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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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「リコリスの兄弟」後編

2018.12.28 更新

 並木道の銀杏が色づき始めている。
 今年は記録的な暖冬だと昨夜のニュースで言っていたが、十一月に入ると道路脇の樹々は先端から律儀に黄色く染まっていた。
 足元に散った銀杏の葉を見つめ、颯馬は足を引きずるようにして歩いていた。
〝せっかく俺が残ったのに、当てが外れましたか〟
 顧問の堀川に八つ当たりをしてしまってから、部活にも顔を出していない。
〝高森、お前……〟
 堀川教諭は蒼褪めた表情でこちらを見ていた。あのときの顧問の戸惑うような眼差しを思い返すと、我知らず重い溜め息が漏れる。
 今日はどこへいこうか――。
 歩道橋の前で、颯馬は立ちどまった。
 部活にいくのをやめてしまうと、学校にも家にも居場所がない。
 今年も残すところ二ヶ月となり、学校では進路面接が毎日のように行われていた。クラスメイトたちの話題は、高校受験一色だ。颯馬の通う中学では偏差値の公表がないため、多くの生徒が塾や予備校が主催する学力テストを受けているようだった。公立では偏差値偏重を脱却する教育方針が取られているが、高校受験の合否予測は結局のところ偏差値を基準に判断するしかないからだ。
 期末試験以上に、彼らが学校外での学力テストに注力しているのは、颯馬にもよく分かった。
 これもまた、〝言わずもがな〟な実態ということか。
 誰も口に出そうとはしないけれど、その実、誰もが気づいていること。
 耳触りの良い理想的な標語に、真実味がないのと同じだ。容赦のない現実は、大抵その裏側にある。
 ふと、颯馬の脳裏に、心配そうな表情を浮かべた両親の顔が浮かんだ。水着を洗濯機に入れることがなくなったから、部活にいっていないと恐らく気づかれているのだろう。
 昨夜夕食を食べているとき、母が次の休みに一緒に病院へ見舞いにいかないかと声をかけてきた。遠慮がちな声が甦り、耳を塞ぎたくなる。
 片割れの怪我が予想以上に深刻だと分かったとき、両親も医者も顧問も、事故は偶発的なもので誰のせいでもないと言った。
 しかし、そう強調されればされるほど、却って不注意を咎められているような気がしてしまう。
 事実、運動選手(アスリート)の怪我は、すべてが自己責任のはずなのだ。それを追及されないのは、自分がまだ中学生だからだろうか。それとも、怪我をしたのが自分ではなく、片割れだったからだろうか。
 考えれば考えるほど、颯馬は分からなくなっていく。
 第一、都大会の制限タイムにも届かないほど絶不調な今の自分が、一体どの面を下げて片割れの前に立てるだろう。リハビリに苦心する片割れを前に、申し訳なさと情けなさで、立ち直れなくなってしまうに違いない。
 のろのろと歩道橋をのぼっていくと、公園の向こうに図書館が見えた。このところ毎日のように通っているが、今日もまた、他に行き場所は見つかりそうになかった。
 歩道橋を降りて、颯馬は真っ直ぐに図書館に向かう。形ばかりの小さな日本庭園を横切り、自動ドアの前に立った。両側から扉が開くと、図書館特有の古い紙の匂いが漂ってくる。
 いくつかの書架を巡り、颯馬は人気作家のミステリー小説を手に閲覧室に入った。
 閲覧室は、雑誌や新聞を読むお年寄りたちと、耳にイヤホンを突っ込んで勉強に励む制服姿の学生たちで一杯だった。できるだけ目立たない端の席を選び、そっと腰を下ろす。
 破けたクッションにガムテープを貼っただけの椅子は、四つの足が均等に揃っておらず、少し動くとガタガタと揺れた。座り心地の悪さに耐えながらページをめくったが、内容が一向に頭に入ってこない。
 視線を上げれば、向かいの席の同学年らしい男子が眼に入る。制服の色から、隣の学区の中学生だと分かった。クラスメイトたちと同様に、プリント形式の「過去問」に取り組んでいる。イヤホンで雑音をシャットアウトした彼は、周囲のことなどまるで眼に入らない様子で、一心に問題を解いていた。
 ふいに颯馬は、同じ時期にミステリー小説を読んでいることに居心地の悪さを感じた。
 たとえここで、期末試験の勉強を始めたとしても、蚊帳の外にいるような感覚は消えないだろう。
 自分が覚えているのが「疎外感」であることに気づき、小さく息を呑む。
