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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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「マツムシソウの兄妹」前編

2018.09.28 更新

「もしもし、お兄ちゃん?」
 枕をクッション代わりに、冴島春奈(さえじまはるな)はベッドの上でスマートフォンに耳を当てた。
「今、話しても大丈夫?」
「大丈夫だよ」
 耳元に響く慎吾(しんご)の柔らかな声に、春奈は安堵する。海外出張の多い兄と電話連絡が取れるのは、久しぶりだ。
「お兄ちゃん、私、今日も残業だったんだよ。どうして私ばっかり、ワーママさんの穴埋めをしなくちゃいけないんだろう。私だって、頭痛持ちなのに……」
 遅い夕食の後に薬を飲んだせいか、今も頭が少しぼんやりしている。
 久々の兄との電話だと分かっていながら、春奈は愚痴を吐き出さずにはいられなかった。
 中堅専門商社の営業補助になってから、三年め。春奈はこの秋で二十六歳になる。伝票の打ち込みや、オジサン社員への愛想笑いは慣れてきたつもりだが、高齢出産を終えたばかりのワーキングマザーから、当たり前のように業務を押しつけられるのは未だに納得がいかない。
「なにかと、若いから大丈夫でしょ、とか言うの。今は子育ての制度が整っているけど、自分たちが二十代のときはそういうのがなかったから、出産が遅くなって大変なんだって。四十近くまで結婚できなかったのは、制度のせいだけじゃないと思うけど。そのくせ、陰では私のこと〝ゆとり〟って呼んでバカにしてるんだよ」
 春奈の嘆息に、慎吾がたしなめるように笑う。
「仕方がないよ。きっと、春奈に嫉妬してるだけだ。春奈は若くて可愛いから」
 慎吾が電話口で微笑んでいる様を思い、春奈は頬に血が上るのを感じた。
「お兄ちゃん……。私、本当に可愛い?」
「可愛いよ」
 慎吾の囁きが耳を擽る。
 高校時代に相次いで両親を病気で亡くしている春奈にとって、五歳年上の兄の慎吾は唯一の肉親であり、誰よりも頼れる存在だ。兄がいてくれなければ、父と母がそろって悪性の病気になった段階で、とっくに心が壊れてしまったと思う。
 兄が恋人ならよかったのに。
 そうすれば、互いに別の家族を持つことを考える必要もなく、ずっと一緒にいられるのに。
 詮無い妄想だと知りつつ、春奈は時折そう願わずにはいられなかった。 
 だって――。
「最近、卓也(たくや)も酷いの」 
 子供の頃からなんでも話してきた兄には、つい、自分の恋人のことまで打ち明けてしまう。
 森川卓也は、春奈が勤める専門商社の営業だ。同い年なこともあり、伝票の打ち込み等でやりとりをしているうちに、自然と互いに好意を持つようになった。
 卓也は、両親のいない春奈のことを慮ってくれる優しい恋人だった。いずれは自分たちで新しい家族を作ろうと、いつも言ってくれていた。
 そのはずなのに――。
 久々の電話で愚痴が過ぎるかと思い、春奈は一瞬言いよどむ。
「卓也君がどうかしたの?」
 だが兄に優しく促され、春奈はほっと胸を撫で下ろした。おかげで、一番聞いてもらいたかった話ができる。
「実は卓也本人って言うより、妹の美佳(みか)さんのことなんだけどね。先月、突然、卓也のマンションに引っ越してきたの」
「どうして」
「それがね……」
 春奈は溜め息交じりに説明を始めた。
 クリエイター志望の美佳は、専門学校を卒業後、都内のデザイン事務所に勤めていたが、そこが所謂〝ブラック企業〟だったのだという。連日続くサービス残業に疲れ果て、半年もたたずに身体を壊して退職したものの、入社三カ月間は研修期間だったとかで、結局、退職金も出なかった。それで家賃が払えなくなり、急遽兄の卓也の元に転がり込んできたのだ。
 卓也の郷里は山口なのだが、美佳は東京での仕事にこだわっていて、実家へ戻ることを断固拒否しているらしい。
