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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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「ヒエンソウの兄弟」後編

2018.08.24 更新

 兄だ。
 この原稿の作者は、四歳年上の兄、祐一だ。
 三兄弟妹(きょうだい)の中で唯一の昭和生まれ。
 ぎりぎりゆとり世代ではなく、勉強ばかりに精を出し、母に散々世話を焼かれ、受験戦争を勝ち抜き、外資系証券会社に就職を決めたものの、予期せぬリーマンショックであっさりと内定を取り消された……。
 しかし原稿を読み進めるうちに、啓二はそのことさえ意識できなくなっていった。
 どこまでも澄んだ、硝子のような遠浅の蒼い海。垣根に咲き乱れる濃いピンクのブーゲンビリア、深紅のハイビスカス。涙の雫のような小さな白い花をぽたぽたと散らす、福木(ふくぎ)並木。直進しかできない悪霊の侵入を防ぐために、道路の突き当りに必ず据えられている石敢當(いしがんとう)。
 ただの文字列の向こうから、初夏(うりずん)を迎えた八重山(やえやま)諸島の情景が鮮やかに立ち上がってくる。 
 いつしか啓二は、主人公の青年と一緒になって旅をしていた。
 石垣島の浮き桟橋から高速船に乗り、日本最南端の波照間(はてるま)島を目指す。
海岸近くでは鏡のように静かな八重山の海だが、石垣島と西表島の間にある石西礁湖を超えると海域は急に深くなり、外洋の波が次々と押し寄せ、船は大きく揺れる。
 地元の人たちが〝波の波照間行き〟と呼ぶ航路を知らず、一番大きく揺れる前方に席を取ってしまった青年が、船がシーソーのように揺れた瞬間、放り出されて尻もちをつくところでは、声をたてて笑った。
 たどり着いたのは人口五百人弱の小さな離島、波照間島。
 辺り一面に広がるサトウキビ畑のざわめきと、羽虫たちの微かな羽音。漂うように舞う大きな羽の蝶々。金粉をまぶしたような午後の強い日差し。
 道中の白日夢のような美しさとは対照的に、最南端の碑が立つ〝最果て〟の断崖の荒々しさ。
眼の前に壮大なパノラマが広がっていくようだった。
 第三章に入ると、物語は新たな展開を見せる。
 旅の途中で出会った元少年兵の老人の過去が明らかになり、紀行的だった文体に凄味が増した。太平洋戦争末期、なんの戦闘能力も持たない漁船に乗せられ、連合軍の潜水艦が跋扈する海域に放り出された少年兵の悲惨な記憶。
 自分の挫折に浸り切り、無気力だった青年の心が、老人の過去を知るにつれて大きく揺れ動いていく。
 気づくと啓二は、歯を食いしばっていた。十七歳の少年兵が味わった苦渋があまりにリアルで、原稿に涙が落ちそうになる。
 原稿を読んでいて涙が溢れたのなんて、もしかしたら初めてかもしれない。
 それが、新人賞の応募原稿である驚き。
 しかも、その原稿が兄の祐一の手によるものだなんて――。
 途中、どうやら啓二自身をモデルにしているらしい、要領だけはよい軽薄な従弟が登場してきたが、己をモデルにされた苛立ち以上に、人物描写の鮮やかさに舌を巻いた。
 なにを考えているのかさっぱり分からなかった兄の眼に、自分はこんなふうに映っていたのかという驚きもあった。
 身内への贔屓や偏見を抜きにして、啓二は編集者として感嘆を覚えていた。
 この作品は、間違いなく本になる。
 素人の書き手にありがちな、着地点を危ぶませる隙がない。物語に、読み手を最後まで引っ張っていく大きな信頼がある。
 ふと気づくと、深夜の二時を過ぎていた。いつの間にか、自分のいるエリア以外の照明がすべて消えている。
 オフィスに自分しか残っていないことに気づいても、啓二は動じなかった。むしろそのほうが、誰の眼も気にせずに物語に浸れるというものだ。
 読み進めていくうちに、主人公が抱えている劣等感が明らかになってきた。
