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カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語

鹿島茂(かしま しげる)

カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語 ブック・カバー
バックナンバー  1234 

第4回 乙女心を読み間違えたカサノヴァ

2017.08.04 更新

 激しく拒むシャルピオンを危うく殺しかけたカサノヴァは、殺人の罪に問われないためには二度と彼女に会わない以外にないと思い定めた。 しかし、六〇〇〇リーヴルの手形二枚の返却を求めた母親のアウグスプルガーから手紙が届き、もう少しうまくやれば娘もなびいたはずなのにと伝えてきたので、なんと図々しい親子と怒りを再び爆発させ、ポケットにピストルを忍ばせるとシャルピオン親子のいるデンマーク街に向かった。

 ドアの前には美容師がいた。シャルピオンの髪をカールするためにやってきたらしい。カサノヴァは美容師が帰るのを待ってからにしたほうがいいと考え、待機することにした。しかし、それにしてはあまりにも遅い。幸い、小間使いが探しものに出てきたので、そのすきをついて家に入った。

 「すると、シェークスピアが言ったような(『オセロ』の第一幕一場)背中の二つある怪獣が長椅子の上に横たわっていた。それはシャルピオンと美容師だった」(以下、引用は窪田般弥訳『カサノヴァ回想録』)

 カサノヴァは裸の美容師を杖で激しく打ちつけた。母親たちが物音に気づいて駆けつけてきたので、怒りに任せてシャルピオンに贈った陶器を打ち砕き、椅子も床に叩きつけた。その間に美容師は逃げてしまった。母親に手形を返すように命じると、シャルピオンが持っていたはずだが、逃げ出してどこかに行ってしまったのでわからないと答えた。

 結局、近所を探してもシャルピオンは見つからなかった。カサノヴァは家に戻ると、悪夢にうなされながら朝まで眠った。朝方、捜索を命じていた小間使いが現れ、シャルピオンが帰宅した旨を伝えてきたので、デンマーク街まで様子を見に行ったが、当然、家には入れてくれない。医師の話では、シャルピオンは恐怖のあまり瀕死の状態にあるとのことだった。

 「わたしは脚をふるわせながら自宅に戻り、最も確実だと思える方法で自殺することにした」

 自分の持ち物を小箱に集め、ヴェネチア弁理公使に手紙を書いて、遺品はブラガディーノ氏に遺贈するようにと遺言を残した。

 それから愛用のピストルと重い鉛の塊をポケットに忍ばせると、ロンドン塔のあたりでテムズ河に身を投げるつもりで家を出た。シャルピオンの幻影が現れるたびに地獄の苦しみを味わうならいっそ死んだほうがましと思ったからである。

 よほどひどい顔をして歩いていたのだろう。ウェストミンスター橋で偶然出会った知り合いの勲爵士エイガーが驚いて声をかけてきた。「きっとあなたは何か非常に不吉なことをなさりに行かれるんですね。顔に書いてありますよ」

 エイガーはカサノヴァのポケットからピストルがのぞいているのに気づくと、決闘に行くのではないかと心配した。カサノヴァが否定すると、それならこれからキャノンというコーヒー・ハウスに一緒に出掛けないかと誘った。カサノヴァは自殺なら後からでもできると思い、エイガーの誘いに乗った。これが運命の別れ道となった。

 「愛すべき青年を待ちながら、彼はわたしの自殺を諦めさせる原因となるかも知れないと思った。彼はわたしの自殺を遅らせているのだから、すでに邪魔をしているのである。わたしは、それを希望する人間としてでなく、予見する人間として、エイガー氏はわたしの命の恩人となるかも知れないと推論し、そうつぶやいた」

 しばらくするとエイガーがあらかじめ招いていた若い二人の娼婦がやってきた。娼婦たちはエイガーの挑発に乗り、一緒に全裸の踊りを始めた。衰弱しきっていたカサノヴァの肉体には何の反応もあらわれなかったが、しかし、気持ちはすっかり楽になった。それを見たエイガーは今度はラネラグ・ハウスに行かないかと誘った。カサノヴァは、幸福な青春時代に教え込まれたストア学派の金言「神ニ従エ」を実践することにした。