 今までどれだけ他の連中と違うことをしていようと、そんなことを感じたことはただの一度もなかった。
 なぜなら、生まれたときから自分たちは、いつも二人だったからだ。
 急に眼が醒めたようになり、颯馬は周囲を見回す。
 一人で勉強している男子や女子が次々と視界に入り、なぜか背筋が冷たくなった。
 今まで考えたこともなかったけれど――。
 よくも彼らや彼女たちは、一人きりで生きられるものだ。
 これまで自分は、一人で決めたり、行動したりしたことが、実は一度もなかった。水泳を始めたときも、オーストラリアへの留学を決めたときも、傍らにはいつだって、まったく同じ姿形をした、もう一人の自分がいた。
 もちろん喧嘩をすることや、意見が分かれることはあったけれど、心の深い部分では、自分たちが〝二人の人間〟であることを意識する余地が無いほど、片割れを自分の一部だと感じていた。
 だって、僕らはクローンだもの――。
 颯馬の脳裏に、真っ赤な彼岸花の群生が浮かぶ。
 クローンはどれだけ増殖しても、一部がウイルスに感染すれば……。
 その先を考えるのが怖くて、颯馬は首を横に振る。
 僕らは無敵。
 自分が残ったのは、不幸中の幸い。
 強く念じながら、通学鞄を引き寄せる。
 たとえ一人になったって、それを変えてはいけない。失われた片割れの分は、残った片割れが取り戻さなければならない。
 暗示のように書きつけた文字をもう一度読みたくて、小さな帳面を探す。
 しかし。
 すぐに取り出せるように内ポケットに入れておいたはずの帳面が、いくら探しても見つからない。しばらく開くことはなかったものの、どこかに仕舞い込んだりはしていない。いつでも読み返したり、書き足したりできるように、持ち歩いていたはずなのだ。
 それなのに、どこにもない。
 心拍数が一気に上がり、颯馬は息苦しくなった。
 鞄の中を散々に引っかき回し、ようやく悟る。
 どこかで帳面を落としたのだ。

 翌日、颯馬は久々に屋上に向かった。
 昨日は、自分の部屋や教室中を念入りに探したが、帳面は見つからなかった。だとすれば、落としたのは、恐らく更衣室に違いない。
 誰かにあの帳面を見られたら――。
 そう考えると気が気でなく、昨夜はほとんど眠ることができなかった。
 自分と片割れがそれぞれ専用にしていたロッカーを乱暴に開き、隅々まで眼を走らせる。どんなに小さくても、帳面が落ちていればすぐに分かるはずだ。
 だが、どちらのロッカーにも埃一つ落ちていなかった。
 盛大に舌を打ち、颯馬は通学鞄をロッカーに叩き入れる。冬服のブレザーを脱ぎ、水着に着替え始めた。
 気持ちが焦り、酷く苛々する。
 もう、いい。
 開き直ったように、颯馬は大きく息を吐いた。
 今はやるべきことをやるだけだ。
 キャップとゴーグルを装着し、颯馬は足早にプールに向かった。たった数週間ぶりなのに、プールサイドに立ち込める湿気と塩素の匂いに、懐かしさを感じる。
 やはり自分は、ここに活路を見出すしかない。
 別に暗示などなくたって、自分が再び〝俺の記録〟を取り戻せばすべては済む。
 それだけだ。
 まだ時間が早いせいか、顧問の堀川の姿は見えなかった。一年生がプルブイを使って基礎練習している傍らで、二年生の部員たちが往復用レーンのコースロープにもたれて、無駄話をしていた。
「どけぇっ!」
 室内を震わせるほどの大声で、颯馬は叫ぶ。
 二年生たちがギョッとしたようにこちらを見た。彼らが慌ててコースロープから離れるのを待たず、颯馬は飛び込み台の上に立った。
 秒針時計の針がてっぺんにくるのを見定め、水面の一点を目指し、縁(へり)にかけていた足指で思い切り台を蹴る。できるだけ水飛沫を上げず、綺麗に身体が入水した。
 そう。これが〝俺の〟飛び込みだ。
 ゆらゆらと日差しが揺れる水面を、ドルフィンキックでぐんぐん進む。
 ゴーグルの端に、隣のコースを進む片割れの幻が映った。息を合わせて、ストロークを繰り出し、水を裂く。
 そうだ。これが〝俺たち〟の泳ぎなんだ。
 あっという間に二十五メートルを泳ぎ切り、クイックターンで壁を蹴る。幻の影は消えたが、颯馬は懸命に突き進んだ。二往復を終え、秒針時計に眼をやる。
 頬がぴくりと引き攣るのを感じた。
 久々に満足な泳ぎができたと思っていたのに。
 やっぱり、俺のタイムじゃない。
 どうして――。
 颯馬は強く唇を噛んだ。
 まったく同じ遺伝子セットを携えた双子は、天然自然のクローン。顔も同じなら、持って生まれた才能だって、どこまでも同じはず。
 それなのに、どうして〝俺の〟タイムが出ないんだ――!