 正直に言って、春奈はこの美佳のことが酷く苦手だった。 
 卓也の家に遊びにいっても、気をきかせて出かけるわけでもない。それどころか、兄の恋人である春奈のことを、なんとなく監視しているようなのだ。
 妹に新しい仕事が見つかるまでの辛抱だと卓也は言うが、春奈は美佳の仕事に対する態度にも不満があった。
 大体、才能もないくせに仕事に遣り甲斐なんかを求めているから、ブラック企業に引っかかるのだ。選り好みさえしなければ、人手不足の昨今、仕事なんていくらでも見つけられるのに。未だにデザイン関係の仕事にこだわっているらしい美佳に、春奈は嫌悪感を覚える。
 ああいう自意識過剰の女性は、なんだかんだと屁理屈をこねて、きっといつまでも仕事を見つけない。
 優柔不断な卓也につけ込んで、とことん居座るつもりだ。
「卓也に甘えてるだけなの」 
 春奈は吐き捨てる。
 これまでは、週末のたびに卓也のマンションに向かい、春奈が作った夕食を一緒に食べて朝まで過ごすのが習慣になっていた。このまま結婚することになれば、卓也のマンションで二人で暮らすのだと漠然と考えていた。そこへいきなり、あんな小姑が現れるとは。
 しかも――。
 探るようにこちらの様子を窺っている美佳の眼差しを思い返し、春奈はゾッとする。
 きっとあの子は、卓也を自分に取られまいとしているのだ。
「あの妹、少しおかしいのよ」
「考えすぎだよ」
「そんなことない」
 兄の穏やかな声に、春奈は首を強く横に振る。
「だって、ときどき変なことがあるの」
「変なこと?」
 春奈が持参したキッチンナイフが棚から消えてしまっていたり、二人でそろえたマグカップの片方が無くなっていたり――。
 全部、最近の出来事ばかりだ。
 恐らく、美佳が自分への嫌がらせでやっているに違いない。
「それはちょっと、心配だね」
 ようやく兄に認めてもらい、春奈は少しホッとする。
「でも、なにか誤解があるのかもしれないから、卓也君とよく話してみたらどうかな。一人で悩んでいるより、解決は早いはずだよ」
「うん、そうだよね」
 慎吾の優しい声を聴くうちに、春奈は心が落ち着いてくるのを感じた。
「卓也とちゃんと話してみる。それが一番だよね」
「そうだよ、春奈。なにも心配することなんてないからね」
「お兄ちゃん……」
 慎吾の声が遠のいていくようで、春奈はなんだか切なくなる。
「今度はいつ話せる?」
「そうだな。明後日からしばらくまた海外だから、戻ってきたら連絡するよ」
「長くなるの?」
「撮影次第だよ」
 春奈の兄、慎吾はカメラマンだ。秘境に暮らす子供たちの写真を撮り続け、今までに写真集を何冊も出版している。
才能あふれる慎吾こそが本当のクリエイターだと、春奈は誇らしく思う。
 美佳なんて、ただの偽物だ。甘えとこだわりをすり替えて、実兄の脛をかじっているだけだ。
 私ですら、大好きな兄のためを思って、一人暮らしに耐えているのに。
 ふと春奈は、卓也との結婚を考えるのは、慎吾を自由にするためなのではないかと思い当る。
 私、本当は……。
「じゃあね。お兄ちゃん、元気でね」 
 その先を考えるのが怖くなり、春奈は自分から通話を終わらせた。
 スマートフォンを耳から離すと、窓の外から虫の声が聞こえる。残暑が長引いているが、最近夜はようやく少し涼しくなってきた。それでも、このところ夕立が多い。
 クッション代わりにしていた枕を肘の下から外し、春奈は長い息を吐いた。兄に話を聞いてもらったおかげで、今夜は薬を飲まずに眠れそうだ。
 ナイトテーブルの上の目覚まし時計を見れば、深夜一時になるところだった。
 リモコンで部屋の照明を消すと、春奈は掛け布団の中に潜り込んで眼を閉じた。

 胸の上が重い。
やっと眠れたと思ったのに、あまりの息苦しさに春奈は眼を覚ました。まだ部屋の中は暗い。一体、何時なのだろうと傍らのナイトテーブルに腕を伸ばそうとしたが、身体が少しも動かない。
なにか重たいものが、掛け布団の上から自分を押さえつけている。
誰?
