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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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「ツリフネソウの姉弟」前篇

2019.01.25 更新

 東京から神奈川へ向かう国道十六号線は、いつ走っても混んでいる。
 潮見隼人(しおみはやと)は前の車のテールランプを睨み、眉間に微かな皺を寄せた。昨年、取引先とゴルフにいったときも、首都高を降りて十六号線に入った途端に酷い目に遭った。
 もっとも今日は休日にしては、幾分ましなのかもしれない。正月休み中の先週なら、渋滞はこんなものでは済まなかっただろう。駐車待ちの車が大行列を成している大型量販店前をようやく通り過ぎ、隼人はBMWのステアリングを切った。
 鎌倉街道に入ると、やっと道路が順調に流れ出す。同時に風景が一気に鄙(ひな)びた。大型量販店の代わりに、道路わきにぽつぽつと田園が現れる。フロントガラスの向こうには、丹沢山地の青い山並みが迫って見えた。東京と神奈川の境の光景は、子供の頃からあまり変化がない気がする。
 母と姉が昔から住んでいるこの町にやってくるのは、随分と久しぶりだった。
 ある時期を境に、隼人は母と姉にとって「お客さん」になったからだ。
 大きな神社の角を回りながら、晴れ着姿の娘たちに眼をとめる。
 そう言えば、今日って「成人の日」とかだっけ――。
 イベントやらゴルフやらで、休日出勤の多い広告代理店に勤める隼人は元々祝日に疎い。連休効果を狙い、祝日を月曜日に寄せるようになってから、毎年変わる祭日を益々意識することができなくなった。
 神社の鳥居の前に、厄年を記した大きな看板が出ている。
 今年で四十二歳になる隼人は、男の本厄に当たるらしい。
 厄年ねえ……。
 隼人はいささか懐疑的な眼差しで、看板を見つめた。
 恐らく厄年とは、年齢による体調変化の暗喩(メタファー)のようなものだろう。 
 確かに同世代の男たちは、四十に入るなり急にブクブクと太り始めている。節制なしにアルコールや脂物をとり続けていれば、年齢を重ねるごとに代謝がついていかなくなるのは当たり前だ。中年以降の肥満と不摂生は、万病のもとに違いない。
 隼人の毎日も不規則で外食が多いが、その分体調管理には気をつけている。出勤前の早朝ジョギングを続けているおかげか、今のところ体重も体形も大学時代から変わっていない。
 横断歩道を渡ろうとしている振り袖姿の娘たちを優先してから、隼人はアクセルをゆっくりと踏み込んだ。年末に買い替えたばかりのBMWセダンの滑らかな加速は、ドイツ車独特の安定感を伴っていて心地が良い。
 ふとバックミラーに眼をやると、晴れ着の上にふわふわとした襟巻を纏った数人の娘たちが銀色のセダンをじっと見送っていた。
 この手の視線がなにを物語るのか、隼人は直感的に知っていた。
 乱暴に言えば、それは値踏みだ。
 無意識なのかもしれないが、女はいつだってなにかを値踏みしている。小さな子供の中にだって、その片鱗はある。
 隼人の脳裏に、一人娘の七海(ななみ)の幼い頃の姿が浮かんだ。
〝ねえ、パパ。七海が欲しいもの、ちゃんと分かってる?〟
 誕生日やクリスマスが近づくと、七海は子供とは思えない眼差しで父親の自分を見た。
 実際、女に試されるのなんて慣れっこだ。
 隼人は口の端に苦笑めいた笑みを浮かべる。いつだって最適解を導き出して、自分は彼女たちに奉仕してきた。
 一人娘の希望くらい、見抜けないわけがない。
