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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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マツムシソウの兄妹 後編

2018.10.26 更新

 うっすらと眼をあけると、白い天井が見えた。蛍光灯の青白い明りを、春奈はぼんやりと眺める。
 私、どうしたんだっけ……。
 上半身を起こそうとしたが、酷く身体が重い。ふと左腕に眼をやると、点滴の針が刺さっていた。
 病院?
 そこでようやく、春奈は記憶の一部が戻ってくるのを感じた。
 そうだ、私――。
 恋人の卓也の妹、美佳からストーカーじみた行為を受けて、恐ろしさの余り、待ち合わせの店から飛び出したのだった。折悪しく大雨が降ってきて、全身から水が滴るほどびしょ濡れになってしまった。
 それから先のことは、あまりよく覚えていない。
 誰かが着替えさせてくれたらしく、人気(ひとけ)のない病室で硬いベッドに横たわっている春奈は、糊のきいた薄い検査服のようなものを着ていた。
 再び気だるい眠気が忍び寄ってくる。うとうとと眼を閉じかけていた春奈は、しかし、どこかから聞こえてくる男女の声に、意識を引き戻された。
 扉越しの向こうの部屋で、誰かが言い争っているようだ。会話の内容までは聞き取れないが、一方的に言い募っているのは女のほうで、男はただそれを受けとめているようだった。
「……だから、なんでお兄ちゃんが、そこまでするのよ!」
 一際高い声が響いたとき、春奈はびくりと身を竦ませた。
 美佳の声だ。
「いっつもあの人の言いなりになって。この間だって、なかなか会えない高校時代の友達がせっかく訪ねてきてくれたのに……」
 ヒステリックに怒鳴る美佳に応えている卓也の声は、ここまで届かない。春奈はなんとかして起きようとするが、点滴に入っている薬のせいなのか、頭の芯がぼんやりして身体が思うように動かなかった。
 卓也……。
 激しい雨の中、倒れた自分を抱き起こそうとする卓也の腕の感触が甦り、春奈は目蓋を閉じる。自分を抱きかかえる卓也の顔に、今は遠い海外にいる兄、慎吾の面影が重なった。
 お兄ちゃん……。
 兄は最大の理解者。一番近くにいる異性の親友。恋人よりも近しい存在――。
〝だから、勝手に割り込んでこないでよ!〟
 ふいに、耳元で美佳の怒声がした。
 卓也の部屋に転がり込んできた美佳が、そこに春奈の痕跡を見つけてヒステリーを起こしている。春奈が料理に使うキッチンナイフを捨て、二人でそろえたマグカップの片方を、思い切り壁に叩きつける。とめようとした卓也と争い、カーテンをつかんで引きちぎる。
 まるで見てきたかのように、美佳が暴れる光景が目蓋の裏をよぎった。
 だから、部屋があんなふうに荒れていたのだ。全部、美佳の嫉妬による行動だったに違いない。
 美佳は異常だ。
 このまま放っておけば、今にきっと、大変なことになる。
 卓也を助けなければ――。
 頭ではそう思うのだが、身体が言うことを聞かない。朦朧とした意識の中で、暗い眼をした美佳が糸電話を手に嗤う。
〝私たちの間には、誰も割り込めないんだから〟
 
 味気ない朝食を食べ終え、春奈は窓の外を眺めた。中層のビルが連なる雑然とした町並みの上に、重苦しい曇天が垂れ込めている。あれだけ厳しかった残暑がすっかり影を潜め、ひっきりなしに車が行き交う幹線道路も、閑散とした歩道も、どこか寒々しい気配を漂わせている。
 三人部屋の病室に、春奈はたった一人で寝泊まりしていた。