必死に顔を上げようとして、春奈は凍りついた。
自分を窺うあの眼差し。
まさか――。
「み……か……さん……」
 微かに呟いた瞬間、いきなり重力が解けた。春奈はベッドの上で飛び起きる。シーツに滴るほど、全身汗だくになっていた。
 荒い息を吐きながら、春奈は暗い部屋の中を見回す。まさか、美佳の生霊がやってきたのだろうか。恐ろしさの余り、ナイトテーブルのスタンドをつけると、まだ深夜二時を少しすぎたところだった。兄との電話から、一時間も眠れていない。
 明日も仕事なのに……。
 春奈の心を焦りが襲う。テーブルの上の頭痛薬を手に取り、水も使わずにそれを乱暴に口に含むと、春奈はスタンドの明りをつけたままでベッドの上に倒れ込んだ。

 翌朝は酷い頭痛だった。それでも春奈は、重たい身体を引きずってキッチンに立った。
 フライパンを熱してゴマ油を引き、生麩をソテーする。常備菜のきんぴらにヒジキ。小松菜のお浸し。黒豆入りのご飯は俵型に握って海苔を巻く。
 どんなに体調が悪くても、春奈は必ず毎朝二人分の弁当を作った。外回りや夜のつき合いが多い卓也のために、いつも野菜中心のおかずを数品用意する。
 おかずを弁当箱に詰めていると、昨夜の夢とも現(うつつ)ともつかない体験が甦り、春奈は思わず手をとめた。あれは一体なんだったのだろう。本当に、美佳の怨念がやってきたのだろうか。
 春奈は激しく首を横に振る。
 そんなこと、あるわけない。第一、そこまで恨まれるような覚えはない。きっと疲れていただけだ。疲労からくるただの金縛りだ。
 だが、満員電車に乗っている間中、春奈は誰かに見張られているような気がして落ち着かなかった。美佳とよく似た茶髪の女性を見るたび、びくりと心臓を跳ね上がらせた。
 おかげで会社に到着したときには、すっかり疲れ果ててしまっていた。
 デスクで少し休んだ後、春奈は卓也に弁当を届けにいった。卓也はちょうど外回りに出かけるところだった。
「これ、お弁当」
「春奈、いつもありがとう」
 卓也のいつもの笑顔に、ようやく少しだけ気が晴れる。
 大丈夫。だって、私ちゃんと尽くしているもの。これが恋人ってことだよね――。
〝そうだよ、春奈。なにも心配することなんてないからね〟
 耳元で兄の声が響いたようで、春奈は一瞬陶然とした。
「……るな、春奈」
 気づくと、何度か呼びかけられていたようだった。
「どうしたの?」
 卓也が不思議そうにこちらを見ている。
「なんでもない。少し疲れてるだけ」
 平静を装いつつ、春奈は内心焦りを覚えた。これでは、兄への執着を和らげるために、卓也を利用しているという自覚に負けてしまう。
「土曜日、またいくからね。卓也の好きなもの作るから、二人きりでホームパーティーしよう」
〝二人きり〟のところに殊更力を入れた。
 嬉しそうに頷き、卓也は弁当を鞄に入れる。ここまで言えば、〝美佳を抜きにして〟という自分の気持ちも伝わっただろう。ようやくこれで、恋人らしい時間を取り戻すことができる。
 そして――。兄の不在の寂しさを紛らわすことができる。
 外回りにいく卓也を見送りながら、春奈は密かに胸を撫で下ろした。

 ところが、週末とんでもないことが起きた。
 ホームパーティー用の食材を買って卓也のマンションにいくと、いきなり玄関先に美佳が現れたのだ。しかも、あれだけきちんと約束をしたはずの卓也が不在だという。
