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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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カリフォルニアポピーの義妹(後編)

2019.04.26 更新

 深夜のオフィスで、雪美はパソコンの画面を見つめていた。
 明かりがついているのは、間仕切りの奥の社長室だけだ。社員は誰も残っていない。
 孤軍奮闘という言葉が脳裏をよぎり、雪美は微かに苦笑する。
 チェアの上で伸びをし、すっかり固まってしまった肩を回した。このところ、連日深夜までこうしてパソコンに向かっているが、まだ母の日フェアのディスプレイ案が決まらない。営業部長の谷岡との意思疎通がうまくいかないため、社内調整に時間がかかっているのだ。
 既に四月に入ってしまった。今週中に案をまとめないと、各店舗への指示が間に合わない。
 雪美は仕入れ状況を確認し、ついでに予算案のファイルを開いた。正直、四月の新生活フェアの見込みは、惨敗に近かった。生花店にとって最大の繁忙期である母の日に失敗をすることはできない。
 繁忙期に入る前に、人員補充もしなければならないし……。
 中途採用のエントリーシートを確かめようとして、雪美はマウスを動かす手をとめた。今それを始めたら、今夜は帰れなくなってしまう。
 壁の掛け時計の針が零時になろうとしていることに気づき、雪美は両手を上げそうになる。
 気持ちばかりが焦り、実務がついていかない。もしかすると、自分は色々なことを背負い込みすぎているのだろうか。
 でも……。自分がやらなければ、一体誰がやるのだ。
〝怒らないでよぉ、怒らないでよぉ〟
 弟の泉の情けない泣き声が甦り、雪美は奥歯を噛む。あれ以来、弟とも母とも連絡を取っていない。その後の進展に至っては、知りたいとも思わない。
 あいつさえもっとしっかりしていれば、私一人がこんなに苦労することも無かったのに……。
 考えれば考えるほど腹が立つ。
 すべてのファイルを閉じ、雪美はパソコンをシャットダウンした。今日はもう時間切れだ。終電を逃す前に、オフィスを出よう。
 社長室の電気を消し、エアコンをとめ、施錠をしてから暗い廊下に出ると、急に寄る辺のない気持ちが込み上げた。谷岡が腐すように、本当に父は〝おひとりさま〟の自分の行く末を憐れんで、社長に任命したのだろうか。
 お父さん、早すぎるよ……。
 父の巧と一緒に退社していた頃を思い出し、雪美は小さく鼻を啜った。

 週末でもないのに、終電は大変な混雑だった。疲れ切った表情のサラリーマンたちは押し合いへし合いしつつ、全員が一様に手元のスマートフォンを覗き込んでいる。
 ようやく駅にたどり着いたとき、雪美は買ったばかりの春物のスーツをくしゃくしゃにされていた。夜道をとぼとぼと歩きながら、これでは新生活に花を買おうと思い立つ余裕なんて、誰も持てるはずがないと考える。
 途中でコンビニに寄ろうかと思ったが、お腹が空いているはずなのに食べたいものがなにも浮かばなかった。
 確か冷蔵庫に、栄養補給用のゼリー飲料があったはずだ。
 最近は、そんなものばかりを口にしている。食欲が湧かないのだから仕方がない。
 半ば捨て鉢になりながらマンションを見上げ、雪美はぎょっと足を竦ませた。自分の部屋に明かりがついている。
 つけっ放しで出勤してしまったのだろうか。
 そもそも朝に電気をつけたろうかと訝りつつ、足早にエレベーターに乗り込んだ。
 自分の部屋の扉をあけるのに、これほど緊張したことはない。鍵穴にキーを差し込むと、くるりと空回りした。まさか、施錠も忘れたのか。