 初めての入院のはずなのに、窓からの景色に見覚えがあるような気がするのが不思議だった。もっとも、東京の町はどこも同じような外観をしている。お洒落だったり、風情があったりするのは、ごく一部の限られた地域だけで、残りの大多数は、灰色のブロックのようなビルが無造作に立ち並ぶ、ただの〝人の巣〟だ。
 春奈は視線を手元に移し、小さく息を吐いた。朝食の皿の上に、食後の薬が添えられている。三粒の小さな白い錠剤だ。
 もう、風邪はすっかり治ったのだから、すぐにでも退院手続きを始めなければいけない。だが、会社に通うことを考えると、春奈の気持ちは重く沈んだ。
 昨夜もあの夢を見た。二段ベッドの上と下に寝た幼い兄妹が、糸電話を手に一晩中なにかを囁き合い、くすくすと笑い合っている。
 妹がこちらを振り返る瞬間、恐ろしくなって眼が覚めた。
 きっと、病院のベッドが硬すぎて、身体に合わないから嫌な夢を見るのだろう。
 やはり一刻も早く、ここを出たほうがいい。
 卓也のことも気になるし、なにより、兄の慎吾に心配をかけたくない。兄はそろそろ、撮影を終えて日本に帰ってくるはずだ。ベージュのマニキュアがはげかけた爪の先を見つめ、春奈は思いを巡らせる。
 そのとき、ふいに部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
 声をかけると、卓也が部屋に入ってきた。ジーパン姿の卓也に、春奈は眼を丸くする。
「卓也、どうしたの」
「どうって?」
 見舞いのケーキの箱を差し出そうとしていた卓也が、怪訝そうに眉を寄せた。
「だって、その格好。会社、休んだの?」
 春奈の言葉に、卓也はほんの一瞬表情を引き締めたように見えた。丸椅子を引き寄せて春奈のベッドの傍に腰を下ろしながら、卓也がゆっくりと告げる。
「春奈、今日は土曜日だよ」
「え……」
 春奈はすっと血の気が引くのを感じた。
 そんなはずはない。卓也と目黒川沿いのカフェでデートの約束をしたのは、週明けのはずだった。雨の中で倒れたのは、昨夜の出来事ではなかったのか。
 だが、ふとベッドの周辺を見ると、いつの間にか春奈の日用品がたくさん持ち込まれている。今も検査服ではなく、愛用の桜色のコットンパジャマを着ていた。
「きっと、検査が多かったんで、混乱したんだね」
 なにかを誤魔化すように笑う卓也を、春奈は茫然と見返す。でも、それだけ日数が経っているなら、既に慎吾が帰国しているかもしれない。
〝そうだよ、春奈。なにも心配することなんてないからね〟
 兄の声が耳元で響き、ハッとする。
「春奈、それよりまだ薬を飲んでなかったんだね。食後すぐに飲んだほうがいいんだろうから……」
「ねえ、私のスマホは?」
 皿の上の錠剤を指さす卓也を遮り、春奈は声をあげた。日用品の置かれた棚の上を探したが、どこにもスマートフォンが見当たらない。
「ここは病室だから、スマホは使えないよ」
 卓也が言い訳めいた返事をする。
「だったら、使えるところに連れていって。病院でも、スマホを使える場所くらいあるでしょう? 風邪ならもう、大丈夫だから」
 起き上がろうとする春奈を、卓也は優しく押しとどめた。
「うん、そうだね。でも、食後の薬を飲んでからにしたほうがいいよ。スマホは先生に預けてあるから、午後の検査のときにでも返してもらえばいい。せっかくケーキも買ってきたんだしさ。春奈の好きなモンブランだよ。丁度、新栗のが売ってたんだ」
「本当に、スマホを返してもらえる?」
「当たり前だよ」
 卓也の穏やかな口調に、春奈はようやく落ち着きを取り戻した。
「だから、早く薬を飲んじゃいなよ」
