キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
バックナンバー  1...1415161718...23 

第16回

2016.04.15 更新

いったん帰宅してから、落ち着いて可能性を考えるべきなのだろうか? とも思う。
まいや沙智と、いつかのように会って過ごしているうちに、記憶が本来あるべき時間と同調しようとし始めたのだろうか?
この記憶というのは、大介が死んでしまっている何もかもがカラッポの未来。そう、未来の記憶だ。
そして、感じた風。
全身で風を感じていたが、それは物理的な風ではない。
ホテルで食事をしているときの風は本当に吹いているかのようだったが、本当の風ではない、とわかり始め、道を歩いていて立ち止まったときに本当の風とはちがうものだとわかった。
強い風が歩いている香菜子の正面から吹いてきた。顔に吹きつけてきて思わず立ち止まり、それでも、閉じそうになる目をしっかりと開けた。
まわりの樹や電線や看板も、何一つその風に揺れてはいなかった。
だから、香菜子の心に激しく吹きつけていた風だということがわかった。
それに気付いたときから、香菜子を未来へ押し戻そうとしていた風がなくなったような気がしている。
これから発生するかもしれない風に対処できればいいが。その有効な方法がわかればいいのだが。
まだ、時間が必要だ。
まだ、大介は発病していない。
その間に、やるべきことをやりたい。
自分は過去に跳んで幸せだったか? もちろん幸福だった。しかし、これで、もう思い残すことはない、という気持ちには至っていない。
いや、どれだけ時間があっても、大介と一緒に過ごす時間に満足して、もういいとは思えないだろう。
高校生の頃、学校にお坊さんが来て講演してくれたことを香菜子は覚えている。その話の中で人間の宿命というべき八つの苦しみについて話してくれた。そのうちの一つに、愛別離苦(あいべつりく)というのがあった。愛する者と、別れなければならない苦しみ。高校生の香菜子には、まだ、ぴんとこなかった。しかし、その話は何故か、頭にこびりついていた。大介がいなくなってから、そのお坊さんが言っていたことの意味も実感できた。
人間として生きる以上は仕方のない苦しみなのだ、ということはよくわかっているつもりだが、あまりに苦しすぎる。
過去に戻る前は、「もう一度、大介に会いたい」という願いだったものが「もう、大介と離れたくない」というものに変化している。できれば、大介を救いたい。それが無理でも、発病を遅らせることはできないか? そして、それもかなわないというのであれば、せめて最後まで大介の願いをいろいろ聞いてやりたい。
そんな気持ちがわいている。
竺陣芙美と交わした約束からすれば、あまりにムシがいい願いだと香菜子自身にもわかっている。デイ・トリッパーに乗る前に芙美から釘を刺されたことにあきらかに違反している。
ただ、今すぐに自分がいた未来の時間に押し戻されてしまうのは、あまりにも切なすぎる。
まだ、少なくとも大介と一緒に過ごす時間は足りていない。
どうすればいい?
いつ、風に押し戻されるの?
そのとき突然、芙美の表情が蘇った。
そうだ、出発する前に芙美に尋ねていたのだ。私は、いつ帰ってくることになるのですか? と。
芙美はあのとき、こう答えた。
「身体が跳ぶわけじゃない。心が跳ぶから物理的な期限があるわけではありません。時期が来れば、香菜子さんが望もうが望むまいが、過去から送り返されることになります。それがいつのことだと、これについても伯父は言っていなかったわ」と。
突然、鮮明に思い出した。芙美の声までも聞こえたような気がした。そうだ、今はまだ機敷埜老人もデイ・トリッパーを完成させていない。完成していないのだから、現実に、過去に跳んだ心がどのように押し戻されるかわかるはずもないだろう。
だが、芙美はどうだろう?
根子島の温泉宿で会った芙美は、デイ・トリッパーの存在を知る未来の芙美だった。
直感で思った。あのときの芙美は、初めて過去に跳んできたのではないのではないか、と。
香菜子を過去へ送りこんだときは、まだ、デイ・トリッパーの法則性をよく知らなかったから、あのように説明した。しかし、あれから、デイ・トリッパーを使って、ある程度のことがわかったのではないか?
