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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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リコリスの兄弟(前篇)

2018.11.30 更新

 畦道に、たくさんの彼岸花が咲いている。
 緑の中、道に沿って点々と続く深紅の花は、まるで小さな街灯のようだ。草むらからひゅっと伸びた長い茎の上で、火花を思わせる花弁が風に揺れている。
 彼岸花に縁どられた細い道。
 二人の少年を乗せた、タンデム自転車が駆け抜ける。
 ぴったりと息を合わせ、まったく同時にペダルを踏み込み、風を切る。タイミングを図る必要なんて微塵もない。相手がどう動くかは、自ずと分かる。
 前席の少年が心持ち振り返り、後席の少年と視線を交わした。二人の唇に笑みが浮かぶ。
 別に確認しなくたって分かる。
 眼尻の下がり方から、口角の上がり方まで、なにもかもがそっくりなはずだ。
 だって、僕らはクローンだ――。
 同じ遺伝子セットを持って生まれてきた一卵性双生児は、兄弟というより、むしろ複製(コピー)なのだそうだ。
 一つの卵子から枝分かれして生まれた、天然自然のクローン。それが僕らだ。
 同じ環境で、同じものを食べ、同じように育ってきた。生まれてこの方、離れたこともないし、離れたいとも思っていない。
 一人でいるより、二人でいるほうがずっと自然だ。
 だって、僕らは……。
 もう一度振り返った瞬間、背筋がすっと冷たくなった。
 いつの間にか、後席でペダルを踏んでいたはずの双子の片割れの姿が消えている。
 誰も乗っていないサドルが、黒々と眼に映る。
 途端にペダルが重くなり、タンデム自転車のバランスが崩れた。ハンドルを切り損ね、身体が草むらに投げ出される。
 僕らのもう片方は――。
 消えた片割れを探そうと心は焦るのに、身体が思うように動かない。
 必死に頭を持ち上げ、眼の前の光景に息を呑んだ。
 辺り一面に群生する、血のように赤い彼岸花。

 気がつくと、薄暗い天井が視界に入った。
 直前まで見ていた夢の感触が抜け切らず、高森颯馬(たかもりそうま)はベッドのマットを背に、ぼんやりと天井の一点を眺めていた。部屋の中は暗く、まだ夜は明けていないようだ。
 いつの間にか掛け布団をはいでいたらしい。全身にびっしょりと汗をかいている。
 ベッドの上で身を起こし、颯馬はサイドテーブルの目覚まし時計を手に取った。
 午前五時。少し前なら、既に日が昇っている時刻だ。夏の強化合宿の間は、毎朝これくらいの時間にはもう起きていた。
 中学三年の夏から秋にかけては、本当にあっという間だった。
 無意識のうちに溜め息をつきながら、窓の方向に眼をやる。十月に入ってから急に夜が長くなり、カーテンの向こうは真っ暗だった。
 ベッドを降り、颯馬はタオルを取りにいく。部屋の隅のカラーボックスから洗い立てのタオルを取り出し、顔を埋めた。
 最近、いつも同じような夢を見て、明け方に眼が覚める。
 だが現実的な意識が戻ってくるのと同時に、潮が引くように夢の痕跡は消えていってしまう。
 ただ、覚えているのは――。
 タオルから顔を上げ、颯馬は部屋の中を見回した。
 薄暗がりに慣れた眼の中に、周囲の様子が浮かび上がる。左右対称に置かれたベッドと勉強机。壁際に置かれたもう一つのベッドには誰もいない。
 きちん整えられたベッドの上に、見慣れたジャージが畳んで置いてある。
 ふと空(から)のベッドに、誰も乗せていない黒々としたサドルが重なったような気がした。