 隼人が差し出す豪華なプレゼントを、七海はいつも満面の笑みで受け取ってきた。
 妻の千鶴子(ちづこ)からは甘やかしすぎだと度々注意を受けたが、七海は我儘放題だった幼い頃に比べると想像がつかないほど聞き分けのよい聡明な娘に育った。
 現在、七海は十五歳。都内のお嬢様学校として知られる、中高一貫の私立に通っている。
 成人を二十歳から十八歳に引き下げるという動きがあるが、娘が成人するまで、少なく見積もっても後三年――。
「長いな」
 思わず口をついて出た言葉に、隼人自身がハッとした。
 なにを今更と、小さく首を横に振る。
 女の要望に応えるのは、子供の頃から得意だったはずだ。これからだって、さしあたっては妻や娘が求めるようにやっていく。妻の千鶴子はともかく、七海にはまだまだ父親が必要だ。
 十五分ほど走ると、すっかり葉を落とした銀杏並木の向こうに大きな総合病院が見えてきた。
 広い駐車場に入り、隼人は奥のスペースにBMWのセダンをとめた。見舞いの品が入った紙袋とコートを手に車から降りたとき、ポケットの中のスマートフォンが点滅していることに気づく。メッセージアプリに、大量のメッセージが着信していた。
 送信者のアイコンを見た瞬間、短い溜め息が漏れる。
 昨年末、担当したイベントの打ち上げの流れで関係を持った年下の女性、紗都子(さとこ)からだった。年下と言っても、三十を過ぎているはずだ。休みの日に既婚者のスマートフォンに大量のメッセージを送って寄こすなんて、一体なにを考えているのだろう。そこまで分別がないほど、若いわけでもないだろうに。
 隼人はうんざりと液晶画面を眺める。
 既読通知がついてしまったことに、舌打ちをしたい気分だった。
 一夜の関係を持ったのだって、彼女の要望に応じたまでのことだ。それ以上に話が及ぶなら、責任を負いかねる。
 どの道、病院ではスマートフォンは使えない。隼人はスマートフォンの電源を切り、病院の入り口に向かって歩き始めた。
 中庭へ入っていくと、なぜか姉の苑子(そのこ)が花壇の前に立っていた。
「遅いよ」
 隼人の姿を見るなり、苛立たしそうに腕を組む。
「寒いんだから、待たせないでよ」
「いや、渋滞してたから……」
「祝日の道路なんて、混んでるに決まってるじゃん。電車でくればいいのに」
 四歳年上の姉は、また一段と老けたようだ。髪には白いものが混じり、型の古いダウンジャケットで着ぶくれている。隼人の部署には姉よりもずっと年嵩の上司もいるが、バブル臭を引きずる彼女たちに比べ、パートで働く姉は己に関するなにもかもをすっかり諦めているように見えた。
「何回メッセージ送っても、連絡一つ寄こさないし」
 スマートフォンに着信していた大量のメッセージの中には、どうやら苑子からのものもあったらしい。どちらにせよ、運転中の隼人には確認のしようがないことだ。
 そもそも、こんなところで待ち構えているなんて思ってもみなかった。
「隼人は病室の場所が分からないから迎えに行ってあげてって、お母さんが騒いじゃって大変だったんだよ」
 隼人の顔色を読み、苑子が肩を竦める。
「お母さんは昔から、あんたがくるとなると大変だから」
 それは、自分が「お客さん」だからだ。
 隼人は微かに眼を眇(すが)めたが、言い返す気分にはなれなかった。
「ごめん、悪かったよ」
 代わりに、あっさりと頭を下げる。
 苑子はそんな隼人をじっと見つめてから、くるりと踵を返した。
「とにかくきてよ。お母さんが待ってるから」
 姉に伴われ、隼人は病院の玄関をくぐる。院内に入ると、病院独特の消毒液の匂いが鼻を衝いた。苑子の後について、リノリウム張りの廊下を延々歩く。いくつも角を曲がり、病棟のエレベーターに乗った。所々に案内板はあるものの、広大な病院の内部は随分と入り組んでいる。姉の案内がなければ、少々てこずっていたかもしれない。