 啓二の頭の中で、いじけた主人公の青年の姿が祐一とぴったり重なり、冷静に読むことができなくなる。
 同世代に受け入れられず、本だけが友達だった少年時代。本当は自分でも小説を書きたかったのに、親の期待に応えるために必死になって取り組んだ受験勉強。
 その甲斐あって有名大学に進学はしたが、そこでも主人公は友人も恋人も作れない。それでも努力は報われるはずと、大学生活を謳歌している他の学生を後目(しりめ)に、主人公は勉学に励む。そこまでして頑張ったのに、就職活動はことごとく失敗。度重なる面接で、人格を否定されるような言葉まで浴びせられる。
 自分とは対照的に、のびのびと育った従弟にずっと抱いていた嫉妬の吐露まで行きついたとき、啓二は小さく息を呑んだ。
 やはり、そうだったのか――。
 兄はずっと、弟の自分に嫉妬してきたのか。
 母の過剰な期待から逃れて、やりたいことをやってきた自分を、内心羨望の眼差しで見つめていたのか。
〝本を読むだけで勉強してる気になれるなら、気楽なもんだよな〟
 文学部に入った啓二に、兄がぶつけてきた言葉。
 けれどそれは、自身が密かに憧れ続けてきた文学への裏腹な愛情だ。
〝でも文学部は就職できないから、これでお前の人生終わったな〟
 トラウマにもなっていた罵声の裏に込められていた真意を知り、再び鼻の奥がじんと痛くなる。
 最終章で、元少年兵だった老人は青年に語る。長年八重山に生きてきて、青い空、蒼い海を感じられるようになったのは、つい最近のことだと。ようやく、B29が飛来する鉛色の空、戦友たちの血に染まる真っ赤な海が遠くなってきたと。けれどそれは、裏返せば、自分が死に近づいている証拠なのだと。
 老人との出会いを経て、青年は初めて自分の狭量を悟らされる。今自分の眼に映っているのは、多くの戦死した若者たちが見ることのできなかった未来なのだと。
 最南端の碑が立つ海岸に佇む二人。その前に広がる、青い空、蒼い海――。
 最後のページを読了したとき、啓二の胸にしみじみとした感慨が広がった。
 旅が終わった。
 鮮やかで、豊かで、切なくて、充実した旅だった。
 気楽に思えた兄の自分探しは、その実、決して形骸的な虚しいものではなかった。
 原稿の角をそろえ、クリップで止め直したとき、窓の外はうっすらと明るくなり始めていた。
 椅子の上で、啓二は大きく伸びをする。
 兄は恐らく、この小説を自分に読ませるために書いたのだ。
 以前、祐一のフリーアドレス宛に、出版社に就職した旨だけは知らせておいた記憶がある。それに対する返信があったか否かは、さっぱり覚えていないけれど。
 浮世離れした祐一のことだ。勤務先の出版社に原稿を送れば、自分がそれを読むと単純に信じていたに違いない。実際には、編集部員が下読みをしない新人賞も多いし、そうであっても、あてがわれる段ボールにその原稿が入るとは限らない。なにしろ、新人賞の応募原稿は千を超えることだってあるのだ。
 しかし、祐一の原稿は、奇跡的にも啓二の段ボールに入っていた。
 否、たとえ誰の段ボールに入っていたとしても、よほど眼が節穴の編集部員に当たらない限り、この原稿はいずれは啓二の手元にも回ってきただろう。
 最終選考用の原稿として。
 凝り固まっていた首を回し、啓二は小さく笑みを浮かべた。
 もしかするとここには、十年前、弟に酷い言葉をぶつけた兄の、不器用な謝罪も込められていたのかも分からない。
 確かに受け取ったよ、兄貴――。
 万一、この原稿が受賞を逃したとしても、自分が必ず本にする。兄もまた、それを願っているに違いない。
 身内の原稿を担当するのは、いささか気詰まりではあるけれど。その気兼ねを凌駕する魅力が、祐一の作品にはあった。
 覚悟を決めて、謝罪も、原稿もしっかりと承ろう。
 啓二は赤ペンを手に取ると、表紙に大きく二重丸の印をつけた。

 その日の夕刻、六畳一間のクーラーをつけっ放しにして布団の上に倒れ込んでいた啓二は、スマートフォンの呼び出し音に叩き起こされた。アイマスクをむしり取り、スマートフォンを手に取ると、液晶画面に妹の美郷のアイコンが表示されている。
