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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第14回

2016.02.15 更新

中年女性たちにはこの世に怖いものは存在しないかのようだ。香菜子だったら恥ずかしくてとても口にできないことまで平気で尋ねてくる。
「ねぇ。ちゃんと家族計画、話し合ってるの?」という質問は香菜子に向けられたものだ。三人の女の視線が、彼女を刺していた。香菜子は、その迫力に思わずごくりと生唾を飲みこんでいた。
代わりに大介が答えた。
「ええ。そろそろ、子どもが欲しいねって話しているところです。今回、こちらに休暇で来たのは、そんな目標もあるものですから」
大介の答えがツボだったのか、三人の中年女性は声をあげて笑い、「そうだよ。そうだよ。その意気だよ」とテーブルを叩いて喜んだ。香菜子は照れ臭く、うなずくことしかできなかったが、大介の答えが嬉しくてならなかった。
大介のことが余程気に入ったのか、それから中年女性たちは、代わる代わる二人にビールを注ぎに来た。おまけに大介に握手まで求める始末だった。どれだけ飲まされたのか、はっきり覚えていない。数本のビール瓶が、畳に転がっていた。しかし、それからすぐ、香菜子の酔いは一瞬にして醒(さ)めたのだった。
中年女性の一人が、大介と握手をしたときのことだった。その女性は一番年長らしかった。痩せていて、不思議な形のネックレスを身につけていた。彼女もほろ酔い気分で大介の手を握った。
「あら、ら、ら」と呟く。彼女の表情からみるみる笑みが消えた。それから、大きく息を吐いた。「こりゃあ、何と言ったらいいんだろうねぇ」と困ったように漏らした。
「えっ? どうしたんですか?」と大介が奇妙に思ったのか問い返す。
年長の女は、う……う……、と低い呻(うめ)き声を漏らす。「気分が悪いんじゃありませんか?」と大介はもう一度声をかけた。
連れの女性が「何か見えた?」と心配げに尋ねた。もう一人が、大介と香菜子に、大きく首を縦に振ってみせた。
「この人はね“ぴったりさん”なんよ。ネコ神さんのところの人だからね」
「はあっ?」香菜子にはよく意味がわからない。わからなくてもなぜか不安はつのる。
「ぴったりさん……ですか?」
「ああ。いつもは、私たちと変わらない。でも、ときどき、ぴったりさんになるんですよ。ぴったりさんはネコ神さんが降りてきたとき、なんでも見えるようになる」
一人が、そう解説した。
年長の女性、ぴったりさんは、ゆっくりと大介から手を離した。それから、何か言いたげに口をもごもごさせる。それから言った。
「帰る前に、ここの根子神社にお詣(まい)りしていきなさい」
香菜子には感じるものがあった。ぴったりさんには大介のことが見えたのだ。大介の未来が。
「大介さんに何か起こるんですか?」
たまらずに香菜子がそう尋ねると、まっぽしさんは、やっと口を開いた。
「何かはわからない。でも、ただごとじゃない気配が伝わってきたんですよ。事故か、仕事のトラブルかは、わからん。本人は気付かなくても身体はその気配を察してる。だから、その邪気(じゃき)を祓(はら)っといたほうがいいと思ったのですよ」
きっと大介に忍び寄ってくる病のことに違いないということは、わかる。
「ありがとうございます」と大介が、まっぽしさんに言った。
「十分用心します。だって私は今、どうかなるわけにはいかないんですよ。私がどうかなってしまったら、妻は一人になってしまう。妻を守る人が誰もいなくなるんですから」
その大介の言葉を聞いた途端、堤防が決壊したように香菜子の目から涙が溢れて止まらなくなってしまった。思わずテーブルの上に置かれた大介の腕を握ってしまっていた。
「ごめんよ。奥さんを泣かせてしまう気は毛頭なかったんだ」
申し訳なさそうに、ぴったりさんの女性が、立ち上がった大介と香菜子に深々と頭を下げた。部屋へ戻るとき、大介が言った。
「気にしないほうがいい。まさか泣き出すとは思わなかった。あんなこと信じないよ。気にしないで」と。大介は、そんな予言は非科学的だと考えるほうなのだ。信じちゃいないよ、とひとりごとのように繰り返していた。
