キノノキ - kinonoki

キノノキ - kinonoki:ナビゲーション

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
バックナンバー  1...7891011 

カリフォルニアポピーの義妹(前篇)

2019.03.22 更新

 セキュリティーを解除して扉をあけると、サッシから漏れる早朝の日差しが、誰もいないオフィスに白々と差し込んでいた。
「寒っ……」
 寺内雪美(てらうちゆきみ)は身震いしてエアコンのスイッチを入れる。三月に入り、日差しは随分と厚みを増していたが、人気(ひとけ)のないオフィスはやはり冷える。一拍後、備えつけの空調が、ごおんごおんと鈍い音をたてて運転を始めた。普段は社員たちの喧騒で誤魔化されているものの、こうして一人でいると相当にうるさい。
 無理もない。麹町にある本社ビルは、祖父の代に建てられたものだ。
 二代目社長である父、巧(たくみ)が何度か手を入れてはいるけれど、竣工から五十年近くが経っている。空調設備も、相当の年季ものだった。
 最低限のセキュリティーを導入したのだって、つい最近のことだ。
 雪美はダウンジャケットを着たまま、間仕切りの奥の社長室に入った。来客用のソファに鞄を置き、ステンレス製の如雨露(じょうろ)を手に取る。
 幸福の木のドラセナ、大きな楕円形の葉が特徴的なゴムの木、柔らかな緑のアジアンタム、空気清浄効果があるという〝噂〟で、一時期大ブームを巻き起こしたサンスベリア――。
 三代に亘る生花店、「フローラル・テラ」の本社らしく、社長室には、代表的な観葉植物の鉢がいくつも置いてある。十四年前、父が二代目社長を務める「フローラル・テラ」に新卒入社して以来、社長室の観葉植物の世話は、ずっと雪美が担当してきた。
 出社直後の水やりは、すっかり雪美の習慣と化している。
〝雪美は植物を育てるのが上手だな〟
 ふと、子供の頃、父から言われた言葉を思い出す。
 幼い時分から男勝りで活発だった雪美は、料理や手芸といった所謂女の子らしいことにはあまり興味がなかったが、父と一緒に土いじりをするのは好きだった。
 ぞっくり出てきた双葉を間引くときも、よい花を咲かせるためにつぼみを摘むときも、どれを残せばよいのかが瞬時に分かるようなところがあった。
 だから、大学を出た後、すぐに父の会社に入ることにもなんら躊躇いはなかった。それに物心ついた頃から、雪美は自分のうちは〝お花屋さん〟なのだと自覚していた。
 もっとも、こんなに早く出社するようになったのは、今年に入ってからだけれど――。
 湿気を好むアジアンタムにたっぷりと水をやってから、雪美は壁の掛け時計を見上げた。巧がなにかの景品でもらった金縁の時計の針は、丁度午前七時を指している。
 以前なら、寝床でようやく眼を覚ます時刻だ。
 空(から)になった如雨露を床に置き、雪美は緑のリボンのようなドラセナの葉に手をやった。株分けや、剪定さえ定期的に行えば、観葉植物は驚くほど長持ちする。
 ここにある植物は、すべて十四年前にあったのと同じものだ。
 枯れた葉を落とし、古くなった細胞を切り捨てながら再生する彼らと違い、人間である自分たちはいやおうなく歳月を引き受けた。入社当初、二十二歳だった雪美は今では三十六歳になり、巧は昨年、六十八歳で他界した。
 元々、肝臓が悪かったものの、人生百年といわれるようになった昨今では、早すぎる逝去だった。
 雪美の胸の奥を、決して癒えることのない喪失感がよぎる。
 父の遺言により、企画部長だった雪美が、三代目社長を受け継ぐことになった。
 ドラセナの葉についた埃をぬぐい、小さく息をつく。
 でも……。本当にそれでよかったのかな。
 雪美には五歳年下の弟、泉(いずみ)がいる。父は本当は、長男である泉に三代目を継がせたかったのではないだろうか。
 もし、社長の座を受け継いだのが長女ではなく長男だったら、〝三代目〟への風当たりも、今ほど強いものではなかったのではあるまいか――。
 そこまで考え、雪美は首を横に振る。
 ない、ない。それは、絶対にない。
 時代錯誤なことを考えてしまうのは、まだ自分が父の椅子に座ることに慣れていないだけだ。
 第一、あの泉に、社長が務まる訳がないではないか。
 中学生がそのまま大人になってしまったような泉の様子を、雪美は思い浮かべた。つるりとした茹で卵を思わせる顔に、よく言えば邪気のない、悪く言えば能天気な笑みが浮かんでいる。
 姉の気が強かったせいもあるのかもしれないが、あれほど〝長男〟という言葉が似合わない男もいない。
〝怒らないでよぉ、怒らないでよぉ〟
 泉のことを考えると、今でも雪美は甘ったれた泣き声を思い出す。
 遅くに生まれた泉を、父も母もことのほか可愛がった。特に、母、緑(みどり)の溺愛ぶりは、長女の自分からすれば眼に余るものがあった。 