 促されるままに、三粒の錠剤を口に含んで飲み下す。それを見守っていた卓也が、ケーキの箱をあけた。備えつけの戸棚を開き、皿を取り出してケーキを載せる。
「どうぞ召し上がれ、お嬢様」
 執事のように恭しく皿を差し出され、春奈は思わず微笑んだ。美佳のせいで忘れかけていた恋人らしい時間が、ようやく帰ってきた気がする。
 だが皿に描かれている動物キャラクターに、春奈の心臓がどきりと音をたてた。
 このキャラクター、どこかで見た覚えがある。
 しかし、その先を考えようとすると、途端に頭の中に霞がかかったようになった。
「ねえ、卓也」
 ただ甘いだけのモンブランを咀嚼しながら、春奈は呟くように告げる。
「私、もうどこも悪くないから、早く退院しないと」
「会社なら、大丈夫だよ」
 そうじゃなくて……。
「そろそろ、兄も帰ってくるし」
 そのとき、卓也の頬がぴくりと動いたように見えた。
「入院なんてしてたら、心配させちゃう」
 なぜだろう。起きたばかりなのに、猛烈な眠気が襲ってくる。
「そうだね。でも、もう少しだけ、ここにいたほうがいいかもしれない」
 自分を見返してくる卓也の冷静な表情が、滲むようにぼやけていく。とうとう耐え切れず、春奈はモンブランを食べていたフォークを取り落として目蓋を閉じた。

 眼が覚めたとき、卓也の姿はなく、部屋の中はしんとしていた。
 厚手のカーテンが引かれているため、今が何時なのかは分からない。春奈は食べかけのモンブランが載った皿を見つめた。縁に描かれている動物のキャラクター。
 これ、一体、なんていうキャラクターだっけ……。
 春奈は小さく眉を寄せる。
 どこかで見た覚えはあるけれど、ちっとも可愛くないキャラクター。大体、こんなお皿、誰が買ってきたのだろう。
 頭が酷くぼんやりし、感覚が麻痺している。なにもかもが面倒になり、春奈は硬いベッドの上で寝返りを打った。どれだけ眠っても、疲れが取れない。まるで頭や身体の中に、重い石が詰まっているようだ。
 ノックの音が響いたが、春奈は返事をする気にもなれず、だらしなくベッドに横たわっていた。再び扉がもう少し強くノックされる。
 それでも返事をしないでいると、扉がガチャリとあいた。恐らく卓也が戻ってきたのだろう。渋々振り返り、春奈は微かに息を呑んだ。
 蒼褪めた表情の美佳が、自分を見下ろしている。もっと頭がはっきりしていたら、春奈は悲鳴をあげていただろう。だが、今は体調の悪さのせいで、恐怖心が半ば麻痺している。春奈は無言で、暗い表情の美佳を眺めた。
 それでも美佳が一歩近づいてきたときは、さすがに緊張を覚えた。掛け布団を握りしめ、ベッドの上で身構える。
「春奈さん、お願いします」
 だが、眼の前に立った美佳は、手にしていたトートバッグを棚の上に置いて深々と頭を下げた。
「どうか、兄と別れてください」
 春奈は一瞬茫然として、自分に向かって下げられた美佳の頭頂部を見つめる。
「……なんで……」
 やがて春奈の唇から、震える声が漏れた。
「どうして、そこまで……」
 自分にだって大好きな兄がいる。けれど、美佳のような真似はしたことがない。慎吾に恋人ができたときは、笑顔で祝福した。本当はその恋人のことが死ぬほど憎かったけれど、美佳のように妨害することはできなかった。
 本当は、自分だって、そうしてやりたかった。
 だって、紹介された恋人は、才能溢れる兄とは不釣り合いの、酷く凡庸な女だったから。
 でも、慎吾の前では不快感をあらわにすることはできなかった。だから――。
「私、もう、これ以上見ていられないんです」
 自分の思いに取り込まれそうになっていた春奈は、美佳の言葉に我に返る。
「これ以上、あなたに振り回される兄を見ていられない」
 どういうこと?