 最近疲れているとはいえ、これはおかしすぎる。
 雪美の胸元を、気味の悪い汗が流れた。万一の場合に備え、鞄からスマートフォンを取り出す。すぐに通報できる体制を整えてから、勢いよく扉をあけた。
 ふわりと甘い匂いがする。
 誰かが、勝手にキッチンを使っているらしい。
「誰っ!」
 スマートフォンを掲げたままキッチンに足を踏み入れた瞬間、オレンジ色の頭が眼に飛び込んできて、雪美は絶句した。
「わ! びっくりした」
 盛大に肩を弾ませて、キャロラインが振り返る。
「ちょっと、ユキミン、おどかさないでよ~」
 それはこっちの台詞だ。
 なぜここに、この女がいるのだ。
「っていうか、ユキミン、遅すぎー。さっきまでイズミンも一緒に待ってたんだけど、締め切り前だから先に帰らせたとこだよ。それにさ、ユキミンの部屋、ちっとも可愛くなくね? せっかくお花屋なんだから、お花飾ったり、アロマ焚いたりしたほうがいんじゃね? まずは自分がやんないとさぁ」
 油紙に火でもつけたかのようにぺらぺらと喋っているキャロラインのしたり顔を、雪美は唖然として眺めた。
 そう言えば――。
 もう記憶の彼方に葬り去っていたが、実家を出たとき、緊急用にと合鍵を母と弟と交換し合ったことをぼんやり思い出す。
「冷蔵庫にはろくな食材も入ってないしさ。あ、オーブンレンジ、使わせてもらったよ」
 キャロラインが鼻歌交じりになにかを言いながらオーブンレンジの扉をあけているのを見て、雪美は我に返った。
「……なんで、あなたがここにいるのよ」
「え、だから言ったじゃん。イズミンと待ってたんだって」
「なんで人の家に勝手に入り込んだのかって聞いてるんだけど」
「いいじゃん、別に。家族なんだし」
「いい訳ないでしょっ!」
 ついに雪美は大声をあげた。第一、こんな女と家族になった覚えはない。
「こんなの不法侵入じゃない。さっさと出てってよ」
 雪美は声を震わせたが、キャロラインは平然としている。
「えー、別に不法侵入じゃないよ。合鍵持ってるんだし」
「それは泉であって、あなたじゃないでしょ」
「えー、同じだよ。私、イズミンと結婚するんだもの。その前に、女同士で親睦を深めようと思って」
 キャロラインは舌を出して「てへっ」と笑った。 
「だってさ、私たち、姉妹になるんだよ。ね、おねえちゃん」
 ざわっと鳥肌が立つ。
 雪美は肩にかけていたバッグをキャロラインに向かって力一杯投げつけた。
「うわっ、あっぶねー!」
 キャロラインが身をかわし、バッグは派手な音をたてて壁に当たる。
「ちょっと、ユキミン、なにすんの。まじ、洒落になんねーし」
 洒落にならないのは、そっちのほうだ。
「バカなこと言わないでっ! あなたが弟と結婚するなら、私は縁を切るから」
「えー、なんで?」
 全身をわななかせて叫んだが、キャロラインは心底訳が分からないという顔をしてみせた。
「ユキミン、なにそんなに怒ってるの? イズミンを取られるのが怖いとか」
「そんなこと、ある訳ないでしょっ!」
 なぜ怒られているのかが分からないという、この女のほうが大問題だ。これはもうアメリカ育ちとか、そういう問題ではない。あまりにも常識がなさすぎる。
 泉は本気で、こんな女と結婚するつもりでいるのだろうか。
「もう二度とこないで。今後一切、私にかかわらないで!」
「えー、無理。だって、イズミンのお姉さんでしょ」
「あんな奴、もう関係ない。弟でもなんでもない!」
「ちょっと、それは酷いって」
 もっともらしく指摘されて、雪美は頭に血がのぼった。
「うるさいっ! あなたになにが分かるのよ。あいつさえもう少ししっかりしていれば、私一人が会社でこんなに苦労することも無かったんだからねっ!」
