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カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語

鹿島茂(かしま しげる)

カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語 ブック・カバー
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第9回 げに恐ろしきファム・ファタル

2018.01.15 更新

 靴直し貴族の娘ドニャ・イグナシアに一目惚れしたカサノヴァは、仮面舞踏会に出席するという口実で娘を連れ出す許しを父親から得ることに成功。舞踏会ではファンダンゴという情熱的でエロティックなダンスを踊り、ドニャ・イグナシアの恋心をかきたてた。しかし、翌日、彼女の恋人と名乗るドン・フランシスコ・デ・ラモスという青年が訪ねてきた。結婚するための婚資をカサノヴァが貸してくれるとドニャ・イグナシアから聞いたのでやってきたのだという。カサノヴァはすっかり鼻白んでしまった。しかし、長靴の修理を頼んでいた父親がやってきて、娘は舞踏会の楽しかったことを語り続けていると話したので、これは脈があると思い返し、さっそくアタックを再開することにした。幸い、舞踏会はその晩に行われることになっていたので、カサノヴァはドニャ・イグナシアを訪ね、両親がいないすきに大胆な振る舞いに出た。

 「わたしは素早く、彼女の急所に攻撃をかけた。しかし、そこに触れるとすぐに、彼女はわたしを押し返した。が、その態度は乱暴ではなく、先ほどに比べて真剣でもなかった」(以下、引用は窪田般弥訳『カサノヴァ回想録』)

 カサノヴァはドニャ・イグナシアと貞操問答を繰り返しながら、攻撃を続けた。

 「大胆なわたしの手はさらに前進した。彼女の手は、わたしの手に好きなようにさせていた。彼女は何ら拒んだりしなかったので、わたしの楽しみは成就した」

 その夜、舞踏会でファンダンゴを踊ったときのドニャ・イグナシアはじつに大胆で官能的だった。カサノヴァは彼女が身を任せる決心を固めたと思った。

 だが、どう駒を進めればいいのか?

 方法を考えだしたのはドニャ・イグナシアの方だった。自分には従姉妹が二人いて、仮面舞踏会に行きたがっているから、カサノヴァが自分と一緒に誘ってくれれば、なんとか二人だけの時間を持てそうだというのである。

 そこで、カサノヴァは舞踏会準備と称して、当日の昼にドニャ・イグナシアとともに醜い姉妹を自宅に招くことにした。上等なワインを振る舞って酔わせたあと、更衣室として用意した小部屋に姉妹を招き、それとなくエロティックなタッチを繰り返しながら衣装を着せてから、次にドニャ・イグナシアとともに部屋に籠ったのである。

 「彼女が小部屋に入ってくると、わたしはすぐに期待していたとおりのことをした。彼女は欲望を抑えきれないから好きなようにさせているのだといった態度で身を任せた。わたしも同じ立場にあったが、すぐに彼女の名誉を重んじてやるためにひと息入れた。然し、ふたたび事を始めたとき、わたしは彼女が愛のために生まれてきた女であることを知った。たっぷり一時間の間、わたしは彼女を離さなかったが、彼女は姉妹たちに、ドミノの前のほうを縫い直さなければならなかったのだと言った」

 舞踏会に出掛け、従姉妹たちを送り届けてから、ドニャ・イグナシアがコーヒーを飲みたいと言い出したので自宅に戻り、一階にあるレストランに注文に行くと、ドン・フランシスコがいる。どうしてもドニャ・イグナシアに会いたいという。これにドニャ・イグナシアは怒り出した。せっかくカサノヴァと二人だけの時間が過ごせると思ったのにとんだ邪魔が入ったからである。ドニャ・イグナシアはもうあんな男には愛想が尽きたと語り、大急ぎでカサノヴァに愛のしるしを与えてくれたのである。

 こうして最愛の恋人もでき、マドリッド滞在も楽しいものになるはずだったが、翌々日、通りで人相の悪い男に呼び止められてから運命が狂いだす。今夜、町役人のメッサが武器の不法所持を理由にカサノヴァの家に家宅捜索に向かうはずだから、武器があれば隠しておくようにという忠告を受けたのだ。カサノヴァが自宅に戻り数丁のピストルと騎兵銃を持ち出して知り合いの画家のメングスの家に匿ってもらったところ、翌日、一人の士官が現れ、ブエン・レティロ宮殿を転用した牢獄に連行されてしまった。

