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デイ・トリッパー

梶尾真治(かじお・しんじ)

デイ・トリッパー ブック・カバー
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第11回

2015.11.15 更新

今は、自分が機敷埜博士に、大介の病気についてうまく説明できたのかどうか、あまり自信がない。
あれから、一度も香菜子は機敷埜博士には会っていない。うまく自分は話せたのだろうか? そして機敷埜博士は香菜子の話を理解できたのだろうか?
ずっと、そのことが心の隅に引っかかっている。
温泉へ向かっている。大介の心残りだったイベントを今、果たそうとしている。だが、香菜子が想定していた温泉地とは違っていた。海岸沿いの温泉地へ行くのだろうとは予想していた。大介が海の幸が楽しめる宿だと漏らしていたから、きっとそうに違いないと思っていた。しかし、まさか離島にある温泉宿だとは思わなかった。
大介はプランを練りに練っていたらしく、休暇の朝早くから嬉しさで興奮しまくっていた。しかし、このときまで、香菜子には、はっきりと行き先を教えはしなかった。
「さあ、ミステリー温泉ツアーへ出発だ」と言って、愛車を発進させたくらい上機嫌だった。
香菜子が行き先を知ったのは、港に到着して、連絡船に乗ることがわかってからだ。港に着いたときから、香菜子もわくわくが止まらなくなっていた。
「三十分くらいの船旅なんだけれどね」と大介は得意そうに言った。それでも香菜子には十分過ぎるほどのサプライズだったと言える。
その瞬間だけは、これから大介と香菜子を襲うはずの悲劇のことを頭の中から追い出すことができた。
向かうのは根子(ねこ)島だということを知った。かつては、何もない島だったと聞いたことがある。人口は五百人にも満たず、島で温泉が出るとは聞いていたが、島民のための共同浴場があるだけだと思っていた。だから、生まれてこの方、香菜子は根子島へ足を向けたことはない。宿があったのかと驚くほどだ。確か、根子島の産業といえば、漁業と斜面を利用した畑で作る根子島大根が有名だった気がする。
連絡船は、定員二十名の小さな船だ。船底近くの胡座(ござ)が敷かれた床の上に、隅に置かれた座布団を乗船客が一枚ずつとって、それを敷いて座るのがルールのようだ。乗るときに大介が「二人です」と言って千円を払っていた。受け取る船長は七十過ぎの老人だった。乗り込む乗客の一人ひとりに丁寧に「はい、ありがとさん。はい、ありがとさん」と声をかけていた。船旅というよりは、小型バスに乗り込んだ雰囲気だった。ただ、操舵席の横に落ちているものを見て、目を疑った。発泡酒の空き缶だった。それには大介も気がついたようで、香菜子を安心させるために「一日の仕事が終わったら、一杯というのが、おじいさんの楽しみなんだろうね」と言ったが、発泡酒の空き缶の向こうに焼酎一・八リットルの紙パックも置かれているのを香菜子は見つけていた。発泡酒は水代わりで、一日の仕事の締めの楽しみが焼酎なのではないだろうか。
船が出ると、猛スピードで進んでいるのがわかった。風がなく波もなかったが、香菜子には何度も水面をジャンプするような感覚があった。これが長時間なら船酔いするかも、と案じた。デイ・トリッパーで時を跳ぶほうがよほど穏やかなのかも、と思えたほどだ。
船酔いにならなかったのは、島の住民らしい中年女性が声をかけてくれたからだ。
「たまやさんに行くんですか?」
「え?」と、意味がわからずに香菜子が問い返すと、代わりに大介が答えてくれた。
「そうです。私たちも初めて行くんですけれど」
中年女性は、満足そうに目を細めて何度も頷いた。
「あそこは評判いいようですねえ。若いアベックさんを島で最近よく見るようになりました。皆さん、たまやさんに泊まりに行かれるんですよね」
香菜子は、中年女性が“アベック”なる耳を疑うような死語を使うのがおかしかったが、彼女の辞書には“カップル”という表現は載っていないのだろう。
「私たちが泊まる宿は、たまやというの?」と香菜子は小声で尋ねる。すると大介は頷いて答えた。
「そうだよ。根子島にはこの間までは釣り宿の民宿くらいしかなかった。共同浴場の温泉が港の反対側に一カ所あるくらいだったけれど、その近くに料理のおいしい温泉宿ができたということを聞いたんだ。ただ、ひたすらのんびりするにはいい宿らしい。裏返せば、他に行くところはないらしい。あ、たまやの近くに海水浴場もあるらしい。しかし、遠浅かどうかもわからない」
