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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第12回

2015.12.15 更新

反射的に香菜子は顔を伏せた。どうすればいいのかわからず、頭が混乱してしまったからだ。
見間違いであってほしい。
心の中で、そう願った。もう一度、顔を上げたら全然別の女性が座っている。そうに決まっている。心の奥底に、芙美に対する脅えが潜んでいるから、別人に芙美のイメージを投影してしまったに決まっている。
香菜子は、そんなふうに自分に言い聞かせて、ゆっくりと顔を上げてみた。
大介の向こう側に、女性の顔が見える。ピンクのTシャツを着ている。こんな宿に、女性が一人で泊まるなんて。いや、だからこそ芙美に見えてしまうのではないか?
間違いなかった。
竺陣芙美だった。
どうして彼女はここにいるのだろうか? 自分の後をつけてきたのだろうか?
目が合わなければいいが。そう思えば思うほど、視線が芙美のほうへ引き寄せられてしまうような気がする。
機敷埜博士に会ったことが芙美との約束を破ったことになっているのではないか?
いや、考え過ぎではないのか? とも思う。この時間軸での芙美は、まだ香菜子と面識はないから心配する必要もない。
すべてが偶然のできごとだと考えたほうが自然だ。
そう考えるが、香菜子が大介を見ようとすれば、必ず同時に芙美も視界に入ってしまう。自分が大介の席に座っていれば、こんな心配もしなくてすんだだろうに。
「香菜ちゃん、どうしたの? 気分でも悪いのかい?」
小声で大介が、そう呼びかけてきた。大介には、あきらかに動揺していることが伝わったようだ。
「なんでもないわ」と答える自分の声が震えていることも、わかる。大介は、大きく頷いたが、納得した様子ではない。それどころか、香菜子の目を覗き込むように見ていた。
芙美に視線を向けるつもりがなくても無意識に見てしまうことが、その後も続く。
しばらくすると、少し落ち着き、客観的に芙美を見ることができるようになる。芙美は景色を眺めている。今、まさに水平線に夕日が落ちようとしているところだ。空は紅に染まっていた。誰もがこの景色を見逃したくないはずだった。
芙美のテーブルは食器類が一人分しか並んでいない。そして、ワイングラスを持つ彼女は、まるで絵画に描かれるモデルのようだった。いや、この景色そのものが、まるで絵画だ。
芙美は幻想的な日没だけに興味があるようだ。香菜子たちカップルには、なんの興味もないように見えた。
香菜子たちの前に次の料理が並べられた。イカの墨煮だった。イタリアンというよりはスペイン料理だろうか。小皿に取りわけて食べる。
「よかった」と大介が言った。
「何が?」とそしらぬふりで香菜子が尋ねた。
「いや。体調が悪くなったのかと思ったものだから。でも、美味しそうに食べているから気のせいだったかな」
「そうかな。夕日を見て、感動したのかも」
それも香菜子にとっては噓ではない。
宿の近くにオリーブ園があり、そこで絞ったオリーブオイルを使ったという手打ちパスタも上品な味だった。主人が釣ったイワシを干してフェンネルや松の実と合わせたものだそうで、今まで味わったことのない味だった。
「不思議な味。このパスタ、忘れられなくなりそう」
「そうか。そのときは、また、ここに食べに来なくてはね」
大介が目を細めて言った。そうだ。大介が元気でいて、また連れてきてもらえたら。そう願うばかりだった。
そのとき、ふと気付く。たった今まで、大介の背後のテーブルに座っていたはずの芙美の姿が消えていた。
いつの間に?
ひょっとして、自分が見ていたと思った芙美の姿は幻覚ではないかと思った。だが、彼女はほんの数刻前まで、たしかにその席にいたのだ。その証拠に、飲みかけの赤ワインのグラスと、皿がテーブルに残されたままになっている。
すでに、日は落ちていた。夕闇が急速に広がっていく。西の空の赤も徐々に濃紺に変わっていった。きっと、落日を眺めることが彼女の目的だったのかもしれない。
芙美がいなくなったことで、香菜子は肩から力が抜けた。それにしても、芙美はデザートも食べずに部屋に戻ったのだろうか?
