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カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語

鹿島茂(かしま しげる)

カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語 ブック・カバー
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第1回 生涯に最も深く愛した女との再会

2017.04.29 更新

 一八三〇年代初頭、 パリのメニルモンタンで共同生活を始めたサン・シモン主義者たちは自分たちの理想を実現するために奇妙な服を考案した。 それは一人では脱着できないような長いセーラー服だった。 つまり、 常にだれかに助けてもらわないと脱ぐことも着ることも不可能なので、 おのずと相互扶助の精神が涵養されるようにという工夫だった。

 なるほどうまいことを考えたものだが、 じつは、 天にまします我らが神は、 男女の身体構造をこれと同じにして、お互いに快楽に達するには、ともに助けあわなければならないようにした。 つまり、神の配慮により、セックスはサン・シモン主義者の服のようにつくられているのであるが、 世の中のほとんどの人はこのことに気づくこともない。 とくに、 男はこの真実に無知である。

 だが、 例外はある。 その数少ない例外の一人が一七二五年に快楽の都ヴェネチアで生を受けたジアコモ・カサノヴァである。

 カサノヴァというと伝説のドン・ファンと同じようにひたすら己れの快楽追求のために女性を追いかけ回した男の代表のように思われているかもしれないが、じつは違う、と言ったのが伝記作者のシュテファン・ツヴァイクで、次のような理由を挙げている。

 「ドン・ファン的漁色は……一種のかたきうちのように……永久に女とたたかいつづける。(中略)心やさしい恋愛術の大家カサノヴァは……女をなでまわしながら、真の女に目覚めていない女たちのあらゆるおそれや不安を、着物といっしょにはぎとってしまう。こうした女たちは、身体を与えてしまって、はじめて完全な女になるのだ。彼は彼自身が幸福感を抱くことによって、女たちを幸福にする。彼は彼自身が感謝しながら恍惚感を味わうことによって、女たちがいっしょに享楽するのをゆるすのだ。(中略)

 彼はいう、『わたしにとって、享楽の五分の四は、女を幸福にする点にある』と。ある人にとって、愛するために愛されることが必要なように、彼は自分の快楽のために、相手の快楽を必要とするのだ」(ツヴァイク『三人の自伝作家』吉田正己訳 みすず書房)

 なるほど、ツヴァイクが「男ならかくありたいと思う人物」としてカサノヴァを挙げた理由がこれでよくわかった。多くの女性に快楽を与えることで自らも快楽を得ることこそ男の本望だというわけだ。カサノヴァは、男の中の男だったというのである。

 というわけで、我々は「男性の理想像たるカサノヴァ」という観点から、改めて彼の回想録を読み返し、そこから新しいカサノヴァ像を抽出したいと考えて、『月刊プレイボーイ』に「カサノヴァ 人類史上最高にモテた男の物語」と題した伝記を二〇〇六年二月号から連載した。ところが、いまだに完結を見ないうちに、『月刊プレイボーイ』は二〇〇九年一月号をもって休刊となったので、河岸を変えて月刊誌『UOMO』で連載を続けたが、あまりにも膨大な『カサノヴァ回想録』ゆえにこちらも完結には至らぬまま、二〇一〇年三月号でいったん休載となった。

 それから、早、七年が経過した。

 その間、長期に亘るヘビー級の連載をいくつか同時並行的に続けていたこともあり、途中で放棄されたままになっているカサノヴァの伝記を仕上げる暇は生まれなかったが、ここにきて、ようやく時間が取れるようになったので、キノブックスのウェブマガジンを借りて、伝記の総仕上げに取り掛かることにした。

 本来なら、読者の理解を深めるためにも、これまでのカサノヴァの恋愛遍歴を要約しておくべきところだろうが、それをやっていたのでは、また時間切れとなる恐れがある。そこで、ここでは、簡単にカサノヴァのポルトレ(肖像)を描いて要約に代えることにしたい。

 我らが主人公ジアコモ=ジェロラモ・カサノヴァは一七二五年四月二日、 ヴェネチアのサン・サレーム座の喜劇俳優ガエタノ・カサノヴァと靴屋の娘ツァネッタ・ファルシとの長男として生まれた。長ずるに及んで、知的好奇心の強い少年となり、パドヴァ大学では、哲学、医学、化学、数学、薬学など百科全書的な知識を身につけた。ヴェネチアに戻ってからは一転して聖職者を志すが、説教に失敗したこともあり、聖職者への道は早々にあきらめ、ひたすら「女を愛し、女を快楽へと導く」ことを人生の目標とするようになる。