「で、お母さんの具合はどうなの」
 エレベーターが最上階の六階にたどり着く間に、隼人は尋ねてみた。
「骨折のほうはそうでもないんだけど、持病もあるからね」
 階数表示の点灯を見つめたまま、苑子が答える。
 正月早々、母の澄子(すみこ)が転倒して骨折した。骨粗鬆症を患っている母は、元々骨がもろくなっていて、小さな衝撃でもすぐに骨折してしまう。
「お母さんも、もういい歳だからね」 
 そう呟くと、苑子は唇を結んだ。それから先は、どちらも口をきかなかった。
 澄子の病室は六階の病棟の一番奥にあった。五人部屋と聞いていたが、パーティションで仕切られた白い室内のベッドには、母しか横たわっていなかった。
「隼人……!」
 隼人の顔を見るなり、澄子が顔を輝かせて身を起こす。
「遅いから心配したよ。ここ、分かりづらいでしょう。迷わなかった?」
「いや、迎えにきてもらったし」
 久しぶりに会う母が、一層小さく萎びたように痩せ細っていることに、隼人は内心動揺した。広告業界で脂ぎった連中ばかり相手にしていると、郊外の小さな町で細々と生きている姉や母のような存在を忘れそうになってしまう。
 これが〝普通〟の高齢者なのかな――。
 骨ばった手で自分を招こうとする母の濁った眼を、隼人はぼんやりと見返した。
「あ、これ、お土産」
 我に返り、おもむろに紙袋を差し出す。都内で評判のパティシエの店のレアチーズケーキだ。箱をあけると、ブルーベリーをたっぷりと載せた真っ白な美しいケーキが現れる。
「まあ、美味しそう!」
 途端に澄子が顔をほころばせた。
 やっぱり――。
 隼人は内心、得心する。母は昔から、和菓子よりも洋菓子のほうが好きだったはずだ。
「早速皆で食べましょうよ」
嬉しそうにケーキの箱を覗き込んでいる母の姿に、なぜか幼い頃の七海が重なった気がした。 
「苑子、お茶を淹れてちょうだい」
 隼人相手にはしゃいでいたときとは裏腹に、澄子が苑子に向かって横柄な声を出す。苑子は黙って備え付けのポットに手をかけた。
「ちょっと」
 苑子が半分に切ったチーズケーキを載せた皿を差し出すと、澄子はさっと表情を曇らせた。
「どうしてこんなけち臭いまねするのよ」
「別にけち臭いまねじゃないよ。だって、お母さん……」
「せっかく隼人が買ってきてくれたんだよ」
 苑子の言葉を遮って、澄子が声を荒らげる。
「たまにだから、いいじゃないか」
 言い争いが始まらないよう、隼人は二人の間に割って入った。
「そうだよ。隼人がきてくれるのなんて、本当にたまのことなんだからね」
 鬼の首を取ったように、澄子が調子を合わせる。苑子は重い溜め息をついて、残りの半分を皿に盛った。澄子がケーキを頬張りながら隼人に話しかけている間、苑子は始終無言で不機嫌そうな顔をしていた。
 澄子は矢継ぎ早に隼人に話しかけてきたが、ケーキを食べ終わる頃にはすっかり話題が尽きてしまった。澄子が繰り出す質問に対して隼人は長く話すことができなかったし、隼人が長く続けられる話題に対しては、澄子がたいして関心を示さなかったからだ。
 要望に応えるにしても、限界はある。
「お母さん、そろそろ少し休んだら」
 見かねた姉の一言で、隼人は母から解放された。
 名残惜しそうにしている澄子に、「またくるよ」と声をかけて、隼人は苑子と一緒に病室を出た。
「ねえ、隼人」
 談話室に入るなり、苑子が低く問いかけてくる。
「あんた、お母さんが重い糖尿病なの、ちゃんと分かってるんだよね」
 責めるような視線から眼をそらし、隼人は軽く首肯した。