その夜の大介の表情は穏やかだった。彼の口にしなかった願いがかなえられたことへの満足からだろう。そして、寝顔も安らかだった。
香菜子は、すぐに眠りにつくことができずに、寝息をたてる大介を見守っていた。この大介の寝顔を一生忘れない、と思いながら。
そんなことを思っている間も、何度も芙美のイメージが呪われたようにフラッシュバックするのだった。
香菜子が眠りについたのは、それから二時間も後のことだった。もちろん香菜子は、いつ、どのように眠りに落ちたかははっきりとは記憶にない。
どんな夢を見たのかはわからない。ただ、切迫詰まった感じがした。それで揺り起こされるように目が覚めた。
朝の光、波の音、そして見知らぬ部屋にいることに香菜子は一瞬混乱した。
だが、すぐに自分がどこにいるのか、気がついた。
隣には、大介の姿がなかった。
「大介?」
思わず名前を呼ぶが、返事はない。もう一度、大きな声で呼んだ。
起き上がり、浴室へ行く。内湯と露天風呂にも彼はいない。
すでに日は昇っていた。午前六時をまわっている。朝食は八時からの時間帯を選択していたから、まだ時間はある。
大介が部屋を出たことに、まったく気づかなかった。
テーブルの上にあったはずのルームキーがない。大介は、すぐに戻ってくるつもりなのか? メモも残されていないし。
不安だけが増幅する。
香菜子はTシャツと短パンを着て、部屋を出る。部屋に鍵をかけることは考えなかった。そんなことは、どうでもいい。まず、大介がどこへ行ったのか? 大介の安否を確認することが香菜子にとって最優先だった。
部屋の外には、すでに数匹の猫が木蔭にうずくまっていた。香菜子の姿を見ても何も感じないようで、キジ猫なぞは前脚を伸ばし、大あくびしていた。
フロント棟から、誰かが出てきた。宿のオーナー家族ではない。大介でもない。
思わず香菜子は立ちつくした。
小さめの旅行バッグを持った芙美が出てきたからだ。
「おはよう」と芙美が言った。反射的に「おはようございます」と香奈子も挨拶を返した。
それ以上、言葉が出てこない。何をどうすればいいのかわからない。
「デイ・トリッパーで跳んできた香菜子さんね」
やはり、芙美その人だった。そして、芙美も未来から跳んできたのだ。香菜子は、そのままその場に座りこんでしまいたくなるほどの衝撃を受けた。どう答えるのが正解なのだろうか?
「隠す必要はないわ。昨夜、確認できたから。この時間軸では、私と香菜子さんは、まだまったく面識がないはず。なのに、私のことを見たときに、あなたは、驚きを隠せずにいた。あなたは、それほど反応がわかりやすいのよ。私との約束を覚えてる?」
香菜子は、やっとのことで頷いていた。
「私、釘を刺しにきたの。あなたは、機敷埜の伯父と会ったでしょう。そして伯父と話した」
「私から会おうとしたんじゃないんです。機敷埜博士が私のことを捜し当てられたんです。そして、私に質問された。それで答えを渋っていたら、芙美さんのことは心配しなくていいと言われました。芙美さんは、機敷埜博士の言うことに逆らうことはないから、と。私は機敷埜博士の言葉に従うしかありませんでした。
私は、まずいことをしたんでしょうか?」
今度は、芙美が黙った。
「どうして、私と主人が、この宿に来ていることがわかったのですか? 機敷埜博士もここに来ていることは知らないはずなのに。ということは、機敷埜博士も、デイ・トリッパーで跳ぶことに成功したのですか?」
「だから、あなたをデイ・トリッパーで過去へ送れたのではありませんか。香菜子さんがデイ・トリッパーを使ったときに、遡時誘導剤が切れてしまったの。だから、メモを頼りに新たに調合する必要がでてきた。そのメモの裏に遡時誘導剤を使用する主旨と経緯が走り書きされているのだけど、その中に、あなたの名前が書かれていたのよ」