 メッセージアプリへの返信を怠っていたところ、しびれを切らして電話してきたらしい。
「もしもし……」
 あくび交じりに応答すると、美郷の呆れたような声が耳元で響く。
「やだ、寝てたの?」
「まあね」
「どういう生活してんのよ」
 時間を確認すれば、午後五時を少し過ぎたところだった。
 カーテンの奥からは、強い西日が差し込んでいる。夏の夕暮れ時は長い。
「少しは摂生した方がいいんじゃないの」
 妹の主張はもっともだが、校了明けの編集者なんて大概がこんなものだ。
「ところで、お兄ちゃんと連絡取れた?」
「いや、ちょっとね……」
「ええ、もう結婚記念日、二週間後だよ!」
 徹夜明けの頭に、美郷の遠慮のない声がきんきんと響き渡った。
「もう、予約入れないと間に合わないよ。だって、今回予約しようと思ってるお店、一日三組限定なんだよ」
 美郷曰く、そこはこだわりの食材を使ったフレンチで、予約時点から人数の変更もできないという。
「めんどくせえ店だな……」
 つい率直な感想を漏らし、啓二は美郷の逆鱗に触れた。
「なに、言ってんのよ! 文句があるなら、啓ちゃんが店探しなさいよ。編集者なのに、いい店ちっとも知らないくせに。それに、ここ、お母さんが婦人雑誌で見て、前からいきたがってたお店なんだからね!」
 妹のあまりの剣幕に、啓二はスマートフォンから耳を離す。女性のこだわりに茶々を入れるとろくなことにならないことは、別れた恋人との経験からも学習済みのはずだったのだが。
「もう、いいよ」
 電話口で、美郷が鼻を鳴らした。
「連絡取れないなら、今回、お兄ちゃんは抜きにする。お母さんのテンションは下がるだろうけど、そればっかりは仕方ないよね」
「ちょっと、待て」
 勝手に結論づけようとする美郷を、啓二は慌てて遮る。
 布団の上に身を起こすと、ようやく頭がはっきりしてきた。卓上カレンダーに眼を走らせ、日付を確認する。
「結婚記念日って、再来週の日曜だよな」
「そうだけど」
 ならば間に合う。
 啓二は卓上カレンダーを引き寄せた。来週の週末には、最終選考の原稿が決まる。そこで、編集部内でも応募者の個人情報が明らかになる。
 つまり、祐一の緊急連絡先が手に入る。
「大丈夫だ。それまでに、兄貴と連絡が取れるはずだ」
「えー、本当? でも、お兄ちゃんって、今どこにいるかも分からないんでしょう」
 急に自信たっぷりになった啓二を、美郷は訝しんでいるようだった。
「メールきたの?」
「それはないけど」
 あの原稿を自分に読ませるために送ってきたのなら、祐一は今後もメールを寄こさない可能性が高い。あの兄のことだ。妙に照れている場合もありうる。
 ともあれ、出版社からの投稿原稿についての連絡であれば、祐一とてそれを受けずにはいられないだろう。
「メールないんじゃ、駄目じゃん」
「いや、駄目じゃない」
 不満げな美郷に、啓二はきっぱり言い切る。もしかしたら兄は、「編集者としての」自分からの連絡を待っているのかもしれない。
「本当に?」
「任せろ」
 男兄弟には、男兄弟にしか分からない機微というものがあるのだ。妹よ。
「……じゃあ、任せるよ」
 腑に落ちない様子だったが、美郷は渋々納得する。
「それじゃ、今日中に、五人で予約入れるからね?」
「おう。頼んだ」
 最後まで不安げだったが、それから数時間後に、美郷は予約した店のURLを送ってきた。
〝人数変更できないんだからね。お兄ちゃんへの連絡、マジに頼んだからね〟
 念押しのメッセージと、妙な表情の猫のキャラクタースタンプが連打されている。
〝安心めされよ〟と、イエス・キリストのスタンプつきのメッセージを送ってから、念のため、メールボックスを開いてみる。
 やはり、祐一からはなんの返信もきていない。
 啓二は、美郷からのURLを添付した新規メールを打ち始めた。投稿原稿のことは、敢えてこちらからは触れないでおく。兄が編集者としての自分の連絡を待っているなら、それに水を差すのは野暮だと思ったからだ。