 結局、虱と蚤と南京虫という「スペインではごくありふれた虫」たちに襲われながら過ごした牢獄からは、ヴェネチア大使館のマヌッチの奔走で三日後に釈放されることとなった。マヌッチが絶対権力者の宰相ダランダ伯爵に働きかけてくれたのである。釈放されるとすぐにカサノヴァは、獄中にまで面会に来てくれた靴直し貴族のドン・ディエゴに会いに行き、ドニャ・イグナシアと再会し、恋心をいっそう募らせた。

 この投獄騒動のおかげで、スペイン宮廷と社交界におけるカサノヴァの地位は逆に保証されたかに見えた。ダランダ伯爵とは親しくなれたし、ヴェネチア大使にもメングスとともに昼食に招かれ、社交界に出入りする道が開かれたからである。そればかりではない、この頃、スペイン政府が推し進めていたラス・シエラス・デメモレナと呼ばれる無人地域への入植に関してヴェネチア大使との昼食で意見を述べたところ、ダランダ伯爵と親しいオラビデスという人物から具申書を提出するように求められたのである。もしかすると、具申書が大臣グリマルディに認められて、待望久しい政府特別顧問のような職にありつけるかもしれない。入植地の総督となることも夢ではないし、そうなったら、ヴェネチア大使館にとっても名誉なことなので、国事犯という汚名を晴らせる可能性も出てくる。

 実際、運は開けたかに見えた。復活祭の二週間前、スペイン王がマドリッドを離れ、全宮廷をひきつれてアランフェスに移動したので、カサノヴァもこの離宮に行くことにした。ヴェネチア大使からアランフェスなら社交界に紹介しやすいと言われたからである。カサノヴァが出発前に熱病にかかったり、痔瘻(じろう)が悪化して手術が必要になり一週間ほど寝込んだことが原因で、メングスと不仲になったこともあったりしたが、しかし、アランフェスでは大使の言葉通り、社交界で知り合いも出来、いよいよ運が向いてきたかと思われたのである。

 マドリッドに戻ると、新しい借家の手配を頼んでいたドン・ディエゴの住むデセンガニョ通りを訪ねたが、家には誰もいなかった。どこかに引っ越したらしい。しかたなく、新居であるアルカラ通りの家に行って旅装を解き、ドン・ディエゴが雇ってくれたビルバオ女の手になるおいしい夕食をたいらげた頃、召使のフェリペが家主が戻ってきたと伝えた。

 「すると、娘と一緒に靴直しが入ってきた。彼はわたしを住まわせようと、わざわざこの家を借りていたのである」

 ドン・ディエゴはカサノヴァを喜ばせるために代表借家人となって家一軒を借りきり、その一番良い部屋をカサノヴァに貸すことにしたのである。

 ドニャ・イグナシアはカサノヴァと同じ屋根の下に住むことになったので、かえって身持ちを堅くしたが、しかし、カサノヴァは信心深い女というものの本質を知っていたから、ドニャ・イグナシアに対して絶対の自信をもっていた。

 「次のこと以上に確かなことはあるまい。すなわち、信心深い女はその恋人とひとたび肉体の交わりをしたときには、偏見を持たない他の女よりも百倍も快楽を感じるということである」

 果たせるかな、ドニャ・イグナシアはまたぞろ醜い従姉妹をダシにつかって逢い引きを画策するようになった。従姉妹はドニャ・イグナシアに告白されてカサノヴァとの関係をなにもかも知っているので、共犯者になってもらえると、娘心でひそかに計算していたようである。事実、カサノヴァとドニャ・イグナシアがバルコニーで愛撫を交わしているときには、従姉妹は興味津々で様子を盗み見しながらも監視役をつとめてくれたりした。しかし、肝心のドニャ・イグナシアが予想以上に信心深い娘なので攻略には手間取ったが、ついにその障害も乗り越えられるときがきた。父親黙認のうえ、ついに二人は結ばれたのである。