それからの時間は、香菜子にとっては、蜜月(みつげつ)の時だった。気がつけば日をまたいでおり、あれほど二人が待ち望んだ休暇の終わりが近付いていた。「オーベルジュたまや」はやはり最高のチョイスだった。
宿を出ると、来たときと同じように老人が二人の荷物を持ち、渡船場まで見送ってくれようとしていた。手を振る主人夫婦に別れを告げ、港へ向かう。そして根子温泉の横にさしかかったとき、香菜子は立ち止まった。それから大介の腕を握る。
「ねえ。大介いい?」
その返事を待たずに振り返って老人に尋ねた。
「ネコ神さんって遠いんですか?」
老人は、少し首を傾げ、「ああ」と頷く。
「根子神社かね。遠くないよ。船の待合所の裏に坂がある。その坂を上りきると、根子神社だ」
連絡船は一時間に一本はあると香菜子は宿で聞いた。だから、「ねえ、大介。根子神社に寄っていい? 坂を上るから少し汗をかくかもしれないけれど」と言ったのだ。次の便にしてでも行っておきたいと。
大介が、それを断る理由は何もなかった。
「ああ、いいよ」と返ってきた。
老人には礼を述べて帰ってもらい、二人は坂を上り始めた。お宮は見えないが、老人の言葉を信じれば、数分で着くに違いなかった。
午前中とは言え、坂道を歩きながら香菜子は首筋を汗が伝っていくのを感じていた。その前に大介の広い背中がある。そして彼の右手が香菜子に差し出される。顔は坂のほうに向いているので、大介がどんな表情をしているのかわからないが、手を引いてあげるよというように指をぴょこぴょこと動かしてみせる。それから、「疲れたろう? 息切れない?」と振り返りもせずに尋ねてくる。そんなお茶目な大介が大好きだと思う。
坂を上りきったところから、視界が開けて海が広がる。振り返ると、そこも海だ。いかに根子島がちっぽけな島だったのかということが、よくわかる。
道の右手に二本のアコウの樹があり、その間を細い道が続いていた。鳥居(とりい)があり、その奥に神社があった。これが、ネコ神さんのお宮のようだった。名前が根子(ねこ)神社ということであって、猫を祀ってあるわけではないようだった。代わりに大鯛を抱えた恵比寿像が鳥居の横に飾られていた。ということは、この島の主産業である漁業を守護する神社なのかと香菜子は思った。あまりにもこじんまりした神社だし、誰を祀ってあるのかなどの縁起が書かれた掲示板もない。お宮の左斜面に民家が一軒建っていた。そこから、人の気配がした。女性が一人出てくる。その女性は昨日のぴったりさんだとわかった。
二人に駆け寄ってくる。「やはり来たね。よかった。よかった」と言った。
「わかっていたんですか?」と大介が尋ねた。
「なんとなくねえ。もうお詣りしたの?」
「いえ、これからです」
ぴったりさんに連れられて行くと、お宮の後方に巨石があり、お宮は地面から巨石が突き出た部分のぎりぎりのところに建てられていることがわかった。
「穢(けが)れを浄化してくれるから、お詣りしなさい。昨日、帰ってから私も祈祷しておいたから」
「私たちのことをですか?」
「もちろんだよ。かなり祓えたと思うが、自ら清めていただくことが大事だからね」
結局、香菜子は、ネコ神さんの主神が何かはわからぬままに、二礼二拍手一礼をする。
その瞬間、香菜子はお宮の奥から冷たい風が吹いてきて頰を撫でるのに気付いていた。パワースポットでは霊気を感じると聞く。これがそうなのか、と思う。お宮の奥に岩壁を見ることができた。岩壁は縦に亀裂(きれつ)が走っていて、壁の奥まで闇が広がっているようだ。冷たい風は、そこからのものだったようだ。
「感じた?」と香菜子は大介に尋ねる。大介も「うん」と答えた。
ぴったりさんが、隣で「まあ、できることは、やったわけだから、あとはしっかり二人で頑張って。少しでも邪気(じゃき)を消さんとね」
大介と香菜子は、ぴったりさんに頭を下げた。
「これで、大介さんは大丈夫なのですか?」
香菜子は、そう確認した。ぴったりさんは、少し肩をすくめてみせる。
「なんでも、これで大丈夫ということはないんだよ。今、私たちでやれることは、全部やったということ。これで何も起きなければいいが」
二人は根子神社を後にした。少し、香菜子の気は軽くなったように思う。大介の安全の保証が得られたわけではないが、あのまま船で根子島を去ってしまえば、後々まで後悔を抱えこんでしまったような気がする。