 漫画、ゲーム、ポケベル、携帯……。父と並んで土いじりをする以外にも、少女時代の雪美には、たくさんの手に入れたいものがあった。しかし、それらを手にするためには、必ず越えなければならない高いハードルがあるのだった。
 いい子でお留守番をしていたら。一人で大人しくしていられたら。
 テストで百点を取ったら。次の学期で成績が上がったら――。
 散々の苦労の末、ようやく雪美が勝ち取った権利を、しかし、泉は常にやすやすと手に入れた。
 長子の自分は、通常の家庭よりも随分厳しく育てられたと思う。少々気が強くなったのは、そうでなければ意見が通らない環境に置かれていたせいもあるはずだ。
 ところが、五年後に生まれた泉の待遇は、雪美とはかなり違った。
〝お姉ちゃんも、持ってる〟
 たったそれだけのことで、要求するまでもなく、なにもかもが簡単に与えられてしまうのだ。
 雪美はなんでもすぐに欲しがったけれど、泉は欲がないという、善良なイメージのおまけつきで。
 だって、当たり前じゃないかと雪美は思う。
 雪美がクリアしなければならなかったハードルが、そもそも泉の前には置かれていなかったのだから。
 しかも、漫画やゲームや携帯等のアイテムが、大人が思うところの〝障害〟ではないことを見事に証明してみせたのは、姉の雪美だったはずなのに。その功績はちっとも評価されず、〝お姉ちゃんが持ってるのに、泉が持ってないのは可哀そう〟という、まったくもって客観性を欠いた理由で優遇が罷り通った。
 そのためか、泉には幼い頃から闘争本能らしいものが微塵もなく、姉の雪美に逆らうことも皆無だった。
 要するに〝ゆとり〟なのだ。
 雪美は肩を竦める。
 弟の従順ぶりは呑気さと相まって、姉らしい優しさを引き出す以前に、鼻についた。
 どこまで唯々諾々としていられるのかを試してやりたくて、時折、酷く意地悪な気持ちになることがあった。理不尽な要求を繰り出せば、泉は一瞬悲し気な顔になるものの、呆れるほど懸命に応えようとする。それがまた癪に障り、散々に振り回していると、やがて事態が母の知るところとなり、結局、雪美がこっぴどく叱責された。
〝お姉ちゃんのくせに、どうして小さい弟をそんなに苛めるの!〟
 だったら言い返せばいいじゃないか。
 少女時代の雪美は、内心、拳を握って叫んでいた。
 母がそんなふうにかばうから、泉はいつまでたってもこんななんだ。
 弟につらく当たる心の奥底には、歯痒さがあった。我儘な姉の理不尽な要求など、ぴしゃりと撥ね返せばいいではないかという、矛盾した思いがあった。
 反省しない雪美に、母は益々怒りを募らせた。
〝怒らないでよぉ、怒らないでよぉ〟
 ところが、ときとして手をあげられることもあった雪美の前に、当の泉が泣きながら訴え出てくるのだった。
〝お母さん、お姉ちゃんを怒らないでよぉ〟
 まったく……。
 一体、どこまで「いい子ちゃん」なんだろう。
 雪美の口元に苦笑が浮かぶ。
〝泉は本当に優しい子ね〟
 自分の頬を平手打ちにした手で、母が弟を抱きしめているのを見ると、雪美はやり場のない憤りを感じた。
 あいつがあんなふうでいられるのは、私が全部、負の部分を引き受けてきたからだ。
 そう叫んで地団太を踏みたい気持ちが、どうしようもなく込み上げた。
 泉が「いい子ちゃん」でいる限り、雪美は「悪いお姉ちゃん」でいるしかなかった。
 まあ、私自身も子供だった訳だけれど……。
 母が依怙贔屓で余計に与えたお菓子を、後からそっと差し出してくる弟を、どうしても素直に受けとめられなかった。
 泉のどこか鼻につく人の良さは、三十を過ぎた今も変わっていない。
 つまりは、苦労知らずってだけのことよ。
 一口に総括し、雪美はダウンジャケットを脱いでハンガーに掛ける。ようやく暖房が効いてきた。
 昨年まで父が使っていたデスクに座り、パソコンを立ち上げる。
 でも、その泉が、自分よりも偏差値の高い大学に現役で合格したときには本当に驚いた。大学卒業後、父と姉がいる「フローラル・テラ」に背を向け、就活生に圧倒的な人気を誇る大手IT企業にすんなり入社してしまったことにも。
 絶対に自分に勝てなかったはずの弟にいきなり出し抜かれたようで、戸惑いを隠せなかった。
 今までは、雪美が苦労して開いた扉の後を、呑気についてきていただけだった。けれど、入試や就職は話が違う。まさか泉には、本当に自分にはない天賦の才のようなものがあるのだろうか。
 雪美がそう畏怖したのも束の間、泉は二年であっさりと人気企業を退職した。
 在職中にライトノベルの賞を受賞し、デビュー作がシリーズ化されて「会社勤めをする時間が無くなった」のだそうだ。
 メールソフトを開きながら、雪美は小さな溜め息を漏らす。
 浮き世離れした「いい子ちゃん」だった弟は、雪美からすれば益々世の中の動きからほど遠い「ラノベ作家」になってしまった。