香菜子は耳を疑った。同時に何を言われているのか、うまく理解できなかった。芙美は香菜子の返事を待たずに、続ける。
「私は、伯父からデイ・トリッパーを引き継ぎ、伯父なしでデイ・トリッパーを動かすために、残してくれたメモや設計図や簡単な取扱説明文を何度も繰り返して読んだの。そして内容をすべて隅から隅まで暗記したわ。そのときまでは遡時誘導剤の記述の中には、香菜子さんについての記述はなかった。もし、記述があったなら、あなたに初めて会ったときに私はすぐ気づくはず。
メモに香菜子さんの名があることを発見したのは、あなたをデイ・トリッパーで過去に送りこんでからのこと。考えられるのは一つだけ。
あなたが、過去で伯父と会ったのではないかということ」
「それを責めに来られたのですか?」
香菜子が問い返すと、芙美は首を大きく横に振った。
「ちがう。念のために言っておきたかったの。私と約束したことは、守って、ということ。念を押したかったのよ。
行き詰まっていた跳時法にヒントを与えたのは香菜子さん。あなたよ。でも、あなたを過去へ跳ばす前にも、伯父は試行錯誤の末に、自分自身の発想で遡時誘導剤を使用するところまではたどり着いていた。だから、未来にもたらした変化は、それほど大きなものではなかった」
そうであれば、自分はそれほど責められる必要はないのではないか。そう香菜子は考える。あのとき、遡時誘導剤のヒントを与えなくても機敷埜博士は薬品を使う方法を探ることになったのであれば。それは、どのくらいのちがいだったのか?
数カ月? 数日?
そして、今の芙美の話を聞いて、機敷埜博士は芙美が香菜子の名をメモで見つけた未来でもやはり、この世にいないのだということがわかる。生きているのであればデイ・トリッパーの管理を芙美に任せている必要はないのだから。
「でも、明らかに未来に変化はもたらされるのよ。今日、香菜子さんに会いに来たのは、警告するため。私が言った約束事を守って。今回は、それほど大きなパラドックスは発生しなかったと思う。それでも、以前はなかった香菜子さんの名前が、伯父のメモに出現する程には、時間の流れに矛盾が生じたことになるの。もっと大きなタイム・パラドックスが生じるケースもありえるわ。
もう一度、この時代にいる香菜子さんに言っておくべきだと思ったの。だから、こうしてあなたの前にいるの。
あなたの過去旅行の目的は、生きているご主人と再会することだけのはず。それ以上のことは考えないで」
未来で初めて会ったときの芙美と同様に、このときの芙美もあまり感情がこもっていない話し方だった。
「それだけを言っておきたかった。私との約束を守って」
まさか、そのことを言うだけのために、芙美は過去へ跳び、そして今、香菜子の前に現れたというのか。香菜子は、どんなことを言っても、言い訳にしか聞こえないだろうと感じていた。だから、口は閉ざしたままだ。
何よりも、この温泉宿へ来ていることが、過去にはなかったできごとなのだが、芙美はそれには気がついていないのだろうか?
いや、ひょっとして知っているからこそ、この宿に現れたのか?
そして、この宿に来た理由は、香菜子が本当は大介を亡くすことを防ぎたいと願っての行動だと知っていたのではないか。
もう一つ香菜子は考えていることがあった。
それは、大介の子を宿すこと。
それだけ過去を変化させたら、きっと違う未来が……大介も元気で生きている未来が迎えられるのではないかと。
芙美は、そこまでは言及していない。
「もう行くわ」
そう芙美は香菜子に言う。香菜子は芙美に対しての疑問も湧き始めていた。芙美が、こうして香菜子に警告を与えに来ること自体、掟破りになりはしないか?
新たなタイム・パラドックスの種とは言えないか?