「高校時代の友人が山口から上京してるので、今日は朝から外出してますけど。兄からなにも聞いてないんですか」
 不機嫌そうな眼差しを向けられ、春奈は血の気が引くのを感じた。
 だって、ちゃんと約束したのだ。〝二人きり〟でパーティーをしようと。
 まさか――。
 それに気づいた美佳が、卓也を隠しているのではあるまいか。
 そう思った瞬間、春奈は美佳を押しのけて部屋の中に上がり込んでいた。
「ちょっと!」
 背後で叫んでいる美佳に構わず、春奈は部屋の中を見回す。奥の部屋の扉が閉まっていることに気づき、勢いよくあけてみた。デスクの上に、見慣れぬマッキントッシュのパソコンが置いてある。ディスプレイに作業しかけの画像データが表示されていることに気づき、春奈は小さく眼を見張った。
 仕事、してないはずじゃ……。
「春奈さんてば!」
 追いかけてきた美佳が慌てたようにブラウザを閉じる。
「……卓也はどこ?」
「だから、出かけてるって言ってるじゃないですか」
 美佳が陣取っているらしい部屋の様子を注意深く見ていくうちに、春奈はいくつかの異変に気づいた。壁になにかを叩きつけたような跡がある。カーテンの裾も所々引き裂かれている。
 まるで、誰かが暴れた後のようだ。
 こんなこと、今まで一度もなかった。全部、美佳が現れてから起きたことだ。
「いい加減にしてくださいよ、春奈さん」
 美佳がうんざりしたように呼びかけてくる。ふいに、昨夜布団の上から自分を押さえつけていた暗い眼差しが甦り、春奈は悲鳴をあげそうになった。
 美佳から距離を取り、トートバッグからスマートフォンを取り出し、卓也のアイコンをタップする。なにもかも、卓也と話せば分かることだ。
 幸い、電話はすぐにつながった。
「春奈、どうしたの?」
 なんでもないように問いかけられ、春奈は一瞬、唖然とした。
「卓也こそ、一体どうしたの? 今週末は二人でホームパーティーしようって、約束したじゃない」
 スマートフォンの向こうで、卓也が言葉を失う気配がする。
「まさか、忘れてたの?」
「……ご、ごめん、春奈」
「そんな……」
 スマートフォンを握る手がわなわなと震え出した。
「ごめん、春奈、本当にごめん。とにかく今すぐ戻るから、部屋で待っててもらえないかな」
 春奈のショックを感じ取ってか、卓也の声に懇願の色が混じる。
 怒鳴りつけて通話を終わらせたい衝動に駆られたが、こちらを窺っている美佳の視線に気づき、春奈はなんとか冷静さを取り戻そうと努力した。ここで卓也と喧嘩をしてしまったら、きっと美佳の思うつぼだろう。
「分かった……。待ってるから、できるだけ早く戻ってきて」
 怒りと悲しみをこらえ、春奈はできるだけ平静にそう告げた。
「あの」
 通話を終えて台所に入ろうとすると、美佳が背後から声をかけてくる。
「兄、なんて言ってました?」
「うっかり約束を忘れてしまったみたいだけれど、すぐに戻ってくれるって」
 春奈は笑みを浮かべながら答えた。約束をすっぽかされても動じない寛大さを、見せつけたつもりだった。
「ふーん」
 ところが、美佳は不愉快そうに眼を据わらせて呟く。
「わざわざ上京してきた友達と会ってるのに、戻らせるんだ」
 独り言を装っていたが、はっきりとこちらに聞こえる音量だった。 
 よっぽどなにかを言い返そうかと思ったが、春奈は無言で買ってきた食材を持って台所に入った。美佳の視線を背中に感じながら、冷蔵庫をあけて食材を一つ一つ収納する。
