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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第13回

2016.01.15 更新

「せっかく、ここまで来たんだから、亀の湯を覗いてくればいい。入るのは後からでもいいさ。宿の温泉とは、また雰囲気が全然ちがうからさ。ひなびた田舎の湯という感じで、日本の故郷(ふるさと)へ帰ってきました! っていう気分になれる。というか、昭和時代にタイムトラベルしたという気にさせてくれるから」
大介の口から、タイムトラベルという言葉が出てきたのは、偶然だとは思うが香菜子をドキッとさせるには十分だった。
「どうしたの?」と大介が問いかける。それで香菜子は自分が固まっていたことに気付いたほどだ。
「い、いえ。どうもしないわ」とあわてて答えた。
「大介が見つかったから、安心した。亀の湯は、あとで行ってみるから」
とても、のんびりと亀の湯を覗いてみる気分にはなれない。それよりも、大介に自分が動揺していることを見抜かれるのではないだろうか? ということのほうが気になった。いや、すでに見抜かれているのかもしれない。
突然、大介が香菜子の左腕を摑んだ。
「気分が悪かったりしないか? ほら、鳥肌が立ってる。熱があるんじゃない?」
と大介は案じていた。香菜子が答える間もなく、大介の手の平が額(ひたい)にあてられた。大介の手は温かく、そして同時に温泉の硫黄(いおう)と潮が混ざったような独特のにおいがした。
「よかった。熱があるわけじゃなさそうだね」
香菜子は、自分で鳥肌が立っていることなど気がつきもしなかった。
「大丈夫。心配しないで」と言うのが、やっとだった。目が潤んでくるのがわかった。そのことに気付かれないように、香菜子も大介の手を握った。
それから、部屋へ戻る。
気温が急速に上がっていく。遠くで船の機械音が聞こえてきた。
漁船だろうか? いや、本土との連絡船かもしれない。芙美があの船に乗っているに違いないと思った。
これまでは、どうすれば芙美との約束を守りながら大介との時間を悔いなく過ごすことができるのか、また、うまく大介を救う方法もあるのではないかと考え続けてきた。それが香菜子の日々の思考の中心だった。だから楽しい毎日の中でも、刻々と着実に近付いてくる大介との別れに対しての脅えだけがあった。何か、大介を襲う悪夢のような運命を避ける方法がありはしないのか?
そして、今の香菜子には、芙美の出現で、新たな心配ごとが一つ増えたことになる。機敷埜博士のことは、自分には何も落度はないと香菜子は思う。なのに、あのような恐喝めいたことを言われるとは。
もう一度、大介は「大丈夫?」と部屋に戻ってから香菜子に言った。やはり、大介には普通じゃないように見えるのだろうか?
頭を切り換えなくては! と香菜子は自分に言い聞かせる。芙美が去ってから時間が経過したこともあるのだろうが、少しは落ち着きを取り戻せたような気がする。そして、今、何故、自分がここにいるのかを思い出した。
温泉宿で過ごしたい、という大介の願いをかなえるためだ。不安な様子のまま大介の前で過ごしていたら、大介の願いを裏切ることになってしまうではないか。
香菜子は、大きく頷いてみせ「まだ、歯も磨いていなかった」と洗面台の前に立つ。そして、できるだけ明るく「ねえ。今日は何をして過ごそうか? この島のおすすめって何かしら?」と尋ねる。
「ほら」と大介は悪戯(いたずら)っぽい目に戻っていた。香菜子はもう大丈夫だと、安心したのだろう。
「この島では、何もしないことこそ、最高の過ごし方だって言ったろう。やはり香菜ちゃんは、せっかちなんだよ。ぼくにも、そんなところがあるからね。何かせずにはいられない。何かしないと罪悪感を持ってしまったりするんだなあ」と自嘲(じちょう)的な笑いを浮かべていた。
朝食は、テラスに用意してくれた。テーブルは一つしかなかったが、このときの客は香菜子たちだけだから、食堂でもテラスでもどちらでもと、主人が言ってくれたからだ。クーラーこそないが、潮騒を聞きながらとる朝食を選んだ。それだけで宿の印象もがらりと変わってしまう。
まず、風が違う。潮のにおいが感じられる。潮騒だけではなく、名も知らぬ鳥の囀(さえず)りも聞こえてくる。なぜこんな小島までも鳥は飛んでくるのだろうか、と不思議になる。