 春奈は思わず唇を噛む。一体いつ、自分が卓也を振り回したというのだろう。
 自分は恋人として、ちゃんと卓也に尽くしてきた。毎日弁当だって用意したし、週末に栄養バランスのよい鍋料理だって作ってきた。
 そう。あの女が、兄にしていたように――。
「……私たちを振り回しているのは、美佳さん、あなたのほうじゃないの」
 ベッドの上で身を起こしながら、春奈は懸命に言葉を返す。
「いっつも私たちを監視して、いっつも私たちの邪魔をして」
 本当なら、自分だってそうしてやりたかった。
「私は我慢していたのに、あなたときたら……!」
 これまで美佳にされてきた様々な仕打ちが甦り、春奈は段々興奮してきた。おかげで血の気が巡り、ようやく頭がはっきりとしてくる。
「美佳さん、あなた、私のキッチンナイフをどこかに隠したでしょう?」
 春奈が身を乗り出すと、ばつが悪そうに美佳の眼差しが揺れた。
「だって、あれは……」
 やっぱり美佳の仕業だったのだ。
 ふと、美佳が陣取っている奥の部屋のデスクの上に、作業途中の画像データが表示されたマッキントッシュが載っていたことを思い出す。
「ねえ、美佳さん。あなた、本当に仕事を辞めたの? この間、私が部屋にいったとき、作業中のパソコンがあったよね」
 まさかと思って聞いてみたのに、美佳の顔が引きつった。その表情が、なによりも雄弁に春奈の推測が正しいことを語っていた。
「信じられない……」
 つまり美佳は、兄と恋人の仲を引き裂くためだけに、卓也の部屋に乗り込んできたということか。春奈のマグカップを壁に投げつけ、カーテンを引きちぎって暴れる美佳の様子が脳裏をかすめる。
 やっぱりこの人は、異常だ。
「卓也を振り回してるのは、私じゃなくて、あなたのほうじゃない。あんなふうに部屋が荒れるまで暴れるなんて、どうかしてる!」
「え……」
 美佳の眼が大きく見開いた。
「春奈さん、それ、本気で言ってるの」
「当たり前じゃない。毎週卓也の部屋に泊まってる私が、気づかないとでも思っていたの? あなた、あの部屋で暴れたでしょう」
 ベッドから脚を下ろし、春奈は美佳に指を突きつける。
「おまけに、私を尾行までして」
「そ、そんなことしてない」
「嘘つき!」
 急に怖気づいたように口ごもる美佳を、春奈は一喝した。
「だったら、スマホを見せなさいよ。散々、私への当てこすりを書いていたくせに」
 棚の上の美佳のトートバッグを、ひったくる。
「やめて!」
 慌てる美佳に背を向け、春奈はバッグの中を探った。そこに、自分のスマートフォンが入っていることに気づき、一気に頭に血が上る。
「なんで、あなたが私のスマホを持ってるの?」
「それは、ただ、兄から頼まれて、預かっていただけ……」
「嘘ばっかり! あなたが隠してたのね」
 近づこうとする美佳を突き飛ばし、春奈はツイッターを開いた。指が自然と動き、検索をする。そうだ。あの動物のキャラクターのアカウント――。
「ほら、これ、あなたのアカウントでしょう」
 春奈は勝ち誇ったように、ツイッターの画面を美佳に向けた。
 嫉妬心むき出しの兄の恋人への当てこすり。幼稚極まりない兄自慢。
 そして、春奈が卓也との待ち合わせをしていたカフェの写真。
「やっぱり、私の後をつけてたんじゃない」
 送ってよこしたリプライは小賢しく削除してあったが、春奈のお気に入りのカフェの写真だけはそこに残っていた。尻尾をつかんでやったと春奈は勢いづく。
 これでもう、さすがの美佳も、なんの言い訳もできないに違いない。
 美佳はしばらく驚いたようにツイッターの画面を見ていたが、やがて大きく息を吐いた。予想に反し、その表情は酷く醒めている。
「そのツイートの日づけ、ちゃんと見ましたか」
 日づけ?
 淡々とした口調で諭すように告げられ、春奈は一瞬虚を衝かれた。手元のスマートフォンに眼をやり、言葉を失う。
 ツイートの日づけは、すべて二年前のものだった。
 これって、一体、どういうこと――?
 スマートフォンを握る手が微かに震え出す。ツイッターの画面越しに、棚の上の皿が眼に入った。同じ動物のキャラクター。
 この皿は、このアカウントは……。
 再びぼんやりしてきた春奈の耳に、美佳の溜め息が響いた。
「お兄ちゃんは同情してるけど、私はもうこれ以上、つき合いきれない」
 冷たい眼差しを向けながら、美佳が畳みかけてくる。
「春奈さん、いい加減にしてくださいよ」
「……なんのこと」
「まだそんなことを言うんですか」
 美佳が眉を顰めた。
「春奈さん、会社ではちゃんと仕事してるんですよね。なのに、兄の前でだけこんなことばかり。結局、私の兄の気を引きたいだけですよね」
 答えられない春奈に、今度は美佳が詰め寄ってくる。
「第一、悲しいのは春奈さんだけじゃないんですよ。香名子(かなこ)さんの気持ちとか、ちゃんと考えたことあるんですか」
 香名子さん――?