 現在泉は、「異世界」やら「魔境」やら「迷宮」やらを舞台に、日がな一日「ロリっ子」たちの活躍を描いているらしい。
 読んだことはないけれど……。
 雪美にも送られてくる「ロリっ子」が表紙の文庫本が脳裏に浮かび、今度は大きな溜め息が出た。
 なんだかんだ言って、泉はやりたいことしかやっていない。
 有名大学に入る頭があるなら、どうしてそれを家業のために役立てようとは思わないのか。
 父の葬儀のときだって、泉は母と一緒になって泣いているだけで、すべては雪美が取り仕切るしかなかった。
 辣腕だった二代目社長を失った「フローラル・テラ」のことも、また――。
〝お姉ちゃんなら絶対大丈夫だよ〟
 純真なむく犬のような眼差しでそう告げられたとき、もう少しで頭を小突きそうになった。
 あんたがそんなふうに自由気ままにしていられるのは、私が全部、重い責任を引き受けているからじゃないか。
 子供の頃と同じく、地団太を踏みたいような憤りが、どうしようもなく込み上げてきた。
 なんにも知らないくせに……。  
 父亡き後、社内に不穏な動きがあることを。
 カリスマ性のあった父の急逝後、営業部長の谷岡(たにおか)の態度が露骨に大きくなった。
 もとより谷岡は、一回り以上年下の雪美が企画部長を務めていることも快く思っていなかった節がある。
 最近谷岡は、飲み会と称して社員を集めては、「前社長が〝おひとりさま〟の娘の将来をはかなんで、誰にも相談せずに勝手に新社長に任命した」と、若手を中心に扇動しているらしい。
 谷岡の動きに辟易として会社を去った何人かが、置き土産のように囁いていった情報だ。
 おひとりさま。
 谷岡の物言いに、雪美の眼つきが自(おの)ずと険しくなる。
 役職の前では〝小娘〟扱いするくせに、女としては旬が過ぎていると言わんばかりの態度は、谷岡を始め多くの中年男たちが、三十半ば以上の独身女性に対して抱いている本音だろう。
 そんな時代遅れのオヤジたちの偏見に負けたくない。
 谷岡は、営業部長の自分こそが「フローラル・テラ」の根幹を支えているのだと、社外でも吹聴して回っているらしい。
 雪美は口元を引き締めた。
 祖父の代には都内に三店舗しかなかった「フローラル・テラ」を、全国チェーン店にまで押し上げた父の期待に、応えないわけにはいかない。
 企画部長としてなら、雪美は自分の仕事にある程度の自信があった。
「フローラル・テラ」は、切り花や鉢植えの販売のほか、法人への観葉植物のリースや、結婚式場や葬儀場の装飾花までを手掛ける、所謂オールマイティー型の生花店だ。店舗の入り口に、雑貨店とコラボしたイベントコーナーを作って集客力を高めたり、大量の薔薇の花をディスプレイしたブライダル専用の商談スペースを設けて結婚式場装飾の受注を増やしたりした実績は、父だっておおいに認めてくれていた。
 今回も、なにか新機軸となるような企画を打ち出して、谷岡の悪意のある煽動を牽制したい。
 メールチェックを終えた雪美は、ツイッターの公式アカウントを開いた。
 春先に一番力を入れている、枝ものの桜のディスプレイに対するリツイートや「いいね」の反応をチェックする。最近ではこうしたSNSの拡散力もバカにならない。リプライやDMを通じて、メディアの取材が舞い込んでくることもある。
 タイムラインをたどるうちに、雪美の視線が「おすすめトレンド」の欄に移った。
 # 花言葉診断
 この日も変わらずにトレンド入りしているハッシュタグを、雪美はじっと見つめる。
 花つながりで、なにかコラボレーションができればと思っていたのだけれど……。
 公式アカウントのフォロワーを増やすだけでも、利用者数の多い診断を利用することは有用だと考えていたのだ。
〝突然のご連絡をご容赦ください。花言葉診断からこちらのアカウントにたどり着きました〟
 作成者のアカウントにリプライを送ったのが、年明けすぐのことだ。それから二ヶ月近くなんの返答もなかったのだが、今月に入り、突如DMで返信が入った。
 作成者本人からの、丁重な断りのメッセージだった。なんでも怪我をして、しばらく入院をしていたために、返信が遅れたとのことだった。
 大流行中の花言葉診断の作成者が、実は女子中学生だったことを、雪美はこのとき初めて知った。
 まさか、十五歳だったとはね……。
 作成者は、相当聡明な少女に違いない。蘊蓄に富み、どこかに小さな棘を含む診断は、人の心を妙に擽る。だが、相手が未成年である以上、これ以上強引な勧誘はできない。
 診断とのコラボは、ただのツイッタープロモーションよりも面白いと思ったんだけどな。
 未練がましく、雪美はハッシュタグをクリックした。
 今日もたくさんの人たちが、診断を利用している。
 遊び半分で、雪美も自分の名前を送信してみた。以前試したときは、結構いい診断結果が出たはずだが、今回はどうだろうか。
 