「でも、たまにはいいだろ。第一、あんなに痩せてるじゃないか。少しくらい食ったって……」
「なにも知らないくせに、人が虐待してるようなこと言わないで」
「そんなこと、誰も言ってないよ」
 隼人は窓の外に顔を向けた。
 どう言葉を選んでもネガティブにとらえる姉の性格は、子供の頃から変わっていない。幼いなりに姉を慰めるつもりで声をかけて激しく怒鳴り返された遠い日々を、隼人はうっすらと思い出す。
 隼人が十歳、苑子が十四歳のときに、両親が離婚した。父に母以外の女性ができたのが原因だった。新しい女性と再婚しようとしていた父を受け入れられず、姉は母と一緒に家を出てこの町に移り住み、隼人は父の元に残った。以来、苑子は結婚してからも母が暮らすこの町に住み続け、隼人は二人にとって「お客さん」になった。
「お父さんは元気にしてるの」
 今では父とはまったく交渉のない姉が、上目遣いにこちらを見る。
「元気だよ。俺も正月くらいしか顔を合わせないけど」
 三歳年下なこともあるが、持病のある母に比べ、父は実年齢より若々しい。
「へえ……。相変わらず、あの女とうまくやってるんだ、あの親父」
〝あの女〟〝あの親父〟――。
 苑子の尖った声に、隼人の心が醒めていく。
 一体、自分たちがいくつになったと思っているのだろう。それぞれに家庭を持ち、子供までいる中年が、思春期同様に父と再婚相手を罵ってなんになるだろう。隼人にはそこまでの執着はない。むしろ、父の老後を見てくれる相手がいてよかったと単純に考えている。
 そもそも親であろうと、子であろうと、兄弟であろうと、個別の脳細胞でものを考えている我々は、絶対に分かり合うことなどできない。それは血のつながりとは関係のないことだ。
 眼に映るものをどうとらえているかだって、脳の個体によってまったく違う。隼人の眼に映る赤い林檎が、他人の眼に本当に同じ色に映っているかどうかを確かめる手立てはどこにもない。
 だったら、初めから期待なんてしなければいい。分かり合えると思うこと自体が、ただの甘えであり妄想だ。
 要望に対する最適解を導き出して、ぶつかり合わずに、スムーズにつき合う方法を求めるほうが、遥かに合理的ではないか。
 幼い頃から、隼人は苑子のことを、「お姉ちゃん」と呼ぶことができなかった。
 四歳も年上なくせに、父と母の言動に一喜一憂し、泣いたりわめいたりしていた苑子のことを、「姉」と敬うことができなかったからだ。
 誰も私の気持ちを分かってくれない――。
 苑子はよくそう言って荒れていたが、そんなことは隼人からすれば当たり前のことだった。〝要望〟なら推測がつくけれど、〝気持ち〟なんて分からない。
 分かるはずがない。
 家族なんて、血がつながっているだけの他人(ほかのひと)だ。
「七海が、太一(たいち)君によろしくって言ってたよ」
 話題を変えたくて、隼人は笑みを浮かべてみせる。
 結婚が遅かった苑子の息子は七海と同学年で、高校受験を控えた今が一番大変な時期らしい。
「出来のいい七海ちゃんと違って、うちのは凡才だからね。そもそもうちには中学から私立に通わせるような財力もないし。公立に受かってくれないと、万事休すよ」
 苑子が皮肉な眼差しを寄こした。
「お宅の奥さんからは、〝公立は怖いから〟なんて言われたけどね。あんたの奥さんにしてみれば、うちの子みたいのと七海ちゃんを一緒に学ばせることが、よっぽど〝怖い〟んだろうね」
 姉と千鶴子が同席したことなど数えるほどしかないのに、相変わらず、自分にとってネガティブに響く言葉はよく覚えている。
「そんなつもりじゃないだろう。七海はほら、女の子だからさ……」
 半ば呆れながら、隼人は言葉を濁した。