 だが少し考えて、小さなメッセージを潜ませる。
 体操着に、穴をあけてごめん――。
 恐らくこれで、自分が祐一の原稿を読んだことが伝わるだろう。
 暗号のようなメッセージを打ち終えると、啓二は祐一のフリーアドレスに宛ててメールを送信した。

 ついにこの日がやってきた。
 ドキドキと胸の鼓動を高まらせながら、啓二は編集部のオフィスの電話に手をかけた。出版社からの連絡を受ける投稿者も緊張を覚えるだろうが、自分の見込んだ書き手に連絡を入れる編集者もまた、同じくらいの緊張と興奮を帯びる。
 ましてやそれが、もう何年も会っていない身内とくれば――。
 啓二が抱いた公算通り、祐一の原稿は他の編集部員からも高く評価され、五本の最終候補作のうちの一本に選ばれた。たとえ本選考で落ちたとしても、啓二は絶対にこの原稿を担当しようと心に決めている。
 ふと啓二は、最終選考の会議の後、編集長から呼び出されたときのことを思い返した。
「お前が入れ込んでる原稿、俺もなかなかいい作品だとは思うんだけどさ……」
 前置きをした上で、編集長は切り出した。
「ただ、これ書いた人、相当の曲者(くせもの)だぞ」
 そこで初めて、啓二はデスクが管理していた投稿者の個人情報を見せられた。たった二行の情報に、さすがに啓二も唖然とした。
「この人、応募要項まったく読んでないだろう。書いてきたのは、筆名と連絡先の電話番号だけだぞ。プロフィールどころか、年齢も性別も住所もない」
 連絡つくんだから、これでいいじゃん――。
 頭の片隅で、周囲の空気をまったく読もうとしない兄が堂々と嘯(うそぶ)いた気がした。
「す、すみません……」
 思わず頭を下げてしまい、「いや、別にお前に謝ってもらわなくてもいいんだけどさ」と、苦笑された。
「ただ、電話してみて、あんまり問題ありそうだったら、ちょっと考えろよ」
 編集長に心配されるまでもなく、性格に問題があるのはもうずっと以前から承知している。
 二行の情報が記された紙を前に、啓二は笑いを噛み殺す。
 記されているのは、固定電話の番号だ。恐らく、現在間借りしているシェアハウスの番号なのだろう。
 それから、「こりゃ、絶対本名じゃないよな」と編集長を噴き出させた筆名。
 最初に眼にしたときには、啓二も一瞬、めまいがした。
 月影(つきかげ)ユウ。
 ほんのちょっぴり本名の形跡が残っているのが、痛すぎる。
マジかよ、兄貴――。この先俺に、「月影先生」と呼べとでも言うつもりかよ。
 これが冗談なのか本気なのか分からないところが、祐一の恐ろしいところだ。
 十桁の固定電話の番号をプッシュすると、電話はすぐにつながった。啓二は再び緊張を覚える。
「はい」
 落ち着いた女性の声がした。シェアハウスの住人の誰かだろうか。
「あの、私……」
 出版社名を名乗り、「月影ユウ」を呼び出そうとした矢先、「うわーっ」と女性が歓声をあげる。同居する住人に、兄が投稿のことを話しでもしたのだろうか。
「いや、あの、ですから月影ユウさんを」
 第三者に先に最終選考の結果を知らせるわけにはいかないと、啓二は祐一を電話口に呼び出そうとする。
 ところが。
「はい! 私が月影ユウです」
 耳元で大きく響いた返答に、啓二は完全に言葉を失った。

 新鮮な生ウニの入った、トウモロコシの冷製ムース。ズワイガニの土佐酢ジュレ掛け。黒トリュフ入り、シャンピニョンのクリームスープ――。
 その店のフレンチは、確かに巷のビストロとは一味違う、個性的なメニューだった。
 素材の新鮮さも、料理の味つけも申し分ない。
 但し、必ず一人前余分に出てくることを除けば。
 時折美郷から送られてくる、刺すような視線を感じながら、啓二はなんとか二人分の前菜を平らげた。
 まったく……。
 澄まし顔で配膳まで手掛けているオーナーシェフを、啓二は密かに睨む。
 キャンセル不可能というのが料金だけならともかく、なにもわざわざ、こられなくなった人の料理を作ることはないだろうに。