 そんな女は知らない。知りたくもない。
「いい加減、ちゃんと現実と向き合ってください」
 美佳の声が懇願の色を帯びた。
「だって、あれから、もう一年以上も経つんですよ」
 春奈の眼を見つめ、美佳が真剣に告げる。
「あなたのお兄さんは……、慎吾さんは、もう帰ってきません」
 その瞬間、春奈の中で、なにかがぷつりと音をたてた。
 気がつくと、手にしたスマートフォンを思い切り美佳に叩きつけていた。呆気にとられる美佳を押さえつけ、食べかけのモンブランに刺さっていたフォークを手に取る。
 フォークの柄を握りしめ、思い切り振り下ろす。
 二の腕にフォークを突き立てられ、美佳が悲鳴をあげた。春奈は無言でフォークを引き抜き、今度は顔を狙う。
「やめてぇっ!」
 絶叫して逃げ惑う美佳の腕から、真っ赤な血が滴った。
 そのとき、いきなり扉が開いた。
「春奈っ、なにしてるんだ!」
 血相を変えて飛び込んできた卓也に、美佳が縋りつく。
「お兄ちゃん、助けてぇっ!」
 卓也と一緒にやってきた白衣の人たちが、フォークを振り回す春奈を羽交い絞めにした。身動きが取れず、苦しい。卓也も白衣の人たちも盛んになにかを叫んでいるが、言葉がまったく頭に入ってこない。
 暴れる春奈の腕に、誰かが注射の針を立てた。
「お兄ちゃん、助けて……」
 遠のいていく意識の中で、春奈は我知らず美佳の言葉を繰り返していた。

 暗い野原で、一輪のマツムシソウが、激しい雨に打たれている。
 寂し気な青紫色の花弁が濡れそぼち、今にも折れてしまいそうだ。
 マツムシソウの花言葉は、「嘆きの花嫁」「不幸な愛」。それから――。
 春奈がマツムシソウに手を差し伸べかけると、どこかから、誰かの声が響いた。
〝だから、それは逆効果なんですよ……〟
 諭すような低い話し方。何度も聞いたことがあるような気もするし、初めて聞くような気もする。
〝真実を話しても、患者は受け入れることができないんです〟
 患者?
 それって、一体誰のことだろう。雨の野原に跪き、春奈は耳を澄ませる。
〝でも、先生。今のままじゃ兄が心配です。兄は、キッチンナイフを突きつけられたことだってあるんですよ〟
 金切り声で叫んでいるのは美佳だ。
〝だから、治療が必要なんです……〟
 会話がくぐもり聞こえなくなる。なにを話しているのかはよく分からないが、美佳が怒られているのはいい気味だ。
 あの人、自分のことを棚に上げて、私に説教なんかして。
 香名子さんの気持ちとか、ちゃんと考えたことあるんですか――。
 詰め寄ってきた美佳の声が甦り、春奈は眉間に皺を寄せる。
 香名子――。そんな名前は、思い出したくもない。
 初めて紹介されたときから、ずっと気に入らなかった。
 美人でもないし、聡明でもない。あんな女、ちっとも兄にふさわしくない。
 毎週末家へやってきて、春奈の分まで料理を作っていく〝押しかけ〟ぶり。なにかと、私たちに両親がいないことを気にかけるようなそぶりを見せていたけれど、あんなの結婚狙いなのは明らかだ。
 第一、私はお兄ちゃんさえいてくれればそれでいいのだ。
 でも慎吾の前で、それをあらわにすることはできなかった。
 だって、私はお兄ちゃんの自慢の妹だもの。思いやりがあって、優しくて、大人でなければいけないんだもの。
 だから、ツイッターの別アカウントで、思う存分、当てこすり(エアリプ)してやった。
〝料理っていっても、大抵鍋って、超ダサい。そんなの誰にだって作れるじゃん〟
〝あんな彼女の言いなりになってるお兄ちゃんを見てると、本当に頭がおかしくなりそう〟
 アカウントのアイコンは、あの女が私の誕生日に買ってきた皿についていた変な動物のキャラクターにした。
