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カラヴァル

ステファニー・ガーバー(著)

カラヴァル ブック・カバー
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第三回

2017.08.11 更新

3章

 まだ父の香水のにおいが漂っていた。あの手袋の色を思わせるアニスとラベンダーとくさったプラムが混じりあったようなにおいが、父が出ていったあともずっとテラにまとわりついている。スカーレットはテラのそばにすわり、メイドが薬や包帯をもってくるのを待った。
「本当のことを言わせてくれればよかったのに。わたしのことは、お父さまもこんなにひどくぶたなかったはずよ。結婚式まであと十日なんだから」
「顔はぶたなかったかもしれないけど、ほかになにかひどいことをしたはずよ。指の骨を折って、結婚式のキルトを最後まで縫えないようにするとかね」テラは目を閉じて、ラム酒の樽にもたれた。ぶたれた頬が父のみにくい手袋のような色になっている。「それに、ぶたれるようなことをしたのは、あたしのほうだもん」
 ずっとだまっていたジュリアンが口を開いた。
「どっちにしても、これはひどすぎる。あのさ——」
「やめて」スカーレットがさえぎった。「あやまってもらっても、傷は治らないわ」
「あやまる気はないよ」ジュリアンはそこでいったん口を閉じ、言葉を選んでから続けた。「島から連れだしてやるって話だけど、気が変わった。行くならタダにしてやるよ。明日の夜明けに出航だ。行く気になったら、おれをさがしにこいよ」
 ジュリアンは姉妹の顔を交互に見てから階段をのぼっていった。
 スカーレットは妹の気持ちを読みとって、妹が口に出すより先に言った。「だめよ。行ったら、帰ってきたときもっと大変な目にあうでしょ」
「帰るつもりはないから」テラが目を開いた。涙にうるんでいるけれど、力強い目だ。
 スカーレットはいつも妹の衝動的なところに手を焼いていた。いったんやると決めたら、なにを言っても無駄なのもわかっていた。カラヴァルのゲームマスター、レジェンドからの手紙を見る前から、テラは島を出ると心に決めていたのだろう。だから、ジュリアンを連れこんだ。ジュリアンが出ていくときに振りむきもしなかったのを見ると、彼のことは好きでもなんでもないらしい。トリスダ島から連れだしてくれる船乗りならだれでもよかったのだ。そして今、島を出るきっかけをスカーレットが与えてしまった。
「スカー、いっしょに行こう。結婚すれば救われるとか、安心して暮らせるようになるとか思ってるんでしょ。もし伯爵がお父さまみたいな人だったらどうする? ううん、もっとひどい人かも」
「そんなことないわ。今までもらった手紙を見ればわかるの。とてもやさしい方よ。わたしたちの面倒をみるって約束してくれてるのよ」
「スカーったら」テラはほほえんだが、うれしい笑顔ではなく、言いにくいことを口にするときのような笑みだった。「そんなやさしい人なんだったら、どうして正体を明かさないわけ? 伯爵だとしか知らされてないじゃない。名前を隠すのはどうして?」
「それは、伯爵のせいじゃないわ。結婚相手を教えないのも、お父さまがわたしたちをおさえつけるための手口なのよ」スカーレットが手にもっている手紙がその証拠だ。「ほら、見て」スカーレットは手紙をテラに渡した。

エランティン王朝五十七年、生育季一日
親愛なるスカーレット
 これがわたしからの最後の手紙になります。わたしはまもなくトリスダ島に向かう船に乗りこみます。結婚式の日取りはふせるようお父上から告げられていますが、この手紙をあなたに渡していただくことにしました。結婚相手と初めて会うときは緊張なさるでしょうから。これまであちこちから聞いている話からすると、あなたとの対面はわたしにとってうれしい驚きになることでしょう。
 こうして手紙を書いている今も、メイドたちが妹君のための客室を用意しているところです。あなたも妹君もきっとヴァレンダの町では——

