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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第17回

2016.05.15 更新

思わず目をこすってみたほどだ。あまりにタイミングが良すぎる。
本当に芙美なのだろうか? 誰か別の人を芙美と思いこんでいるのではないだろうか、と。
いや、竺陣芙美に間違いなかった。初めて香菜子に話しかけてきたときと同じ涼しげな眼差しをしている。そして、何を考えているのか、伺い知ることのできない感情のない表情をしている。
芙美は香菜子が立っているほうへと歩いてくる。思いだしたように、歩きながらバッグを開き、何かを探し始めた。そのまま香菜子のほうへと近付いてくる。どうしよう、と一瞬香菜子は迷う。まわりに身を隠すような場所はない。まだ芙美は香菜子の存在に気がついていない。できることといえば、近付く芙美に背を向けておくくらいだ。
だが、あまりにも突然のことで、香菜子は凍りついたようになってしまった。
芙美が探していたのは、手帳だった。芙美は香菜子が立っているところから数メートル手前で立ち止まった。顔を上げれば香菜子の顔がはっきりとわかる位置だった。芙美の右手には青色の手帳があった。それをぱらぱらとめくり、芙美は何度か頷いた。スケジュールを確認する必要があったらしい。再び手帳をバッグの中に入れて、顔を上げた。そのまま香菜子を見る。
香菜子は身がすくんだ。あわてて顔をそむけようとする。しかし、もう遅すぎる。
しかし、芙美は香菜子に対して何の反応も示さなかった。いや、たしかに目の前の香菜子に視線を止めたのだ。だが、すぐに視線を前方に移した。そこに人が一人いた、という程度の反応だった。
そして、気が済んだ、とでもいうように、芙美は香菜子に背を向けて颯爽と歩き去って行った。
芙美じゃない? あるいは見えないふりをしたのか?
いや、竺陣芙美その人に間違いはなかった。あの様子では知らないふりをしていたということではないようだ。
結論は一つしかない。
今見た芙美は、未来からやってきた芙美ではなかったのだ。芙美という存在は、この時間では一人しかいない。その芙美が香菜子を認識できないということは、未来から来た芙美はこの時間軸には存在しないということだ。
彼女が、この時間軸に来た目的は、根子島にいた香菜子に警告を与えるだけだったのではないか。それが終わって、芙美は未来へと帰ったということか。
で、あれば今の時間軸に存在する芙美は何も知らない。まだ、香菜子の存在も知らないし、デイ・トリッパーの存在も知らない。
追いかける気も起きない。この時点の芙美に問いかけても何も得られないことはわかっている。
これで、今、自分が必要としている情報を知るための希望のかけらはすべて失われた。
それが当然ではないか、と香菜子は、ふと思う。人が時間の壁を超えて過去に跳ぶという行為そのものが自然の摂理に逆らっているのだ。香菜子に警告するという目的を果たしたのであれば、芙美が早々に未来の本来の時間に帰るのは当然ではないか。
心の張りが失われてしまったからだろうか。膝から力が抜けていくような感じがする。同時に全身がぞくぞくするような感触がある。全身だ。これも“時間の風”と似たようなものだろうか。
どのようにして家までたどり着いたのか、記憶が朦朧としていて覚えていない。マンションのパティオで幼い姉妹から、「香菜ちゃーん」と手を振られたのは覚えている。やはり様子がおかしかったのだろう、老女が「お姉さんは気分が悪いみたい。身体の調子がよくないのかもしれないねぇ」と言ったが、それが、まるで間延びした淀んだ声で聞こえたような気がする。香菜子は幼い姉妹にも何も答えず、駆け込むように部屋に戻った。
崩れるようにソファに倒れ込む。それから大介の名を無意識のうちに呼ぶ。もちろん、そこに大介はいない。
風を感じた。
このまま意識を失ってしまいそうだ。意識がなくなれば楽になれるだろうという予感はあった。しかし、同時にこの時間軸からは弾(はじ)かれてしまう気がする。意識を失えば、二度と大介と会えないのだと自分に言い聞かせ、必死で耐えた。それから、目を見開いた。閉じてしまうと気を失う気がする。
また、風を感じた。現実の風ではなく、未来へ押し戻そうとする“時の力”をそう感じているのだと思う。
右手で拳を作り、自分の首筋を何度も叩いてみた。そうすることで、少しは気が紛れるような気がする。
そして、このときふと気づく。芙美が“時の風”を仕掛けたわけではないのだろう、と。
とすると、他に要因があるわけだ。しかし、その要因が何かはわからない。
ひょっとしたら、過去に滞在していられる期間が最初から決まっているのかもしれない。そうだとすれば、過去にとどまるためにどんな方法をとればいいのか探しても何の意味もないことになる。
香菜子は、ソファの上に横たわったまま天井を凝視していた。芙美に会うために行動していた時は、風のことを忘れていられたのに。感じずにいられたのに。ということは、心の持ちようが関係しているのか。
やっと自分の息づかいが落ち着いてきたのがわかった。風に吹かれたり、押される感じが絶え間なく続くのではなく、少しずつ間隔が開くようになってきた。
このまま、風に吹かれる感覚が消えてくれれば一番いいのだが。
鎮まっていく。そんな気が香菜子はした。
そこで、大きく深呼吸をしてみると、身体の違和感が消えていることがわかった。もう一度深呼吸して身を起こす。
芙美のことを一瞬思いだすときだけ、さっきのぞくぞくとする感覚がある。鳥肌が立つというのとも違う。虫が這うような感覚に近いか。蟻走感(ぎそうかん)というのだろうか?