そして、根子島で会った芙美はまだ未来に戻らずに、この時間軸にまだ残っているのではないか? 自分のことを見張っているのではないか?
香菜子がバタフライ・エフェクトを起こさないように、香菜子に気づかれることのないように。
そのとき、香菜子は、ある疑問を同時に抱いてしまった。
そうだ。
この間までは、まったく風など感じなかった。突然、風を感じるようになったというのは、芙美の意志によるものなのではないだろうか。
根子島で香菜子に警告した芙美だが、それだけでは不安が拭えなかったのではないか。だから、あのときから香菜子を未来に押し戻そうと謀(はか)っているのではないだろうか。だとすれば、風を感じ始めた時期が根子島から帰ってきてからだというのもうなずける。
それなら未来へ押し戻す風を止めるには、芙美に頼むしかないということになる。
いや、何の根拠もない。自分の想像でしかない。本当か噓かもわからない。
だが、もし、この感じている風が、自分を未来へ押し戻すものであるとすれば、これから風の力はどんどん強くなるはずだ。その力をなんとか防ぎたいと考えるならば方法は一つしか思い浮かばなかった。
この時間軸にいる芙美を探しだして、彼女に相談することだ。
機敷埜老人は、まだデイ・トリッパー完成に至っていないし、未来では、もうこの世にはいない。芙美は、過去に数度跳んだ経験がある可能性がある。この風が芙美の仕業でないのであれば、どうすれば効率よくこの時間に踏み止まることができるか、その方法もひょっとしたら知っているはずではないか。
それから、いったん歩く足を止めた。
これからやることが決まった。
竺陣芙美に会おう。会って疑問をぶつけよう。それしかない。
歩き出してから、また足を止めた。
しかし、どこへ行けば芙美に会えるのだろうか?
最初に未来で会ったのは、今のホテルで偶然に。そして、指定されて行ったのは、機敷埜博士の研究所だったところを引き継いだ後のカフェだった。
香菜子は、どこを訪ねればいいか、まったく見当がつかなかった。
とりあえず、機敷埜博士邸を訪ねるしかないのではないか?
他になんの手がかりもないのだから。しかし、もしも、芙美が現れなければ、機敷埜博士邸へ行くことは、何の意味もなくなる。
芙美が機敷埜博士邸に頻繁に通うことになるのは、もっと後のことではないのか。
たぶん、芙美は、この町のどこかに住んでいる。
それは間違いない。だって大介の職場を彼女は訪ねているのだから。その数日後に根子島に訪れている。
間違いない。これは勘のようなものだ。
ふと思いついて、バッグの中を探した。
あった!
香菜子は、紙片を取り出した。
根子島の宿の領収書だった。
「オーベルジュたまや」とある。
携帯電話から、その領収書にある電話番号に電話をかける。
何度も呼出音が鳴る。
その呼出音を聞きながら、どう尋ねればいいのか、香菜子は必死で考えた。あわてて電話してしまったものの、まともに頼んでも教えてもらえないような気がする。
「はあーい」と電話の向こうで、声がした。
妙にしゃがれた声で、やる気なさそうに聞こえる。「オーベルジュたまやです」と明るい声が聞こえてくることを予想していた。しかし、この声は?