 「彼女の魂の美しさをすっかり見せてくれたこの打ち明けが終わると、わたしは彼女を腕に抱き、そしてベッドに連れていった。完全に良心の疑懼(ぎく)から解放されたわたしは、夜明けの最初の光が差しこんでくるまで、彼女を抱いたままでいた。彼女はわたしに、かつてないほどの愛情を感じさせた」

 このように、スペインにおいては、カサノヴァは恋も求職活動もともに順風満帆の滑り出しをみせ、こんどこそ運が開けるかに見えたが、しかし、ことはそう甘くはなかった。

カサノヴァは「回想録」第十一巻第四章の冒頭で「わたしはここで悲しむべき真実を語らなければならない。というのは、わたしはその真実を語る義務があると思うし、不謹慎なことをした罪の告白をしなければならないからである」と述べている。

 では、その「不謹慎なこと」とはいったい何だったのだろうか?

 そもそもの災難はマドリッドにフレチュール男爵というリエージュ出身の賭博師が現れたことに始まる。フレチュールは例によって賭博で有り金をすべてすって一文無しになったのでカサノヴァに工面を頼んだが、カサノヴァも持ち合わせがないので断った。すると、フレチュールはカサノヴァから紹介を受けたマヌッチのところに行って窮状を訴えた。マヌッチは、金が手に入らなければ自殺するしかないというフレチュールに同情し、百ピストールを渡してくれと小切手を持参したのである。カサノヴァは言われたとおりに小切手をフレチュールのところに持っていってやった。フレチュールは小切手を受け取っても、どことなく不安な様子だったが、翌日、バルセロナに出発した。

 それから三日後、駐マドリッドのヴェネチア大使の交代が行われるので新旧大使との昼食会に出かけたカサノヴァは門前払いを食わされた。青天の霹靂だった。あわててマヌッチに手紙を書き、召使に持参させたが、召使は手紙を持って帰ってきた。ドニャ・イグナシアと会食したあと自宅にもどると、マヌッチからの手紙が届いた。手紙にはフレチュールの手紙が同封されていた。フレチュールの手紙はカサノヴァが小切手を届けるまえに投函されたようで、百ピストールもらえるなら、マヌッチの近くにいる敵を暴露すると書かれていた。好奇心に駆られたマヌッチがフレチュールに会うと、フレチュールは恐ろしいほど詳細にカサノヴァが喋ったマヌッチの悪口を伝えたのである。マヌッチはフレチュールがこうした細部を知っているのはカサノヴァから聞いたとしか考えられないと断じ、一週間以内にマドリッドを退去せよという勧告で手紙をむすんでいた。

 マドリッドで社交界に紹介され、運が開けそうになったのも、牢獄から釈放されたのも、すべてカサノヴァに好意を抱いて奔走してくれたマヌッチのおかげである。それなのに、カサノヴァは、知り合いの悪口を言って楽しむという軽率な振る舞いに身を任せたがために、何もかも失うはめに陥った。

 事実、マドリッドの社交界では、それ以後、どこへ行っても相手にされなかった。最後の頼みの綱であるダランダ公爵に面会すると、法律に違反したのではないから、マドリッドに滞在を続けてもかまわないと言ってくれたが、すべては終わったと悟ったカサノヴァはドニャ・イグナシアと断腸の思いで別れると、マドリッドを去り、サラゴッサを経てバレンシアに向った。

 バレンシアでは、奇妙な体験がカサノヴァを待ち受けていた。闘牛場で出会ったニーナという踊り子との一件である。ニーナはバルセロナ大公国の総帥リクラ伯爵の愛人だったが、カサノヴァと言葉を交わすと、翌朝食事に来るようにと誘った。

 カサノヴァがその広壮な屋敷に出かけてみると、ニーナは醜いスペイン人のモリナリという男に散々に侮辱を与えながら暴君のように振る舞っている。不思議に思ったカサノヴァが尋ねると、ニーナは、あれはリクラが彼女の行動を監視するために置いているスパイで、自分はリクラにわざと最悪の報告が届くように振る舞っているのだと語り、夕食を取りに来てくれと懇願した。