 ラネラグ・ハウスでメヌエットを踊っている人たちを見ているうちに、シャルピオンに与えたものとよく似た服の娘がいるのに気づいた。しかし、シャルピオンはいま瀕死の床にいるのだから、そんなはずはないと思い返したが、しかし……

 「じっと見てみると、その婦人はシャルピオンその人だった。後でエイガーはわたしに、この瞬間にわたしが癲癇を起こすのではないかと思ったと言ったが、それほどわたしはびっくりした」

 カサノヴァはその娘に近づき、まるで一緒に踊ろうとするかのように抱き抱えた。

 「わたしの顔を見ると、彼女はすぐに背を向け、どこかに逃げていってしまった。わたしは何も言わなかったが、事実を確認した。わたしは腰を降ろしたいと思った。たちまち全身に冷汗が溢れ出てきた」

 ショックから立ち直ったカサノヴァはエイガーこそは自分の守護神だったと確信し、深く彼に感謝した。

 ところで、このシャルピオンと恩人エイガーを巡っては面白い後日談がある。

 シャルピオンへの復讐を決意したカサノヴァがシャルピオン親子を手形詐取の容疑で逮捕させるため、警吏に同行して母と二人の伯母の身柄を拘束させることに成功した後のことである。しばらく姿を見せなかったエイガーが二週間ほどしてカサノヴァの家に現れて、アウグスプルガー一家に頼まれたからと二百五十ギニーを持参してきたのだ。六〇〇〇リーヴルの手形二枚に相当する金額である。エイガーは領収書としかるべき声明書を書いてくれと頼んだ。なんとしたことか、エイガーはシャルピオンに籠絡され、二百五十ギニーを立て替えたのである。

 そのころ、イギリス王女オーガスタ・オブ・ウェールズがブランシュヴァイク公と結婚することとなり、それを祝う大祝賀会がコルネリウス夫人によって開かれた。カサノヴァも参加したが、その帰り道、ピストルを持った男たちが現れ、国王の命により逮捕すると告げ、カサノヴァをシティにある屯所に連行した。翌朝、裁判所が開いてカサノヴァが出頭すると、判事が終身監禁の判決が下されたと告げた。いかなる容疑なのかという質問に対し、判事はさる娘の顔に切り傷をつけた容疑であると明かし、二人の証言によって告発がなされた旨を告げた。カサノヴァが抗議すると、司法官はあっさりと抗議を認め、イギリス人である保証人を二人見つけてきたら、抗議は受理されるとして、カサノヴァにこう告げたのである。

 「あなたが尊敬するに値すると思っておられ、あなたが極悪人でないことを承知している二名の英国貴族です。彼らを捜しに人をおやりなさい。わたしが昼食に行く前にその人たちが来れば、あなたはすぐに釈放されます」

 驚くべき司法制度というほかはない。保証人が二人見つかれば無実の人を告発できるし、あるいはその逆に保釈されることもあるのだ。カサノヴァは難なく保証人を捜し出して保釈されたが、そのときシャルピオンの保証人として立った二人の人物の名を聞き出したので、翌日、そのうちの一人のポタレリイという人物の家を訪ねてみた。

 驚くべき陋屋にはポタレリイは妻と四人の子どもと暮らしていた。カサノヴァが昨日はあなたのおかげで投獄されかけたというと、ポタレリイはこう答えたのである。

 「この家族を見て下さい。わたしは二ギニーが必要だったのです。今度はいつでも、ただであなたのお役に立ちますよ」

 ロンドンにはこうしたポタレリイのような「職業的保証人」がたくさんいて、訴訟のお役に立っていたのである。

 シャルピオンがらみでもう一つの後日談をカサノヴァは語っている。

 ある朝、オウム市場の前を通ったとき、きれいな一羽のオウムを見つけたので十ギニーでこれを買い求め、「シャルピオン嬢は親以上に淫売だ」と覚えさせることにした。面白がった友人から証券取引所でオークションに掛けたらと勧められたので意見に従うことにした。このころ、シティの証券取引所では、ヤフオクのように何でもオークションに掛けることができたのである。オウムはたちまち人気を呼んだが、最低落札価格をわざと高目の五十ギニーにしておいたおかげで、長い間、覚えたセリフを喋り続けた。五十ギニーで落札したのはグロヴナー卿だった。どうやらシャルピオンに誘惑されて金を出したらしい。