番号を間違えてかけてしまったのかと、香菜子は思ったほどだ。
「根子島のたまやさんですか?」と尋ねる。
「はあーい」もう一度声を聞いて、思い出した。
蝶ネクタイをしたたまやオーナーの父親の姿を。港まで旗を持って迎えにきてくれたではないか。朴訥(ぼくとつ)な島のお年寄りそのものだった。
オーナーや、その奥さんでなくてよかったと思う。かえって素直に尋ねることができるような気がする。
「あのう。私は先日、そちらにお世話になった中川と申します。夫婦で泊まったのですが」
「はあー。中川さん。はあー。なにか忘れものですかね。毎日、泊まりのお客さん来るからぴんときませんが。中川さん、中川さん」
香菜子は、宿泊した日を告げる。
「お父さんですよね。港まで迎えに来ていただいた」
「えー。今、調べているとこ。船の客迎えはわしの役だから、だいたい全部のお客さん、迎えにいくよ」
そんな素っ気ない返事が返ってくる。お客さまのお迎えじゃなくて、客迎えと言ったりするところで、まだまだ接客に慣れていないことがわかる。
本当にわかるだろうか、と少し不安になる。あのとき記入した宿泊者カードはまだ保管してあるはずだし、それを探しているのだろう。
「あ。あ。これかな。中川大介さん。二泊しておられるな。で、何でしたっけ」
「あのー。実は教えて頂きたいことがあるのですが」
「はあ、何でしょう」とオーナーの父親は怪訝そうな声になった。
「その日、もう一人、私たちと同じ日に宿に泊まったお客さんがいたと思うのですが」そこで一瞬、香菜子は口ごもった。そして思いきって「竺陣芙美さんという方なのですが」と告げた。
「は!?」とオーナーの父親は素頓狂(すっとんきょう)な声をあげた。「はあ。あんたの知りあいですか?」
宿の従業員から「あんた」と呼ばれるとは思わなかった。
「実は、亀の湯でご一緒したのですが、そのとき、高級な洗顔料を貸して頂いたんです。いろいろお話ししたのですが、その洗顔料の使い心地がとてもよくて。もし、気に入ったなら、手に入れる方法を教えますよって言っていただいて」 
「はあ、よくわかりませんが、そうなのですなあ」
「それで、その洗顔料を手に入れる方法を尋ねるつもりでいたら、翌日は早く宿を発たれたようで会えないままになってしまいました」
このような言い訳で通用するかどうかはわからない。しかし、一番あたりさわりなく芙美の所在を尋ねる言い訳は、これしかないと香菜子には思えた。何度、頭の中でこの言い訳を繰り返し練習したことか。
「帰ってから、自分でもいろいろと調べてみたのですが、わかりません。やはり、竺陣さんにお尋ねするしかないと思いまして。で、竺陣さんに連絡をとるには、こちらに頼るのが一番いいと思いまして。竺陣さんの連絡先を教えていただけませんか?」
そのようなことを自分が尋ねられたら、どう答えたものだろう。香菜子は、この電話をかける前に何度も自問してみた。
申し訳ありませんが、お客さまの個人情報に関することですので、お教えするわけにはまいりません。
そんな返答を思い浮かべてしまう。
「そちらには、一切ご迷惑をおかけしませんので、お願いします」
すると、オーナーの父親が言った。
「ああ。そういうことですか。そりゃあ、仕方ないですなあ。えー、電話番号がいいですか? 住所も必要ですか?」
やった! と香菜子は叫びたかった。あまりにもうまくいったので、へなへなとその場に座りこみたくなった。気をとりなおして、やっとバッグからボールペンを取り出した。
ついている。
電話に出たのがオーナー本人だったり、オーナーの奥さんでなかったのも幸運だったと思う。
「あの。よろしければ、両方教えていただけませんか?」
「はい、はい。わかりましたあ。じゃあ、申し上げますよ」
オーナーの父親が読みあげる電話番号と、住所をメモする。終わると香菜子は丁寧に礼を述べた。
電話を切って、香菜子は、一度大きな溜め息を吐いた。身体から緊張が抜けていく。
わかった。芙美の居場所が。
どうしよう?
とても、芙美に電話をする気にはならなかった。
住所を見ると、やはり、同じ市内だった。香菜子の感覚では、機敷埜老人の家から、そう離れてはいない気がする。
まず、この住所を訪ねてみよう。そして、芙美に会ってみよう。
香菜子はタクシーを止めて、メモした町名を運転手に告げた。
まだ胸がどきどきする。こうして行動していることがいいのかもしれない。不思議なことに、あれから香菜子は風を感じなくなっていた。
根子島の宿に電話をかけてからだ。使命感を持っているからに違いない。行動を起こしてからの自分は疾走している感じがあった。それが過去へ押し戻そうとする「時の風」に抗う効果があるのか?