 夕方、ニーナの家に出向くと、ニーナはモリナリとともに暑さしのぎという理由で裸に近い格好でカサノヴァを迎えた。そして、自分が体験した卑猥な逸話を語り、食事が終わると、モリナリを相手に破廉恥な振る舞いを始めた。

 「明らかにあばずれ女のニーナは、この哀れな男の前でわたしに奉仕をしてもらい、乱痴気騒ぎにふけりたがっていた。彼女もまた、わたしのほうを見ずに素っ裸になってしまっていたが、わたしは無頼漢がそばにいたので、どうしても彼女を満足させてやることができなかった」

 すると、ニーナはモリナリの体を使ってカサノヴァの目の前で楽しみ、行為が終わると局部をビデで洗浄してから、その汚水を男に飲ませた。

 ニーナのあまりにひどい振る舞いに呆れたカサノヴァがなぜそんなことをするのかと尋ねると、ニーナはモリナリがなにもかもリクラ総帥に報告することを見越してやっているのだと答えたうえ、カサノヴァと親密にしているのも総帥の嫉妬を搔き立てるためだとしてこんな告白をしたのである。

 「彼を苛立たせれば苛立たせるほど、あたしを愛してくれますわ。それに、あとの仲直りは高くつきますものね」

 驚いたカサノヴァが、では総帥を愛していないのかと聞きただすと、なんとこう答えたのである。

 「彼を破産させるために愛しているのです。しかし、彼は大変なお金持ちですから、とてもそんなことは不可能です」

 この告白を聞いたカサノヴァは次のように記している。

 「わたしの目の前にいるのは、天使のように美しく、悪魔のように残酷な女だった。彼女は、不幸にも彼女に惚れ込んだいっさいの男たちに、刑罰を加えるように生まれてきた恐ろしい娼婦なのだ」

 まさにファム・ファタル。この言葉が生まれるまえのファム・ファタルである。

 こう認識したカサノヴァは、それなら恋しないで利用してやればいいと考えたようで、まず、ニーナをトランプ賭博に誘って二百ドブロネス手に入れたあと、リクラ総帥からの手紙でバルセロナに戻ることになったニーナと途中の町タラゴナで落ち合って「醜聞を起こさずに彼女と寝ることができた」。さらに、バルセロナでは、リクラ総帥が夜の十時に帰ったあとにニーナの屋敷を訪れ、夜を一緒に過ごしてほしいという彼女の要望に従うことにして、ニーナが指定したサンタ・マリア街の宿屋に投宿したのである。

 バルセロナではバレンシアで貰った紹介状のお陰で、リクラ総帥と会食することができたが、リクラがニーナとの関係に気づいているようには見えなかった。

 ニーナから手紙が届き、夜十時に訪問し始めたが、ニーナは十五、六歳上の姉と一緒に住んでいた。姉はいっときもそばを離れなかったのでニーナとの関係は清いままだった。

 ところが、ある晩、ニーナ宅への訪問を終えて帰宅しようとしていたとき、王室親衛隊の将校が近づいてきてニーナ宅への訪問は控えたほうがいい、なぜなら、リクラ総帥はニーナに入れ込んで以来、嫉妬に駆られて多くの人を追放したり、投獄しているからだと語った。

 カサノヴァはこの忠告を一笑に付したが、しかし、やがてそれを悔いることになる。その直後から、連続的なアクシデントに見舞われたからである。ただし、そのすべてがリクラ総帥の嫉妬から生まれたものか否かは判断がつき兼ねた。というのも、人の恨みを買うようなことをもう一つしていたからである。

 それは、十月十四日にニーナ邸を訪問したときのことである。見かけぬ男が細密画をニーナに見せているので、よく見たところ、ジェノヴァの悪党ポゴマス、つまりバッサノという詐欺師だった。カサノヴァはニーナにすぐに男を追い払うように言った。バッサノはいまに後悔するぞと捨てゼリフを残して立ち去った。