 カリフォルニアポピー――花言葉「私を拒絶しないでください」

 診断結果に、雪美は思わずどきりとした。
「私を拒絶しないでください」
 新企画を打ち出して、社内の人たちをつなぎとめようとしている自分の心を言い当てられた気がして、なんだか居心地が悪くなる。
〝カリフォルニアポピー、別名ハナビシソウ。一見華やかな花だが、毒草の外来種として危険視されることがある。繁殖力が強く、その場の在来種を駆逐してしまうことも……〟
 解説の下には、可愛らしいパラソルのような橙色のポピーの画像が添付されている。
 そう言えば――。
 ツイッターでも「危険外来種」としてこの花に似た「ナガミヒナゲシ」という花の画像が出回っているのを見たことがあった。花の世界では、ケシ科の花はすべてポピーと呼ぶ。その意味では、カリフォルニアポピーとナガミヒナゲシは同類だ。リプライや引用リツイートでは、本当に外来植物が「危険」なのか否かという論争が起きていたけれど。
 毒草。
 そこに、谷岡の腐すような眼差しが重なった気がして、雪美は首を横に振る。
 こんなことしていられない。
 雪美はツイッターのブラウザを閉じた。創業者一族である自分が、「外来種」でも「毒草」でもあるはずがない。社長として取り組まなくてはならないことは、山ほどある。
 辞めていった社員たちの補充もしなければならないし、もちろん、新しい企画だって打ち立てる必要がある。
 率直に言って、「フローラル・テラ」のここ数年の業績は、芳しいものではない。政府だけが声高に主張している景気復調の実感は乏しく、法人のリースも、ブライダルの装飾花も〝コスパ〟ばかりが求められる傾向が続いている。
 そんな状況下で、父という大きな柱を失った「フローラル・テラ」に不安感を抱いている社員は多く、谷岡はそうした隙につけ込もうとしているようにも思えるのだ。
 すべては、三十代の女性である自分に、父ほどの信頼がないから――。
 湧き上がってくる心細さを振り払い、雪美は意識を集中させる。
 差し当たっては、今月のホワイトデー、四月の新生活、五月の母の日に向けての販促だ。
 ホワイトデーフェアの「プレゼントブーケ」の受注を確認していると、オフィスに人の気配を感じた。
 パソコンから顔を上げれば、経理部長の西野(にしの)がデスクにつくところだった。
「社長、お早うございます」
 間仕切り越しに声をかけられ、雪美も慌てて頭を下げる。
「西野部長、早いですね」
 就業開始時間まで、まだ一時間を残していた。
「四半期ですから」
 仏頂面で答えると、西野は雪美に背を向けて黙々とパソコンを立ち上げた。