 この隙に、奥の部屋にいくか、出ていってくれればいいのに。
 しかし、監視でもするかのように、美佳は春奈の背後からいつまでも動こうとしなかった。

 その晩、春奈は疲れ切って自室に戻ってきた。ベッドに身体を投げ出し、眼を閉じる。
 ホームパーティーは散々だった。
 汗だくで帰ってきた卓也を、春奈は決して責めずに笑顔で出迎えたのに、なぜだか美佳が喧々と兄に突っかかっていた。どうやら山口から上京していた友人というのが、美佳の知り合いでもあるようで、そのことで揉めているらしかった。
 要するに、兄が春奈を第一に優先したことが気に入らないのだろう。
 だが、先に約束をしたのは春奈なのだから、こちらが優先されるのは当然のことだ。
 本当に、美佳は浅はかだ。
 陰でこそこそと兄妹喧嘩をしている二人を後目に、春奈は黙々と料理を作った。台所にはキッチンバサミしかなく、酷く使いづらかったが、それでも美味しい豆乳鍋を完成させた。
 結局居座り続けた美佳のことも、春奈は甘んじて受け入れた。春奈の料理を絶賛する卓也の横に陣取った美佳は、始終不機嫌そうな表情をしていた。
 なんだか、本当に疲れる――。
 枕をクッションにして身を起こし、春奈は脈打つこめかみを抑えた。
 卓也のところに美佳が転がり込んできてからずっと、自分まで振り回されている気がする。
 私がこんな目に遭っていることを知ったら、お兄ちゃんは一体なんて言うだろう……。
 兄の声が聞きたい。
 慎吾の不在が重たく心にのしかかり、春奈は我知らず、長い溜め息をついた。気晴らしに、ナイトテーブルの上のスマートフォンに手を伸ばしてツイッターを開く。
〝今日は、彼のところで楽しいお鍋でした〟
 豆乳鍋の写真を添付したツイートをあげてみたが、虚しいだけで、たいして心は晴れなかった。流れていくタイムラインを見るともなしに眺めているうちに、春奈はあるツイートに眼をとめた。
 # 花言葉診断
 随分たくさんのリツイートや「いいね」を集めている。その人にとって一番必要な花言葉が表示されると、最近話題を呼んでいる診断らしい。
 お兄ちゃんなら、今の私にどんな花言葉を贈ってくれる?
 ふと、その先に慎吾がいるような気分になって、春奈はURLをクリックした。リンク先の空欄にフルネームを打ち込むと、画面に青紫色の寂し気な花が立ち現れる。

 マツムシソウ――花言葉「あなたは私を置き去りにする」

 春奈はハッと胸を衝かれた。
 いつも一人で遠い海外に旅立っていく、慎吾の後ろ姿が見えたような気がした。
 一瞬、たまらない喪失感が込み上げたが、春奈は大きく首を横に振ってそれを払った。 
 私は美佳とは違う。兄を束縛したりしない。
 もう、私は大人なんだから――。
 気を取り直し、画面の下の解説に眼をやる。
〝夏の終わりから秋にかけて咲く花。青紫色の花は西洋では悲しみの象徴とされ、よく未亡人に贈られる。日本では、マツムシが鳴く頃に咲く花として、マツムシソウと呼ばれる。別名、「嘆きの花嫁」。もう一つの花言葉は、「不幸な愛」〟
 なに、それ……。
 春奈は益々憂鬱になった。
 嘆きの花嫁。不幸な愛。そして、「あなたは私を置き去りにする」。
 どれをとっても、心の休まる言葉が一つもない。
 こんなものが、今の私に必要な言葉だとでもいうつもり?