 颯馬は躍起になって泳ぎ続けたが、何回泳いでも、目指すタイムが出なかった。そのうち、昨夜の寝不足のせいか、だんだん頭がくらくらしてきた。仕方なく、一旦プールサイドに身体を引き上げる。
 そのとき、向こうのレーンで基礎練習をしていた一年生たちから歓声があがった。見れば、顧問の堀川がプールサイドに出てきていた。顔を合わせるのが嫌で、颯馬はそそくさと立ち上がる。
 堀川からの視線を感じたが、無視して再び飛び込み台にのぼった。まだ微かに上体がふらついている。それでも颯馬は、無理やり身体を空中に躍らせた。
 大きな水飛沫がたち、水面に叩きつけられた腕や胸に痛みが走る。
 酷い飛び込みだ。
 颯馬は内心顔をしかめた。
 初心者のように無様な飛び込みをさらしてしまったことに、頭に血がのぼる。
 なんのために、自分が残ったのか。
 なんのために、受験を免除されているのか。
 なんのために、泳いでいるのか。 
 どんどん、頭が熱くなっていく。
 いつまでも、こんな状態が許されてたまるものか。
 クイックターンで壁を蹴り、颯馬は頭を深く下げて水中ドルフィンを試みた。
 水中ドルフィンは抵抗が少ない分、速度が上がる。だが、規定を超えてやりすぎれば酸欠を起こす危険な技だ。
 まだできる。まだできる。
 とっくに既定の十五メートルを超えていたが、颯馬は浮上しようとしなかった。
〝なに、そんな張り切ってんの?〟
 どこかから、聞き慣れた声が響く。
 その瞬間、頭の中に、真っ赤な彼岸花に囲まれたサイクリングロードが広がった。
 だって、俺は――。
 重たい水の中を進みながら、颯馬はあえぐ。
 俺の記録を取り戻さなきゃいけないんだもの……!
〝つきあってらんねえ〟
 突き放すような声が耳朶を打ち、ふっと眼の前が暗くなった。
 タンデム自転車が大きくバウンドし、身体が宙に浮く。
 落ちる――!
 地面に投げ出されると思ったのに、颯馬はそのままずぶずぶと深紅の彼岸花の群生の中に沈んでいった。

 意識が戻ると、パーティションに仕切られた天井が見えた。狭いベッドの上で、颯馬は身じろぎする。つるつるとした掛け布団が、胸までずれ落ちた。
 颯馬は、自分が水着の上にジャージを羽織ったままの姿で保健室のベッドに寝かされていることに気づいた。
「高森、気がついたか」
 パーティションのカーテンがひらき、ジャージ姿の堀川が顔を覗かせる。
 その瞬間、颯馬はようやく直前の記憶を取り戻した。
 自分は水中ドルフィンの途中で、酸欠を起こして意識を失ったのだ。気づいた堀川がプールに飛び込み、引き上げてくれたらしい。
 情けない……。
 薄い掛け布団の上で、颯馬はきつく拳を握る。
「高森」
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」
 呼びかけてきた堀川を遮るように、颯馬は硬い声を出した。
「もう、大丈夫ですから」
 ベッドから降りようとした瞬間、上半身がぐらりと揺れる。
「おい、無理するな」
「本当に、大丈夫です」
「お前、大概にしろよ」
 差し出された手を頑なに払おうとすると、堀川が大声を出した。
「いい加減、兄の記録にこだわるな!」
 颯馬はハッと眼を見張る。
 眼の前に、無くしたと思っていた帳面を突き出された。

 颯馬になる。颯馬になる。颯馬になる――。

 開かれたページに何度も書きつけられた文字に、喉の奥からかすれた声が漏れた。
「お前が一体なにを思い込んでいるのかは知らないけれどな、お前は高森兄のコピーではないだろう」
 堀川が諭すような眼差しでこちらを見る。
 高森兄――。それが水泳部での颯馬の呼び名だった。
「高森、お前は兄じゃない。お前はお前だ。高森翔馬」
 本当の名を呼ばれ、翔馬は思わず堀川の手から帳面を叩き落した。
 自分は颯馬ではない。
 そんなこと、当の翔馬が一番よく分かっている。
 同じ顔。同じ姿。同じ声。
まったく同じゲノムを携えて生まれてきた天然自然のクローンのはずなのに、どうしてそこに差異が生まれるのだろうか。