 その日の定例会議の空気は最悪だった。
 店頭からは人員不足への不満の声が上がり、それに雪美が答えようとするたび、谷岡に途中で口を挟まれた。雪美はできるだけ一時的なアルバイトではなく、ある程度のキャリアを持つ契約社員を募集したいのだが、谷岡がすぐさま「その必要はないでしょう」と断定する。
「私はできるだけ、社員一人一人のスキルを発揮できるような……」
「いやいや、必要なのは、スキルじゃなくてスタンスでしょう」
「でも、私としては商品開発プロジェクトには、できるだけ多くの意見を……」
「そんな余裕はないでしょう。ただでさえ、現場は人手が不足しているんだから」
 万事こんな調子だ。
 谷岡の息がかかった営業部の社員たちは冷めた眼差しを隠そうともせず、雪美の直属の企画部の社員たちは、困ったように顔を見合わせている。
 ほとんどの社員が谷岡の側についているように思え、雪美の中に焦りが湧いた。
「だからこそ、その場しのぎではなく、新しい『フローラル・テラ』を一緒に作ってもらえる……」 
 必死で言葉を繰り出す雪美を遮り、谷岡が一際大きな声をあげる。
「西野経理部長」
 テーブルの隅でレジメを見つめていた西野がこちらを向いた。
「ホワイトデーフェアの売上見込みは、昨年増しになりそうですか」
「……厳しいですね」
 西野の一言で、会議室内に不穏なざわめきが満ちていった。
 そんなんじゃ、アルバイトを雇うんだって大変だろう。
 これだから、〝お嬢さん社長〟は困るんだよ。もっと現実を見なくちゃ。
 やっぱり、社長がいないと駄目だな……。
 小さなざわめきの中から、営業部員たちの聞こえよがしな皮肉が耳を打つ。
「人員補充に関しては、営業部が総務と進めますよ」
 谷岡に強引にまとめにかかられ、雪美は慌てて身を乗り出した。
「方針は検討しますが、私も社長として面接に参加します」
 総務部長は谷岡に嫌気がさして先月辞職している。今総務に残っている課長代理の壇上(だんじょう)は、完全に谷岡の腰巾着だ。この二人に、「フローラル・テラ」の人事を任せるわけにはいかない。
 わざと、「社長として」というところで語気を強めた。
 谷岡は露骨に不快そうな表情を浮かべたが、さすがに反論はしなかった。
「次に、母の日フェアに向けて、ディスプレイ案を募集したいと思います」
 雪美は二番目の議題に入ろうとする。
「昨年通りでいいんじゃないですかね」
 またしても谷岡が、気勢をそぐようなことを口にした。
「母の日は一番の繁忙期です。ここで手を抜くことはあり得ません」
「去年だって、手を抜いたわけじゃないでしょう。去年のディスプレイは、企画部長が自ら作ったんだし」
 会議が始まって以来続いている刺々しいやり取りに、ほとんどの社員はうんざりしているようだ。雪美自身、なんとかして父の不在を埋めようとして空回りしている自分を感じてしまう。
「そんなに張り切らなくていいんじゃないですかね。人員補充もまだなのに」
 腰巾着の壇上が、茶々を入れてきた。
「そうだよな。それに、まず、企画部長が母になるほうが先なんじゃないの」
 頷きながら、谷岡が砕けた調子で呟く。
「あ、失敬。こういうこと言うと、すぐにセクハラとか叩かれちゃうんだっけ。それに、今は社長さんだったね」
 会議室の中に、失笑が漏れた。雪美は黙ってレジメを裏返す。
 こんなことで腹を立てたら負けだ。
「社長」