 以後、シャルピオンとはロンドンの劇場や遊歩道で顔をあわせることがあっても、ほとんど無関心で通すことができた。つきが落ちたように、過去の忌まわしい事件を思い出すこともなかったとカサノヴァは語っている。しかし、シャルピオンとの一件はカサノヴァの無意識を縛り、かつてのような絶対的な自信は失われてゆくのである。

その兆候はスイス・ベルンの代理公使としてロンドンに滞在中のM・F(ミュラルト・ファーヴル)の家族とレストラン・シアターで三年ぶりに再会し、すっかり大人になった下の娘のサラに惚れ直したときからあらわれていた。

 じつは、カサノヴァはベルン滞在中、幼かったサラにちょっかいを出し、その現場を家政婦に目撃されたことがあった。そのことを思い切ってサラに話し、いまでも怒っているかどうか尋ねてみると、逆に、いまでもカサノヴァに好意を寄せているという返事が返ってきた。これでカサノヴァはすっかり舞い上がってしまった。まずは夫人と亭主に気に入られるのが先決と判断し、食事代を奢り、帰りも自分の馬車でM・Fの自宅まで送り届けた。夫人は三階に住み、娘たちは四階に住んでいた。

 「部屋には火の気もなかった。そして、サラの姉が火を起こしに別室へ行ってしまうと、彼女はわたしと二人きりになった。この一瞬は――それは一瞬にも満たない時であったかもしれなかったが、なんと幸せな一刻であったことか。なんというサラの魅力! 一瞬にして、すでに乱れていたベッドの上で二人の情熱をひとつにして味わう、なんというお互いの喜び! 二人にはひと言も話し合う暇も、ヴィーナスが与えてくれた美酒を飲みほす時間も、愛と自然と幸運とがわれわれに授けた貴重な贈り物について思いをめぐらしている余裕もなかった。そのとき誰かが階段を上がってきた。M・F氏だった。これですべては終わった」

 この一節だけだと、カサノヴァの運命が下り坂になったとは思えないし、むしろ、運が向いてきたのではないかと思うかもしれない。しかし、この後の展開を見ると、やはり運はすでに逃げたと判断せざるをえないのである。

 サラに夢中になったカサノヴァは、M・Fの一家の負債が大きいことを知ると、家具の差し押さえを解除してやったり、自宅のアパルトマンに引っ越させたりと下心丸だしで親切を重ねた。その甲斐あって、M・F氏もその妻もカサノヴァを婿候補として認めるに至った。

 ところで、これまでだったら、結婚という二文字が出たとたんカサノヴァは逃げ腰になるのが常だった。なによりも自由を愛した男としては、当然の振る舞いである。しかし、今回に限って、カサノヴァはベルンに帰還する一家に付いていくと言い出したのである。

 「わたしはベルンで、彼の同意が間違いなく得られると分かり次第、すぐにサラを妻として迎えたいと願っていた」

 カサノヴァがこの気持ちを母親に伝えると、母親は気をきかせて姉娘と外出した。絶好のチャンス到来とサラに挑みかかったカサノヴァに、サラは結婚するまではダメだと言い張り、処女のように抵抗した。カサノヴァがシャルピオンとの悪夢を思いだし、涙ぐむと、サラは気絶してベッドに倒れこんだ。しかし、カサノヴァはこのチャンスを利用しなかった。すなわち、接吻は口、目、腕、両手にとどめておいたのである。ところが、この自制はサラを感動させなかったのである。つまり、正気を取り戻したサラは抵抗をやめず、体を許すことはなかったのだ。

 その結果、シャルピオンと意図は違えど結果は同じになるのではないかという疑いが心に兆してき、カサノヴァはひどく悲しい思いに捉えられた。

 「シャルピオンの破廉恥極まりない性格のことは知っていたのに、思いのままに操られていたわたしが、神の加護によって彼女の鉄鎖から抜け出してからまだ六週間しかたっていなかった。それなのに、今またわたしは、わが理性がその美徳に感嘆しなければならなかった天使の犠牲に、あわやなろうとしていたのである。しかし、わたしは天使に服することはできなかった。彼女が妻になることなどは確信がもてなかったので、わたしは身の破滅を予測した」