 翌日、いつものようにニーナ宅への訪問を終え、深夜の道を帰宅しようとしていたとき、カサノヴァは二人組の暴漢に襲われた。剣で一人はさしたが、銃弾を浴びたので、帽子も拾わず、宿屋に逃げ帰った。事件の証拠品として、血に染まった剣と銃弾で穴の空いたフロックコートを宿屋の主人に預かってもらおうとしたところ、主人から今すぐこの町を出たほうがいいと忠告された。しかし、今度もまたカサノヴァは耳を傾けなかった。暴漢はバッサノに雇われたと考えていたからだ。だが、この予測は違っていたようである。

 というのも、翌朝、政府の命令を受けたという士官の訪問を受け、身柄を拘束され城塞の牢獄に投獄されてしまったからである。容疑は不正旅券所持ということだったので、すぐに釈放されるだろうと予想したが、案に相違して投獄は四十二日間に及んだ。しかたなく、カサノヴァはこれを利用して、アムロ・ド・ラ・ウッセーのヴェネチア政府史に対する反論を書き上げた。印刷してヴェネチア政府高官に届ければ、国事犯容疑の再審も可能になると考えたからである。

 十二月二十八日、投獄から六週間後、ようやくカサノヴァは釈放された。宿に帰ると血の付いた剣や穴の空いたフロックコートのほかに、暴漢から逃げるときに落としたはずの帽子まで部屋のなかに置かれていた。宿の主人の話では事件の三日後に当局から返却され、宿代はすべて清算ずみであるという。バッサノは暴漢を雇ったわけではなく、カサノヴァの旅券が不正なものであると密告しただけらしい。どうやら、すべてはリクラ総帥の嫉妬から生まれた災難だったようである。

 「悪女のニーナは、わたしが彼女の恋人であり、彼女がわたしを幸せにしたと伯爵に思い込ませて楽しんでいたのだ」

 げに恐ろしきはファム・ファタルである。

 しかし、スペインでの災難はまだ終わってはいなかった。一月三日にフランス領のペルピニャンにつくよう馬車屋と契約して大晦日にバルセロナを離れたところ、馬車屋が人相の悪い刺客に付けられていると教えてくれたのである。幸い、馬車屋の機転で刺客の裏をかき、ペルピニャンには無事に着くことができた。そこで弟や知り合いに手紙を書いた後、ナルボンヌ、ベジエ、ペズナを経て、モンペリエに着き一週間滞在することにした。カステルバジャック夫人にコンタクトを取ろうと思ったからである。夫が薬屋を営んでいたことを思い出し、薬屋を片端から訪れたところ、夫人から手紙が届いた。口裏を合わせておいたので、夫からも大歓迎され、一家と四日間を一緒に過ごすことになった。しかしふたりとも、あえて関係を戻そうとは思わなかった。

 「我々が共に送った甘美な生活の思い出も、その生活をふたたび新たにしたいという欲望をふたりの心のなかに呼びさますだけの力を持っていなかった」

 こうして幸せな気持ちでモンペリエを後にしたカサノヴァはニームを経て、エクスに向った。高等法院の置かれたこの町で貴族たちと知り合いになりたいと思ったからである。

 エクスは南仏に於ける高等法院のある町として知られていた。高等法院とは基本的には司法機関だが、王の発した法令を登記する権能を有していたことから、立法機関のような役割も果たすようになり、王権と対立する法服貴族の牙城となっていた。カサノヴァはこの法服貴族たちと知り合いになりたいと思っていたので、高等法院長であるエギーユ侯爵の兄であるアルジャンス侯爵とコンタクトを取ることにした。アルジャンス侯爵はルイ一五世統治下初期の時代を描いた「回想録」の著者として有名で、無神論の快楽主義者として知られていた。

 紹介状を携えて訪問したカサノヴァをアルジャンス侯爵は快く迎えてくれた。ギリシャ語とヘブライ語に通じ、博覧強記の教養人である侯爵はカサノヴァと肝胆相照らす仲となると、自分の回想録について、本当のことを書きたいという激情に駆られてあのようなものを世に出してしまったが、今では書いたことを後悔していると語り、回想録の準備をしていると察したカサノヴァに「自分の生涯のことなど決して書いてはいけませんよ」と忠告した。この忠告を思い出しながら、カサノヴァはナレーションの現在に立ち戻り、「にもかかわらず、わたしは七年前からその愚かなことをやり始めてしまった。そして、すでに後悔しているというのに、最後まで書きつづけようと固く決心しているのである」と書いている。これにより、われわれは「回想録」執筆開始の時期をしることができる。貴重な情報である。