 カーテンの閉められた窓に向かい、ベッドと同様に、勉強机が対称に設置されている。机の構造も、椅子の高さも、電気スタンドも、なにもかもがおそろいだ。
 けれど、その印象はまるで違う。
 片方の机の上はきれいに片づけられ、棚にはたくさんの本が並んでいる。もう片方は、机の表面が見えないほど雑然と色々なものが置かれている。プラモデル、ゲームの端末、漫画、雑誌、アイドルの写真集……。無造作に積み上げられているのは、ティーンエイジャーが好みそうな、しかし統一性のないアイテムばかりだ。
 タオルで胸元の汗をぬぐうと、颯馬はベッドに腰を掛けて項垂れた。
 明け方の夢のおかげで、このところ慢性的な寝不足が続いているが、もう一度眠る気にはなれない。
 高校受験を控えたクラスメイトの中には、五時前に起きて勉強しているものもいると聞く。最近では中学受験が盛んだが、公立に通っている颯馬たちは、中学三年が初めての受験年だった。
 もっとも颯馬は、受験勉強に励む他のクラスメイトたちとは、少し違う立ち位置にいる。
 だって、僕らは……。
 その先を考えようとすると、胸が塞がれたようになった。
 急に気持ちが落ち着かなくなり、颯馬の指がサイドテーブルの上をたどる。スマートフォンを探し当てると、勇むように起動ボタンを押した。暗い部屋の中で液晶画面が輝く。
 微かな起動音に、なぜか安堵している自分を颯馬は感じた。
 スマートフォンは、どこにでもつながる小さな窓だ。たとえどんな場所であっても、どんな時間であっても、ネットの海は必ず自分を受け入れてくれる。
 学校でも家庭でも、スマートフォンの扱いは必ず問題になるが、SNS中毒になるクラスメイトがいることを、颯馬はむしろ当然だと考えてしまう。
 ツイッターのアカウントを開けば、こんな時間なのに、やはりタイムラインにはたくさんの人たちが蠢いていた。ここにいれば、少なくとも自分が一人きりではないのだと感じられる。
 しばらく見るともなしに、タイムラインに流れる色々な人たちの呟きを眺めた後、颯馬は保存しておいたスクリーンショットを開いた。
 最近、SNSで流行中の花言葉診断。
 ハッシュタグに気づいたのは、少し前のことだった。こうしたお御籤的なウェブサービスは、同じ名前を打ち込んでも、毎日内容が変わる。だから、これはまったくの偶然だ。
 元々颯馬は、占い的なものを信じる質(たち)ではない。
 なのに、このときに出た診断は、どうしても消すことができなかった。
 名前を打ち込んだ瞬間、現れた診断結果に、颯馬は今も心を囚われる。

 リコリス――花言葉「悲しい思い出」
 
 聞き慣れない花の名前に添付されている画像は、怖いほどに群生する真っ赤な彼岸花だ。
〝中国大陸から入ってきたと考えられているリコリスは種子を結ばず、日本に分布するほぼすべてがクローンだと考えられている。その球根は毒を持つため、モグラやネズミを避けるために、墓の近くに植えられた。別名、彼岸花、曼殊沙華、死人花〟
 解説をたどるうちに、忘れかけていた明け方の夢が甦り、颯馬はハッと胸を衝かれた。
 畦道に、どこまでも転々と咲く血のような彼岸花――。
〝花の時期と葉の時期が違うため、「ハミズハナミズ」とも称される。「悲しい思い出」という花言葉の由来は……〟
 解説を最後まで読まず、スマートフォンをマットの上に投げ捨てる。
 ほんの一瞬躊躇したが、颯馬はベッドを飛び降りて勉強机に向かった。雑然とものが溢れているほうの机に座り、わずかにあいている隙間に小さな帳面を広げる。
 スタンドの電気をつけると、颯馬は一心に帳面になにかを書き始めた。