 ここでカサノヴァの言葉使いについて一言コメントしておくと、カサノヴァにとって結婚とか妻になるというのは法律的な契約関係を意味しない。つまり肉体関係が結ばれることをそう呼んでいるのである。いいかえると、いくら頑張ってもサラが陥落することはあるまいと感じたので、カサノヴァは撤収を決意したのである。

 「サラに惚れてはいたものの、彼女のほうはわたしに対し、もはやわずかな愛情しか抱いてくれないことが確かだったので、わたしは釈明をぐずぐずしていられなかった。そこで夕食後に、まだみんなが食卓にいるところで、わたしはこの愛すべき一家の人たちに向かって、サラが妻になってくれるという確信が持てないから、わたしのベルン行きは別の機会に延ばすことにしたと語った。父親は、それは賢明な考えだと思うから、娘とは手紙のやりとりをしたらいいと言った。娘もこの案に同意の色を見せた。しかし、それほど熱のこもった様子ではなかった」

 さて、この一件、どのように判断したらいいのだろう?

 カサノヴァはいとも容易にサラが身を任してくれたので、あとは結婚ということばを匂わせておけばベルンまでの道中、両親公認のもとサラと恋人関係でいられると踏んだにちがいない。場合によってはベルンで本当に結婚してもいいとさえ思っていたようである。

 サラはというと、おそらく次のような心理が働いていたものと思われる。すなわち幼いときにカサノヴァと味わった官能のうずきが忘れられず、千載一隅のチャンスが巡ってきたので、思い切って身を任せたのだが、そのときには結婚という可能性を考えてもみなかったにちがいない。一度きりのアヴァンチュールと思ったからこそ、官能の勢いに身を委ねたのである。

 ところが、それ以来、カサノヴァがすっかりその気になったため、母親もカサノヴァを婿として考えるようになり、父親もいちおうは反対したものの、婿候補として考えないでもないということになってきた。こうした状況の変化で、サラの気持ちは逆に引いてしまったのだろう。一夜のアヴァンチュールならまだしも結婚となったら打算が働かざるをえないのだ。それにサラは自分が気を失った(ふりをした)ときにカサノヴァが自制したのが気にくわなかったのではないか? 絶好のチャンスをつくってやったのに、見送るなんてなんという意気地無しと思ったのかもしれない。

 ところが、カサノヴァが出した総括は、これとはまったく違っていた。

 「彼女が申し立てたいろいろな理由を吟味した結果――それらはいずれも取るに足りないものだったが――わたしの愛撫が彼女の気に入られなかったのだと結論した」

 サラはカサノヴァのセックスが下手だから見限ったのではない。シャルピオンとの失敗に脅えて自信をなくしていたカサノヴァが許せなかったのである。

 あれほどに女心に通暁していたはずのカサノヴァが、肝心のところで乙女心を読み間違えたのである。やはり、一代の蕩児の運命は下り坂になっていたのである。

 ロンドンでカサノヴァの放蕩仲間となっていた一人にグーダールという男がいた。最初、カサノヴァはシャルピオンの家に出入りする無頼漢のようなこの男に対して警戒心を抱いていたのだが、そのうちにシャルピオンの情報をいろいろと提供してくれるので信用するようになり、最後は悪所通いの相棒として重宝するようになった。

 あるとき、そんなグーダールが二人の娘と連れ立ってハイド・パークを散歩していたので、カサノヴァが尋ねると、グーダールは、あれはハノーヴァから訴訟のためにロンドンにやってきた貴族の未亡人の娘たちだと明かし、未亡人には二十二歳を筆頭に五人の娘がいるが、みんな美人であると教えた。美貌を利用すれば金などいくらでも手に入るのに、貴族としてのプライドが高いのか、ひどく貧乏していると話した。家賃が払えないためアパルトマンから執達吏に追い出されそうになっており、母親は病気なのに刑務所に入れられようとしているということだった。

 カサノヴァのような漁色家にとって、美人五人姉妹と聞いたらこれを見過ごすことは不可能である。いそいそとハノーヴァの五人娘の家に出掛けた。鼻の下を長く伸ばし、期待に胸を膨らませていたのだ。