 カサノヴァが関係をもった女性はそれこそ千差万別で、最高位の貴族夫人から娼婦まで全階級を網羅。年齢も今日なら淫行罪で逮捕確実な少女から老婆まで、ほとんど見境がない。それでも、好みのタイプは存在し、美人でエスプリと知性に溢れ、しかも恥じらいを含みながらも官能においてはタブーを知らないというあたりが理想である。よっておのずと数は限られ、心の底から愛したといえるのはアンリエット、C・CとM・M、ドンナ・ルクレチアなど、ほんの数人を数えるのみである。

 ところで、『回想録』をひもといた読者なら、一メートル九〇の美丈夫で精力絶倫ではあっても必ずしも裕福とはいえないカサノヴァが絶世の美女たちを次々に籠絡することができたのはなぜかと疑問を抱くにちがいないが、それには、生来備わった彼の「女好き」が幸いしたとしか答えようがない。つまり、「どうしようもない女好き」というカサノヴァの特性が女性の本能を刺激したのである。女は女を愛する男しか好きにはなれないものなのだ。金は第二義的なものでしかない。 

 とはいえ、まったくの無一文では女性に相手にされないというのも紛れもない真実である。優雅な服を着こなして、いかにも金持ちそうに見えることはモテるための必要条件だからである。

 この点、たしかにカサノヴァが金持ちそうに「見えた」ことは事実だ。実際には裕福ではなくとも、貧乏そうに見えてはいけないのである。金持ちそうに見えることが本当の金を生むからである。

 では、見せ金にしろ、いったい、どうやって、その金をカサノヴァは調達してきたのか? 自家薬籠中のものとしているカバラの魔術による。これにより、富裕な人々の未来を占ってやることで彼らの心を鷲摑みにし、必要なときに必要なだけ援助を引き出すことができたのである。カサノヴァは、食い詰めたとき以外、働いたことがない。金はかならずどこかから湧いてきたのである。

 しかし、カサノヴァは重度の賭博マニアだから、得た金はかならずどこかに消えてゆく。パリで富籤事業を始めて巨万の富を得たこともあったが、それもつかの間のことで、金は常にカサノヴァを通りすぎていったのである。しかし、まことにパラドキシカルなことに、そのことがカサノヴァに自由を与えたのである。つまり、美しく聡明で愛情に溢れた最高の女性、アンリエット、およびC・CとM・Mなどに出会い、あわや結婚しそうになったときでも、カサノヴァは自分には財産がないから彼女たちを幸福にできないと言い張って、断腸の思いであれ、別れを選んだのである。いいかえると、金がないということが彼に自由を保証していたのだ。ツヴァイクはカサノヴァが残した最も重要な言葉として「わたしは女たちを、狂わんばかりに愛した。しかし、つねにわたしは、女たちよりも自由を選んだのだ」を挙げているが、金にこだわらなかったことが「自由人カサノヴァ」を生んだことは確かである。
 

 というわけで、三回目の仕切り直しとなるこの『回想録』読解の旅の発端をどこに置こうかと考えたが、とりあえず、デュルフェ夫人との別れのエピソードから始めようと思う。というのは、このエピソードはカサノヴァという人物をある意味、要約しているような趣があるからだ。

 カバラの魔術で心を捉えて以来、カサノヴァはデュルフェ夫人(有名な小説家オノレ・デュルフェの未亡人)を財布代わりとすることに成功し、かなりたくさんの金を引き出していたが、夫人はカサノヴァの「超能力」を盲目的に信じ、ついには「一度死んで男の子に転生したい」という途方もない願いを口にするようになる。

 その儀式というのはデュルフェ夫人とカサノヴァが三度交わって夫人を懐妊させる(じつはそう信じさせる)というもので、夫人は男の子が生まれたら自分は死んでその子に転生できると信じていたのだ。

 もちろん、それはロンドンに行くまでの時間稼ぎに過ぎなかったが、しかし、精力の衰えを感じ始めた三八歳のカサノヴァにとってカバラの儀式はあまりに苛酷だった。夫人の六十歳の肉体では男性を奮いたたせることは不可能だと判断したカサノヴァは、興奮剤としてマルコリーナという少女を儀式の助手として使うことにした。マルコリーナは、カサノヴァの不肖の弟がヴェネチアから連れてきた恋人だったが、カサノヴァはその美しさにひかれ、弟から取り上げて自分の愛人にしてしまったのである。

 結局のところ、カサノヴァはデュルフェ夫人のために催した儀式において三度の射精には至ることはできず、「いったふり」を装うしかなかったが、それでもデュルフェ夫人は大満足で、やがて自分が産み落とすであろう男の子に転生すると信じて、リヨンに向かって旅立った。