 そのとき、淀んだムードを押しのけるように、部屋の隅の西野がおもむろに手を上げた。
「今月の予算報告に入らせてもらってもいいですかね」
 西野の現実的な発言に、雪美は我に返る。
「すみません。西野部長、お願いします」
 淡々と数字の報告を始めた西野の抑揚のない声を聞きながら、雪美は密かに唇を噛み締めた。
 なんとか定刻通りに会議を終わらせ、雪美は間仕切りの奥の社長室に戻ってきた。父の座っていた椅子に腰を下ろすなり、ファイルをデスクに叩きつけそうになる。
 母の日フェアの新しいディスプレイは、結局、企画部長を兼任している雪美が案を出すことになった。雪美を忙殺し、その間に谷岡は人事を牛耳ろうとしているのかもしれない。
 そんなことは絶対にさせない。どちらも立派にやり遂げてみせる。
 気負ってパソコンを立ち上げたが、数時間のうちに何十通も溜まってしまった未読メールを眼にした途端、気持ちが挫けそうになった。
「あーあ」
 思わず低い声が出た。
 悔しいのは、それまで自分に好意的だった社員たちまでが、父がいなくなった途端、掌を返すようにして谷岡の顔色を窺っていることだ。言い換えれば、それだけ今までの自分は、父の後ろ盾に支えられてきたということなのだろうか。
 先日取材を受けた雑誌からのメールに添付されたPDFファイルを開くと、そこに、パステルピンクのスーツを着た自分の写真が現れた。
〝「フローラル・テラ」新社長、寺内雪美氏、女性ならではの感性を生かした経営に乗り出す〟
 写真の上に踊るコピーに、雪美は眉を寄せる。
〝女性ならではの感性〟とは、一体なんなのだ。
 一見、記事は晴れがましいが、雪美自身が覚束ないキャッチコピーには困惑をぬぐえない。しかも修正の確認は、今日までとなっている。もう、このままいくと言われているようなものだ。
 複雑な心持ちで、雪美はファイルの中の自分の笑顔を見つめた。
 実績がないまま、こんな記事だけが先行すると、益々社内の風当たりが強まるのは眼に見えている。
〝企画部長が母になるほうが先なんじゃないの〟
 先刻の谷岡の皮肉が甦り、胸の奥が冷たくなった。
 女性の重役登用が政策にまで取り入れられる昨今、女社長というだけでもてはやされる傾向があるけれど、そのうちここに「何児の母」とか入らないと、すぐさま相手にされなくなるに違いない。
 今の自分の立場が危ういのは自覚している。
 筆頭株主こそ父の株式を相続した母だが、名ばかりの会長である母は経営には一切かかわっていない。このまま業績不振が続けば、メインバンクがなにを言ってくるかは分からなかった。そのとき頼りになるのが、自分よりも谷岡だと多くの社員に判じられているのがもどかしく情けない。
「私を拒絶しないでください」――。
 ふいに、花言葉診断の結果が頭に浮かび、雪美はぎくりとする。
 一見華やかな毒草。
 パステルピンクのスーツがカリフォルニアポピーと重なったようで、一気に気分が沈み込んだ。
 なぜ、もっと信頼してもらえないのだろう。
 それなりに、経験は積んできたはずなのに。
 結局私も、泉と同じ〝苦労知らず〟だったんだろうか――。
 沈鬱な気持ちでファイルを閉じると、デスクの上に置いたスマートフォンが震えた。まるで内心の呟きが伝わったかのように、泉からのメッセージが着信している。
「はあ?」
 吹き出しの中のメッセージを読むうち、雪美は眉間にしわを寄せた。