 手紙はそこでちぎられている。婚約者の書いた文章がとぎれているだけではなく、父はご丁寧に封蝋まではぎとっていた。封蝋がついていれば、相手のことがなにかわかったかもしれないのに。
 これも父のひねくれたゲームのひとつ。
 スカーレットはトリスダ島全体が大きなガラスドームにすっぽり覆われているような気がすることがあった。島の人びとはドームの中に閉じこめられ、父がそれを上から見おろしている。そして、気に入らない位置にいる者は移動させる。排除することもある。スカーレットがいるのは大きなチェス盤の上。父はこの結婚が詰めの一手になると考えている。望むすべてを手に入れるための。
 ラム酒販売や闇取引でもうけたドラグナ総督は、島の役人にしては財産があるけれど、トリスダ島は属州の島のひとつなので、自分が望むほどの地位と権力をもっていない。どれだけの富を築いても、メリディアン帝国のほかの統治者や貴族たちから相手にされないのだ。
 トリスダ島も、属州のほかの四つの島も、メリディアン帝国に征服されてからもう六十年以上たっているというのに、島民たちは当時のままの教養のない田舎者だと思われている。けれど父は、今回の結婚によって、状況が大きく変わると考えていた。総督である父が貴族と姻戚関係を結ぶことで、ようやくトリスダ島の格があがり、父はさらなる権力を手にすることになる。
「こんな手紙じゃなにもわからない」テラがつぶやいた。
「わかるわ。伯爵はやさしくて思いやりがあって——」
「手紙でなら、だれだってやさしい人のふりができる。でも、お父さまと取引をするくらいだから、悪い人に決まってるでしょ」
「そんなこと言わないで」スカーレットは手紙をひったくった。妹はまちがっている。この手紙の筆跡を見ただけでも、伯爵が思いやりのある人だとわかる。丁寧に書かれたやわらかな曲線。スカーレットのことを気にかけていなかったら、不安をやわらげるために何度も手紙をくれたり、父の手の届かないメリディアン帝国の都ヴァレンダに、妹もいっしょに連れていくと言ってくれたりはしないだろう。
 心のどこかに、伯爵が期待どおりの人ではないかもしれないという思いもあった。けれど、父と暮らすよりは伯爵と暮らすほうがずっといいはずだ。それに、父に反発するなんていう危険なことはできない。恐ろしい脅しの言葉がまだ頭の中にひびいている——〈結婚までになにかことが起きたら、妹の顔から血が流れる程度ではすまないぞ〉
 カラヴァルで勝って願いを叶えるチャンスを手に入れるだけのために、この結婚をふいにしたくない。
「テラ、ふたりで島から逃げても、お父さまは地の果てまで追ってくるわよ」
「それでも、地の果てまではいっしょに旅ができるじゃない。ここで暮らすくらいなら、遠くで死んだほうがまし。伯爵の家に閉じこめられて暮らすのもまっぴら」
「ばかなこと言わないで」
 スカーレットは、テラの口からこんな投げやりな言葉を聞くのがいやでたまらなかった。本当に死にたがっているのではと不安になる。テラは口癖のように「死んだほうがまし」と言う。世の中には危険がいっぱいなのを忘れているようにも見える。おばあさまからカラヴァルの話のほかに、身寄りのない若い娘たちの話も聞いたことがある。自力で生きていこうとした娘たちは、まともな職をさがしたけれど、けっきょく売春宿に売られるか、貧民の施設に入ってみじめな暮らしを送るかしかなかったという。
「スカーはいつも心配しすぎなんだから」テラがよろけながら立ちあがった。
「どうしたの?」
「もうメイドなんて待たない。どうせ長々と顔の手当てをされて、一日じゅう寝てるように言いつけられるから」テラは床に落ちていたショールをさっとつかむと、顔の傷が隠れるように頭に巻きつけた。「明日ジュリアンの船に乗るには、いろいろやっとかなくちゃね。行くって彼に伝言しないと」
「やめて! 早まったことしないで」
 テラはスカーレットが追いかけるのを振り切って階段を駆けあがり、扉の向こうへ行ってしまった。
 テラを追って中庭に出ると、空気がスープのようにどろりとしていて、午後のにおいがした。湿気と潮の香りと刺激臭が混じりあっている。厨房に魚が運びこまれたばかりらしい。魚くさいにおいにつきまとわれながら、スカーレットはテラを追って、風雨で傷んだ白いアーチをいくつもくぐり、陶器のタイルが敷かれた部屋をつぎつぎと通りぬけた。