 それはさておき、貴族たちの社交界に入り込むという当初の目的は達成できたかというと、こちらは思うに任せなかった。アルジャンス侯爵の弟のエギーユ侯爵は、誠実なカトリック信者でイエズス会修道士であった。同時に文藝の愛好者で兄への尊敬も持っており、宗教の話を持ち出して互いが気まずくなることは避けるという賢明さに恵まれていたが、社交界はイエズス会に支配されており、カサノヴァも何度か地雷を踏みそうになったからである。

 そのため、カサノヴァはアルジャンス侯爵の甥の未亡人であるドイツ女性の弟の無神論者ショフスキーと付き合っていたが、ある時、ショフスキーとともに十四歳の娘の誘惑を試みた後、突如、高熱を発し、床についてしまった。肋膜炎で、病状は急激に悪化し、ついには終油の秘蹟を授けられるまでになった。三日ほど半睡状態が続いた後、腕のいい医者が生命を保証してくれ、一〇日目から持ち直したが、回復にはさらに三週間を要した。ところで、その間、一人の婦人が昼夜をおかず看護してくれたので、回復した後、誰の指示で看護に来たのかと尋ねたところ、医者の指示だという答えが返ってきた。ところが、医者に聞き正してみると、そんな女は知らないという答えである。

 この謎はカサノヴァが後にマルセイユに向けてエクスを出発したときに解き明かされる。看護の女性を差し向けたのは、なんと、カサノヴァの永遠の心の恋人であるアンリエットだったのだ。アンリエットはエクスの社交界に出入りするカサノヴァと連絡を取ることを控えていたのだが、カサノヴァが重病に陥ったと知り、自分の召使の女性を看護に差し向けたのである。カサノヴァはエクスを発って、クロワドール近くにあるアンリエットの別荘を訪ねたとき、応対に出た女性が例の看護の女性だったことから真相を知ったのだった。

 アンリエットはカサノヴァの手紙にこう書いてきた。

 「あたしたちは二人とも年をとりました。あたしは今でもあなたを愛しておりますけれど、それにもかかわらず、あなたに気づかれなかったことをかえって嬉しく思います。(中略)あたしがどんなに変わったかを見ようとしてエクスに戻っていらしてはいけません。(中略)もしあたしと文通なさりたいというお気持ちがおありでしたら、あたしも可能な限り努力して、実のあるよいお手紙を書くようにいたします」

 こうして、若き日に熱愛した二人の恋人は二度と会うことなく、その後の人生について語り合う手紙を四〇通も交わし合うこととなるのである。これもまた、一つの愛の理想形ではあるまいか?

 真相の解明といえば、スペインを離れるときに三人の刺客に付け狙われて危うく難を逃れた事件の謎もエクス滞在中に明らかになった。すなわち、カサノヴァは病気が癒えたあと、パリからの弟の手紙を受け取ったが、弟はカサノヴァがカタロニア国境近くで暗殺されたとヴェネチア大使館付きの貴族マヌッチ伯爵が知らせてきたと書いてきたのだ。マヌッチは暗殺命令が確実に実行されたと信じてカサノヴァの弟に手紙を書き、はからずも真犯人が誰かを自ら明かしてしまったのである。

 また、これはマルセイユに着いてからのことだが、例のファム・ファタル、ニーナに関しても、同宿した姉の口から、投獄事件の真相のほかに出生の秘密も明かされたことを付け加えておかねばならない。

 まず、投獄事件の根本原因について姉はこう語った。

 「あの娘はほんとうに怪物です。(中略)彼女は伯爵を操って、ひどいことを山とさせましたわね。それは、スペインじゅうの人たちが自分の噂をしてくれるように仕向けるという以外には何の理由もありません。(中略)伯爵がニーナのところで過ごすときに、つねに話題となるのはあなたのことばかりです。(中略)すると伯爵は苛立ち、もういい加減にやめて他の話にしてくれと、いつも言いますが全然駄目なんです。(中略)あなたの身にふりかかった例の事件の二日前に、伯爵はニーナに、彼女の予期しないご挨拶をしようなんて言ってましたよ。だから、このことははっきりと断言できますけれど、あなたが出ていかれてすぐに鉄砲の音を耳にしたときにも、ニーナは少しも顔色を変えず、あの鉄砲が、哀れな夫が約束したご挨拶なのねとうそぶいていましたわ」