 怒髪冠を衝く勢いで叫ぶと、キャロラインはさすがに大人しくなった。無言で見つめられ、なんだか居心地が悪くなる。
 雪美は壁に当たって落ちたバッグを拾い、さっさとこの場を立ち去ろうとした。
「なんで、苦労してるの」
 背後から、キャロラインが低く問いかけてくる。
「は?」
 思わず振り向けば、キャロラインが今までとは少し違った眼差しでこちらを見ていた。
「自分で選んだ仕事でしょ。だったら苦労なんてやめて、楽しめばいいじゃない。イズミンは、いつだって楽しく仕事してるよ」
「あいつの仕事なんて、遊びと同じじゃない。一緒にしないでよ」
「いくら楽しくても、遊びと仕事は違うよ。イズミンだって、プロとして一生懸命頑張ってるんだよ。第一、ユキミンは、イズミンの本をちゃんと読んだことがあるの?」
「……ないけど」
「じゃあ、仕事を楽しめない自分を棚に上げて、適当なこと言うのやめなよ」
 突如理路整然と言い込められて、雪美は言葉に詰まった。
 なぜ自分が、こんな女に説教されなければいけないのか――。
「なにも知らないくせに、そっちこそ、余計なこと言わないで」
「話してももらえないのに、ユキミンがなにに苦労してるかなんて、私に分かる訳ないじゃん。そもそもユキミンは、好きでお花屋さんになったんじゃないの?」
「そりゃあ……」
 雪美は再び口ごもる。
 だが好きとか嫌いとかの以前の問題として、「フローラル・テラ」は家業なのだ。
「おじいちゃんの代から続いている花屋を、私の代で潰す訳にはいかないでしょう」
「え、潰れちゃうの?」
 思わず呟いてしまった言葉に、キャロラインが食いつく。
「そんなこと言ってない」
 慌てて言い直せば、
「じゃあ、誰かに乗っ取られるとか」
 とかぶせられ、雪美は大きく息を呑んだ。瞬時に営業部長の谷岡の顔が脳裏をよぎり、返す言葉を失う。
「もしかして、心当たりがあるとか」
 絶句した雪美に、キャロラインが眼を爛々とさせて身を乗り出してきた。
「ありうる話だよねー。ファミリー・カンパニーの社長がいなくなった途端、重役がメインバンクと組んで勝手にM&A進めちゃうとか、まじ、アメリカではよくあるわー」
 面白おかしく喋り立てられ、雪美は茫然とする。考えたくもない、しかし、言われてみれば否定もできない可能性を、いきなり眼前に突きつけられた気がした。
「もう、いいから、私の部屋から出てってよ!」
 これ以上話していると藪から蛇が出てきそうで、雪美は声を荒らげる。
「えー、それはないでしょう」
 途端に、キャロラインがふくれっ面になった。
「こんな時間じゃ、もう終電ないじゃん。今夜はユキミンのところに泊まってくって、イズミンにも言っちゃったし」
 なにを二人で勝手に決めているのか。
 雪美は新たな怒りが湧くのを感じた。こちらは明日も仕事なのだ。早朝から深夜まで働かなければ追いつかない業務があるのだ。父がいなくなった途端、傍若無人に振る舞い出した谷岡に負ける訳にはいかないのだ。
「ねえ~、泊めてよ、おねえちゃ~ん」
 オレンジ色の髪を振りたててすり寄られそうになり、雪美は「ぎゃっ」と飛び退く。
「やめろ! 帰れ」
「やだ、泊まるぅ」
「いいから、帰れ」
「やだやだ、泊めてぇ」
「帰れ、帰れ、帰れぇえええええっ!」
 抵抗するキャロラインを猛獣の如く追い立て、ようやく玄関から押し出したときには汗だくになっていた。
 スコープから覗いて戻ってこないことを確かめると、雪美は全身で息をついた。
 なんて恐ろしい女だろう。
 あれこそ、いつの間にか相手のテリトリーに忍び込み、在来種を全滅させる外来の毒草だ。
「私を拒絶しないでください」
 カリフォルニアポピーの花言葉が脳裏に浮かび、雪美は大きく首を横に振る。
 冗談じゃない。率直に言って、拒絶しか感じない。