 いっぽう、カサノヴァはというと、マルコリーナにすっかり恋してしまい、このまま一緒にロンドンに行こうかと考えるが、そのとき例の「なによりも自由を愛する」という思考法が頭をもたげる。すなわちワイン商の青年がマルコリーナに夢中になっているのを知ると、マルコリーナに持参金を持たせて青年に嫁がせてやろうと試みるのである。

 だが、マルコリーナはこのお膳立てをきっぱりと拒否し、自分は結婚などせずにカサノヴァと一緒にロンドンに行くと言い張った。カサノヴァがロンドンに渡って、パリで成功した富籤の商売をイギリス政府に売り込もうとしているのを知っていたのである。

 マルコリーナの愛にほだされたカサノヴァはそのまま旅を続けることにしたが、アヴィニョンに向かう途中で馬車が故障したため、車大工が到着するまでの時間を近くの伯爵夫人の邸宅で休ませてもらうことにする。カサノヴァがマルコリーナを連れて訪問すると、未亡人らしき伯爵夫人が出てきて挨拶したが、たまたまその日はプロヴァンスにミストラルが強く吹く日だったため、夫人は深く頭巾をかぶって顔を隠していた。

 やがて、車大工が馬車の修繕には時間がかかると知らせてきたので、カサノヴァとマルコリーナは伯爵夫人の家に泊めてもらうことにする。カサノヴァの姪ということになっていたマルコリーナはすっかり夫人と打ち解けて、夫人のベッドで寝かせてもらうと言い出す。

 「伯爵夫人の笑い声や、構わないわという声にさえぎられて、わたしはこの軽率な娘に、彼女の考えは無作法すぎると言ってやることができなかった。二人の抱擁ぶりを見て、二人は合意の上なのだと察した。よってわたしは、伯爵夫人にお寝みなさいと言いながら、彼女がベッドに入ることを許した娘の性(セックス)のほうは保証しかねると述べる以外は、何も言うことができなかった。夫人は極めてはっきりと、なんとかしてものにすると答えた」(以下、引用は窪田般若訳『カサノヴァ回想録』)

 カサノヴァは原則的にはノーマルなセックスを好み、レスビアンのからみあいを覗くのが趣味ということは特になかったが、それを汚らわしい行為として断罪することもまたなかった。ただ、「プロヴァンス地方の女性のほとんどすべてが、この種の傾向を持っているのだ」と冷静に認めていただけである。

 翌朝、馬車の修理が進んでいるか否かを見にいったカサノヴァは伯爵夫人が面会を断ったと知り、マルコリーナに昨夜の次第を語らせることにした。マルコリーナは一部始終を詳細に語り、快楽の褒美としてもらった二〇〇ルイもする豪華な指輪を見せた。

 「わたしはびっくりした。まさに夫人は、快楽を好み、それを与えられるにふさわしい女性だったのだ」

 馬車が無事アヴィニョンに着くと、マルコリーナはおもむろに懐から伯爵夫人がカサノヴァに宛てた手紙を取り出して手渡した。

 カサノヴァが開封すると、そこにはイタリア語で、「この世で存じあげた最も誠実な方へ」としたためてあり、便箋の一番下に「アンリエット」とだけ署名されていた。伯爵夫人はカサノヴァがその生涯において最も深く愛したアンリエットだったのである。この手紙を読んだときの反応はカサノヴァという男の本質を見事に照らしている。

 カサノヴァは「かつてわたしがあれほど愛し、今もなお、以前と同じ情熱をもって愛しているに違いない懐かしいアンリエット」と呼びかけ、こう述べる。

 「わたしはきみに会えなかった。だからわたしは、きみが幸せであるかどうかを、きみの美しい口から聞き出せなかったのだ。それだけが、わたしが聞いてみたかった唯一の質問だったのに。わたしは、マルコリーナになお愛してくれないのかなどとは尋ねなかったろう。なぜかといえば、自然がつくり出した最も完璧なもののいっさいをきみのなかで愛したあとで、なお何人もの他の女性を愛することのできたわたしは、とてもきみに愛されつづける資格などはないからだ」

 カサノヴァはすぐに取って引き返し、アンリエットに会いたいと思ったが、アヴィニョン到着後に手紙を渡すようにとマルコリーナに言い付けたアンリエットの意思を尊重し、「きっときみは、自分が幸せなことをわたしに知らせようと、ただそれだけのためにマルコリーナと笑い興じたのだろう」と推測して再会を断念する。

 その晩、アヴィニョンの宿でマルコリーナと定食を取っていると、そこに一人の小娘が「パパ」と叫びながら入ってきた。それは、かつてカサノヴァが関係を結びそうになったステュアール夫人の娘、イレーネだった。夫人はカサノヴァが父親であると娘に言い聞かせていたので、イレーネはカサノヴァを食堂で見かけると自分たち一家を困窮から引きあげるチャンス到来と見て、話しかけてきたのだ。