そのとき香菜子は、思考を無にすることを本能的に学んでいた。徐々におさまっていく。
これだ。
“時の風”を前は感じなかった。感じるようになったのは、未来を変えようという努力を始めてからではないか。
根子島へ向かうまで、そんな気配はなかった。かつて、やっていないことをすれば、それだけ未来が変化する可能性が大きくなる。契機になったのが、根子島だったのではないか。それだけではない。香菜子たちに加えて芙美まで登場することで、未来のブレがより大きくなった。
すると、時の流れを歴史通りに復元するために、“時の意志”というようなものが風を吹かせたということか。
大介の子を持つことで未来を変えられる。
大介の願いである温泉へ行くことで未来が変えられる。
それこそが、香菜子の浅知恵だったということか。
時は、いずれの行為もルール違反と見なして、香菜子を未来に押し戻す力を発揮させ始めたということだ。寝ていた神を揺り起こしてしまった。運命を変えようとしたことで。
自分の運命を変えようとは思わなかった。すべては、大介のため。大介の命を救わんがため。それさえ実現できたら、自分はどうなってもいいとさえ、香菜子は思っている。
風を感じるようになったのは、大介を救える可能性が増えたことで、“時の復元力”も強さを増してきたということではないか。
立ち上がった香菜子は、自分に問いかけた。
では、どうすればいい。このままだと、いずれ抗えないほどの風となって襲いかかってくるだろう。
そうであれば、それまでに大介を救うための方策を何か他にも考えるべきだ。
どうせ未来へ押し戻されるのなら、何もしないわけにはいかない。少なくとも、大介を救うことができるのは今のところ自分だけなのだ。
その結論に至ったとき、思考が鮮明になったような気がした。
これまでは、大介を救うために、自分がどこまでの行動をしていいのかわからず、靴の上から痒い足を搔くように、恐る恐る行動していた。
しかし、もう何も恐れない。“時の復元力”でどうせ未来に押し戻されるなら、できることは、やってやる。未来の世界がめちゃくちゃになってもいい。大介を救えるなら。
たとえ、人類が滅亡し、宇宙が消滅しようとも。
大介を救えさえすれば。
芙美が、香菜子の結論を知ったらどんな反応を示すことだろう。香菜子自身は、自分の思考から迷いが消え去ったことが、嬉しかった。
腹が据わったからだろうか、“時の風”も去ったような気さえする。
いや、“時の風”がなくなったわけではないだろう。これから周期的に、ふっと背中に蟻走感が蘇えるのは仕方のないことか。
これから、大介を救うために思いつく限りのことをやってみるのであれば、より“時の風”は強く吹くに違いない。何もしなかった場合、大介と過ごすができる時間よりも、何倍も速く未来に押し戻されてしまうのではないか。
それで必ずしも大介を救うことができるという保証はない。それでも、いいのか? “時の怒り”に触れなければ、もっと大介と長い時間を過ごせるかもしれないのに。
香菜子は大きく息を吸いこんだ。
大介と一緒に過ごすことができて、これでもう十分満足した。もう悔いはない。そう思えることはないのではないか。香菜子はそう思っていた。
それでいいのか?
いい、と香菜子は呟いていた。
この時間軸の中で、永久に大介と一緒にいられることはありえないだろう。でも、できる限り大介の運命を変えるための努力をしたい。
そう思えるようになっていた。
しかし、自分一人の努力では限界があるのではないか?
一人だけで大介を救う方法を探すのは無理だ。誰か協力してくれる人はいないだろうか?