 嫌悪感に慄きながらキッチンに戻ってくると、部屋中に甘い匂いが立ち込めていることに改めて気がついた。
 オーブンレンジの中を覗くと、見慣れぬココット型の耐熱容器に入った薔薇色の美しいものがある。
「なに、これ」
〝プディング作ったからね~〟
 そう言えば、鼻歌を歌いながらキャロラインがそんなことを口にしていた気がする。わざわざ調理器具まで持ってきたのか。半開きになっていた扉をあけ、雪美はそれを取り出してみた。
 プディング――。子供の頃、西洋の物語にたびたび登場するその響きは、少女時代の雪美の好奇心をかきたてた。ライスプディングに至っては、ご飯の入ったプリンって一体どんなものだろうと、首を傾げた。
 今では、日本の所謂「プリン」はカスタードプディングのことで、プディングとは小麦粉や米粉に様々な具材を加えて蒸したり焼いたりした食品の総称だということは知っている。
 キャロラインが勝手にオーブンレンジを使って焼いたのは、たっぷりと苺を使ったベイクドプディングのようだった。
 可愛らしいココット型の容器から温かな湯気が立ち、甘酸っぱい香りが鼻孔を擽る。
 雪美の空っぽの胃袋が小さな音を立てて収縮した。途端に、自分が酷く空腹であることに思いが至る。
 とんでもない女が作っていったものだという危惧感が頭の片隅で警鐘を鳴らしていたが、雪美は自分を抑えることができなかった。気づいたときには、ココットの中でふっくらと膨らんでいる薔薇色のプディングにスプーンを入れていた。
 一匙掬って口に入れた瞬間、雪美は思わず陶然とした。苺だけではない。ラズベリーやレッドカラントの粒粒とした果肉がしっとりとした生地の中に際立ち、爽やかな酸味が口一杯に広がっていく。唾液腺が刺激され、下顎のつけ根がきゅうっと痛くなった。
 これだ、と雪美は思う。
 お腹が減っているにもかかわらず、コンビニでは食べたいものがなに一つ思い浮かばなかったが、自分が食べたかったのは、このベリーの果汁と果肉をたっぷりと含んだ滑らかで温かいプディングだったのだ。
 バターのコクと果実の自然な甘さが舌の上で絶妙に溶け合い、スプーンを動かす手をとめることができない。いつしか雪美は夢中でスプーンを口に運び、久々のご馳走を存分に味わっていた。
 最後の一口まで堪能し、満足の息を漏らす。
 空のココットを眺めながら、雪美は随分と気分が落ち着いていることに気がついた。
 不法侵入までされたのに……。
〝キャロの焼き菓子は最高なんだよ〟
 泉の能天気な声が脳裏をよぎり、ひょっとして弟もこの手で丸め込まれたのではあるまいかと、はたと冷静になる。美味しい食べ物は、人の判断力を鈍らせる恐るべき魔力だ。なんだか術中に嵌ったようで、雪美は空になったココットをそそくさとシンクに運ぶ。だが、オーブンレンジの中に、まだココットが二つ残っているのを見ると、自然と顔が緩んでしまった。 
 終電もない深夜に追い出したけれど、あの後、キャロラインは無事にどこかへ帰り着いたのだろうか。
 ココット型の容器を洗いながら、雪美はほんの少しだけ心配になった。
 とは言え、自分の部屋に彼女を泊めたいとは微塵も思えない。やっぱりああするしかなかったのだと弁解のように考えながら、雪美は寝室に入った。
 部屋着に着替え、ベッドの上に腰を下ろす。
 明日もまた、定例会議だ。
 キャロラインは自分で選んだ仕事なら楽しむべきだと言い放ったが、現実はそうはいかない。
〝じゃあ、誰かに乗っ取られるとか〟
 同時にキャロラインは、雪美の死角になっていた可能性を見事に突いてきた。万一、それが本当だとしたら、この先自分はどこまで攻防に耐え得るだろう。
 底なし沼に足を取られたような不安に囚われる。沈み始めてしまったら、誰も自分を助けてくれない。