 ホームルームが終わるや否や、颯馬は手早く荷物をまとめて立ち上がった。
 背後では、クラスメイトたちが「過去問」の出来について大声で愚痴り合っている。
「後、三ヶ月で今年おしまいとか、超焦るよ」
「本当だよな。まじ、焦るわ」
 今や三年生のクラスは受験ムード一色だ。中には、これ見よがしに実際の試験問題と同じプリント形式の問題集を開いている者もいる。
〝焦る、焦る〟と同調ムードに浸っているクラスメイトたちを後目(しりめ)に、颯馬は誰とも口をきかずに教室を出た。
 通学鞄を右手に、水着の入った体操着袋を肩にかけ、一段とばしで階段を上る。
 学校の屋上には、開閉式の屋根を持つ立派な温水プールの施設があった。今年は残暑が長引き、九月の終わりまで天井を開放して練習に励んでいたが、今の季節はさすがに屋根を閉じている。
 颯馬が通う学校は、水泳強豪校だ。
 もっとも、昔は校庭にプールがあったため、今のように一年中泳ぐことはできなかったそうだ。
〝中学校に温水プールとか、ありえない時代だったからな〟
 三十年前にこの学校を卒業している父は、そう言って笑っていた。だがその頃から水泳部は有名で、父も都大会に出場した経験を持っている。
〝まあ、俺は都大会どまりだったけどな〟
 頭の中に響く父の声を振り払うように、颯馬は勢いよく階段を上り切る。プールサイドに通じる更衣室の扉をあけると、すぐに塩素の匂いが漂ってきた。
「あ、高森先輩、お疲れっす……」
 ジャージ姿でたむろしていた二年生が、気まずそうに颯馬を見た。颯馬は後輩たちを一瞥すると、無言で着替え始めた。ほとんどの三年生は夏の大会を境に部活を引退しているので、二年生たちは明らかに気が抜けた様子だった。
 既に始まっているはずの全体練習も、真面目に取り組んでいるのは一年生だけのようだ。
 ここは、〝俺〟が一喝すべきなのかな――。
 一瞬そう思ったが、颯馬は黙って着替えを続けた。無言の圧力は却って功を奏したらしく、背後の二年生たちも粛々と着替え始めた。
 キャップをかぶり、ゴーグルを手にプールサイドに出るなり、むっとする湿気に全身を包まれる。六つのコースを備えた、二十五メートルの短水路。
 一コースから三コースまでのレーンを使い、一年生の部員が百メートルを一セットにしたフリーのインターバルトレーニングに入っていた。
 準備体操もそこそこに、颯馬は往復用のレーンに向かう。
 ゴーグルを装着し、飛び込み台の上に立った。一年生たちが起こす波が、天窓から差し込む日差しを受けてプリズムのように輝く。満々と水を湛えた青いプールが眼下に広がっている。
「高森」
 顧問の堀川(ほりかわ)教諭が声をかけてきたが、気づかぬふりをして飛び込み台を蹴った。
 一点を目指し、できるだけ飛沫を上げずに入水する。生温かな水圧を全身に感じ、プールの底すれすれをドルフィンキックで進む。
 浮力を覚えつつも、自分の全身の重さがはっきりと伝わってきた。身体が重くなったようにも、軽くなったようにも感じられる。
 プールに入った瞬間の、この形容し難い感覚は、何度繰り返しても変わらない。
 潜水が許される規定のぎりぎりで浮上し、肩甲骨から腕を回す。水泳のクロールは度々フリーと称されるが、その通称は実際には正しくない。
 本来フリーは文字通りの「自由形」で、どんな泳ぎ方をしてもかまわない。バタフライでも、背泳でも、平泳ぎ(ブレスト)でも、本人が選択すれば、フリースタイルとして泳ぐことができる。
 だが現実的には、「自由形競技」に、クロール以外の泳法で出場する選手は一人もいない。クロールこそが、最速の泳法だからだ。
 結局、水泳競技にフリースタイルなどどこにもない。
〝言わずもがな〟という言葉が、颯馬の脳裏をかすめる。