あれほど水着を持っていくべきかどうか迷っていたのに、香菜子は今ではどうでもよくなっている。できてすぐの料理のおいしい評判のいい温泉宿というだけで、わくわくしてくるのを抑えきれない。
「楽しみ」と言って香菜子は大介の右腕を両手で握りしめた。
連絡船の速度がみるみる落ちていく。そういえば船底近くに座っていて外の景色を見ていなかったことに気がついた。見ていたのは、窓の外の青空に広がる入道雲だけだった。身体を伸ばして中腰になると、船を動かしている老人の向こうに、もう島がすぐそこまで迫っていた。
小さな島だった。左から右の端まで、視界の中に島の全景が納まって見えた。港のまわりには民家が密集しているのがわかった。そして何隻もの繫留(けいりゅう)されている漁船が波に揺れていた。香菜子は、そこでバランスを崩してしまい、大介に支えられた。「何か見えたかい?」
「小さな島だわ」
「うん。着くまでは座っておいたほうがいい」
大介が、香菜子が再び腰を下ろすのを確認してから香菜子を支えていた両腕を外した。それだけで香菜子は大介の優しさを感じて泣きそうになってしまう。それから数分もせずに、連絡船は港に着岸した。
老人が乗客の一人ずつに声をかけた。島の住人には「はい、ありがとさん」だったり「お疲れさん」「ご苦労さま」だったり。そして香菜子と大介には「根子島、楽しんでなあ」と言ってくれた。
島を見回して、なぜ、この島にそのような名前がついているのかを知った。埠頭に五匹、雑貨屋の前に三匹。日陰にはあちらこちらに猫がいた。連絡船から降りてくる人々には何の興味もなさそうに。ここは猫だらけだ。
香菜子は嬉しくなった。今のマンションは規則でペットを飼うことは禁止されているが、香菜子は幼い頃から、猫が大好きなのだ。子猫が二匹で日陰でじゃれあっている姿に思わず見入ってしまっていた。
「かわいぃ~」と思わず言ってしまう。
「そうか。よかった。香菜ちゃんはきっと喜んでくれると思っていた」
「えっ?」と思わず聞き返す。今まで大介には一言も自分が猫好きだということを話したことはないと思っていた。
「だって、テレビに猫が出てるときは、いつも目が釘付けになっていたからね。かなり猫好きだろうな、と思っていた」
そうだったのか、と香菜子は思う。自分はずっと大介に観察されていたということか。そのことは、香菜子にとっては嬉しいことだった。無関心を装っていても、本当は、香菜子が何を考えているのかをいつも気にかけていてくれる。
じゃあ……。
そこで気がつく。心の底まで読まれかねないのだから、大介のこれからの運命について悟られないように気をつけなければ。
「中川さんですか?」
振り返ると、蝶ネクタイをした色の浅黒い老人が、旗を持って近付いてきた。額から汗が噴き出していた。旗には「オーベルジュ たまや」と書かれていた。七十歳を過ぎているだろうか? 服はカフェの制服のように見えるが、着こなしがぎこちない。
「ええ、そうです」
「遅れてすみません。お迎えに来ました。五分ほど歩きます。今回はご利用いただきありがとうございます」
老人は深々と一礼して、大介と香菜子の持つバッグを預かろうとする。
「いえ、自分で持てますから」と大介が言う。すると「なんの。息子に叱られますから」と無理にバッグを奪い取る。善意のサービスとはわかるが、すべてがぎこちなく見える。
「うちは、元々、食堂だったんですよ。温泉横の。で、息子はイタリアとフランスに料理を勉強に行っててですねえ。帰ってくるというから、大喜びしとったら、ここで、この、この……」と旗の文字を指して「おーべるじゅちゃらをやると言い出したのですよ。おーなんちゃらはなんだと聞くと、料理のおいしい宿のことだと。それで、あいた口がふさがらんうちに家をおーなんちゃらにしてしまったんですよ。わしにも、こんな服着せてからに。若い頃は漁に出とったんですよ。似合うわけないでしょう」
香菜子は、老人の不満たらたらな様子に、吹き出しそうになるのを必死でこらえていた。大介は根が真面目なのか、老人に相槌を打ちまくっていた。
松林の間に小径(こみち)があり、その向こうに海が見えた。松林の間でも猫たちがくつろいでいる。根子島という名前の由来だけでなく、これから向かうオーベルジュのたまやという名前の由来もわかるような気がした。
この島のことが大好きになりそうな予感が香菜子はした。
きっとこの島の人口よりも猫の数のほうが多い。それも嬉しい。
名も知らない、いくつも瘤(こぶ)が幹から出ている木の陰に縁台があり、老人が二人で焼酎を飲んでいた。まだ日は高いというのに。
「よお、お客さんかい。働くのお。後で、飲みに来るがいいよ」と縁台から声がかかった。老人は香菜子のバッグを振り回し、嬉しそうに「おお。一段落したら、来るで。ありがとうな」と答えていた。縁台の老人たちは餌をよく与えてくれるのか、その周囲はまた猫だらけなのだった。
「たまやさんという名は、やはり猫に縁があるんですよね」と大介が尋ねる。
「ああ、そうです。昔、わしのばあさんが食堂を始めたときに、そのときの飼い猫がたまといったんだそうですが。それでたまや食堂とつけて、それからずっと。で、今は食堂は取って、たまやだけ残してる。でも今でも食堂メニューは残していて、温泉の休憩室に配達するんですよ。ちゃんぽんが人気だなあ。あら煮定食やら焼魚定食やらは、わしも作ります」と得意そうに答えた。
松林の向こうに着くと視界が開けた。島の北部になるのか彼方(かなた)に水平線が見えた。そして、海岸近くに、いくつかの建物がある。木造建ての一軒には「根子温泉亀の湯」と看板があった。看板は翼を広げた鶴の絵が添えられているのが不思議だった。何故、亀の絵ではないのだろう。ただ、島民に昔から親しまれている共同浴場であることは伝わってくるから、かまわない気もする。
「着きました。根子温泉の向こうです」
 数本の松で隔てられた民家が見えた。なるほど、根子島の中では異彩を放つ建物だ。白い色調の壁と赤い屋根。まるで地中海周辺にでもありそうな家だ。
「うわあ。素敵。あれが宿?」と香菜子は思わず漏らした。
「部屋に温泉が付いとります。広い風呂がいいなら、根子温泉にも行けますから」と老人。
階段の横に、籠(かご)にもぎたてのトマトを持った女性と幼い女の子が立っていて香菜子たちに「いらっしゃいませ」と声をかけた。母娘だろうか。ドアが開いて、白い厨房服の男性が姿を現した。老人と違って見るからに垢抜けした感じのいい男性だった。彼も「ようこそおいでくださいました。お疲れになったでしょう」と迎えてくれる。この男性が、老人が言っていたイタリア帰りのオーベルジュの主人ということになるのだろう。宿は一日三組しか予約を取らないのだということを知った。サービスできるのはそれが限度だからということだった。そして、その日はもう一組だけ。明日は他に予約がないから貸切状態ですと教えられる。まだ、オープンして日が経たないし、宣伝も一切やっていないからこのような日もあるらしい。ただ盛夏の時期はおかげさまですべて満室で休む暇もなかったと教えてくれた。
案内された部屋も素晴らしかった。室内は過度の装飾はされていないが、必要な調度はすべて揃っていたし、アメニティも宿の主人のこだわりが溢れたお洒落なものばかりだった。海岸が見渡せるテラスには、デッキチェアが二つ並べて置かれているのも香菜子好みだった。
部屋についている温泉は露天と内湯があった。老人が、狭ければ共同浴場へ行けばいいと言っていたが、その必要はないと香菜子は思った。二人のマンションの風呂とは較べものにならないほど広い。部屋に荷物を置いて二人はまず風呂を楽しんだ。それが、今回の二人の休暇の目的だったのだから。
大介が文箱に残したメモで心を残していたのは、温泉に行きたいということだったことは忘れもしない。
筆跡も、はっきり記憶している。
〈香菜子と温泉宿でゆっくり過ごしたい〉
その大介の望みが、今、叶った。
青空をぼんやりと見上げていた大介が、ふっと香菜子を見た。そのとき、香菜子は感慨深く大介を見つめていたのだった。
「どうしたんだい。泣き出しそうな顔しているぞ」
そう大介に言われて香菜子は驚きあわてる。そんな表情になっていたのだろうか。急いで両手で湯を手にすくい、自分の顔を流した。
潮の味がかすかにするが、湯の質はぬるぬるしていた。においは硫黄(いおう)のようでもある。茹で玉子のようなにおいがする。熱くもなくぬるくもない。いつまでも浸かっていられる気がした。
「すごい湯質ね。こんなにいい湯が湧いているなんて贅沢なところね」と言ってごまかした。
「ああ。調べたときにわかったけれど、一切加熱したり、冷ましたりしていないそうだよ。完全に島の恵みだってさ。そのうえ、源泉かけ流しというところだからね。隣の共同浴場と泉源は同じだそうだよ」
二人はゆっくりと湯に浸かる。
もしも、大介が今度メモを残そうとしたら温泉へ行きたいと記すだろうか? そう香菜子はぼんやりと考えた。自分だったら、もう一度温泉に行きたいと書くかもしれない、と思う。こんなに気持ちいいのだから。
「大介は、満足した?」
「ああ。満足。満足」それ以上の言葉も必要ないようだった。
風呂から上がると、テラスの椅子に横になった。外だが、潮風が吹いていて残暑は気にならなかった。潮騒と海鳥の鳴き声だけが聞こえてきた。
いつの間にか、香菜子は眠っていた。目が覚めたのは電話の音だった。隣の椅子では大介も眠りこけていた。
電話は、夕食の準備が整ったことの知らせだった。ということは、ずいぶんと長いこと熟睡していたようだ。
食事は、食堂で食べることになっていた。フロントの棟の奥の部屋だと聞かされていた。
主人の妻が笑顔で待っていて、香菜子たちを海岸が見える席へと案内してくれた。最初の日はイタリアンで主人が腕をふるうということだった。席に着くと同時に、奥から出迎えに来てくれた老人が得意そうに大きな桶(おけ)を持って現れた。中には、氷が敷きつめられ、魚や海老、イカなどがならんでいた。香菜子が見たこともない魚介類も混じっていた。
「今日の料理で使う魚だと息子が言っとります。来月だったら伊勢海老も解禁だから出せたのにと残念がっておりましたが、代わりにウチワ海老」と老人は上から押しつぶしたような奇妙な形の海老を指で差した。老人は本当に嬉しそうだった。魚が好きでたまらないというのがわかる。漁師だったということもあるのだろう。だから「今日は息子の洋食だが、明日はわしが漁師の浜料理をこさえますからね。全部、わしがさばきますから」と小声で二人に囁(ささや)くように言った。それはそれで期待が持てそうだ、と香菜子は思う。明日の夜も老人は蝶ネクタイで魚をさばくのだろうか? その姿を想像するとおかしくて仕方なかった。
料理は、白い厨房服に身を包んだ若い主人自身によって運ばれてきた。まずは、島の大根とボイルしたウチワ海老を手造りマヨネーズであえたサラダだった。それが数種類の海藻と盛付けられていた。
おいしかったし、海藻にかけられたドレッシングも初めての風味で新鮮だった。
大介と香菜子は口に料理を含んだまま、黙って何度も頷きあった。
言葉にしなくてもわかる。
――この宿、大正解だったね。
――街のイタリアンの味と全然違う。
続いて真鯛とタコのカルパッチョが供された。これは、できるだけ素材の味を素直に楽しんでほしい、ということだった。
大介がビールを飲み干し、「やはり、これはワインだね!」とボトルを注文した。主人がセレクトしたワインは、白ではなく赤だった。キリッとした辛口だった。カルパッチョも、あっという間に皿から消えてしまう。
食堂の客は、大介と香菜子の二人だけだ。もう一組、宿泊客がいると聞かされていたのだが。まだ宿に到着していないのだろうか?
次の料理が来るまでの間、外を見ると水平線に日が落ちようとしているところだった。空が朱に染まって見事だった。明日も晴れるのだろうか? 明日も、まるまる一日、この宿でのんびりと過ごせるのだと考えると嬉しくてならなかった。日頃のすべてを明日は忘れてしまおう。大介の不幸な未来のことも。
ふと、機敷埜博士のことが頭に浮かんだ。
なぜに今? こんなときに?
それが引き金になり、夕日を眺めながら、連想が始まった。
機敷埜博士は今、さまざまな薬剤を試している頃だろうか? 果たして効果的な精神安定剤に巡りあえたろうか?
いや、結果的にデイ・トリッパーは完成したのだから、適切な薬品を調合しているはずだ。
しかし、デイ・トリッパーに乗り込むときに飲む薬品が私が教えたことによるものだとは……と香菜子が考えたときだった。
「どうぞ、準備できております」と声がする。もう一組の客が食堂に入ってきたのだ。
少し離れた、大介の背のほうのテーブルに案内された。
意外だった。若い女性の一人旅らしい。家族はいないようだ。
女性は、腰を下ろす。そして、ゆっくりと香菜子たちのテーブルに顔を向けた。
香菜子は信じられなかった。その女性の顔は絶対に忘れられない。そして、ここに絶対いるはずのない女性。
竺陣芙美、だ。

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著者プロフィール

梶尾真治(かじお・しんじ)

作家。熊本県生まれ。1971年「美亜へ贈る真珠」でデビュー。代表作は『地球はプレイン・ヨーグルト』(星雲賞受賞)、『サラマンダー殲滅』(日本SF大賞受賞)、『黄泉がえり』、『クロノス・ジョウンターの伝説』、『おもいでエマノン』をはじめとするエマノン・シリーズなど。
『クロノス・ジョウンターの伝説』誕生から20余年。梶尾真治の描く新たなタイムトラベル・ラブストーリーがついに始動!

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