もう一度、芙美は確認するように言った。
「約束して。過去のできごとを変化させないって」
その返事の代わりに香菜子は言った。
「ここの温泉の感想はどうでした?」
芙美は、虚をつかれたような表情を浮かべた。
「この温泉は初めてだったのですか? 私の記憶の中では、昔、ここで芙美さんと会ったことはなかったのですが」
それは、香菜子なりの精一杯のはったりだった。もちろん、香菜子が根子島のことを知ったのは今回が初めてだ。
まさか、そのような問いが香菜子から発せられるとは予想していなかったのだろう。香菜子は、続けた。
「共同浴場の亀の湯には行かれましたか? とても、いい感じらしいんですよ」
もちろん、香菜子も共同浴場へはまだ行っていない。だが、頭のいい芙美だったら、香菜子の言いたいことがわかるはずだ。
私は、機敷埜博士と過去のできごとにはなかった出会いをしてしまった。それは認める。しかし、芙美もこうして根子島までやってきて私に警告している。そのこともおかしいのではないか? 芙美が根子島に来ることも、過去のできごとにはなかったことだ。そんな芙美が、私に警告する資格はあるのか? 芙美がタイム・パラドックスを引き起こす原因になる可能性もあるではないか、と。
芙美は、即座に香菜子の気持ちを感じとったらしい。香菜子の問いかけには答えずに腕時計を確認した。そして再び香菜子に言った。
「今日、最初の渡しの時間が近付いている。もう、私は行くわ。
香菜子さん、警告はしたわ。過去のできごとを変えないで。とんでもないことが起こらないように。私との約束を守って」
それが、芙美が香菜子に伝えたかったことだ。それだけを伝えるのが芙美の目的だったのだ。
そしで芙美は踵(きびす)を返し、港のほうへと立ち去っていった。
芙美の姿が見えなくなってからも、香菜子はそのまま立ちつくしていた。というよりも放心状態にあったというほうが正しい。何故、機敷埜博士に会ったことをそこまで責められなければならないのか。自分から望んで機敷埜博士と会おうとしたわけではないというのに。
ひょっとして、大介の命を救う行動に出るのではないかと危惧して釘を刺しにきたということか。
どうすれば、いい。
「香菜ちゃん」
と、呼ばれてびくんと香菜子は正面を見る。焦点が合う。
短パンにビーチサンダル姿の大介が、驚いた表情で近づいて来た。
「なにしているの? こんなところにぼーっと立って」
大介は何も知らないから当然の質問だ。
「なにって……」
香菜子は何故、自分がここにいるのかということを思いだしていた。
「目を覚ましたら、大介がいないから。探してもいないから。どうしたんだろうって、心配で出てきたの」
そうだ。それが部屋を出てきた理由だった。
「ああ。そうだったのか。香菜ちゃんがよく眠っていたから、起こさないように、そっと部屋を抜け出した」
「えっ。何をしに?」
「外が赤かったからさ。東の空がオレンジ色に染まっていた。日が昇るんだなと思ったら、いても立ってもいられなくなった。日の出を見たいと思って海岸へ行ったんだよ」
「どうだったの?」
「美しかった。そこで、ぼーっと日が昇っていくのを眺めていた。こんなに何も考えないのんびりした時間があるんだと、思ったよ」
「私も見たかった。一緒に見たかった」
そこで大介は、あっ、しまったという表情を浮かべる。無神経だった自分に、そのときまで話していて気がつかなかったようだ。
「そんなにきれいだったの?」
「ああ。そのときになって香菜ちゃんも連れてくればよかった、って後悔したんだ。よし。明日の朝は、一緒に見よう。約束するよ」
大介は、とって付けたように言った。
「それから、すぐに戻ってきたの?」
「あ。いや、海を眺めて散歩していたよ。それで、こっちに帰ってきて、まだ亀の湯に入ってなかったことを思い出した。だから、ちょっとだけ中を覗いてみたのさ。この共同浴場」と言って、目の前の建てものを指差す。
「そしたら、湯舟につかっていたおじいさんたちが、入っていけって。財布を持ってきてないしタオルもないって言ったんだけれど、皆で、ここは無料だ、タオルなら備えつけのを使えって。だからお言葉に甘えて朝風呂にも入ってきた。いい湯だったよ」
あくまで、大介は能天気だ。それだけ大介が満足しているなら、よしと考えるべきか、と香菜子は思う。これは大介のための温泉旅行なのだから。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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