 僻みっぽい苑子は基本的に隼人の家族を快く思っていないようだが、同学年の七海と太一はなぜか馬が合った。早生まれの太一は体が小さかったこともあり、ませていた七海はお姉さんぶって、幼い頃からなにかと世話を焼いていた。今も時折、連絡を取り合っている様子だ。
「どうだか。あんたの奥さんと一緒にいると、いっつもステータスを見せつけられてるような気分になる。あんたみたいな男を選んだ理由も、多分それでしょうよ」
 つき合いきれなくて、隼人は口を噤む。
 母について家を出てから、姉は成人するまで随分と苦労をしたらしい。「自分をバカにしている男からの金は要らない」と、母が一方的に慰謝料や養育費を受け取らなかったからだ。
 姉の偏屈さは、意固地な母譲りなのかもしれない。
「あんたは昔から、要領だけはよかったからね」
 姉の皮肉を、隼人は無言でやり過ごした。

 苑子と別れてから、隼人は再びBMWのステアリングを握った。帰りの道路はそれほど混んでいなかったが、運転を楽しむ気分にはなれなかった。
 会うたびに眼に見えて老いていく母の様子と、姉の子供じみた当て擦りが澱のように心の奥に溜まっている。
 ふと思いついて、隼人は寄り道をすることにした。国道とは思えない細い道を入っていくと、その先に、昔、母と姉が一緒に住んでいた団地を見渡せる公園がある。高台にある公園からの眺めが好きで、この町を訪ねるたび、隼人はいつも一人で階段を上った。
 その習慣は大人になってからも続き、正月の挨拶の帰りがてら、幼い七海を連れてきたこともあったはずだ。
 小さな駐車場に車を停め、隼人は代わり映えのしない急な階段を一歩一歩上っていった。高台の頂上に着くと、変わらぬ風景が眼下に広がる。
 昔、母と姉が身を寄せ合って暮らしていた団地は、ここから見るとブロックの塊のようだ。整然と並んだブロックの向こうに小高い丘が峙(そばだ)ち、その中腹に点々と鉄塔が立っていた。
 隼人はポケットから煙草を取り出し、火をつける。
 吹きつける風が冷たい。
 眺めはよいが、壊れかけたシーソーが一つ置いてあるだけの公園は、いつきても人気(ひとけ)がなかった。片側が崖になっていて、小さな子供には危ない場所のせいもあるのかもしれない。形程度に柵が作られているが、それも所々が朽ちていた。
 早くも日が暮れ始め、鉄塔が黒く滲んで見える。
 一定の距離を置いてぽつぽつと佇む鉄塔は、項垂れて立ち竦む巨人のようだ。
 寂しい光景。
 けれど、なぜか隼人は子供の頃からこの景色が好きだった。
 決して寄り添うことのない孤独な巨人の姿を見ると、波立つ心が不思議と凪いだ。
「お客さん」になった自分を母はいつも大歓迎してくれたが、姉と二人で生活するのが精一杯だったようで、一緒に暮らそうと言われたことは一度もない。
 あまり仲の良い親子でなかった母と姉は散々小競り合いを繰り返しながらも同じ町に住み続け、隼人はこれまで通り、育った家で子供時代を過ごした。もっとも、再婚相手がなにもかもを模様替えしてしまった部屋のどこにも、自分の居場所があるとは思えなかった。高校を卒業すると同時に、隼人は早々に父の家を出た。
 それでも自分は、うまくやってきたほうだと思う。父とも再婚相手とも、表立って揉めた覚えはない。
 父から充分な仕送りを受けて大学に通い、四年後には第一志望だった大手広告代理店に順調に新卒入社した。入社時の一九九九年は超氷河期と称され、多くの新卒者が大打撃を受けたが、隼人にとっての世紀末は、恐怖の大王が現れるわけでも、世界が滅びるわけでもなく、ただ淡々と過ぎていった。