 言わずもがな――。
 言う必要がないこと。むしろ、言わないほうが良いこと。
 けれど本当は、言うまでもないこと。
 水をかき分け、前へ進む。呼吸が耳のすぐ傍で響く。
 あっという間にプールサイドが近づき、颯馬はクイックターンを決めて、足だけで壁を蹴った。再び水中をドルフィンキックで進み、どんどん加速する。
 だが四往復を終えた辺りで、急激に鼓動が速くなってきた。
 ありえない。
 颯馬は鋭く息を吐く。
 この〝俺〟がこんなところでばてるなんて、あってはならない。
 だって、そうじゃないか。
〝俺〟は――、〝俺たち〟は、このために受験を免除されているのだから。
 本来なら、受験を控えた三年生は、夏の大会を最後に全員が部活を引退する。だが、毎年全国大会に出場している颯馬は、顧問の堀川の推薦で、卒業後は水泳大国オーストラリアのメルボルンの高校に、水泳留学することが決まっていた。
 オーストラリアは州によって学期が異なるが、颯馬がいくことになっている学校は、一月一杯の夏休みを終えて二月から新学期が始まるため、卒業式の後、すぐに渡豪する予定だ。
 あいつはもう、進路が決まってるんだもんな。俺たちとは、違うよ。
 泳いでりゃいいんだから、気楽なもんだよな――。
 同調ムード一色のクラスメイトたちが陰で交わす、〝言わずもがな〟な囁きが耳朶を打つ。
 言ってろよ。
 颯馬は眉間に皺を寄せる。
 こちらは、各国から集まってくる優秀な水泳選手を相手に世界大会を目指さなければならないのだ。専属のコーチも、日本語の通じないオーストラリア人だと聞いている。
 そんな中で、一体どうやって……。
 腕が上がらなくなり、呼吸が乱れ始めた。
「……森、高森……!」
 プールサイドで顧問の堀川教諭が叫んでいる。
「インターバルを取れ」
 颯馬は無視して何度目かのクイックターンを試みた。なんとか壁を蹴ることができたが、明らかにタイムが落ちてきた。息が苦しく、胸の中がごおごおと音をたてる。
 こんなはずはない、こんなはずはない――。
 もっとドルフィンキックを続けたいのに、意に反して身体が中途半端に浮かんできてしまう。
 だが水面に浮上したとき、ふっと、隣のコースにもう一人の影が現れた。ゴーグルの端にその影をとらえ、颯馬は腕を遠くへと差し伸べる。
 急に呼吸が楽になった。きれいなストロークが繰り出され、ようやく水に乗っていく。
 そうだ、これこそ〝俺〟の泳ぎだ。
 颯馬の心に安堵に似たものが広がる。
 一緒ならば〝俺たち〟は、どこまでだっていける。
 しかし。
 次にクイックターンを決めた瞬間、隣のコースの影は跡形もなく消えていた。
 途端に全身が鉛のように重くなり、颯馬はずぶずぶと水の中に沈んでしまう。
「高森っ!」
 堀川の声に、颯馬はプールの底に足をついた。
 これ以上泳ぐ気力が湧かず、足を引きずるようにして一番近いサイドにたどり着いた。水から身体を引き上げると、険しい表情の堀川教諭が近づいてくる。
「インターバルをとれと言っただろう。なんだ、あの無茶苦茶な泳ぎ方は。あれじゃ、いくら泳いでも逆効果だ」
 堀川は理科の教師だが、自らもオーストラリアでの水泳留学経験を持つ、元全国大会出場選手だ。その経歴を買われて、この学校に赴任してきたとも聞いている。
「大体、準備体操もろくにしないで、いきなり飛び込む奴がいるか」
 堀川の苦言に、颯馬は密かに眉を寄せた。
「しっかりストレッチをして、百メートル一セットでタイムを計りながら泳げ。無理はするな」
 最後の一言が、ざらりと胸に引っかかる。
 それでも言われた通りにハムストリングスを中心にストレッチをし、今度は秒針時計を見ながら飛び込み台の上に立った。