 たくさんの小さな花が集まり一つの花を形成するマツムシソウは、菊と同じく頭状花(とうじょうか)だが、菊のような華やかさはなく、青紫の色も薄い花弁もどこか寂しい。
 春奈は半ば苛立ちながら、診断のブラウザを閉じた。
 兄がこんな言葉を自分に告げるわけがない。
ランダムで示されるだけの診断の向こうに、慎吾がいるように感じた自分がバカだった。
 なんだかこのまま眠るのが悔しくて、春奈は色々な人たちのツイートを見て回る。もう真夜中なのに、たくさんの人たちが、色々なことを呟いていた。無暗に誰かを攻撃している人もいる。〝エアリプ〟と呼ばれる、愚痴とも当てこすりともつかないツイートをたどっていくうちに、妙なツイートに引っかかった。
 どことなく、見覚えのある動物キャラクターのアイコンだ。だが、どこで見たのかを思い出そうとすると、こめかみの奥が鈍く痛む。
 でも、これって……。
 ツイートをさかのぼるうちに、春奈は段々胸がざわついてくるのを感じた。
 動物キャラクターのアイコンの主の当てこすり(エアリプ)は、どうやら兄の恋人へ向けられたもののようなのだ。そして、エアリプ以外のツイートでは、病的なほど延々と兄自慢がつづられている。
 曰く、この人物にとって、兄は最大の理解者で、一番近くにいる異性の親友で、恋人よりも近しい存在であるそうだ。
 過去のツイートは、兄とのエピソードだらけだ。
 幼い頃、二段ベッドの上と下で寝ていた二人は、糸電話を使って、一晩中話をしたという。
〝もしもし、お兄ちゃん、まだ起きてる?〟
 妹からの呼びかけに、兄が応答しなかった夜はない。思春期を過ぎても、二人は糸電話でつながり、その日にあったなにもかもを互いに詳細に報告し合っていたらしい。
 だから自分たちの間には、今でも秘密は一つもない。相手に対する不満もなにもない。
 ただ一つのことを除いては……。
 それが〝結婚狙い〟で、弁当攻撃や料理攻撃を仕掛けてくる、平凡でつまらない〝押しかけ彼女〟だというツイートに行き当たり、春奈は思わず息を詰めた。
〝料理っていっても、大抵鍋って、超ダサい。そんなの誰にだって作れるじゃん〟
〝あんな彼女の言いなりになってるお兄ちゃんを見てると、本当に頭がおかしくなりそう〟
 糸電話で話す幼い少年少女の顔が、卓也と美佳に変わっていく。なにやら楽し気に囁き合い、くすくすと笑い合っている。その響きが明らかな嘲笑になったとき、春奈はスマートフォンを取り落とした。
 ナイトテーブルの上の頭痛薬を水無しで飲み込むと、春奈は布団をかぶって固く眼を閉じた。

 窓の外には、街の明かりを映す目黒川が見える。
 ソファに腰を下ろした春奈は、カモミールティーを飲みながら、ゆらゆらと揺れる川面の明かりを眺めていた。ここは春奈のお気に入りのカフェだ。
 卓也とも何度もデートで利用しているが、最初にこの場所を教えてくれたのは、実は兄の慎吾だった。初めて兄と一緒にここへきたときは春先で、咲き始めた桜がそれは美しかった。
 今は桜並木も葉を散らし始め、厚い雲に覆われた空に黒い梢を伸ばしている。今日は朝から湿気が多く酷く蒸し暑い。
 残暑は続いているが、日没はすっかり早くなり、六時を過ぎると窓の外は真っ暗だった。
 今にも雨が降り出しそうな暗い夜空を見上げていると、会社での一日が甦り、春奈の胸が重く塞ぐ。
 昨夜ほとんど眠れなかったこともあり、春奈は朝から凡ミスを連発した。
 大事な取引先からの伝言メモを紛失してしまったり、データを二重登録してしまったり、会議で別の資料を用意してしまったり――。定時で帰れなくなったワーママからも、散々に嫌みを言われた。
 けれどそのおかげで、見かねたらしい卓也から、久々に夕食に誘われた。
 営業職が三年目に入ってから卓也は俄然忙しくなり、なかなか夜ご飯を一緒に食べることができなかったので、これはこれでよい機会なのかもしれない。外でのデートであれば、美佳の視線に気分を害されることも無いだろう。
 外回りからの帰宅時間が読めないため、よくデートで立ち寄る、春奈のお気に入りのこの場所で待っているようにと告げられた。卓也は卓也で、週末のホームパーティーをすっぽかしかけたことへの穴埋めをしているつもりなのかもしれない。