 入社五年目、ようやく仕事が面白くなってきた矢先に、アシスト業務を担当していた千鶴子が妊娠した。避妊には充分注意しているつもりだったので、まったく想定外の出来事だった。だが、授かった命は産みたいという千鶴子の主張は至極真っ当に思われた。
 正直、当時つき合っていた女性は千鶴子だけではなかったけれど、隼人は責任を取ることにした。
 ほとんどの人間がいずれは結婚するのだから、それでよいと考えた。
 派遣社員だった千鶴子も、大喜びで寿退社を選んだ。千鶴子の要望に応え、盛大な結婚式をあげて自分たちは夫婦になり、それから半年も経たずに七海が生まれた。
 成り行きと言えばその通りかもしれないが、突き詰めれば、多かれ少なかれ誰だって似たようなものだろう。
 所詮、家族の成り立ちなんて、その程度に違いない。
 冷たい北風に吹かれながら、隼人は夕闇に紛れていく鉄塔を眺める。
〝あんたは昔から、要領だけはよかったからね〟
 ふいに、先刻の姉の皮肉な言葉が脳裏をかすめた。
 違う。
 深く紫煙を吐き、隼人は首を横に振る。
 自分はただ、他の人よりほんの少し明晰なだけだ。
 
 隼人が家に帰ると、リビングで千鶴子がノートパソコンに向かっていた。隼人が帰宅したことにも気づかない様子で、夢中になってなにかを見ている。
 七海は生徒会の活動で朝早くから外出し、まだ帰っていないようだった。
「ただいま」
 背後から声をかけた瞬間、千鶴子はびくりと肩を弾ませた。なにをそんなに熱心に見ているのかとブラウザに視線を走らせれば、ツイッターのタイムラインが流れていた。
「ごめんなさい、帰ってたんだ」
 ぱたりとノートパソコンを閉じ、千鶴子が決まり悪げな笑みを浮かべる。
「なにか、食べる? 七海は今夜は遅くなるみたいだから、まだなにも作ってないんだけど」
「いや、俺もいいよ。軽く食べてきたから」
「じゃあ、お茶でも淹れるね」
 そそくさとキッチンに向かう後ろ姿を眺めながら、自分に知られたくないことでも調べていたのだろうかと考える。そもそも千鶴子がツイッターをやっていたことすら、隼人は知らなかった。
 別に構いはしないけれど――。
 隼人自身は、ツイッターやフェイスブック等、足がつきそうなものには初めから手を出さない。SNSというのは、気をつけていても隠しておきたい本音や私生活が滲み出るものだ。仕事上の宣伝アカウント以外に、個人のアカウントを持ちたがる人の気持ちが、隼人には量りかねた。
 元々人とのつながりを信じていない隼人にとって、SNS上のつながりなど、一向に意味を持たない。
「お義母(かあ)さんの具合はどうだったの?」
「とりあえずは元気そうだったけれど、もう歳だからね」
 千鶴子が淹れてきてくれたお茶を飲みながら、隼人はあたりさわりのない報告をした。無論、姉が口にした諸々の皮肉については伏せておく。
「ねえ、ちょっと見てほしいものがあるんだけど……」
 適当なところで会話を切り上げ、書斎代わりの自室に引っ込もうとした隼人に、千鶴子が声をかけてきた。
「なに?」
 振り向くと、先程閉じたノートパソコンを再び起動させている。自分に見せたくなかったのではないかと、隼人は少し意外に思った。
 だが千鶴子は覚悟を決めたように、先刻夢中になって眺めていたツイッターのタイムラインを呼び出した。
「これを見て」
 まさか……。
 浮気相手の誰かが、自分とのことをツイートに上げたりしたのだろうか。
 隼人は一瞬冷やりとしたが、千鶴子が突き出してきたブラウザに流れているのは、〝花言葉診断〟というハッシュタグのついたタイムラインだった。
 名前を打ち込むと結果が出るこうした診断は、ツイッターではお馴染みのお御籤的なウェブサービスだ。診断を作るのは運営側ではなく、ツイッターユーザーの一般アカウントが多い。 