帰りの連絡船の中で、大介がこの話題に触れることはなかった。根子島でぴったりさんに案じられた運命のことなど眼中にないようだった。「気がすんだかい」とだけ、香菜子に言ったということは、あくまで、香菜子につきあったということだったのだろう。
帰りの連絡船は、便を一つ遅らせたからか、乗客は香菜子たちだけだった。申し訳なく思った。
連絡船が海上を滑るように走り始めてから、唐突に大介が尋ねてきた。
「もしも、香菜ちゃんがおめでたになったら……、えーと。あの、そういうことは、いつくらいにわかるのかな?」
大介が言葉を選んで恥ずかしそうに言っているのが、香菜子にはよくわかった。その証拠に大介の耳たぶが赤くなっている。他に乗客がいないから、そんな質問ができたのかもしれない。しかし、香菜子は、そんなふうに尋ねてくれる大介の気持ちが嬉しかった。子どものことを楽しみにしてくれている。
「私もよくわからない。でも、わかったら、すぐに大介に教えます」
そう答えた。大介は、ほっとしたように目を細め、「うん」と頷いた。
視線を外に移すと、船の窓に波しぶきがかかるのが見えた。そして、ぼんやりと思う。あっという間の三日間だった。いろいろなサプライズがあったが、幸福な時間だったと香菜子は感謝した。そして、大介が望んだことが一つかなえられたことになるのだ。ひょっとして、ちがった運命が動き出してくれるのだろうか?
わからない。わからないが、香菜子は、そう願うしかない。
思わず、香菜子は大介の腕を強く握る。大介が驚いて香菜子の顔を覗きこんだ。

数日が経つ。楽しかった小旅行の思い出をたどると、映像として浮かぶのは連絡船の船室での大介のやさしい眼差しだ。香菜子はそんなとき、無意識のうちに自分の腹部に手をあてていることに気づく。自分でも笑顔になっていることがわかる。
つい先日の温泉旅行だったのに、もうずいぶん前のできごとだったような気がする。
日常に戻った翌日に、香菜子は結婚披露宴の案内状を受け取った。
「ああ、もうこんな時期になったのね」と香菜子は呟いた。
高校時代からの親友、安井沙智からだ。まだ、案内状では旧姓の永田沙智になっていた。このあと、中原まいの結婚も続くんだな、と思いだす。
そういえば、まいや沙智と、この頃に連絡をとりあって一度会っていたわね、と思ったときだった。
電話が鳴った。それが、まいからの電話だった。香菜子はそのシンクロニシティーに驚いていた。
「今、まいのことを考えていたの。びっくりだよ」
「お久しぶり。沙智から結婚案内状が届いたでしょう」と、まいは開口一番にそう言った。
「そう。そのとおり。だから、まいのことを思い出したんだよ」
まいは、豪快にからからと笑った。思わずこう言ってしまった。
「まいも、準備進んでる?」
「えっ? 何の?」
「まいの結婚式」
「えっ? どうして香菜子が知っているの? 私、言ったっけ」
香菜子は、そう言われて、しまったと思う。未来の自分の記憶を引き継いでいるから、当然のように口にしてしまったけれど、ひょっとしたらこの時点の香菜子は、まだ、まいの結婚話については、まったく知らなかったのではないか。
「あれっ。私、勘違いしていたのかも。そんなこと言っていなかったっけ」とあわてて誤魔化(ごまか)したが、うまくいったかどうかはわからない。ただ、電話の向こうでまいがしばらく沈黙しているのがわかった。
「どうしたの? まいが、気分悪くしたのならごめん。で、用事は何だったの?」 
ふっと思い出したようにまいが答える。
「あのさ。沙智から連絡入ってね。話していたら、どうも気持ちが落ち込んでいるみたい。で、少し心配になったの」
「えっ、そうなの?」
「うん。なんだか、香菜子のところにも電話したようだけれど、通じなかったみたい」
それは、香菜子が大介と根子島を訪れていたときのことらしい。家の電話にかけてもらっても当然出られなかったし、根子島は携帯電話の電波が悪く、通話圏外のことが多かった。そのことを正直に香菜子はまいに伝えた。
「沙智は、どうしたのかしら」
「ほら、結婚が近付くと、不安になったり落ち込んだりするいわゆるマリッジ・ブルーじゃない? だから、まいは香菜子にもまず電話したんじゃないかしら。香菜子なら結婚生活の先輩だから、いいアドバイスがもらえると思ったみたいよ」
マリッジ・ブルーというものは、結婚前の香菜子は知らなかった。結婚した後、雑誌かテレビで知った気がする。