鳥だけではなかった。ここにも傍若無人な様子の猫がいた。テラスの人間たちなぞ、怖くもないし興味もないというように猫がうろついていた。白地に黒模様の二毛猫で、鼻の下と右目の上に髪が垂れたような黒毛があり、大介は「ヒットラー猫だ」と言ったのが、香菜子のツボにはまり、大笑いすることになった。
二毛猫は、そんなことは自分には関係ないというように、庭の隅にあるアコウの樹に跳びのり、枝の上で身体を休めていた。その視線はどこでもない場所に向けられている。まるで、『不思議の国のアリス』に登場するチェシャ猫であるかのように。
主人は、サラダとヨーグルトとジュースを置き、卵をどのように料理するかを尋ねた。大介はオムレツ。香菜子は半熟のゆで卵を頼んだ。それぞれの卵料理にかりかりに焦がしたベーコンと手造りのソーセージが添えられていた。パンが欲しいと思ったら、パンケーキとフレンチトースト、それに自家製のアップルパイと焼きたてパンから選択するのだという。大介はフレンチトースト、香菜子はアップルパイを選んだ。
朝食だけで、もうお昼は何もお腹に入らないのではないかと思える豪華さだった。
「うまいなあ。こんなに美味しい朝食を食べずに帰ってしまう人もいるんだから、もったいないよなあ」
そう大介が言う。まさに香菜子もその時、同じことを考えていたのだ。芙美は、この朝食は知らないまま、そそくさと帰ってしまった。もったいないことだ、と。
ふっと、大介を見ると、彼もじっと香菜子を見ていた。
「そう言えば、朝、亀の湯から上がってきたとき、この宿を発(た)とうとしていた女の人を見かけたんだよね」
香菜子は、びくんと背筋を伸ばす。
何? 何ごとなの? 芙美さんのこと?
「それで?」
「その女の人、たぶんぼくたちが夕食をとっているときに一人で食べていた女の人なんじゃないかな。ぼくの席からは、よく見えなかったんだけれど」
「さあ、どうなのかしら」
そう答えるのが、一番あたりさわりがないと思ったのだ。
「その方がどうかしたの?」
「うん」と大介は首をひねる。「近くで見なかったし、昨夜は気にもかけなかったのだけれど、今日、遠目で見て思ったんだ。ぼくが会ったことがある人なんじゃないかな、と思ってね」
香菜子は大介の言葉を聞いて、口から胃が飛び出すのではないか、というほど驚いた。
「離れていたから、見間違いかもしれないけれど、目鼻立ちがはっきりした人だし、動きもきびきびしているから、たぶんそうだと思うんだよね。一人で来ていたみたいだし、朝食も食べずに帰ってしまうなんて、もったいないし変わっているなあ、と思ったんだ」
香菜子は、まさか大介の口から芙美のことが語られるとは予想もしていなかった。だから、どうリアクションすればいいのか、まったくわからない。
「どこで会った方なの?」
そう聞き返すことしかできない。大介の記憶に間違いはないだろう。それに芙美は個性的だから一度会ったら忘れることはないだろう。
「半月程前だったかなあ。仕事場に来た」
疑問符が、香菜子の中を駆け巡る。
「もう、いいか。気のせいだったかもしれないし、他人の空似(そらに)ということもあるし。そんなこと、香菜ちゃんは何の興味もないだろうし」
大介は、そこで芙美の話題を打ち切ろうとする。
「興味あります。大介のことだったら、私、すべて知っておきたいの。どこで、どう知り合ったのかを教えて」
大介は香菜子の気迫に押されたようで、目をぱちくりさせ、それから「わかった」と続けた。
ひょっとしたら、大介は香菜子に誤解を与えたと思ったのかもしれない。だから、こう付け加えた。
「別になんでもない女の人だからね。香菜ちゃんは安心していいよ」
「別に、心配はしていません。ただ、そんな話は聞いていなかったから。私、大介のことはなんでも興味あるの。だから知りたいだけよ」
そう言われると、大介は、わかった! というように頷く。
「二週間くらい前だったかな。所長が、『今日訪ねてくる客に会ってあげてよ』と言うんだ」
大介は設計事務所に勤めている。
「所長に、ぼくが会うんですか? と尋ねたら、先方のご指名だからって言うんだ。そして、訪ねてきたのが、彼女だったんだ」
「何しに来たの? 大介に会いに?」