お気楽に生きていられるのは、泉のような浮世離れした人種だけだ。
〝いくら楽しくても、遊びと仕事は違うよ。イズミンだって、プロとして一生懸命頑張ってるんだよ〟
 静かな部屋の中に、再びキャロラインの低い声が響いた気がした。
〝第一、ユキミンは、イズミンの本をちゃんと読んだことがあるの?〟
 雪美はしばらくぼんやり考え込んでいたが、やがて、封も切らずにボックスに放り込んである泉からの献本の山を見やった。茶封筒をあければ、肌も露わな「ロリっ子」たちが表紙の文庫本が滑り出る。
 萌え系アニメ調の表紙だけで気分が萎えそうになったけれど、とりあえずページを開いてみた。
 高校時代の泉を思わせる、冴えない少年が主人公だ。その主人公が、始終、気の強い姉から理不尽にこき使われる冒頭のシーンに、雪美は眉を寄せた。
「なによ、これ……」
 自分がモデルにされているらしいことに憤慨しながらページをめくっていくと、突如、少年は不慮の事故で死んでしまう。
「え? 主人公、死んじゃうの」
 雪美は戸惑ったが、物語が加速するのはそこからだった。弟の非業の死に涙にくれる姉の懺悔の願いが届き、少年は異世界で〝万能(チート)〟なロリ系美少女に転生する。そして、前世で姉に理不尽に振り回されていたからこそ身についた数々の機転で事件を解決し、あちこちでレズっけのある美少女たちから迫られまくる。
「バカじゃないの……」
 冴えない少年にとって都合がよすぎる世界観に呆れつつも、なんだかんだと面白くてついついページをめくってしまう。泉の文章はテンポがよく、色鮮やかで、明快で、それでいて時折ハッとするような深みがあった。
 なにより、伸びやかな筆致で個性的な登場人物たちが生き生きと描かれている。悪い人間が一人も登場しないところもすがすがしい。心根の優しい美少女だらけのファンタジーは、一時、世知辛い現実を忘れさせてくれる。
 いつの間にか、雪美は物語に引き込まれていた。
「ちょっと、ここで終わるの?」
 憎いくらい気になるところで一巻が終わり、小さく悪態をつく。
 泉のくせに、狡いじゃないの……。
 二巻目を探そうと、雪美は献本の山を崩し始めた。

「社長」
 週末、深夜近くまでパソコンに向かっていると、遠慮がちに声をかけられた。雪美が顔を上げれば、間仕切りの手前に企画部の女性スタッフが立っている。
「斎藤(さいとう)さん、まだ、残ってたんだ。オフィスには誰かいるの?」
 中途採用のエントリーシートのチェックを中断し、雪美はかつての直属の部下を見やった。
「いえ、私で最後です」
 入社三年目になる斎藤が首を横に振る。
「そう。じゃあ、ここ以外の電気、消してもらって構わないから、斎藤さんももう帰ってね」
 母の日フェアのディスプレイ案がなかなか固まらなかったため、各店舗への店頭(ファサード)変更の伝達にも時間がかかってしまったのだろう。雪美は「お疲れさま」とねぎらったが、斎藤はまだ間仕切りの手前で立ち尽くしている。
「どうしたの」
 雪美が本格的に手をとめると、斎藤が社長室に入ってきた。
「社長。ちょっと、お伺いしたいことがあるんですが……」
 その表情に不穏なものを感じ、雪美は立ち上がる。斎藤を促し、一緒に来客用のソファに移動した。テーブルを挟んで向かい合っても、斎藤はなかなか用件を切り出そうとしなかった。
「あの……。谷岡部長が言ってることって、本当なんでしょうか」
 散々言いよどんだ後、斎藤がようやく重い口を開く。
「谷岡さんが言ってることって?」
「『フローラル・テラ』に、今後、企画部は必要ないっていう話です」
 雪美は一気に動悸が速まるのを感じた。
「そんなこと、私は考えていません」
 語尾がかすれそうになるのを、かろうじてこらえる。
 一体、どういうこと――?