 週末、雪美は久しぶりに実家に向かっていた。
 地元の駅に着くなり、駅ビルの化粧室に入って服装をチェックし、口紅を塗り直す。実家に帰るのに、こんなことをするのは初めてだ。髪の乱れを整え、雪美は薄桃色のチューリップのブーケを持ち直した。
 弟の泉が、結婚を考えている女性を実家に連れてくるという。
 寝耳に水の話だった。
 足早に歩きながら、雪美は肩で息をつく。正月に会ったときは、それらしい話など一切出ていなかったのに。
 またしてもいきなり出し抜かれたようで、雪美は内心穏やかではなかった。
 こちらの苦労も知らないで、本当に泉はやりたい放題だ。
 だが、弟に先を越される焦りを見透かされる訳にはいかない。社長であり、姉である威厳を保とうと、玄関先で雪美はブーケを抱えて深呼吸した。
 呼び鈴を押すと、すぐに母の緑が迎えに出てきてくれた。
「お帰りなさい。忙しいのに、大変だったでしょ」
 努めて平静を装おうとしているが、一目で母の様子がおかしいことに気がついた。まるで縋るように、雪美を見つめてくる。
 長男が結婚を考えている相手を迎えて、不必要に緊張しているのだろうか。母の妙な眼差しの真意をつかめぬまま、雪美は応接間のドアをノックした。
 ドアをあけた瞬間、眼の前の光景に全身が硬直する。
「ねえねえ、ユキミンだよね」
 ユ、ユキミン……?
 その呼び名にも驚いたが、それ以上に吃驚したのは、馴れ馴れしく声をかけてきた初対面の女が、ソファに座った弟の膝の上に乗っかっていたことだ。
 しかも――。脱色したオレンジ色のふわふわとした髪に薄い眉。
 あまり若くはなさそうだけれど、どこからどう見てもヤンキー上がりだ。
「はじめまして。キャロラインでーす」
 完全に固まってしまっている雪美を介することも無く、ヤンキー女が能天気な声をあげる。
 誰がキャロラインだ。 
 脱色したオレンジの髪こそ金髪に近いが、扁平な女の顔は日本人としか思えない。ラメ入りのアイシャドウやてらてらしたリップグロス等の派手めのメイクを全部落とせば、実際は相当の地味顔に違いない。
 雪美は思わず、弟を睨みつけた。ところが泉は、キャロラインとやらをたしなめる訳でもなく、呆れるほどに鼻の下を伸ばしている。
「お姉ちゃん、キャロはアメリカ育ちなんだよ。今は日本のアニメーションを海外に紹介する仕事をしているんだ」
 幸せそうに告げられて、雪美は脱力しそうになる。
「英語もペラペラですごいんだよ」
「えー、別にすごくないよ。私の場合、親がアメリカ人だから、英語なんて喋れて当たり前じゃん。イズミンのほうが断然凄いってー」
「そんなことないよぉ」
 明らかに唖然としている雪美の前で、泉とキャロラインがいちゃつき始めた。
 バカか。
 父がいないと駄目なのは、会社だけではないらしい。何度か世知辛い恋愛を経験してきた雪美と違い、今まで泉からは失恋の話すら聞いたことがない。ひょっとすると泉は、三十を過ぎて初めてできた恋人に、すっかり舞い上がっているのではあるまいか。
「雪美ちゃん、お紅茶……」
 それまで雪美の後ろに隠れるようにしていた母が、おずおずと新しい紅茶をテーブルの上に置く。
 雪美も我を取り戻し、泉に顔を寄せているキャロラインにチューリップのブーケを差し出した。
「うわー、嬉しい~!」
 キャロラインが大げさな歓声をあげて立ち上がる。
「さっすが、『フローラル・テラ』のプレジデント。超ラブリー。ユキミン、センス、ありありー」
 一つも嬉しくなかったが、とりあえず弟の膝から降りてくれたことだけは助かった。あのままでは、眼のやり場に困ってしまう。
「ねえねえ、ミドリンもユキミンも早く座ってよ。私、バターミルクスコーン焼いてきたんだ。ミドリンの淹れてくれた紅茶にぴったり」
 ミドリン?
 雪美が母を見やれば、引き攣った笑みを浮かべている。
 これは自分が到着するまでにも、相当とんでもない発言が炸裂していたに違いない。母が挙動不審になるはずだ。
「キャロの焼き菓子は最高なんだよ」
 相変わらず空気を読まない泉は、頬を紅潮させて心底嬉しそうにしている。
 確かにテーブルの上には美味しそうなスコーンが並べられていたが、雪美はとても手を出す気分になれなかった。
 それからの時間をどう遣り過ごしたのか、雪美は敢えて記憶に留めていない。
 雪美と母の緑が黙り込んでいる前で、泉とキャロラインだけが好き放題にはしゃいで、食べて、喋って、盛り上がっていた。
 ようやくキャロラインが帰る段になり、送っていこうとする泉を、雪美は無理やり押しとどめた。
「泉、ちょっとこっちへきて」
 キャロラインの姿が玄関から消えた途端、雪美は泉をリビングに引きずり込み、緊急家族会議を始める。
「一体、どういうつもりなの」
「どういうつもりって?」
 本当に訳が分からないという顔をしている弟に、ほとほと情けなくなった。
「本気であんなのと結婚するつもりでいるの?」
「あんなのって、お姉ちゃんこそどういうこと? キャロは仕事もできて性格もいいし、本当にすてきな女性だよ」
