正座して考える。これは、どういう状況なのだろうか?と。冷静に客観的に判断しなければならないと自分に言い聞かせる。
ひょっとして、自分は夢を見ていたのだろうか?
死んだ大介に蘇ってほしいと願ったばかりに見た長い長い夢だったような気がする。こうしてあたりを見回しても、すべて見覚えあるものばかりだ。
しかし、過去に戻って大介と過ごした記憶ばかりではない。どのような経緯で大介が元気だった頃の過去へ行けたのかという記憶も残っている。
妄想などではない。
竺陣芙美という女性が、過去へ行って大介と会わせてあげると言ったのだ。覚えている。
そしてカフェ「デイ・トリッパー」を訪ねて、薬を飲んで遡時誘導機に乗った。
芙美の説明によれば、香菜子の心だけが過去の香菜子の身体の中へ跳ぶということだった。果たして、香菜子は大介が元気だった頃の過去へ戻ることができた。
それも間違いない。
しかし、未来に引き戻されるとすれば、自分は遡時誘導機の中に戻ってくるべきではないのだろうか?
わが家の布団の中に戻ってくるというのはおかしいのではないか? であれば、自分の身体はどのようにして自宅まで帰り着いたのか? あるいは、竺陣芙美と会ったのも記憶の誤作動ということになるのか?
竺陣芙美という女性は本当に存在したのだろうか?
大介と一緒にいた過去世界でも、竺陣芙美は香菜子に忠告するために出現した。それも不思議だ。すべてが妄想? すべてが夢? 未来にいるはずの芙美が過去にもいたなんて。
すべてが夢だったということであれば、理にかなうのだが、香菜子には、そうではないという確信があった。
沙智に電話してみようかということも考えた。芙美と沙智は顔見知りだったではないか。電話で尋ねて、沙智が芙美なんて女性なんて知らない、と言えば、それが一番確実だ。しかし、その前に、沙智から何故?という質問が来るだろう。その質問にどう答えるか。
沙智は香菜子の答えに満足するかどうか。とてもうまく答える自信はない。新たな疑問を香菜子にぶつけてくるだろう。
沙智に尋ねるのは、もっと後にしよう。
そして、布団を上げ、着替えると、ソファの上でぼんやりと過ごす。
何も考えないようにしている自分に気がついた。部屋の中は無音だ。
自然と涙が溢れてきた。拭うこともしなかった。香菜子は流れるにまかせていた。
無意識のうちに自分の腹部に手をあてていた。
もしも自分が本当に過去に行けていたとしても、自分は大介を救うことはできなかったのだと知る。大介は、仏壇の中の写真でしか存在しない。香菜子は溜息をつく。
大介を救うために自分がやったことは何も成功していない。
大介の子を授かれば、大介の運命も変わるのではないかとも思った。大介を救えなかったにしても大介の代わりに子供に愛情を注げるはずだ。
その願いもかなわなかった。
未来は変えられないのか。
いや、そもそも自分は過去へ行けたのか? 行けたのかもしれない。しかし、確かではない。
もし、本当に行けたのなら、わかったことが一つある。
どんなに大介を救おうとしても、彼を救うことはできなかった。
つまり、運命は変えられないということだ。
時を司る神さまがいて、一人ずつのたどる人生は、その神が敷いたレールの上にある。距離も行先も決まっている。人の運命だけでなく、物事の展開もそうだ。
香菜子は大介を助けるために、過去で自分なりにあがいてみた。しかし、祈る気持ちでとった行動は何一つ効果をあげなかった。
釈迦の掌の上でもがいただけの孫悟空のようなものだ。
なんと空しいことか。
立ち上がり、窓のカーテンを開いた。
下を見下ろした。
そして気づく。あの二人は……。
ゆーちゃんという子と妹のほうはあっちゃんと言わなかったか。
妹のあっちゃんは、もっと幼かったように思える。
二人はパティオの柳の木の下にあるベンチに腰を下ろしていた。
あわてて香菜子は部屋を出る。なぜか、あの子たちと話したい衝動が湧いたのだ。
外に出ると、幼い姉妹が香菜子を見て手を振った。
それから妹が言った。「香菜ちゃーん」と。そして妹のあっちゃんは立ち上がる。二人はベンチであやとりをしていたらしい。姉のゆーちゃんの手には、まだ糸が組まれて残っていた。
「こんにちは」と香菜子が言う。
香菜子は近付いてくるあっちゃんの足取りを見て思った。自分の知っているあっちゃんは、もっとよちよちした頼りない歩みだった。ずいぶん、しっかりしている。
前に会ったときから、それだけの時間が経ったということか。
そう考えて、はっとした。
過去へ行く前の自分は、この幼い姉妹と面識はなかった。過去に跳んで初めて知り合った。それから二人の“ばあば”も。
「今日は二人だけなの? “ばあば”は、どうしたの?」
そう香菜子に言われて姉妹は顔を見合わせた。不思議そうな表情を浮かべて。その様子を見て香菜子は不安になった。
ひょっとして、“ばあば”に何かあったのではないか?