 かわいそうに、カサノヴァはニーナの「ドーダ、すごいでしょう、わたしは!」というドーダ心のために命を失いかけ、四二日も投獄の憂き目に会ったのである。げに恐ろしきはファム・ファタルである。

 次いで、怪物ニーナの出生の秘密について、姉はニーナは妹であると同時に娘であると明かし、こんな告白をしたのである。

 「父があたしにあの娘を孕ませたのは十六歳のときです。ニーナは罪の子なのです」

 驚いたカサノヴァがニーナはそのことを知っていたのかと問いただすと、姉は、自らニーナにそれを明かしたばかりか、ニーナが十一歳のときに処女を奪ったのも父であったと言い、もし父がその年のうちに死ななかったら、ニーナも孕ませていただろうと語ったのである。怪物ニーナは男たちに復讐して然るべき理由があったのである!

 ニーナについては他にもいろいろとエピソードが姉の口から明かされているが、それは割愛して、ここではカサノヴァが「回想録」に記している歴史的証言を取り上げておこう。それは十八世紀に生きたもう一人の有名なアヴァンチュリエ、カリオストロ伯爵との出会いである。

 カサノヴァがエクスで高級賄い付き下宿のトロワ・ドーファンに滞在していたときのこと。同じ下宿にサンチアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼から戻ってきたという夫婦がいた。背の低い男の感じのよい顔には、「大胆さ、厚かましさ、人を小馬鹿にしたような様子、狡猾さなどが窺われた」が、夫より五、六歳年下の妻の顔には、その反対に、「高貴さ、慎ましさ、純真さ、やさしさ、羞恥心などがはっきりとその顔に表れていた」。妻は発音からして、ローマの生まれだとわかったが、夫のほうはナポリ生まれと言っていたにもかかわらず、カサノヴァはシチリアの出身だと判断した。女はサラフィナ・フェリチアニと名乗り、男の旅券にはバルサモという名が記されていた。男は版画の模写を職業にしていたが、ある晩、妻が部屋に現れ、翌日アヴィニョンに向かうので紹介状を書いてほしいと言うので、カサノヴァは銀行家のオーディフレ氏宛の紹介状を書いてやった。ところが、しばらくするとまた妻が現れ、オーディフレ氏宛の紹介状は必要なくなったが、本物に間違いないか確かめてくれと言った。

 「わたしはよく見てから、確かに同じ紹介状だと答えた。すると彼女は笑いながら、それは思い違いで、これは写しにすぎないものだと言った。わたしが彼女の言葉に承服しないでいると、彼女は夫をよんできた。彼はわたしの手紙を手に持っていたので、わたしもこの見事な模写を認めざるを得なかった。これは版画の模写などよりもずっとむずかしいことである。わたしは彼の腕にすっかり感心し、これだけの才能があれば大変な利益を生むだろうが、賢明に振る舞わないと命に関わることになるだろうと注意した」

 一八世紀の偉大な二人のアヴァンチュリエの出会いはこれから十年後にもう一度起きるが、そのあと、カリオストロ伯爵は有名な首飾り事件に連座して牢獄に繫がれることになるのである。カサノヴァの予言は見事的中したわけだが、その予言は、人は欠陥ではなく長所においてしくじるという自らの反省から出た悟りに基づくものだったに違いない。事実、この後、カサノヴァはある意味、カリオストロ伯爵と同じ運命をたどることになるのである。

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著者プロフィール

鹿島茂(かしま しげる)

1949年、神奈川県生まれ。仏文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。著書に『馬車が買いたい!』(サントリー学芸賞)、『子供より古書が大事と思いたい』(講談社エッセイ賞)、『職業別パリ風俗』(読売文学賞)、『神田神保町書肆街考』、『19世紀パリ時間旅行—失われた街を求めて』など多数。

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