機敷埜老人の顔を思い浮かべたが、すぐに頭から振りはらった。
機敷埜老人には大介を救う力はない。
もっとも、機敷埜老人は大介の病を治す方法を考えると約束してはくれたものの、まだデイ・トリッパーの完成にさえ至っていない。ヒントだって、香菜子が与える結果になった。そもそもデイ・トリッパーが存在しなければ、香菜子は大介が元気だった時間に来ることはできなかったわけだから、機敷埜老人に対しての香菜子のアドバイスは許されることなのではないだろうか。
しかし、機敷埜老人にデイ・トリッパーについての助言をしたときは、“時の風”を感じることはなかった。
時は、このことについては見逃したということなのだろうか?
デイ・トリッパーが発明されるために欠かせない要素だから、時は香菜子の発言を大目に見たということか?
わからない。
ルールのようなものが存在するのかもしれないが、今の香菜子には、そんなことはわかるはずもなかった。
許される過去改変と、絶対に許されない過去改変があるのかもしれない。
しかし、今の香菜子には、そんなことはどうでもよかった。
となると、頼りになる人物は一人だけだった。
夫の大介だけだ。大介に真実を打ち明ける。
これこそ、最後の切り札ではないか。だがそれは、もしも時が意識とか感情とかを持っているならば、怒り狂うであろう最大の反乱だ。
今、感じている“時の風”が嵐に変わり、一瞬にして香菜子を未来に吹き飛ばしてしまってもおかしくない。
最後の切り札を使うのは、もうしばらく後にしよう、と香菜子は思う。他の可能性を試した後でも遅くはない。未来に押し戻されてしまったら元も子もない。
そこで香菜子の思考はいったんストップしてしまった。
次に香菜子は、自分が未来へ押し戻された後のこの世界がどうなっているだろうか、ということに思いを巡らせた。
この時間軸に残された自分はどうなるのだろうか?
未来の自分の意識だけが、大介が元気な頃の過去の自分の肉体に送りこまれたのだから、未来の本来の自分に押し戻されても、肉体はやはりこの時間に残ったままのはずだ。すると、未来からやってきて過ごした記憶は、すっぽり抜け落ちてしまうのか。とすればこの数カ月のこの時間における自分自身は、なぜ記憶の空白があるのかと、戸惑うにちがいない。
うっすらと日常生活の記憶だけが残るのであれば、ひょっとしたら何の違和感もないままになるのだろうか?
そんなことって。
香菜子は焦りを感じた。そういえば、この時間軸に跳んできたときのことは、はっきりと覚えている。大介とドライブ中だった。
あのときの嬉しかった気持ち。忘れることなどできない。
しかし。
その翌日は何をしたろう? 大介を送り出して家事をやった。買物に出て、芙美のカフェを見に行った。足が自然に向いたから。
その翌日は何をした。
そして、その翌日は。
だんだん記憶が怪しくなってくる。大介の休みの日に行った場所のことは思い出せる。
機敷埜老人と喫茶店で話したことも。
しかし、それが正確には何月何日だったかと考えても、わからない。一カ月前だったか、その前後か。平凡な日々が続いていて何をしていたか、あやふやだ。
節目になるできごとは記憶しているが、日々の生活についての記憶はあまり残っていない。
人の記憶というのは、そのようなものかもしれないと、香菜子は思った。
だとすれば、自分が未来に戻されても、特に何の異常も感じないで、これまで通りの生活を繰り返すのかもしれない。
大介が時々、根子島の話題を出すかもしれない。しかし、話がちぐはぐなまま、その十分後には、そのちぐはぐさも含めて忘れてしまっているのではないだろうか?
大介は、少しの時間だけ、変だな? と思うのかもしれないが、自分の何かの思い過ごしぐらいに思うだけか。
そして、そんな日常が続いていて、ある日突然、大介が倒れる。何よりも避けたい日が、何の前触れもなく訪れることになる。
それからは……。
そこまで想像の羽を伸ばし続けた香菜子は、いても立ってもいられなくなった。
もし、今、未来へと自分が押し戻されるとするならば、これまで大介を救えるかもしれないと思ってやってきたこと、そしてこれから大介の身に起こることを、この時間軸の自分になんとか伝えておかねばならないのではないか。
そうだ。なぜ自分が過去に跳んできたかをこの時間の私に書き残そう。そして私の代わりに大介を救うように頼もう。
手紙を書こう。私宛の手紙だ。
そうすれば、いつ未来へ押し戻されても、残されたこの時間の私が意志を引き継いでくれるはずだ。
不安はあった。その手紙を読んだとして、記憶がいったん真っ白になったこの時間の香菜子が、書いてある内容を信じてくれるかどうか、ということだ。
日記をつけていれば、日記内に、私宛のメッセージを書き残せたのに。他の人の目に触れる心配もないし。だが、残念なことに、香菜子は、日記をつける習慣がなかった。
やはり、手紙を書くのが最善の方法だろうか?
書くとしたら、どのように書きだせばいいのか?

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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