「なんか、カフェを開きたいと言ってたなあ。古い洋館タイプの建物があって、そこを利用したいからって。建物の写真を何枚か持ってきていた。正直ぼくは建物を設計するほうだから、この話は専門外だと思って断ることにした。インテリアの設計専門の方をご紹介しましょうかってね。だけど、なんだか、話が要領を得ないんだ。で、どうして私を訪ねてこられたんですか? と聞いたら、紹介されたと言って、ぼくの知らない人の名前を出された。知らないと言ったら、紹介してくれた方は、すごく中川さんの能力を評価されていると。そして、その方はあなたの奥さまのことも褒めておられたって」
「私のこと?」
「他に誰がいるんだい」
「その方の名前はなんていうの?」
竺陣芙美と言わなかった? と口に出かかったが、あわてて抑えた。
「確か、名乗られたけど、平凡な名前だった。名刺も渡されなかったしね。縁があるなら、また訪ねてくるだろうと思ったから。変だなと思ったのは、プライべートなことをよく質問してきたことかな」
「どんなことを?」
「休みのとき、香菜ちゃんとどんなふうに過ごしているか、とか」
「変なの。変だと思わなかった?」
「女の人の普段の会話ってどんなことを話しているのか、よくわからないからなあ。そんなものなのかなあ、と思ってはいたよ」
芙美に違いないと香菜子は確信する。大介がどこに勤めていたかは、少し調べてみればわかったはずだ。あるいは、香菜子自身が、芙美に話していたかもしれない。芙美が大介に語ったのは、ほとんど噓っぱちだろう。大介が覚えていない平凡な名前も、おそらく噓だったのだろう。
「今度、奥さん孝行で、一緒に温泉へ行くんですよ、とは言ったなあ。そのくらいは、口を滑らせたかもしれない」
しかし、ここに泊っているということは、それだけでは芙美にはわからないはずだ。
「あっ。そういえばあのとき事務所にここから電話があったことを思い出した。予約確認の電話だったから、席をはずして、電話に出たよ。すぐに切ったんだけど、席に戻ったとき、この温泉宿に行くことは軽口で言ったと思う」
電話で日時も口にしたろうし、連絡船のことも出たのではないか、と香菜子は思った。
そうだとすれば、芙美がここに現れたこともわかる。過去へ跳んだ香菜子の行動を監視し、度を過ぎることがないように釘を刺そうとしたのだ。
「だから、ここに現れたのかな? まさかね。テレビのミステリードラマでもないのにね」と大介は頭を搔いた。まともに考えれば、とてもありえない話だ。
「だから、ぼくの見間違いだったかもしれないと」
「うん。わかった。ありがとう。ちゃんと話してくれて嬉しかった」
そう言いながら、逆に香菜子は自分がほっとしているのを感じていた。だって、そうではないか。今、大介から聞いた話をまとめてみると、芙美が目的不明ながら大介の仕事場に現れて、しかも根子島までやってくるという行動には、執念(しゅうねん)のようなものを感じてしまう。香菜子が機敷埜老人と接触したことを知って、忠告するためだけにここまでやるのだろうか。タイム・パラドックスを引き起こしかねない行為をしているのは、断然、芙美のほうではないか。
本来の大介の人生の中には、芙美は登場しなかったはずだ。それだけでも大介の運命の流れを大きく変えていく要因になるのではないか。芙美が運命を変えないように、と加菜子に忠告しても、運命を変えてしまうのは芙美のほうかもしれないではないか。そう思ったからだ。
芙美に自分を責める資格はないわ。
香菜子はほっとすると同時に、そんな考えが生まれているのも感じていた。
「どうしたんだ。香菜ちゃん。急に笑顔になって。なんだか、さっきと人格が変わったみたいだ」
そのとき主人がフレンチトーストと焼きたてのアップルパイ、それにコーヒーを運んできた。その匂いと共に、香菜子は幸福な気持ちになった。なんだか、今まで心の隅でもやもやしていた霧が晴れわたったような感じだった。
そうだ。もっと、大介との時間を自由に楽しく過ごしてみよう。
そう、気持ちが切り替わった瞬間だった。残された二日間は、訪れる運命のこともデイ・トリッパーのことも、機敷埜老人や芙美のこともすべて忘れて、目の前の大介と一緒に、楽しい時間を過ごそう。
そして、根子島の温泉宿で過ごしたそれからの時間は、一時も大介から離れることはなかった。朝食の後は二人で湯につかり、海辺に出てそぞろ歩いた。猫たちを木蔭で見かけては一緒に遊び、堤防で釣糸を垂れる子どもと他愛もない話をした。
暑くなると宿に戻り昼寝をした。そんなにゆったりした時間を過ごしているつもりでも、お昼が来るのは早かった。