 こうしたことは『回想録』が後半に入ると、しばしば起こってくる。一度などは、ドンナ・ルクレチアというかつての恋人との間にもうけた娘と気づかぬうちに近親相姦の関係を結びそうになったことさえある。また、カサノヴァは、ロンドンに行こうとしているのは自分の娘を自堕落な母親の手から取り戻すためだとマルコリーナに説明している。このように、カサノヴァは行く先々で自分の落とし子と遭遇する年齢に達しており、ときに近親相姦の危険を犯す危険性も少なくなかったのである。

 しかしながら、イレーネについていえば、自分の娘でないことはわかっていたので、マルコリーナがイレーネを誘惑しようとしてもこれを阻止せず、放置しておいた。

 「わたしは今までにも何回となくこのような光景を見たことがあったが、一時間ないしはそれ以上、つねに新しい場面を繰り広げるその場の見物人として甘んじていることができた。しかし、欲望に飢えた二人は、ついに猛烈な勢いでわたしに襲いかかってきた」

 翌朝、カサノヴァがイレーネに十二枚の金貨を与えると、イレーネは感謝して両親にそれを渡し、賭博で運試しするためにアンチーブに旅立った。

 カサノヴァとマルコリーナはリヨンに向かって旅立ったが、その間、馬車の中ではマルコリーナがレスビアン趣味と男性経験を物語ってカサノヴァを興奮させる。

 リヨンでは、男に生まれ変わると信じるデュルフェ夫人のためにカバラの魔法を行ったり、巻き込まれた訴訟沙汰に勝つため弁護士を雇ったりしたが、そうしているうちに劇場の桟敷でロンドンから戻ってきたヴェネチア使節団一行と遭遇する。

 カサノヴァは一行の桟敷まで挨拶に出掛けた。戻ってきたカサノヴァから一行はロンドンからの帰途にあるヴェネチア使節団だと聞かされるとマルコリーナは顔色を変え、どれが大使のケリーニ氏かと尋ねた。芝居がはね、大使一行が玄関口で馬車を待っていると、マルコリーナがつかつかと歩み寄り、ケリーニ氏の手に接吻した。

 じつは、マルコリーナはカサノヴァが彼女をロンドンまで連れていく気がなく、途中でヴェネチアに帰還させる決意であることを知るに及んで、自ら進んでケリーニ氏の寵愛を得るようにふるまったのである。というのも、それこそがカサノヴァが望んでいることだと察していたからだ。

 もう一つ、マルコリーナがケリーニ氏の心を捉えようと試みたのは、一行の中にいた従僕が実の伯父であることに気づいたからだった。マルコリーナはヴェネチアからカサノヴァの弟と駆け落ちしてきて、いまはカサノヴァの姪だと称しているので、もし伯父が敵に回ったらひどい目にあわされるのではと恐れ、それならいっそケリーニ氏の愛人に収まってしまおうと機転を利かせたのである。

 カサノヴァはあらためてマルコリーナのエスプリに感動し、なおさら手放し難い気持ちになったが、ぐっと自分を抑制すると、直接ケリーニ氏のところに出向いて、自分はいつでもマルコリーナを手放す用意があるから、庇護をよろしくと伝えた。つまり、マルコリーナのトレード交渉を紳士的に運んだのである。

 カサノヴァはマルコリーナにヴェネチア金貨で五千デュカに相当する為替を振り出し、さらに自分たちの乗ってきた千デュカ相当の馬車も与えることにした。マルコリーナにはアンリエットからもらった三千デュカ相当の指輪があるから、結婚の持参金となるべき資産は合計九千デュカということになる。

 「マルコリーナは笑いながら泣き、泣きながら笑うばかりだった。わたしの唯一の慰めは、かつて一緒に暮らした他の何人かの女たちに対するのと同様に、彼女にも財産をつくってやれたのを知った事だった。天から運命づけられたわたしの未来に彼女が自由な場所を与えてくれるためには、彼女を去って行かせねばならないように思えた」

 こうして、リヨンで最愛のマルコリーナと別れたカサノヴァは、ロンドンで運を試そうと固く決意し、とりあえずはパリに向かうため、「隠者」と呼ばれる馬車を買ったのだが、これがまた不思議なアバンチュールをもたらすことになるのである。 

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著者プロフィール

鹿島茂(かしま しげる)

1949年、神奈川県生まれ。仏文学者。明治大学教授。専門は19世紀フランス文学。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。著書に『馬車が買いたい!』(サントリー学芸賞)、『子供より古書が大事と思いたい』(講談社エッセイ賞)、『職業別パリ風俗』(読売文学賞)、『神田神保町書肆街考』、『19世紀パリ時間旅行—失われた街を求めて』など多数。

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