結婚が決まるまでは幸せの絶頂なのに、いざ結婚が決まるといろいろなことを考え始めて不安になってしまう、というのだ。結婚式の準備にまつわるストレスもそうだし、新しい環境へ入ることの不安もある。そして、新たなパートナーとなる彼のことも、改めて考えてしまうという。果たして、この人でよいのだろうか、と。それらのすべてがのしかかってくるのがマリッジ・ブルーだ。
マリッジ・ブルーという言葉を知ったとき、香菜子は自分が結婚するのときのことを思い返してみたことがある。
香菜子は自分がマリッジ・ブルーになった記憶はまったくなかった。
大介と一緒に暮らすことになる、というワクワク感しかなく、大介とうまくやっていけるだろうかという心配は微塵(みじん)もなかったと思う。
「だから、久しぶりに三人で会おうよ、ということになったのよ。私はいつでもいいよ。二人に合わせるから。土、日はご主人休みなんでしょ。ご主人が休みのときは都合が悪い?」
大介が自由な時間は、可能な限り一緒にいたいと思っていた。香菜子にとって大介のいる時間は有限だという気持ちがある。もし、運命が変わったにしても、大介と一緒に過ごす時間の貴重さは身に沁(し)みている。
「うん。私は主人が休みのときはできるだけそばにいて、彼の世話をすることにしているの。よかったら、土日以外の昼間にしてもらえると、ありがたいなあ」
まいは「ごちそうさま」と言った。
「じゃあ、月、金のどこかで沙智と調整してみるね。一緒にランチしようね」
結果的に、その週の金曜日に三人は集まることになった。まいによると、沙智は一刻も早く二人に会いたい気分だったのだという。
約束の場所は、いつもまいが指定するホテルだった。
香菜子にとって、前回訪れた記憶は大介がこの世を去った後のことだ。仲良しの二人に会うために気力を振り絞ってきたのだ、ということを思いだす。
沙智の結婚式の前に、このようにホテルを訪れていたのだろうか?
記憶があやふやだ。
来たような気もするのだが、確信はない。しかし、前回二人に会う前に、自分の泣きはらした目を化粧室の鏡の中に見ていたときのことが忘れられない。
到着したのは、約束の時間ぴったりだった。いつもロビーで待ち合わせ、その日の気分で食べるものを選ぶ。
ロビーに入ったとき、香菜子は無意識に周囲を見回していた。
思わず「いけない。いけない」と自分に言い聞かせる。ひょっとしたら芙美の姿があるのでは? と探してしまったのだ。この時点ではおたがいの存在を知らないはずなのに、そんなところを芙美に見られてしまったら、タイム・パラドックスの引き金を引くような行動だと非難されるにちがいない。
少なくとも、香菜子が今、無意識に見回した限りでは、芙美の気配はないようだ。それだけでも、ほっとする。
ロビー中央のソファには、すでに沙智とまいがいた。沙智は香菜子の姿を見て、待ちかねたように立ち上った。まいは目を細めてひらひらと両手を振っていた。
香菜子は二人に駆け寄って「沙智おめでとう!」と言う。
沙智は感極まった様子で、目頭を押さえていた。香菜子が大丈夫よ、と肩を叩いてやる。
「香菜子ごめんね。呼び出しちゃって。でもありがとうね」
まいが、今日は和食の気分だと言って、地下のレストランを選んだ。香菜子も沙智も異存はなかった。
「昼間っからだけど、ビールを飲みたい気分よね」とまいが席に着いた途端に言い出した。それが、沙智に気を使ってのことだと、香菜子にもわかる。
沙智はビールが大好きなのだ。
「お久しぶりね。乾杯」
グラスを合わせると沙智に笑顔が戻った。大介が逝った後に呼び出してくれたときも、二人は私に気を使ってくれていたんだと、よくわかる。それだけに、二人の友情がありがたかった。
最初は、おたがいの近況を断片的に報告しあう。沙智に関しては、彼女自身が口を開くまで二人から何か尋ねたりはしない。ただ、香菜子は沙智に対して、「ごめんなさい。私にも連絡をもらっていたみたいで。ちょうど、旅行している頃だったんじゃないかと思うの。だから、まいから連絡あるまで知らなかったの」と言った。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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