昼食は亀の湯休憩室に行った。亀の湯休憩室もたまやの一部だと聞いていたからだ。注文を聞きに来たのは「オーベルジュたまや」の主人の父親だった。二人の顔を見ると老人は心底嬉しそうだった。
「おお。三食イタリアンだと飽きますよねぇ。今日の昼はここ、わしが当番だから。何にするかね」
老人は昨日のワイシャツに蝶ネクタイではなく、半袖の下着に紺の前掛け姿だった。肩にはタオルがかかっている。その姿は、本来そうあるべき老人の姿だ。あまりにもぴったりと決まっていた。こここそが老人の居場所であるということがわかる。
しかし、何にするかね、と問われても、壁にはチャンポンと定食いろいろ、としか書かれていない。大介が「迷うなぁー」と漏らす。「やはり名物のちゃんぽんかなあ」と。それから、大介は老人に「おすすめは何ですか?」と尋ねた。
すると、「腹は減ってるかね?」と老人が問い返す。
「朝食がすごい量のご馳走だったので」
「じゃあ、それを二人分」と大介が言うと、老人は「いや、一人前で十分だろ」と答えた。
しばらくすると、老人が料理を運んできた。香菜子は、「一人前で十分だろ」の理由がわかった。空腹ならともかく、一人前にしてはかなりの量だった。香菜子にも小皿をくれる。二人で分けて食べろということだろう。
皿に刺身が大量に盛られていた。丁寧な盛り方ではなく、刺身がうず高く積まれているという感じだった。とにかく量が半端ない。それに炊き立てのご飯が丼一杯に盛られ、それから煮物が一皿ついてきた。魚のあらを煮たものだ。そして味噌汁、大根とタコのサラダ。
「今朝、届いた鯛で、それが大きいの何の。見事だったあ。鯛は根子島の名物だから。あら煮も鯛で、これはサービス。刺身を食べあきたら、醤油をかけて、漬(づけ)にして鯛茶漬作って食べればいい」
まさに、一人前でも二人で食べきれるかという量だった。
「仕事するわけでもないなら、ビールが合うぞい」
大介と香菜子は顔を見合わせた。
「じゃあ、ビールお願いします」
それからも、ゆるゆると時間が流れていった。刺身は新鮮ゆえに身が縮んでいてぷりぷりとした食感だった。大介が注いでくれるビールを香菜子も遠慮なく飲む。
「いつも、この時間は必死で計算して、図面引いているんだよなあ」と大介がしみじみとした口調で漏らした。
「香菜ちゃんは、家の掃除しているくらいの時間だろ。何だか、こんな明るいうちにビール飲んでいて、噓みたいだし、後ろめたいよなあ」
あら煮もほどよい甘辛さで、本当に美味しいと香菜子は思った。鯛の巨大な頭から身を丁寧に剝がす。そして大介に言う。
「休みなんだから、仕事のことは思い出さないの!」
「いやあ、仕事の手がふっと止まったときは、温泉でも行きたいなぁという考えがよぎるし、こんな幸福な時間を過ごしているときは、仕事のことを思い出してしまう。人間ってホント勝手なものなんだなあ、と思うよ。あ、お父さん、ビールをあと一本いいですか?」と老人に叫んだ。
「幸福な時間? 幸福?」と香菜子が問い返す。
「ああ、幸福だよ。断言!」
次のビールが運ばれてきたとき、今風呂から上がってきたばかりの中年女性が三人、食事処の休憩室に入ってきた。三人は、冷蔵庫からビールを取り出し、かって知ったる感じでコップも置く。常連だとわかる。「お父ちゃーん。上がったよー」と一人が叫ぶと、注文も聞かずに、小皿に盛った料理が運ばれてきた。
女性の一人が香菜子たちに気がついた。
「おやあ、こんにちは。根子島は初めて?」
「いいとこでしょう。のんびりしてるね」
「ご夫婦ですかあ?」
三人が同時に声をかけてきた。どう反応していいかわからずに、「どうも」と香菜子は頭を下げる。大介はどのような反応をするのだろうと思ったら、やはり人あたりがいい。
「初めて来ましたが、いいとこですねえ。ゆっくりさせていただいてます」と答えていた。それから最後に「妻です」と香菜子を紹介する。香菜子は、もう一度、頭を下げた。
老人が顔を出し「たまやに泊っとるお客さまだから、あんまりいじらんでおいてくださいな。街の人だから」
「ああら」と女性たちは顔を見合わせた。好奇心に火がついたらしい。「子どもさんは?」
「いいえ。まだ、子どもは」と大介が答える。
「そりゃあ、早いうちに作ったほうがいいわよ」

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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