 不安そうに自分を見つめてくる斎藤に動揺を気取られまいと、雪美はテーブルの上で指を組んだ。
 社長である自分を差し置いて、谷岡はなぜそんな勝手なことを吹聴しているのか。
〝じゃあ、誰かに乗っ取られるとか〟
 耳の奥で、先日のキャロラインの甲高い声が木霊した。
〝ファミリー・カンパニーの社長がいなくなった途端、重役がメインバンクと組んで勝手にM&A進めちゃうとか、まじ、アメリカではよくあるわー〟
 テーブルの上の指を、色が変わるほどきつく握りしめる。そうしないと、指先が震え出してしまいそうだった。
 どうやら、キャロラインの勘は正しいようだ。やはり谷岡は、今後の「フローラル・テラ」を牛耳ろうという野心を抱き、水面下でなんらかの動きをしているらしい。
「どうしてそういう噂が出るのか、谷岡部長とちゃんと話してみます」
 しかし雪美がそう続けると、斎藤は一転して怯えたような表情になった。
「あの、社長……。すみませんが、谷岡部長の前で私の名前は出さないでいただけますか」
「もちろんよ」
 雪美はすぐさま請け負ったが、斎藤は相変わらず落ち着きなく視線をさまよわせている。彼女の狼狽ぶりは、谷岡の扇動が既に若い社員たちの間で大きな影響力を持っていることを窺わせた。
「社長」
 再び斎藤が固い声で呼びかけてくる。
「なに?」
「私……」
 一瞬口ごもった後、斎藤が顔を上げた。
「企画の仕事、好きなんです」
 真剣な眼差しに、雪美はハッと胸を突かれる。
「インスタでも、『フローラル・テラ』の薔薇の花を敷き詰めたブライダル相談コーナーに座るのが夢だって言ってくれてる人たち、結構多いんです」
 何種類もの薔薇の花を贅沢に使用したブライダル相談コーナーのディスプレイは、雪美が企画部の女性スタッフたちと何日も議論して作り上げた労作だった。ブーケや式場の装飾花をゆっくり選んでもらうために、顧客にローズティーを振る舞うアイディアを出したのは斎藤だ。
「私も『フローラル・テラ』には、企画部が不可欠だと思ってます」
 雪美が頷くと、斎藤はようやく微かな安堵の表情を浮かべた。
 斎藤が帰ってから、雪美はしばらく一人でパソコンの画面をじっと見つめていた。今の「フローラル・テラ」を護りたいと思っているのが自分だけではないことに、初めて気づかされた。
 でも――。
 そのために、なにをどうすればよいのかが分からない。
 谷岡は営業としては優秀な男だ。実績もあるし、社歴も雪美よりずっと長い。彼が率いる営業部を敵に回したら、数字を作ることはできない。
 大丈夫なのかな、私……。
 雪美は大きな溜め息を漏らす。
 部長職の中で一番年下だった雪美は、谷岡や西野のような年長の男たちを従えて会社をまとめていく自信が、未だに充分には持てないのだった。
 だから、お父さん。早すぎるんだってば……。
 父のために十四年間世話をしてきた観賞植物を、雪美はじっと見つめた。

 翌日、倒れ込むようにして眠っていた雪美は、チャイムの音に起こされた。
 ベッドサイドの目覚まし時計を手に取れば、既に正午を過ぎている。カーテンの隙間から、春の明るい陽光が差し込んでいた。
 再びチャイムが鳴る。
「しつこいな……」
 目蓋をこすりながら、雪美はベッドを降りた。連日の深夜残業疲れは、この程度の朝寝では少しも解消しない。
 宅配便ならボックスを使ってくれればいいものをと思いつつ、インターホンのモニターを見ると、そこに弟の泉が映っていた。
 まったく……。
 雪美はパジャマの上にカーディガンを羽織って渋々玄関へ向かう。
「くるならくるって、事前にメッセージでも寄こしなさいよ」
 扉をあけて不機嫌に告げれば、泉は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「ごめん」
「まあ、勝手に合鍵を使って入られるよりはましだけどね」
「ほんと、ごめん……」
 前回は「そのほうがサプライズ感があって面白い」というキャロラインに押し切られてしまったと言うけれど、そんな意見を鵜呑みにする泉にも大いに問題がある。
「で、一体、なんの用よ」
 リビングは散らかっていたが、雪美は開き直って泉を通した。
「うん……。新作のプロットを読んでもらおうと思って」
 泉がおずおずとファイルを差し出してくる。
「はあ?」
 相変わらず訳が分からない。なぜ自分が、ラノベのプロットを読まなければならないのか。
「そんなの、編集に頼みなさいよ。どうせまた、万能(チート)なロリっ子の話でしょ」
 寝ぐせのついた髪をシュシュでまとめながら鼻を鳴らすと、泉が照れたような笑みを浮かべた。
「読んでくれてるんだね」
 泉の視線の先に読みかけの文庫本が積んであることに気づき、雪美はいささか決りが悪くなる。
「ただの暇潰しだから」
「それでも嬉しいよ」
 素直に微笑まれ、雪美は頬が赤くなるのを感じた。
 これだから泉は嫌なのだ。
 純粋すぎる弟を前にすると、雪美はいつまでたっても臍曲がりの「悪いお姉ちