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カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語

鹿島茂(かしま しげる)

カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語 ブック・カバー
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第8回 最後の大恋愛の始まり

2017.12.07 更新

 ロシアでもポーランドでも宮廷に食い込めなかったカサノヴァは、ウィーンに流れてきたが、ここでもロリコン趣味が災いしてトラブルに巻き込まれ、退去命令を受けることになる。マリア=テリジア女帝に請願書を出し、一時的に退去が延期されたものの、命令が取り消されることはなかったので、月末まで借りていた部屋をカンピオニに譲り、外国人に寛容な都市として知られるアウグスブルクに移ったのである。

 アウグスブルクでは知り合いのマックス・フォン・ランベルク伯爵の歓待を受け、その社交界に出入りした。国論の分裂で祖国を逃れてきたポーランド人とも付き合ったが、その多くはベルギーの鉱泉町スパへ静養に出掛けていたので、カサノヴァもスパに向かうことにした。

 しかし、スパは湯治場なので博打に加わるための軍資金が要る。そこで、ヴェネチアのクレランド公に錬金術の秘密を明かした手紙を書いて百デュカばかり送ってもらうことにした。この手紙は大革命のさいにパリのバスチーユ牢獄の古文書館で発見され、印刷に付されてしまう。怪しげな錬金術で金をだまし取る詐欺師という悪名はここから生まれたのである。

 スパに着いてみると保養シーズンで宿屋はどこも満室。馬車で一夜を過ごすわけにもいかず、困っていると、偶然立ち寄った帽子屋のリエージュ夫人が、アパルトマンに泊まるように勧めてくれた。自分は店で眠るからというのである。カサノヴァは親切に甘えることにした。アパルトマンには小部屋がついており、リエージュ夫妻の姪が寝泊まりしていたが、夫妻はどちらも醜い容姿だったので、カサノヴァは姪も同じだろうと思って、気にもとめずに、その夜は床についた。

 翌朝、賭博場で二十ルイほど儲けて宿に戻ってみると、二十歳前後の褐色の髪の美しい娘が店番をしている。リエージュ夫妻の姪メルシだった。カサノヴァは一目惚れしたが、娘は男を寄せ付けない頑な性格だった。

 ある朝のこと。メルシが小部屋のベッドで身を起こし、シーツ一枚で身を覆っているのを見たカサノヴァはこれを挑発と取り、ベッドに近寄ると、少し話がしたいと大胆に手を伸ばした。

 「わたしは彼女を抱きしめながら、どうか接吻させてくれと頼んだ。彼女は素気なく拒んだ。その口調にわたしは憤然とした。わたしは足元からシーツの下に手を入れ、すばやく脚のあたりから、彼女の最も大切な場所へと移動させた。メルシは急いで腕を外に出すと、握り拳でわたしの鼻に一撃をくらわし、わたしの愛撫をやめさせようとした。たちまち、どっと鼻血が出た。わたしはぐっと気持ちを抑えながら身を引き、鼻血が止まるまで新鮮な水で顔を洗った。そのあいだにメルシは服をつけ、下に降りていった」(以下、引用は窪田般弥訳『カサノヴァ回想録』)

 鼻血は止まったが、鼻の傷痕は腫れ上がって、恐ろしい形相になってしまった。部屋に上ってきた帽子屋の女将さんは驚いて詫びを入れたが、カサノヴァの怒りは収まらなかった。通りの反対側にある下宿家に出向いて空室を借りる契約をすると、帽子屋の家から荷物を運び出した。メルシも泣きながら謝りに来たが、取り合わなかった。おそらく、気の強い女を相手にロンドンでひどい目にあった記憶が蘇り、いやな気持ちになったのだろう。

 真向かいの家の空室にはイタリア人の夫妻が宿泊中というので名簿に当たってみると、D・アントニオ・クローチェ伯爵とある。六年前、ミラノで知り合った博打打ちのクロザンに違いない。そのうちにクロザンが自ら部屋にやってきたので、久闊を叙したあと、その話に耳を傾けた。クロザンは、ブリュッセルで大金を稼ぎ、貴族の娘と恋仲になったが、父親が修道院に閉じ込めてしまったので強引にさらい出してスパまで一緒に逃げてきたという。娘は妊娠六カ月の身重だった。

 カサノヴァがシャルロットとだけ記しているその娘は、後に研究者のケード博士がパリで発見した資料によって、シャルロット・ド・ラモットという、ブリュッセルの名門の生まれだと判明している。

 「肌の色は自然そのものであり、笑みをたたえた口元からは、肌よりももっと白い見事な二列の歯並びを見せていた。自ら人相見をもって任じていたわたしは、すぐにこの若妻は、単に自分だけが幸せなのではなく、彼女が愛している男にも完璧な幸せをもたらすに違いないと思った」

 しかし、その予感は当たらなかった。クロザンは最初のうちこそ幸運に見舞われて大金を稼いでいたものの、すぐに銀行賭博(ファロ)で負けが込み、手持ちの宝石や時計を売って一か八かの最後の勝負に出たが、しかし、その勝負にも負け、ついに自殺か逐電かの究極の選択を迫られることになったからである。クロザンはスパの郊外にカサノヴァを呼び出し、「さようなら。きみにシャルロットを任せる」と言い残し、マントもなしで絹の靴下をはいたまま、徒歩で立ち去っていった。

 カサノヴァが断腸の思いでクロザンとの別れを語り、「あなたを夫の手に渡すまでは、絶対にあなたのそばを離れないと誓います」と約束すると、シャルロットは「そのお言葉だけで十分ですわ」と健気に答えた。カサノヴァはシャルロットへの愛の代償として美しい目に接吻するだけにとどめた。シャルロットはその控えめな態度に感激した。こうした禁欲により、二人の愛はより強まってゆく。カサノヴァは、シャルロットにパリで出産させることにし、スパをあとにした。一七六七年十月初めのことだった。

 五年ぶりに見るパリは新しい世界のように思われた。とりわけ、カサノヴァの目に大きな変化と見えたのは、ルイ十四世の時代に取り壊しが始まっていた城壁の撤去が進み、新しい環状大通り、すなわちグラン・ブールヴァールが誕生したことだった。それとともに、人心も変化しているように思えた。

 「何もかもが昔より高値になっていた。貧乏人たちは憂さ晴らしに、新しい散歩道路に群れをなして騒ぎに出かけたが、その散歩道路も、政策と吝嗇(りんしょく)のために大都市の旧城壁の上につくられたものにすぎなかった。そこに馬車でしか散歩をしない人たちの贅沢さも、対照として引き立っているとしか見えなかった。二つの極端をなすものが代わる代わるに、互いを相手に見物したり、相手から見物されているにすぎなかった。観察者の目にこのような大変化を見せつけるのに、わずか四、五年の年月しか必要としないのはパリという町だけである」

 カサノヴァの慧眼が正しく見抜いたように、七年戦争の敗北でフランスは財政破綻に陥ったため、徴税請負人制度を採用して間接税の民営化を進めたが、それが逆にインフレを招く結果となり、貧富の差はより拡大していたのだ。馬車を保有する有産階級とそれを見物する貧困階級に階級は二分化されていたが、そうした格差拡大が露骨なかたちで観察されたのがグラン・ブールヴァールだったのである。

 カサノヴァはフォーブール・サン・ドニ街のラ・マールという産婆の家にシャルロットを下宿させ、自分は弟が住むフォーブール・サン・タントワーヌ街近くのアマンディエ街に仮寓して、毎日、見舞いに通うことにした。

 十月十七日、シャルロットは男の子を出産すると、産着の中に洗礼証明書と出生場所を示す証明書を入れてから、赤ん坊を棄子院に預けるように産婆に頼んだ。シャルロットは出産前から発熱が続き、死期が近いことを察知していたのである。

 「わたしはもう二度と昼も夜もシャルロットのベッドのそばから離れなかった。医師プチの看護にもかかわらず、二度と引かなかった高熱のために、ついに彼女はその月の二十六日の朝五時に、わたしの目の前で息を引きとってしまった。その美しい目を閉じて息を引きとる一時間前に、彼女はもう駄目だと言いながら、わたしに最後の別れを告げた。そして、わたしの手を離すときに、真夜中に彼女の告解をすませた司祭の前で、わたしの手を口に持っていった。わたしは今このことを涙を流しながら書いているが、恐らくこの涙は、愛と、ひとりの男の犠牲となった魅力ある女性の思い出をなつかしむ最後の涙となるものだろう」

 葬儀の前日、郵便配達が弟の家にヴェネチアのダンドロ氏からの手紙を届けてきた。封を切ったカサノヴァは大きな衝撃を受けた。生涯変わらぬパトロンであり、父親以上に愛してくれたブラガディーノ氏が逝去したという知らせが入っていたからである。手紙には千エキュの為替が同封されていた。故人が死の直前にカサノヴァへの遺産として振り出したものだった。

 シャルロットとブラガディーノ氏の死という二重のショックで打ちのめされているカサノヴァを第三のショックが襲う。パリからの退去命令である。

 では、なにゆえに、パリでもまた退去命令が出されたのか?

 十一月四日に、オランジュリ通りというルーブル宮近くの袋小路で開かれた音楽会に出掛けたときのこと。音楽会の後ろの席でカサノヴァの名を挙げ、嘲笑する声が聞こえた。振り向いてみると、二人の男に挟まれた若い男が、カサノヴァは伯母のデュルフェ夫人をカバラの儀式で再生させると称して百万フランを騙し取ったと非難している。

 カサノヴァはデュルフェ夫人はすでに死んだと信じ、『回想録』にもそう書いているが、じつは、この時点では夫人はまだ存命であり、再生儀式が迷妄だったと気づいて(あるいは甥によってマインド・コントロールを解かれ)、カサノヴァを非難する手紙をルイ十五世に送ったものと思われる。

 その証拠に、翌々日、弟の家で食事していると、サン・ルイ勲爵士という男が現れ、一枚の紙を示した。ルイ十五世が署名した「王の封印状」である。二十四時間以内にパリを退去し、三週間以内にフランス王国を出るべしと命じてある。そして、いかにも絶対王政の象徴である「王の封印状」らしく、「朕はかく欲すればなり」と「理由」が書かれている。

 サン・ルイ勲爵士は二十四時間以内というのは形式上のことであると説明し、封印状をたしかに受け取ったと署名するように命じた。カサノヴァは「王の封印状」である以上、どんなに抵抗しても無駄だと分かっていたので、おとなしく命令に従うことにした。度重なる災難により、すでに諦念の域に達していたのかもしれない。

 「わたしはいっさいの資金源をなくしていたし、ブラガディーノ氏とデュルフェ夫人の死によって孤立の状態に追いやられていた。またわたしは、一般に幸運からは無視され、女たちからは大して相手にされない年配になっていることに気づき始めていた」

 なんとも悲しくなるような述懐だが、以後、『回想録』のナレーションはこうした物悲しいトーンを帯びるようになるのである。

 ライヴズ・チャイルズの『カザノヴァ』(飯塚信雄訳、理想社)によると、カサノヴァはパリに滞在していたポーランドのルボミルスカ公妃からスペインの首相であるダランダ伯宛ての紹介状をもらい、また他の知人からも推薦状を受け取っていたので、スペインで一旗挙げるつもりでマドリードに向かったようである。しかし、シャルロットの死からなかなか立ち直ることができず、最大の情熱である性欲にも陰りが生じていたので、スペイン行きには、いかにも都落ちらしい落魄感が漂っていた。

 たとえば、ポワティエで二人の美しい娘と知り合い、父親も同意の上で夕食を取ったときも心に浮き立つものを感じなかったと書いている。

 「わたしは、生涯にわたってあれほど敏感だった感性が燃え立つのを少しも感じなかった。わたしには自分が自分と思えなかった」

 カサノヴァは国境近くのサン=ジャン・ド・リュスで馬車を売り払い、荷物運びの男を連れてラバでピレネー山脈を越え、スペイン領のパンプロナに入り、そこからマドリードに向かった。

 最初の八十キロは、二十四年前にカサノヴァを逮捕させたことのあるド・ガージュ将軍が私費を投じて造らせた立派な道路があり、旅は順調に進んだが、それを過ぎると、悪路どころの騒ぎではなかった。もう道と呼べるものがなかったからである。宿もまた最悪だったし、宗教裁判所が支配する土地柄か、いたるところに検問所があり、そのたびに足止めされた。カサノヴァはスペイン人について以下のようなかなり偏見に満ちた考察を残しているが、この国民性はスペイン通に言わせると、今日でも似たところがあるという。

 「彼らはひとり残らず外国人に敵意を抱いている。(中略)この憎悪には、外国人はスペイン人ではないということに由来しているとしか考えられない軽蔑感がともなっている。女性たちはこの嫌悪感や軽蔑の不当性を認めているので、われわれを愛してその仇を討ってくれるのだ。しかし、生来嫉妬深いスペイン男は理性的にも嫉妬深くあろうとしているので、彼女たちは非常に用心して愛する。(中略)この国での色事は、秘密裡にしか運ばれないだろう。というのは、色事はそれ以上のものは何もない快楽へと向かうが、そうした快楽は禁止されているからである」

 では、カサノヴァがスペインで体験した恋愛はこの分析通りに運んだのだろうか?

 マドリッドではルボミルスカ夫人の紹介状を携えてまず、最高権力者ダランダ首相に面会した。自国の国事犯審問所の不興を買っている人間としては、表ルートからはヴェネチアのモチェニゴ大使に接近はできないので、ダランダ首相の裏ルートを介して紹介願えないかと打診したのである。しかし、ダランダ首相は大使の紹介がなければ社交界への道を開くことは難しいと答えた。

 そこでカサノヴァはヴェネチア大使館に直接赴いて、大使館書記ソリデニ氏と面会し、事情を説明して、大使宛ての手紙を託した。すると、翌日、マヌッチ伯爵という美青年が訪ねてきて、大使はカサノヴァからの手紙を受け取ったが、公然と面会するわけにはいかないので、個人的に会えれば幸いであると伝えた。

 このように、マヌッチは大使の私的な伝令としてやってきたのだが、カサノヴァはマヌッチ青年は、かつて国事犯審問所にスパイとして仕え、カサノヴァの鉛牢獄(プロン)投獄に一役買ったあのジャン・バチスト・マヌッチの息子だということに気づいた。しかし、マヌッチ青年はこうした事情を知らないらしく、父親からカサノヴァの不幸を聞かされたことがあると語り、さらには、自分は男色家のモチェニゴ大使の恋人であると何の屈託もなく告白した。

 カサノヴァは話を聞くうちに、運命はマヌッチという鍵をうまく用いれば開けるにちがいないと確信した。男色家の権力者は恋人の言うことならなんでも聞くので、マヌッチと仲良くしていれば、スペイン宮廷や社交界に入り込むことは容易なように思われたからである。

 果たせるかな、マドリッドの社交界の扉はマヌッチという鍵によって徐々に開かれていった。

 こうして社交界の内部に入りこむにつれ、ヨーロッパの他の国とはまったく異なるスペインの習慣が目に入ってきた。

 その一つはダランダ首相が許可したことによって盛んに行われるようになった仮面舞踏会だった。

 一般に、ヨーロッパの社交界では仮面舞踏会に限らず、どんな舞踏会でも出席したカップルは最初の曲だけを一緒に踊り、その後はパートナー・チェンジを行うことになっていた。仮面舞踏会であれば、身元や身分を隠すことができるので、とくに女性は自由な気分で踊りを楽しむことができるのである。

 ところが、スペインの仮面舞踏会では参加したカップルはパートナー・チェンジすることなく、最初から最後まで同じパートナーと踊るという決まりになっていた。したがって、男女とも仮面舞踏会に単身で出席することなどはまったく無意味であり、踊りに加わることもできないのである。

 この事実を仮面舞踏会で知り合った六十年配の男から聞かされたカサノヴァは驚いて、それでは自分は同伴してもらえる女性など一人も知らないからどうすればいいのかと尋ねた。すると老紳士は、じつは単身参加が許されないために同伴者不在で家で泣いている女性がマドリッドだけで四千人もいるのだと前置きした上でこう語ったのである。

 「もしあなたが名前を名乗り、住所をお告げになって、娘さんに舞踏会の喜びをお授けしたいと申し込まれたなら、あなたに自分の娘を貸すことを断る勇気を持った母親や父親はどこにもいないと、そうわたしは確信しますね。ただし、娘さんにはドミノと仮面と手袋を送ってやり、彼女を馬車で迎えに行き、当然のことながら、帰りも家まで馬車で送り届けると約束なさらなければいけません」

 いいことを聞いたと思ったカサノヴァはさっそくこの方法を実行に移すことを決意したが、舞踏会の終わり頃、思いもかけない光景に出会って目を丸くした。オーケストラが鳴りだし、みなが一斉に拍手したかと思うと、一対の男女がなんとも官能的なダンスを踊り出したのである。それはギターとカスタネットに合わせて踊るファンダンゴと呼ばれるダンスで、これ以上淫らなものはないと思われるポーズで男女が絡みあいながら踊るのである。

 「男のポーズは、明かに幸せな愛の行為を示し、女のそれは、同意と恍惚と、快楽への陶酔を示していた。わたしには、いかなる女性もファンダンゴを一緒に踊った男性を拒むことはできまいと思えた」

 翌日、カサノヴァはさっそくファンダンゴを教えてくれるスペイン人を探しもとめ、三日間でマドリッドにはこれ以上うまく踊れる男はいないと思えるほどに上達した。

 あとは一緒に仮面舞踏会に参加してくれる女性を探すだけである。たまたまその日は聖アントニウスの祝日だったので、ソレダッド教会を見学していると、告解所から背の高い美人が出てきた。ファンダンゴを踊るのなら、この美人相手以外にないと確信したカサノヴァは娘のあとをつけた。すると、娘は幻滅(デセンガニョ)通りという名の通りの二階建の家に入っていった。そこで、教えられた通りにドアをノックし、宗教裁判所の手先ではないことを示す合言葉の「平和の味方です」を口にした。

 ドアが開き、ひとりの男とその妻と、問題の娘と、もう一人の醜い娘が姿を見せた。カサノヴァは片言のスペイン語で、舞踏会に行きたいのだが踊る相手がいないので、娘さんを借りるためのお願いに参ったと語った。男はカサノヴァの名前と住所を聞き、娘の意向を聞いてから後で返事をすると約束した。

 一時間後、男がやってきて、母親が同行して馬車の中で舞踏会が終わるまで待つことを条件に娘を舞踏会に連れていくのを許可すると伝えた。靴屋だと身分を明かしたので、カサノヴァがそれでは靴を作ってくれと言うと、自分は貴族の出なので、人の足に触ることはできない、だから靴直しをやっているのだと告白した。そこでカサノヴァは長靴の修繕を頼み、翌日、ドミノと仮面と手袋を届けさせると約束した。

 夕方、カサノヴァが馬車で迎えに行くと、娘は、大きなマントに身を包んだ母親とともに馬車に乗り込んできて、ドニャ・イグナシアと名乗った。

 こうして、カサノヴァ最後の大恋愛ともいえる靴直し貴族の娘ドニャ・イグナシアとの恋が始まったのである。

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著者プロフィール

鹿島茂(かしま しげる)

1949年、神奈川県生まれ。仏文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。著書に『馬車が買いたい!』(サントリー学芸賞)、『子供より古書が大事と思いたい』(講談社エッセイ賞)、『職業別パリ風俗』(読売文学賞)、『神田神保町書肆街考』、『19世紀パリ時間旅行—失われた街を求めて』など多数。

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