 秒針がてっぺんにきた瞬間に、飛び込み台を蹴る。入水は悪くない。ストロークだって、決して力は抜いていない。
 それなのに、なぜだろう。
 どうして、思ったようなタイムが出ないのだ。泳げば泳ぐほど、タイムが悪くなっていく。
 これでは、往復コースを占拠して泳いでいることすらはばかられてしまう。向こうのレーンで泳いでいる一年生や二年生がこちらを注視しているような気がして、颯馬は焦った。
 俺じゃない。これじゃ、俺じゃない――。
 都大会の制限タイムにすら届かないタイムを見て、颯馬は思わず水を叩いた。
「高森」
 またしても堀川が近づいてくる。颯馬はプールサイドに上がり、ゴーグルを外した。
「もう、今日はやめます」
「それは構わないが」 
 なにかを言いよどむ堀川の表情に、強い苛立ちを感じてしまう。
 自分だって、世界大会ではまるで歯が立たなかったくせに……。
「大丈夫です。ちょっと調子が悪いだけです。推薦してくれた堀川先生に、迷惑はかけませんから」
 挑戦的な口調で返すと、さすがに堀川がムッとした。
「そんなことを言ってるんじゃない」
 じゃあ、なんなのだ――。
 先を促すように颯馬は見返したが、堀川はそれ以上続けようとはしなかった。その眼差しに、戸惑うような色が浮かんでいる。
〝言わずもがな〟
 頭の片隅に、再びその言葉が浮かんだ。
「失礼します」
 冷たい声を発し、颯馬はくるりと踵を返す。プールサイドの二年生たちの視線を感じたが、颯馬は振り返らなかった。
 足早に立ち去ろうとする自分に声をかける者は、もう誰もいなかった。

 家につくと、颯馬は「ただいま」も言わずに二階に上がり、自室に閉じこもった。リビングを抜けるとき、母がなにか言いたげにしていたが、無言でやり過ごした。
 通学鞄を投げ出し、ベッドに腰かけ息を吐く。
 このところ、学校でも家でもずっとこんな感じだ。
〝言わずもがな〟
 誰もがそんな眼差しで自分を見る。
 小さく首を振って顔を上げると、窓辺に並んだ二つの勉強机が眼に入った。きれいに整頓された机と、たくさんの物が積まれた雑然とした机。
 通学鞄から小さな帳面を取り出し、颯馬は迷わず、乱雑にものが置かれた勉強机に向かった。かろうじて見えている机の表面に、無理やり帳面を広げる。椅子を引いた途端、積まれていた雑誌が雪崩を起こした。音をたてて床に雑誌が散乱する。
 颯馬はうんざりしながら、それを拾い上げた。週刊漫画雑誌のページの間から、するりと一枚の写真が滑り出る。手にした瞬間、颯馬はハッと息を呑んだ。
 水着姿の二人の少年が、肩を組んで笑っている。去年の全国大会の写真だ。
 顔の造作は勿論、眼尻に寄った皺から、口角のあげ方まで。
 二人の少年は、なにもかもがそっくりだ。
 当たり前だ。
 写真を見つめ、颯馬は心の中で呟く。
 だって、僕らはクローンだもの。
 一卵性双生児として生まれた兄の颯馬と弟の翔馬(しょうま)は、ときとして両親ですら間違えるほど、よく似ている。
 まったく同じ遺伝子セットを携えた僕らは、天然自然のクローンだ――。
 顔も同じなら、持って生まれた才能だって、どこまでも同じはずだ。
 それなのに。
 颯馬は、写真をじっと見つめる。 
 複製の如く同じ顔に、当人同士にしか分からない微かな違いがある。表面的な造作ではない。恐らく内面から滲み出るものだ。
 ひょっとするとそれは、精彩とか、活力とか、そういったものかも分からない。
 同じ遺伝子を持つ細胞の塊なのに、そこに宿るものが、颯馬の方が少しだけ強かった。
 だから、これでよかったんだ。
 颯馬は写真を机の上に置くと、帳面に向き直った。ページを開き、シャープペンシルを走らせる。