 応対した姉娘は自分たちの窮状を訴えながらも、「あたしたちの義務に反するようなご厚意には同意したくございません」と援助交際の可能性を真っ向から否定した。

 これに対して、カサノヴァはもしあなた方が醜い姉妹だったら、あるいはいま必要としている二十ギニーは手に入ったかもしれない。自分も憐れみからそれくらいは出しただろう。しかし、残念なことに美人なので、だれも報酬と引き換えという条件でしか二十ギニーを提供しようとは思わないだろうと反論した。

 しかし、姉妹たちの魅力は大きかったのでカサノヴァは執達吏に保証金を預けておくから執行は見合わせるように言い、母親と娘たちに昼食を用意させた。娘たちはよほど飢えていたのかガツガツと食事を平らげた。カサノヴァは返済不可能な厚意を押し付けることで五人姉妹全員をものにしてやろうと目論んだのである。翌日、保証金を取り下げ、ふたたび執達吏を差し向けると、予想通り、姉娘がやってきて、一夜を過ごしたら何をしてくれるのかと尋ね、カサノヴァが二十ギニー渡そうと答えると服を脱いでベッドに入った。しかし、マグロ状態で身を固くしていたので、祝宴は十五分しか続かなかった。カサノヴァは怒り、これでは淫売と同じだと悪態をついて追い払った。

 翌朝、次女がやって来て、姉には婚約者がいるのでああした態度を取ったが、自分は恋人などいないからカサノヴァを愛することができるといい、ベッドに入ってきた。

 「彼女はやさしく、愛情にあふれているように思えた。わたしが彼女の勝ちだと言うと、彼女はヴィトリアという名前だと答えた。ヴィトリアはわたしに甘美な二時間を過ごさせ、姉と過ごしたあの不愉快な十五分の償いを十分にしてくれた」

 この調子でカサノヴァはハノーヴァの娘たちの鷹揚なパトロンとして振る舞う代わりに、娘たちから愛をもらってハーレムを築くことに成功したのである。とくに気に入ったのは三女のアウグスタだった。

 「五人の娘たちは、美食家ならば絶対に味わってみたいと思うような、素晴らしい珍味だった。わたしは旺盛な食欲の持ち主なので、つねに最後のものがおいしいように思えた。こうしてアウグスタは、わたしの恋人になった」

 カサノヴァはさらに四女のイポリッタ、五女のガブリエラも同じように味わったが、中でも末娘のガブリエラに夢中になった。歳とともにロリコンの傾向が強くなってきていたのだ。

 しかし、あまりにも鷹揚に振る舞いすぎた結果、ついに蓄えが底をつき、自分の財力だけでは一家を支え切れなくなったので、悪友のベンブロック卿に援助を要請した。ベンブロック卿はアウグスタが気に入り、パトロンになることを承諾したので援助金額を決めて契約を結ばせた。

 ハノーヴァの娘たちの母親が無一文なのにロンドン滞在を続けていたのは理由があった。長女の恋人である自称ペチナ侯爵に近々、大金が入るはずなので、それがあれば一家は安心して暮らせるはずだと、一縷の希望をつないでいたのである。

 だが、そのペチナ侯爵もただの貧乏人だということがわったので、母親はヴィトリア、イポリッタ、ガブリエラの三人を連れてハノーヴァに帰ることを決意した。彼女たちがハノーヴァに去ったあと、カサノヴァは貸借対照表をつくって愕然とした。

 宝石の売却でつくった金をハノーヴァの娘たちに費やして蓄えが消えたばかりか、いろいろな商人に四百ポンド以上の借金ができていたのだ。そこで、リスボンに行って一旗挙げる決意をして、金目のものをすべて売り払って借金を完済すると手元には八十ギニーしか残っていなかった。しかたなく、ヴェネチアのブラガディーノ氏に手紙を書き二百ゼッキーノの一覧表払いの手形を送ってほしいと頼み、ポルトガル行きの船が出るのを待つことにした。一七六四年二月の終わりのことだった。

 だが、いったん下り坂になった運命はカサノヴァをより苛酷な境遇へと導いていくのである。

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著者プロフィール

鹿島茂(かしま しげる)

1949年、神奈川県生まれ。仏文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。著書に『馬車が買いたい!』(サントリー学芸賞)、『子供より古書が大事と思いたい』(講談社エッセイ賞)、『職業別パリ風俗』(読売文学賞)、『神田神保町書肆街考』、『19世紀パリ時間旅行—失われた街を求めて』など多数。

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