〝すごく当たってます〟
〝まさに今欲しいお言葉を頂けました!〟
 タイムラインには、好意的な評価が並んでいる。人気のある診断は、口コミやハッシュタグを通して、どんどん拡散されていく。
「これがどうかしたのか」
 今尚次々に増えていくハッシュタグを眺めながら、隼人は首を傾(かし)げた。診断の利用者は数万を超え、表示される花言葉もそれなりに興味深いが、所詮はネット上のお遊びの域を出ていない。
「この診断の作成者、多分、七海だと思うのよ」
 隼人はタイムラインをスクロールしていた指をとめた。
「なんでそんなことが分かるんだ」
 真顔になった隼人に、千鶴子は「診断の作成者」と表示された匿名アカウントのアイコンを指し示す。
「このアイコン、七海のだもの」
 繊細なピンク色の花弁のアイコンだ。
「こんな画像、どこにだってあるだろう」
 半信半疑の隼人に、千鶴子はさらりと恐ろしいことを口にする。
「だって私、七海のアカウントを探し出して、毎日見てるんだもの。間違いないはずよ」
 隼人はゾッとした。
 最初の浮気がばれたのも、千鶴子に勝手に携帯を見られたのが発端だった。
 相変わらずこの女はそうやって、家族の動向を陰でこっそり探っているのか。
「そんな顔しないでよ」
 千鶴子に苦笑され、隼人は我に返る。
「子供のアカウントの特定なんて、ママ友の間じゃ常識だから。今、学校でもSNS問題が一番取り沙汰されてるんだし。娘を護るためには当然のことよ」
 千鶴子の態度に、悪びれたものは微塵もない。むしろ、それを母親の務めだと考えている節があった。隼人は内心、瞑目する。
 やはり、SNSなどに迂闊に手を出すべきではない。
「安心して。あなたのアカウントなんて、たとえあったとしても、今更探す気もないから」
 隼人の表情を読んだのか、千鶴子の笑みに暗いものが混じった。
「千鶴子、あのさ……」
「相談したいのは、そんなことじゃないから」
 思わず言い訳しかけた隼人を、千鶴子が強く遮る。
 夫婦の間に沈下している澱を浮上させることは、千鶴子もまた望んではいないようだった。隼人が未だに何人もの女性と関係を続けていることを、千鶴子は薄々勘づいている。それでも、悠々自適の専業主婦という、昨今では希少となった立場から降りる積もりはないのだろう。
〝あんたみたいな男を選んだ理由も、多分それでしょうよ〟
 姉の嫌みがどこかで木霊する。
 でも、誰だってそんなものだ。
 隼人は、千鶴子の打算を否定する気にはなれなかった。
 だって、そうじゃないか。
 皆、己の欲望や執着を、愛とか絆とかいう生温かい言葉でくるんで誤魔化している。
 実際には、誰もが自分に都合よく相手を解釈していて、ある意味、人間関係は互いの思い込みや錯覚の上に成り立っているにすぎないのに。
 あの寂しい鉄塔と同じだ。 
 隼人の脳裏に、高台の公園から見た夕暮れどきの光景が広がる。
 かろうじて電線でつながろうとしているが、寄り添うことはできない。
 夫婦にとっての電線が、〝愛〟とか呼ばれる曖昧模糊とした感情なら、親子にとっての電線は、もう少し信憑性のある〝血〟だろうか。
 どちらにせよ、それはただ、互いの間の距離を知らしめるだけだ。
 現在、千鶴子とは、ほとんど夫婦関係がない。七海を育てるための、文字通りのパートナーのようなものだ。
 それだって、子供の前で散々に罵り合い、姉弟を引き裂いた両親に比べれば、自分たちは立派な親だと思う。
「あの子のアカウントに、業者がコンタクトしてきてるのよ」
 千鶴子が、七海と思しきアカウントの返信欄を開いた。
 思わず隼人もブラウザに見入る。