 ところが泉は、真剣な表情で反論してきた。
「キャロはアメリカ人のご両親のもとで育てられたから、ちょっと日本人離れしたところもあるけど、それってただの文化の違いでしょ?」
 冗談ではない。あれを「文化の違い」で済まされたのではたまらない。
「ちょっと、お母さんからもちゃんと言ってよ」
 雪美が助けを求めると、母はこの期に及んでまだ困り切った表情で視線をさまよわせている。自分のことは容赦なく叱りつけてきた母が、どうして弟にはこんなに弱いのか。
 雪美はカッと火がつくような苛立ちを覚えた。
「そもそも、あの子、どこからどう見ても日本人じゃない。なにが、キャロラインよ。あんた、なんか騙されてるんじゃないの?」
「酷いよ、お姉ちゃん。そんなの、ただの見かけの話じゃないか」
 またしても、お気楽な善意を振りかざす。 
 珍しく泉の口調が強かったことに、雪美は一層腹を立てた。
「泉、あんた、責任とかそういうこと、一度でもちゃんと考えたことあるの? いつまでも子供みたいに、やりたい放題やっちゃって」
「だから、結婚しようって考えてるんだよ」
「そういうことじゃないでしょ!」
 なんでいつも泉の前にだけ、ハードルがないのだ。自分はこんなに苦労をしているのに。
「あんた、一度でも死んだお父さんの気持ちを考えたことがあるの? いっつも現実的なことを私一人に押しつけて」
「押しつけた覚えなんてないよ。お姉ちゃんなら大丈夫だって思ってるだけだよ。だって、お姉ちゃんは……」
「大丈夫な訳ないでしょっ!」
 気づくと雪美は大声で叫んでいた。
 これだから、〝お嬢さん社長〟は困るんだよ。やっぱり、社長がいないと駄目だな……。
 会議中に社員たちが聞えよがしに囁いていた皮肉が耳朶を打つ。
「どうしてあんただけが、そんなにお気楽にしていられるのよ。おじいちゃんの代から続いている会社のことを、少しでも気にかけたことはないの?」
「それは……」
 さすがに泉が言い淀んだ。
「でも、俺にだって、俺の仕事があるから……」
「仕事? 笑わせないでよ。あんたの仕事なんて、遊びと一緒じゃないの!」
 雪美の剣幕に、泉が俯く。
 リビングの中に、しばし重たい沈黙が流れた。
 やがて、下を向いた泉の口からしゃっくりのような声が漏れる。視線をやり、雪美は唖然とした。
 俯いたまま、泉が肩を震わせて泣いている。つるりとした頬を滑った涙が、ぽたぽたとリビングのテーブルの上に散った。
「ちょっと、雪美、なにもそこまで言うことないじゃないの」
 それまで手をこまねいていた母が、途端に非難の声をあげた。
「は?」
 あまりのことに、雪美は自分の顔が引き攣るのを感じる。
「お母さんがそんなだから、泉がこんなになったんじゃないっ!」
 火がついたように叫ぶと、「怒らないでよぉ、怒らないでよぉ」と、泉が子供の頃とそっくりの情けない泣き声を出した。
「二人とも、怒らないでよぉ」
 めそめそと鳴きながら、泉が母と自分の間に入ってくる。
 やってられない。
「バッカじゃないの……!」
 吐き捨てるなり、雪美は鞄を持って立ち上がった。憤然とリビングを出て、玄関に向かう。
 こんなの、本当にやっていられない。
 玄関の扉を乱暴に閉め、雪美は足早に歩き始めた。
 どうしていつまでも、自分だけが「悪いお姉ちゃん」扱いをされなければいけないのだ。母は自分よりも、弟とあのヤンキー女を認めるつもりなのか。 
 そんなことになったら、自分はもう二度と実家には近づかない。
 煮え立つような頭で歩いていると、ふと、視界の隅に明るい暖色のものがよぎった。
 足をとめれば、空き地にナガミヒナゲシが咲いている。ここ数日暖かい日が続いていたので、一気に発芽したのだろう。
 その柔らかそうな橙色の花弁に、同じくケシ科のカリフォルニアポピーが重なり、それがやがて、ふわふわとしたキャロラインのオレンジ色の髪に変わっていった。
 カリフォルニアポピーは私じゃない。あの女だ。
 あれこそが在来種を駆逐する、外来の毒草に違いない。
 雪美は大きく息を吐き、真っ直ぐに駅へと向かっていった。

               「カリフォルニアポピーの義妹」後編へ続く

バックナンバー  1...7891011 

作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

おすすめ作品

悪夢か現か幻か

第14回 海玉

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か

第13回 フミドリ

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か

第12回 ハンカチーフ

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か

第11回 公園の少女

堀真潮(ほりましお)

ページトップへ