 趣味の悪いキャラクター。
 あんな皿、その場で割ったってよかったのに、一応棚にしまったんだから、感謝してほしい。それを私のお気に入りだと勘違いしている卓也もどうかしている。
〝でも、俺が面倒見るしかないんだ。春奈にはもう、誰もいないんだぞ〟
 ふいに、卓也の声が聞こえた。
〝だから、お兄ちゃんがそこまで責任感じる必要ないんだってば〟
 またしても、卓也と美佳が言い争っている。本当におかしな兄妹だ。
 誰もいないはずがない。
 たとえ両親がいなくても、春奈には、卓也なんかよりずっと頼りになる兄の慎吾がいる。
〝そういう訳にはいかないよ。慎吾さんが航空事故に遭ったのは、うちの部署が発注したパンフレット用の写真を撮影に出かけていたときだったんだし……〟
〝そんなのお兄ちゃんのせいじゃないよ!〟
〝でも、カメラマンに慎吾さんを推薦したのは、俺なんだ〟
〝だから、それは……〟
 一体、なんの話をしているのだろう。
 春奈は風に髪をあおられながら、暗い野原で雨に打たれている青紫色の寂し気な花に眼をやった。
〝あれから、もう一年以上も経つんですよ〟
〝あなたのお兄さんは……、慎吾さんは、もう帰ってきません〟
〝慎吾さんが航空事故に遭ったのは――〟
 美佳の声が、卓也の声が、頭の中でぐるぐると回る。
 そんなはずない。あるわけがない。
 春奈は暗い野原に膝をついた。
 ふいに一人で遠い海外に旅立っていく、慎吾の後ろ姿が脳裏をかすめる。
 お兄ちゃんが、私を置いていくはずなんてない。
 だって私たちは、子供の頃からなにもかもを分かち合ってきた。隠し事なんて一つもない。
 二段ベッドの上と下。
〝もしもし、お兄ちゃん、起きてる?〟
 枕もとの糸電話で囁けば、筒を伝って必ず兄の優しい声が耳を擽(くすぐ)った。
〝もしもし春奈、起きてるよ〟
 糸電話に囁く幼い少女は、春奈だ。
 糸につながれた筒を耳に当てたまま、春奈は雨に濡れた花に手を伸ばす。
 青紫色の花は西洋では悲しみの象徴とされ、愛する人を失った人に贈られるという。
 マツムシソウの花言葉は、「嘆きの花嫁」「不幸な愛」。それから――。
「あなたは私を置き去りにする」
 お兄ちゃん……。
 雨に打たれる春奈の頬を、涙が幾筋も伝って流れ落ちていく。
 春奈の指がマツムシソウにかかり、細い茎がぽきりと折れた。
 お兄ちゃん、私を置いていかないで。

 眼が覚めると、病室は真っ暗だった。
 春奈は重い頭を右手で支え、ベッドの上に身を起こした。厚手のカーテンが引かれた窓の向こうから、救急車のサイレンの音が聞こえてくる。時計がないので、今が何時なのかはさっぱり分からない。
 なんだか、酷く疲れている。とても嫌な夢を見ていたせいだ。皆がそろって、ありもしない勝手なことばかり言っていた。
 もう風邪はすっかり良くなったのだから、早くこんなところ出ていかなければ。
 だって、もうすぐ兄の慎吾が、出張から帰ってくるもの。
 兄に連絡をしなければいけない。
 スマートフォンは取り上げられてしまったけれど、連絡手段ならちゃんとある。
 春奈はベッドの下に手を入れた。昼間に作っておいた紙の筒に、耳を押し当てる。
「もしもし、お兄ちゃん、起きてる?」
 糸電話を伝って響く声が、春奈の耳を優しく擽った。
〝もしもし春奈、起きてるよ――〟

                    第三話「マツムシソウの兄妹」完
                    第四話に続く

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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