 スカーレットの父は屋敷の広さに決して満足せず、何度も増築を重ねてきた。町のはずれなので土地はいくらでもある。部屋を増やし、中庭を増やし、違法な酒など怪しげなものを運ぶ秘密の通路を増やした。スカーレットとテラは増築部分には入るなと言われることが多かった。こんなふうに駆けまわっているのが見つかったら、容赦なく足をむちで打たれてしまう。テラが島を出ようとしているのがばれたら、かかとや爪先に傷がつくくらいではすまないだろう。
 まだ朝の霧が残っていた。テラが霧の濃い通路ばかり進んでいくので、何度も姿を見失いそうになった。完全に見失ったかと思ったとき、ドラグナ邸内でいちばん高いところにある告解室への階段をのぼっていく青いドレスがちらりと見えた。告解室は白い石造りの高い塔の上にあり、その塔は日差しを浴びて輝くので、町じゅうから見える。ドラグナ総督は人々から信心深い人間だと思われたがっ
ていたが、実際は自分の悪事を人に打ちあけることなど決してなかったので、告解室は島内ではめずらしい、総督がめったに近寄らない場所だった。つまり、姉妹が秘密の手紙の受け渡しに使うには打ってつけの場所だ。
 スカーレットは急いで階段をのぼっていき、告解室の木彫りの扉の前でやっと青いドレスに追いついた。
「待って。あの船乗りに手紙を書いたりしたら、お父さまにぜんぶ言いつけるわよ!」
 相手がぴたりと立ちどまった。そして振りかえったとき、霧が晴れて、今度はスカーレットのほうが凍りついた。扉の前にある小さな半月形のテラスにまぶしい日が差して、青い服を着た若い修道女の姿が見えたからだ。スカーフで頭を覆ったその姿はテラにそっくりだった。
 うまく逃げたと感心せずにはいられなかった。スカーレットのうなじを汗が流れおちる。今ごろテラは屋敷のどこかで持ち物を集めて、明日ジュリアンと出発する準備をしているのだろう。
 なんとかして、とめなくてはならない。
 テラにはしばらく恨まれるかもしれないけれど、カラヴァルのためにすべてを失おうとしている妹をだまって見ているわけにはいかない。もうすぐ自分が結婚して、ふたりとも救われるというのに。この結婚がだめになったら、ふたりとも未来はなくなってしまう。
 スカーレットは若い修道女のあとについて告解室に入った。小さな円形の部屋で、ろうそくの揺らめく音が聞こえるほど静かなところだ。石壁に並ぶ太いろうそくから蝋がたれている。炎がさまざまな苦悶の表情を浮かべた聖人たちのタペストリーを照らし、ほこりとドライフラワーがかびくさいにおいを放っている。鼻をくすぐられながら木のベンチの列を通りぬけて、祭壇に向かった。そこには告白する罪を書く紙が置いてある。
 七年前に母パロマが行方不明になるまでは、一度もこの部屋に入ったことはなかった。告解とは、信者が自分の罪を紙に書いて司祭に渡し、司祭がそれを火にくべるのだが、そんなことも知らなかった。母も父と同じで信仰心の薄い人だったけれど、母が島から消えて、頼る人も行く場所もなくなったテラとスカーレットは、この部屋を訪ねては母が帰ってきてくれるよう祈っていた。
 ふたりの切なる祈りは届かなかったけれど、司祭たちはまったく役に立たないわけではなかった。秘密の手紙の受け渡しを頼めることがわかったのだ。
 スカーレットは紙を一枚とって、丁寧に書いた。

 今夜、デル・オホスの浜に来て。真夜中の一時間後。大事な話があるの。

 宛て名を書いたあと、自分の名前は書かずに、ハートをひとつ書いて、じゅうぶんな献金といっしょに司祭に渡した。これで、うまくいくはずだ。

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著者プロフィール

ステファニー・ガーバー(著)

北カリフォルニア育ち。私立大学で創作講座の講師をしながら本書『Caraval』を執筆し、デビュー。現在、シリーズ2作目を執筆中。

西本かおる(訳)
文芸翻訳家。東京外国語大学フランス語学科卒。主な訳書は、ダレン・シャン『やせっぽちの死刑執行人』(小学館)、サラ・ザール『ルーシー変奏曲』(小学館)、アン・M・マーティン『レイン 雨を抱きしめて』(小峰書店)、アレックス・シアラー『ガラスの封筒と海と』(共訳、求龍堂)。

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