妹のあっちゃんが口を尖らせて言った。「もっと小さい頃は、“ばあば”と呼んでたけど、もうお姉さんになったの。だから私たち、“おばあちゃん”と呼んでいるのよ」
なるほどと香菜子は思う。
「もうすぐ下りてきます。さっきベランダに洗濯ものを干していたから、そろそろ来るんじゃないかな」
ゆーちゃんも話し方がしっかりしてきたと思う。姉妹たちにとって、香菜子は長く会っていなかったという様子ではない。
「ほら。おばあちゃん、来たよ」と、あっちゃんが指差したので香菜子は振り返った。
老女がパティオへ歩いてくる姿が見えた。老女は香菜子が過去へ跳んだときと大きな変化はなかった。
ただ、老女は香菜子の姿を見つけて、一度驚いたように足を止めた。
それから、ゆっくり香菜子のほうへ近付いてきた。
「中川さん。お久しぶりですねえ」と老女が香菜子に言う。
どう反応を返していいものやらわからずに香菜子も「本当ですねえ」とだけ答えた。
「大変でしたねえ。なんと申し上げていいやら。しばらくお姿を見なかったので心配しておりました。お淋しいでしょう。私もそうでしたからよくわかります。でも、どうしようもない。自分で乗り越えなきゃいけないことですから」
この人は、大介のことも知ったうえで言ってくれている。それが、香菜子には、よくわかった。
その瞬間に、香菜子は悟った。
やはり、自分はデイ・トリッパーで過去へ跳んだのだ。そして、以前は会ったこともなかったこの老女と、そして幼い姉妹と知り合ったのだ。
そして、ほんのちょっぴり流れは変わっている。本当なら老女も幼い姉妹も初対面なのに、香菜子のことは覚えていてくれた。
いや、それだけではない。
運命を変えられないのなら、過去へ跳んだ香菜子が現在に戻ってきたら、幼い姉妹も老女も香菜子のことなど完全に記憶から消え去っているべきなのだ。
香菜子のことを覚えていただけでも、時を司る神の仕業に干渉できたという証明になるのではないか。
次々と疑問が湧き続ける。
「そんなにご心配をおかけしたんですね」と香菜子は口にする。
老女はゆっくりと頷いた。
「ご主人のことは、中川さんの棟にお住まいの方から伺ったんですよ。その後、ちっともお姿を見なかったから、心配していたんですよ。今日はよかった。孫たちが下で遊びたい、と久々に言ってくれたおかげで、お会いできたのだから」
香菜子は嬉しかった。予想外でもあった。こんなに自分のことを心配してくれる人がいたなんて。しかも、こちらの時間軸では、まったく会ったことがなかった人から。香菜子がデイ・トリッパーで過去へ跳んだからこそ老女と親しくなれているのだから。
すると、いくつも確認したいことが、生まれてくる。
香菜子は、老女に自分のことを気遣ってもらったことの礼を伝えると、その場を離れる。
じっとしていてはいけないと、本能的に感じていた。じっとしていたら喪失感から来る悲しみにがんじ絡めになることがわかっていた。
それよりも、もっと確認すべきことがいくつもあるはずだ。それまでは、めそめそ泣いている余裕はない。
あの幼い姉妹や老女と話せたことで、香菜子の時間旅行は証明された。過去へ跳ぶ以前と、引き戻された後では現実世界に変化が起こっている。
それが何なのかを検証しなくてはならない。確かに大介は、帰らぬ人となっている。しかし、何が変わらなかったのか、そして何が変わったのかを知っておきたい。
そんな欲求が、香菜子の内部から衝き上げてくる。
あわてて、家へ戻ると、大介の遺品を置いた部屋へ入った。
あった。
大介が残した文箱だ。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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