見慣れた風景が、車窓を流れていく。そして、タクシーは坂道を上り始めた。
そこは、芙美のカフェ「デイ・トリッパー」があった場所のはずだ。
ということは、今はまだ機敷埜老人邸であり、研究所である。
香菜子の記憶に間違いはない。洋館風の民家がある。
あれから、機敷埜老人はどうしたのだろうか? デイ・トリッパーを実用化できる薬品にたどり着いたのだろうか?
それから、同時に機敷埜老人の運命に自分は干渉したことになるのだろうか、という考えが浮かぶ。
あれから機敷埜老人が健在であれば、芙美は機敷埜老人の研究を引き継ぐことはないわけだし、未来の香菜子の前に出現することはない。ということは、デイ・トリッパーに乗って過去に跳ぶことはない。
しかし、今、自分はここにいる。ということは、芙美はデイ・トリッパーを引き継いでいるということだ。
もう一つの考えが唐突に浮かんでくる。
今の自分が妄想の中で生きていると考えたらどうだろう。未来で大介を亡くし、悲しみに沈む日々を過ごしている。それは、そんな不幸な妄想を無意識のうちに抱いているに過ぎないのではないか。
いや、妄想などではない、とあわててその考えを打ち消す。根子島の宿に現れた芙美が、自分に警告してきたではないか。あのできごとこそが、自分が未来から跳んできたことの証明だ。芙美の警告さえなければ、未来の記憶は妄想と考えてもおかしくなかったかもしれないのに。
機敷埜邸からタクシーは右折して、ゆるゆると坂を下っていく。
坂の途中で、タクシーの運転手が尋ねてきた。
住所からすると、このあたりらしい。目印になるものはありませんか? と。
もちろん、香菜子にとっても知らない住所だから、目印となるものも教えようがない。
「このあたりでいいです。あとは歩いて探しますから」
タクシーを降りた。思えば機敷埜老人の家からも位置的に数百メートルも離れていない場所だということになる。それは意外なことだった。近所だったからこそ、芙美は親戚として機敷埜老人宅によく顔を見せていた。研究の手伝いも頼まれればときどきやっていたということか。
遠くの親戚より近くの他人というが、近くの親戚であれば最強ではないか。
このあたりは人通りが少ない住宅街だ。マンションと一軒家が混在していた。住所を確認しながら、香菜子は歩く。
宿のオーナーの父親は町名と何丁目何番まで教えてくれた。だが住所では、何番の後に何号まであるのだ。
その番地には、二軒のマンションも含まれていた。一軒家の表札を確認しながら香菜子は歩いた。竺陣という表札は見当たらなかった。珍しい名前だから見過ごすことはないはずだ。
一軒家の表札はすべて違っていた。とすれば、二軒のマンションのどちらかに住んでいるのだろうか? マンションにある郵便受けの名札で確認しようと思ったが、勝手に入れないしオートロックになっている。入っていく住民は暗証番号を押してドアを開いていた。その後をついていく手もあるが、それではあきらかに不審者の行動だ。
もう、教えてもらった住所で探す場所は他にない。
あるいは……。竺陣芙美は、本当の住所を宿帳に記したのだろうか? 過去に証拠を残さないように、思いつきの住所を書きこんだという可能性もゼロではない。
一つのマンションの一階は、美容院になっていた。
この美容院に、尋ねてみるのはどうだろう。ただ、自分なら近くの美容院は使わないから「知らない」という答えが返ってくるのが自然だろう。どうしよう。どうすれば竺陣芙美に会える?
香菜子は、あてもなくぼんやりと立ちつくすしかなかった。
そのとき奇跡が起きた。
マンションから芙美が出てきたのだ。

バックナンバー  1...1415161718...23 

著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

ページトップへ