「江戸前夏穴子のフリチュール、翡翠茄子添えです」
 なに、フリチュールって――。
「わあ、美味しそう~」
 気取った料理名に鼻白む啓二をよそに、母と妹がそろって声をあげる。
「お兄ちゃんも、これたらよかったのにねぇ……」
 からりと黄金色に揚がった穴子を前に母が項垂れると、すかさず美郷から抗議の視線が飛んできた。ナプキンを地蔵のように胸にかけた父は、母の隣で黙々と料理を食べている。
 妹の矢のような視線を躱しながら、啓二は揚げ物を前に内心溜め息をつく。
 これからメインの肉料理がくることを思うと、どんなに美味しくてもさすがにトゥーマッチだ。
 まさかの勘違いから数日が経っていたが、事の真相に思いが至ると、啓二は未だにぼんやりとしてしまう。
 月影ユウ氏は、個人情報欄に名前と電話番号しか記載されていなかったことについて、まったく関知していなかった。どうやら原稿をプリントアウトした際、偶然データが削除(デリート)されてしまっていたらしい。事実を告げた途端、平謝りに謝られ、却って啓二の方が恐縮した。
 四十代の月影氏は、雑誌編集経験もある、在宅のライターだ。そして驚くべきことに、「月影ユウ」はこの女性の本名だった。
 しかし、なぜ作者を完全に祐一だと思い込んだのか。
 悪い夢から醒めたように、啓二は首を横に振る。
 よくよく考えれば、人の迷惑を推し量ることもできない兄に、あんな見事な心理描写が書ける訳がないのだった。ましてや、太平洋戦争時の少年兵の記憶など。
 それでも自分探しの果てに、あれだけの体験を成し得たのかと、勝手に慮ってしまった。
 メールを見ているのか否かは知らないが、両親の結婚記念日の知らせに返事も寄こさない。それこそが、兄、祐一本来の姿だった。
 要するに、俺の買い被りだったって訳だ――。
 肩を竦めながら、フリチュールとやらを口に運ぶ。
 そのとき、母と妹から再び大きな歓声が上がった。 
 メイン料理がきたのかと個室の入り口に眼をやり、啓二は口にしかけていた穴子を落としそうになる。
 よれよれのTシャツに、破れたジーンズ。およそフレンチのお店に似つかわしくない恰好の祐一が、大きなリュックサックを背負って立っていた。
「うわぁあああっ、兄貴!」
 思わず、幽霊でも見たかのように叫んでしまう。
「なんだよ」
 途端に、祐一が顔をしかめた。
「お前がこいってメール寄こしたから、きたんだろ」
 リュックサックを下ろし、祐一が啓二の隣の席に乱暴に腰を下ろす。
「あ、なんだ、お前。俺の料理、全部食いやがって」
 空の皿を見て文句を言う祐一の横柄な態度に、啓二は絶句した。
 メールを見たのなら、返事を寄こせ。
 くるつもりなら、時間通りにちゃんとこい。
 言いたいことはいくつもあったが、すべては家族たちの興奮に押しやられる。
「お兄ちゃん、元気だったの?」
「仕事はちゃんとしてるのか」
「今、どこに住んでるの」
 母を筆頭に、父からも妹からも次々と質問が飛ぶ。
 新しいお絞りを持ってきたオーナーシェフにビールを注文しながら、祐一は己の状況について大雑把な説明を始めた。 
 曰く、兄は現在、テレビドラマや映画の音響効果の仕事に就いているらしい。この数週間は、「馬のいびき」を録音するために、北海道の牧場に泊まり込んでいたそうだ。
 南の島じゃなくて、北海道だったか――。
 啓二はなぜか、途方もない脱力感に襲われた。
「まあ、凄い。お兄ちゃんたら、業界人なのね」
 久しぶりに兄と再会した母が、頬を染めて興奮している。その傍らで、美郷はいささか複雑な表情を浮かべていた。
 そうだよな。
 啓二は妹の心情に思いを馳せる。母のために店を選び、どれだけ気を配っても、突然現れた長男に、すべてを持っていかれてしまう。
 まこと、長子というのは母親にとって、特別な存在であるらしい。
 だが妹よ。よいではないか。我ら次子は、それによって免れてきた圧力が無きにしもあらずなのだから、今は敢えて屈辱に甘んじよう。