 子供の頃から同じように泳いできた。
 僕らは無敵。僕らには、僕ら以外に敵がいない。
 けれど僕らの片割れのほうが、いつも少しだけ速かった――。
 弟の翔馬が兄の颯馬に勝ったことは、これまでにただの一度もない。
 決してそのことが嫌だったわけじゃない。颯馬は翔馬の誇りでもあった。
 大会の出場種目も、水泳留学も、兄の颯馬が決めたことに付き添うことが、弟の翔馬にとってはごくごく自然のことだった。
 なのに、どうしてあのとき、あんなにむきになってペダルを漕いだりしたのだろう。
 心のどこかでは、自分もいつかは主導権を執ってみたいと考えていたのだろうか。だから、いつも兄の背中を見てきた自分が、たまたま先頭のハンドルを握ったことに、妙な高揚を覚えたのだろうか。
 サイクリングロードでタンデム自転車の前列に乗っていたのは、弟の翔馬だった。
「僕が、あんなにスピードを出したから……」
 翔馬は声を震わせる。
 悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれない。
 だから、取り返すしかなかった。
「残るのは、颯馬じゃなきゃ駄目なんだ」
 だって、本当は、心の底では誰もがそう思っている。
〝言わずもがな〟な現実。
 自分たちのかなえられなかった夢を息子に託している両親も、海外留学に二人を推薦した顧問の堀川も、本当は颯馬が無事だったらよかったと思っているに違いない。
 なによりも、誰よりも、翔馬自身が。
 それ故に、颯馬になりきろうとした。
 翔馬なんていらない。颯馬の複製(クローン)で充分だ。
「それで、〝俺〟か……」
 床に落ちた帳面を拾い、堀川があきれたような声を出す。
〝せっかく俺が残ったのに、当てが外れましたか〟
 以前、腹立ちまぎれに堀川に叩きつけた言葉を、翔馬はぼんやりと思い返した。
 ときとして、両親ですら間違えることのあった兄弟の一番簡単な判別方法。それは、人称を聞くことだった。
 別に意識してのことではない。だが物心ついた頃からずっと、兄の颯馬は「俺」、弟の翔馬は「僕」と自称していたのだ。
 僕は、〝俺〟にならなきゃいけない――。
 思い詰める翔馬の前に、ふっと誰かが立った気がした。
〝なに、そんな張り切ってんの?〟
 子供の頃からずっと一緒にいた、聞き慣れた声が脳裏に響く。
〝つきあってらんねえって〟
 あきれたような、からかうような声音が翔馬の中に満ちた。
「あのな、高森」
 帳面を差し出され、翔馬はハッと我に返る。
 堀川が眉を寄せて自分を見ていた。
「お前は自分たち兄弟がクローンだって自己暗示をかけてるみたいだけどな、傍から見てると、お前ら二人は随分違うぞ」
「そんなこと、分かってます」
 翔馬は声を荒らげる。
 だからこそ、翔馬は颯馬の記録を取り戻すことができなかった。どんなに自己暗示をかけたって、颯馬の泳ぎを再現することはできなかった。
 どれだけ頑張ろうと、翔馬は颯馬になれない。あの内面から滲み出る強さや輝きが、翔馬にはない。
 願わくは、彼岸花が点々と咲く、あのサイクリングロードに戻りたい。もしあの場所に還れるなら、自分はもう二度と進路を決めるハンドルを握るような真似はしないだろう。
 いつものように、ただ兄に付き従っていればよかったのだ。
 彼岸花(リコリス)の花言葉は、「悲しい思い出」。
 二人で築き上げてきた数々の記録も、先導の颯馬を失った今は、文字通り「悲しい思い出」だ。
「あのなぁ……」
 黙り込んだ翔馬を前に、堀川がゆっくりと口を開く。
「俺が言ってるのは、そういうことじゃないんだよ」
 帳面をサイドテーブルの上に置き、堀川は翔馬の肩に手をかけた。
「お前は以前から、高森兄のペースメーカーみたいに泳ぐところがあったけどな。でも、一人でのびのびと練習しているときは、ストロークの伸びが全然違う。確かにお前は100メートルのタイムでは兄に敵わないけれど、お前の泳ぎには粘り強さがある。実は俺は前から思ってたんだが、お前はそろそろ兄から離れて、長距離に転向したほうがいいんじゃないだろうか」