〝僕らは無敵だった〟
 写真の二人を眺めながら、言葉を紡ぐ。
 父も母も大会出場経験者。水泳一家に生まれた双子は、幼い頃から水に親しんで育った。
〝僕らには、僕ら以外に敵がいなかった〟
 物心ついた頃から二人で競い合い、高め合い、次々とレベルの高い大会に駒を進め、記録を大きく塗り替えた。そんな二人に、両親も学校も並々ならぬ期待を寄せていた。
〝でも僕らの片割れのほうが、いつも少しだけ速かった〟
 弟の翔馬が、兄の颯馬に勝ったことは一度もない。
〝だから、これは不幸中の幸いだ〟
 そこまで書くと、筆がとまった。
 シャープペンシルを握ったまま、颯馬はじっと考え込む。その脳裏に、里山のサイクリングコースが広がった。
 あれは、九月の最後の連休だ。友人たちと連れ立って、自然公園に向かった。
 よく晴れた秋空の下、息の合う二人で乗るタンデム自転車でのサイクリングは最高に気持ちがいい。畦道に点々と咲いた真っ赤な彼岸花が、自分たちを歓迎しているように思えた。
 双子はいつものように、二人だけで山奥のコースへと分け入った。たとえ他の友達と遊ぶことはあっても、最終的に、双子は常に行動を共にしていた。
 細い畦道に入った途端、前のサドルに乗った双子の片割れが、突如猛スピードでペダルを漕ぎ出した。タンデム自転車のペダルは前と後ろで連結している。主導権を持つ前方のペダルが速くなれば、後方も従わざるを得なくなる。
〝なに、そんな張り切ってんの? つきあってらんねえ〟
 だが後ろのサドルに跨った双子の片割れは、漕ぐのをさぼってペダルから足を離した。前方の双子の片割れは、一層力を込めて猛烈にペダルを漕いだ。
 二人とも、ちょっとした冗談のつもりだった。
 事実、なんの問題もなかったはずなのだ。後方の双子の片割れのズボンのすそが、ほつれてさえいなければ――。
 二人とも全く知らぬうちに、ほつれた部分が車輪にどんどん巻き込まれていった。気づいたときには、後方の双子の片割れが、連結部分と車輪の間に脚を挟まれていた。
 背後で響いた大きな悲鳴に、前方の双子の片割れは、驚いてハンドルを切り損ねた。
 瞬間、タンデム自転車が大きくバウンドして、前方の片割れは地面に投げ出された。
 朦朧とした意識の中、かろうじて目蓋を開くと、足を挟まれたままタンデム自転車の下敷きになっている、もう一人の片割れの姿が霞んで見えた。
 慌てて助けにいこうとするのに、思うように身体が動かない。這いつくばって進む先に、ゆらゆらと揺れる、血のように赤い彼岸花の群生が――。
 シャープペンシルの芯がぽきりと折れて、颯馬はハッと我に返った。
 帳面に穴があくほど、力を入れて握りしめていたらしい。颯馬は息を吐くと、額に滲んだ冷たい汗をぬぐった。
 あの事故で、僕らの片割れは左足に麻痺が残った。今も病院でリハビリを続けている。
 僕らのうちの一人は、もう前のようには泳げない。
 だが、酷い言い方かもしれないけれど――。
 期待を寄せる両親のためにも、水泳留学の推薦をしてくれた堀川顧問のためにも、残ったのが〝俺〟でよかったのだ。
 それは、〝言わずもがな〟な現実だ。
〝泳げなくなった僕らの片割れの分は、残った片割れが取り戻す〟
 書き終えた文字を、颯馬はじっと見つめた。

 十月の下旬を過ぎたが、例年より気温の高い日が続いていた。
 天窓から差し込む明るい光が水底にまで届き、プールの中は明るい。水面に上っていく気泡を追いかけるように、颯馬は腕を差し伸べた。
 前へ、前へ、前へ――。
 なぜだろう。気持ちにストロークがついていかない。腕が重い。
 片割れと一緒に泳ぐことができなくなってから、調子が元に戻らない。