〝突然のご連絡をご容赦ください。花言葉診断からこちらのアカウントにたどり着きました……〟
 隼人も名前を聞いたことのある、中堅生花チェーン店の公式アカウントからのリプライだった。花言葉診断の人気に眼をつけ、一緒になにかできないかと打診してきている。
〝お手数ですが、一旦こちらのアカウントをフォローして頂ければ幸いです〟
 相互フォローに持ち込み、この後はDMでやり取りをしようという心積もりなのだろう。このリプライに対し、七海と思しきアカウントはまだ反応していない。
「恐らく、本人もびっくりしちゃってると思うの」
 千鶴子が隼人の顔を見た。
「でも、別に悪い話ではないよね。勿論、七海にその気があればだけど、あなたなら、こういうの、うまくまとめられるんじゃないの? 多分、業者のほうも、七海を未成年だとは思ってないみたいだし」
 SNSで人気のコンテンツが出版されたり、商品化されたりするケースは、最近では珍しくない。この場合、診断結果で出た花を、その場で生花店に注文できるシステムを構築することくらいなら、簡単にできるだろう。
「でも、このアカウントが本当に七海だと決まったわけではないだろう?」
 隼人はまだ半信半疑だったが、千鶴子は妙に冷めた眼差しで首を横に振った。
「これは七海のアカウントよ。最近、あの子の部屋の本棚、花言葉関連の書籍と植物図鑑が嫌というほど積まれてるもの」 
 娘の部屋の本棚の監視もまた、母親の務めということなのだろうか。
「うまくまとめられれば、七海にとってもいい経験になるかもしれないじゃない。とにかく、帰ってきたらうまく聞き出してみるから、あの子にとって悪い話にならないように、あなたが間に入ってあげて」
 半ば決めつけるように、千鶴子はそう告げてきた。
 花言葉診断ねぇ……。
 自室に引き上げ、隼人は上着のポケットに手を入れた。 
 病院に入ったときから切りっぱなしにしていたスマートフォンの電源を入れて、千鶴子に教えられたアカウントを検索する。ついでに、花言葉診断のハッシュタグをたどってみた。
 七海はまた、なぜこんなことをしているのだろう。
 高校受験の必要はないにしても、部活や生徒会の活動等、日々忙しそうにしているのに。
 しかも暇潰しにしては、随分と凝った仕様のようだ。
 どれ――。
 好奇心に駆られ、隼人は自分の名前を入力してみた。
 現れた診断にハッと眼を見張る。

 ツリフネソウ――花言葉「私に触(さわ)らないでください」

〝莢一杯に種を溜め込むツリフネソウは、少し触(ふ)れられただけで爆(は)ぜてしまう……〟
 解説を読むのもそこそこに、隼人は診断結果を閉じた。
「私に触らないでください」
 それでもその花言葉が、眼の奥に焼きついている。
 診断結果はランダムに表示されているだけだ。明日、入力すれば、また違う診断が出る。
 分かり切ったことなのに、隼人はなぜかツリフネソウの花言葉に心をざわつかせた。
 一呼吸つき、メッセージアプリを開く。
〝明日の晩、会えないかな?〟
 気づいたときには、病院の駐車場であれほどうっとうしく思った紗都子に、誘いのメッセージを送っていた。
 すぐに既読がつき、返信がくる。
〝明日の晩はちょっと無理。週末だったら……〟
 隼人は露骨に舌打ちした。
「使えねえ」
 吐き捨てるなり、隼人は別のアドレスに向けてメッセージを打ち始めた。

                 第五話「ツリフネソウの姉弟」後編へ続く

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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