 堀川の手に力がこもる。
「どうだ、高森。今後、フリーの1500を泳いでみるつもりはないか」
 思いがけない言葉に、翔馬の肩から力が抜けた。
 400までなら兄と一緒に泳いだことがあったけれど、1500を泳ごうと思ったことは一度もない。100メートルのタイムに絶対の自信を持つ兄の颯馬が、長距離を面倒がっていたからだ。
 フリーの1500――。
 そう考えた瞬間、タンデム自転車の前列でハンドルを握ったときのように、ぱあっと視界が開けた気がした。
「無理です」
 だが、翔馬は反射的に首を横に振っていた。
「どうして無理なんだ」
「だって……」
 堀川の問いかけに、言いよどむ。
 一人になるのは怖い。
 今までずっと、二人でいるのが当たり前だったのだ。ふいに、図書館で感じたのと同じ心許なさに襲われる。
 クローンは離れたら生きていけない。
 環境の変化に弱い彼岸花が、群生してその身を守ろうとするように。
 切り離されたら、滅びてしまう。
「だからさ」
 堀川がテーブルの上の帳面を手に取った。
「また、クローンにこだわってるのかもしれないけど、彼岸花にしろシャガにしろ、植物のクローンてのは、お前がここに書いてるほど軟弱なもんじゃないぞ。彼岸花ってのはな、元々、救荒植物として中国から日本にもたらされたと考えられているんだ」
 突如堀川が、理科教師の顔になる。
「救荒植物ってのが、どんなものか分かるか、高森」
「……分かりません」
 渋々答えた翔馬の前で、堀川は滔々と語り始めた。
「救荒植物ってのはな、田畑の作物が凶作のときに、代用として食料にできる植物のことだ。彼岸花の球根には毒があるけれど、貴重なでんぷん質も多い。水にさらして毒を抜けば、飢えをしのぐ代用食になる。問題は、どうして自生に近い彼岸花が、飢餓を救うほどの救世主になりえたのかって話だ」
 翔馬の反応を窺うように、堀川が片眉を上げる。
「お前、クローンの彼岸花はある年を境に一斉に全滅してしまうとか書いてるけどな、その消えた彼岸花の地下が一体どうなってるか、想像したことがあるか」
 地上に見えている部分だけが彼岸花のすべてではないのだと、堀川は腕を組んだ。一本の彼岸花の下に、二十個の球根が埋まっていることもざらだという。
「五十本の彼岸花が咲いていれば、その地下には、千個の球根が埋まっている可能性だってあるんだよ。だから、稲の代用が務まるんだ。つまりな……」
 堀川がにやりと笑う。
「たとえ、彼岸花が環境の変化にやられて一斉に姿を消したように見えても、それは滅びたわけじゃない。球根になって、休んでいるんだ」
「休んでいる……?」
 思わず繰り返した翔馬に、堀川は深く頷いた。
「そうだ。地上に姿を見せなくなっただけで、地下で休んで力を溜めてるんだ」
 それが証拠に、ある年一斉に姿を見せなくなった彼岸花は、数年後、その周辺に突然ごっそりと現れたりする。
 地下で休んでいた球根が数年かけて数を増やし、再び地上に芽を出したのだ。
「植物のクローンてのはな、本来、強(したた)かなもんなんだよ。種子を結ぶことこそないが、地下で虎視眈々と養分を溜めて、何度でもしぶとく甦る」
 その力の溜め方もまた、見事なものだと堀川は続けた。
「ハミズハナミズ」の彼岸花は、ほとんどの草が枯れ果てた冬に葉を茂らせる。春や夏に葉を茂らせる他の植物たちと競い合うことも無く、冬の太陽の日差しを存分に浴びて地下の球根を太らせる。
「寒さの中で元気に光合成を行い、自分たちだけの独自の立ち位置を確保するんだ」
 その言葉に、翔馬の眼からぱらりと鱗が落ちた。
 颯馬が隣にいなくても、皆とは違う水泳留学を選んだ自分に、妙な後ろ暗さを感じる必要はないのだと感じた。
 他の人たちとは、少しやり方が違うだけ。疎外感に怯えることなどなにもない。
「なあ、高森、分かったか。クローンの彼岸花が一網打尽に滅びることなんて、実際にはないんだよ。そうでなければ、毎年毎年、あんなにたくさんの彼岸花が日本中で咲くものか」