「美郷、この穴子、美味いな」
 絶妙なタイミングで、父が妹に声をかけていた。
 きっとこんなふうにして、昔から桐生家はバランスを取ってきたのだろう。そしてそれは、満更でもない家族像のようにも思われる。
「これ、お祝い」
 大きなリュックサックをあけ、祐一は木彫りのアイヌ人形を取り出した。
「まあ、可愛い」
 見ようによっては不気味な人形に、母が感激の声をあげる。父は無言で半笑いだ。
「それと、啓二、これ」
「え?」
 重い袋を手渡され、啓二は一瞬、きょとんとした。
「今月、誕生日だろ」
 当たり前のように続けられ、言葉を失う。
 まさか、覚えていたとは思わなかった。けれど袋の中を覗き込み、啓二はやっぱり唖然とした。鮭をくわえた木彫りの熊が入っている。
 こんなものを、六畳一間のアパートの一体どこへ置けというのか。
 嫌がらせかとも思ったが、冗談なのか本気なのか分からないところが、祐一の恐ろしいところだった。
 やがて、メインの和牛ステーキが供され、久しぶりに一家全員がそろったテーブルが、一層華やいだ。鮪節を隠し味に使ったというステーキを口に運びながら、啓二は祐一のつかみどころのない表情に眼を走らせる。
 ふと、ビールを飲んでいる祐一がこちらを見た。
「そうだ、啓二!」
 ビールのグラスをテーブルに叩きつけて、祐一が声を荒らげる。
「昔、俺の体操着に穴をあけたのって、あれ、お前だったんだな!」
 いきなり、テーブルの下で脚を蹴られた。
「あのとき、俺がどれだけ恥かいたか分かってんのかよ。俺はまた、母さんが洗濯のときに破ったとばかり思ってたのに」
「えっ!」
 とばっちりを受けて、母が顔色を変える。
「お母さん、そんなことしてないわよ。ちょっと、啓ちゃん、お兄ちゃんになんてことしたの。今すぐ謝りなさい」
「そうだ、謝れ!」
 祐一と母から交互に怒鳴られて、啓二は愕然とした。
「なに、今更そんな昔のこと言ってんの?」
 思わず呟くと、再び脚を蹴られた。
「いきなりメールで告白してきたのは、お前のほうだろうが」
 確かに、兄からの謝罪だと思い込んでいた原稿に喚起され、つい打ち明けてはしまったが。
 それにしても大人げない態度の祐一を睨み返すと、呆れたように鼻を鳴らされた。
「本当に変な奴だな」
「兄貴にだけは、言われたくないよ!」
 言い合う自分たちをよそに、父と妹は素知らぬ顔でパンのお代わりをもらっている。母はお土産のアイヌ人形に見惚れ、兄はがつがつとステーキを食べ始めた。
 家族の様子を見るうちに、啓二は段々憮然としているのがバカバカしくなってきた。
〝私の心を読んでください〟か――。
 思い込みのきっかけとなった花言葉が心に甦り、啓二の口元に笑みが浮かぶ。
 始まりは勘違いだったけれど、結局自分は切望していた原石を、見事に探し当てたことになるのだろう。
 優れた物語は、ときに人の心を映し出す。
 これは己のことだと、あれは彼のことだと、そこかしこに、自分でも形にできなかった心情を発見する。それが証拠に、月影氏の描く主人公に祐一の姿を投影した啓二は、今までのように兄を胡乱(うろん)な存在には感じなくなっていた。
 月影ユウは本物だ。
 誰よりも早く彼女の原稿に眼をつけられたことは、今後の啓二の編集者人生の大きな前進につながるに違いない。
 そう思えば――。
「ありがとう、兄貴」
「なにがだよ」
 真っ向から聞き返され、啓二は言葉に詰まる。
「……いや、誕生日プレゼント」
 ぼそぼそと答えると。
「バーカ、あれ嫌がらせだぞ」
 珍しく柔らかく微笑んだ後、兄はふいとそっぽを向いた。
 

                  第二話「ヒエンソウの兄弟」完
                  第三話に続く

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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