 こんなの〝俺〟の泳ぎじゃない。
 颯馬は息を強く吐いた。
 何回泳いでもタイムが出ない。それどころか、どんどんタイムが悪くなる。
 来月には、都内で全国の優秀選手を招待した公認記録会が予定されている。もちろん、颯馬は招待選手だ。それなのに、このままでは一般参加の選手にまで負けてしまうかもしれない。
 そんなこと、あっていいはずがない。
 堀川から事前に言い渡されていたプログラム本数はとっくに超えていたが、颯馬は泳ぐのをやめることができなかった。
 息が苦しい。腕が重い。キックに力が入らない。
 でも、こんなこと、許されるはずがない。
 我武者羅に腕を伸ばした瞬間、いきなり眼の前の水をビート板で叩かれた。
「高森、いい加減にしろ! それじゃ逆効果だと、何度言ったら分かるんだ」
 プールサイドの堀川が本気の怒声を発している。
「最初に言われた本数を守れ。いいからもう、水から上がれ!」
 剣幕に負け、颯馬は渋々プールサイドに身体を引き上げた。
「なにをそんなに焦ってるんだ」
 またしても、言わずもがなだ。
「そりゃ、お前の気持ちも分からなくはないけどな……」
 急に語調を緩めた堀川に、颯馬は苛立つ。
「だから、先生の顔を潰すような真似はしないって言ってるじゃないですか。来月の公認記録会までにはちゃんと調整しますよ」
「誰もそんなこと言ってないだろうが」
「じゃあ、なんですか」
 駄目だ。これではただの八つ当たりだ。
 頭では分かっているのに、颯馬は自分をとめることができなかった。
「せっかく俺が残ったのに、当てが外れましたか」
 投げつけた言葉に、堀川が眼を見張る。
「高森、お前……」
 蒼褪めた表情で、堀川教諭はこちらを見つめた。
「今日はこれで失礼します」
 颯馬は水を滴らせたまま、足早にプールサイドを歩き始めた。更衣室に入り、壁にかけてあるタオルをひったくる。
 やはり、自分は一人では駄目なのだ。
 考えまいとしていた現実が突きつけられ、颯馬はタオルに顔を埋める。
 どの記録も、二人で泳いで作ったものだ。少しだけ速い。でもそれは、双方に支えられて築いてきた記録だった。
 もう一人がいないと駄目だ。
 血のように赤い彼岸花の向こうに、倒れた片割れの姿が遠ざかる。
 彼岸花、リコリス――悲しい思い出。
〝中国大陸から入ってきたと考えられているリコリスは種子を結ばず、日本に分布するほぼすべてがクローンだと考えられている〟
 ふいに、花言葉診断の解説が脳裏をよぎった。
〝「悲しい思い出」という花言葉の由来は、帰らぬ人への思いか、或いは環境の変化に弱い、クローン自身の悲しみか〟
 多様性に富む有性生殖に比べ、無性生殖で繁殖するクローンは環境の変化に弱い。クローンはどれだけ増殖しても、一部がウイルスに感染すれば、一網打尽に全滅する。
 群生していた彼岸花が、ある年を境に一斉に消えてしまうのと同じことだ。
 片割れを失った自分もきっと、自滅する。
 タオルから顔を上げると、鏡に映った自分と眼が合った。そこに、失われた片割れがいた。
「……ごめん……」
 颯馬の唇から、震える声が漏れる。
 取り戻そうと思ったのに――。
 失われた片割れの分を、残された片割れが、取り戻そうとしていたのに。
「ごめん……ごめん……」
 タオルを握り締め、颯馬は鏡の中の自分に謝り続けた。

                         「リコリスの兄弟」後編に続く

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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