 堀川が鼻から深い息を吐く。
「クローンついでにもう一つ言うが、遺伝子がなにもかもを決定するわけじゃない。たとえ遺伝子の配列が一緒でも、兄には兄の、お前にはお前の個性がちゃんとあるじゃないか。考えても見ろ。兄はこんなふうに、なにかを書くようなタイプじゃない」
 帳面を指さされ、翔馬の頬に血がのぼった。
 確かに、本を読んだり、日記を書いたりするのは、翔馬だけの習慣だ。颯馬は本よりも、ゲームやプラモデルやアイドルのほうが好きだった。
 綺麗に整頓された自分の机と、雑多なものに溢れた颯馬の机が脳裏をよぎる。
「それにな」
 堀川が諭すように翔馬を見た。
「高森兄は、まだなんにも諦めちゃいないぞ。お前が代役を務めるまでもない。今だって、懸命にリハビリに励んでいる」
 深く項垂れた颯馬の肩に、再び堀川の手がかけられる。
「高森、病院に見舞いにいけ。兄が、お前の顔を見られなくて寂しがっているぞ」
 リハビリに励む颯馬の様子が浮かび、視界がぼやけた。
「颯馬……」
 久しぶりに兄の名を呼ぶと、こらえきれずに涙が溢れる。シーツを握りしめ、翔馬は声を殺して嗚咽した。

 たくさんのライトがさがったアーチ型天井の下に、満々と水を湛えた巨大なプールが広がる。
 長水路、50メートル。
 今年最後の大会、公認記録会の日がやってきた。
 全国から優秀な水泳選手が招待される公認記録会は、国際競泳場規格を備えた都内有数の設備を誇る競泳場で行われる。
 正面には電光掲示板と大型ビジョンが備え付けられ、プールの両側には階段状の観客席がそびえるように並んでいた。
 電光掲示板に、種目が点灯する。
 1500M、フリー。
 ベンチに座っていた翔馬は、バスタオルを肩から外して立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
 声をかけた先には、片手用の杖をついた颯馬がいた。
「おう」
 ジャージ姿の颯馬が突き出した拳に、翔馬は自分の拳を合わせる。その曇りのない笑みに、翔馬は近い将来の颯馬の復帰を感じ取る。
 子供の頃からずっと誇りに思ってきた兄の滲み出るような輝きは、少しも失われていない。
「しかし、1500なんてよくやるよ。俺はかったるくって、とてもやってらんねえ」
 颯馬がからかうように肩を竦めた。
「颯馬、僕、張り切ってるんだよ」
 翔馬も負けずに肩を竦める。
「とっとと行けよ、つきあってらんねえ」
 颯馬の拳が、翔馬の肩を押した。
 二人のやりとりに、顧問の堀川が「やれやれ」と首を振っている。その堀川に会釈し、翔馬はゴーグルを装着した。
 きっと。
 来年の春、自分たちは一緒にオーストラリアへいける。必ず。
〝万一本調子に戻れなくたって、メルボルンの学校には水泳トレーナーの養成コースだってあるんだ。どの道、俺は絶対、諦めない〟
 昨夜、颯馬はそう言って笑った。
 兄は強い。
 だから、その片割れである自分だって、強くならなければいけない。
 あれから色々と調べた。
 天然自然のクローンである双子がまったく同一でないように、彼岸花の花言葉も一つではない。
 真っ赤な彼岸花の花言葉は「情熱」。それから――。
 生まれて初めて、翔馬は一人きりで試合に臨む。
 颯馬になりきろうとしていたのは、贖罪だけではなく、実は兄への依存でもあったのだ。
 その己の弱さを認めた上で、先に進む。
 彼岸花のもう一つの花言葉。
それは、「独立」。
 全国から集まった強豪選手が待つ巨大プールに向かい、翔馬は真っ直ぐに足を進めた。

                第四話「リコリスの兄弟」完

                第五話「ツリフネソウの姉弟」へ続く
             

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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