 カモミールティーのカップで指を温め、春奈は小さく息を吐く。
 昨夜は本当に酷かった。どんなに薬を飲んでも頭痛が収まらず、ようやく眠れても嫌な夢ばかり見た。支離滅裂な悪夢の中で、一番頭にこびりついているのは、糸電話で囁き合う幼い兄妹の印象だ。必ず途中から、それが卓也と美佳の顔に変わる。
 あんなツイッターなんて、見るから……。
 そう思った瞬間、春奈の指先がぴくりと震えた。
 無意識のうちに、トートバッグの中のスマートフォンに手を伸ばす。あんな変なアカウント、もう二度と見たくない。そう思っているはずなのに、指が昨夜と同じ検索をたどっていく。
 卓也が早くきてくれないのが悪いのだ。だから、こんなことになってしまう――。
 半ば責任転嫁をしながら、春奈はいつしか、件の動物キャラクターのアカウントを探し出していた。怖いもの見たさのような気持ちで、ツイートをさかのぼっていく。
 相変わらずの鼻持ちならない兄自慢と、兄の恋人への幼稚な当てこすりばかり。
 このアカウント主は、やっぱり美佳本人なのではないだろうか。
 そう思いながら画面をスクロールしていると、突然視界に飛び込んできた画像に春奈は凍りついた。
 カフェの写真がある。白い壁。北欧調の家具。窓の外の目黒川。
 人物は写っていないが、間違いなく、このカフェだ。
 見られている――。
 ゾッと背筋が冷たくなるのを感じた。
 美佳だ。美佳がどこかから自分を見ている。
〝見ないで〟
 思わず震える指先で、返信(リプライ)を送った。すると、間髪入れずに着信のチャイムが鳴り響く。
〝そっちこそ勝手に入ってこないで。私たちの間には、誰も割り込めないんだから〟
 糸電話を持った少女が顔を上げた。
 悪意に満ちた眼差しは、間違いなく美佳のものだ。
 春奈は悲鳴をあげて立ち上がった。店中の視線が一斉に自分に集まる。その中にいる美佳を確認するのが怖くて、春奈は慌てて荷物をまとめる。
「お客様……」
 驚いて声をかけてくる店員を振り払い、春奈は店の外に飛び出した。
 ぽつり、と、雨が肩を打つ。
 大粒の雨が地面を叩き、あっという間に周囲は土砂降りになった。遠くでゴロゴロと雷鳴が響く。
「春奈?」
 そこへ、折り畳み傘を差した卓也が丁度やってきた。
「春奈、どうしたの。店の中で待っててって、言ったよね」
 傘を差しかけようとする卓也を、春奈は思い切り突き飛ばす。
「こないで!」
「春奈、一体、どうしたって言うんだよ。とにかく、落ち着いて」
「やめて!」
 スマートフォンを突きつけて、春奈は叫んだ。
「私のこと、美佳と一緒に陰で笑ってるくせに。あんたたち兄妹は、異常よっ!」
 卓也を振り切り、春奈は雨の中を駆け出した。
 驟雨(しゅうう)は周囲が見えないほどに激しくなり、やがて鋭い稲光が閃く。
 激しい雨の中、びしょ濡れになって走りながら、春奈はとめどなく涙が溢れてくるのを感じた。
 お兄ちゃん……。
 脳裏に慎吾の姿が浮かぶ。
やっぱり、卓也なんかじゃダメだった。自分に一番必要なのは――。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
 うわごとのように繰り返しながら、春奈はスマートフォンをタップした。
 だが、兄はまだ帰国していないらしく、通話はどこにもつながらない。
 すぐ傍に雷が落ちたのか、いきなり辺りが真っ白になった。同時になにかが砕かれるような轟音が響き渡り、春奈は地面にしゃがみ込んだ。
 お兄ちゃん、お願い。早く、帰ってきて……。
〝あなたは私を置き去りにする〟
 青紫のマツムシソウが、首がもげそうに揺れている。
激しい雨に打たれながら、いつしか春奈は、ぼんやりと意識が遠のいていくのを感じた。

               第三話「マツムシソウの兄妹」後編へ続く

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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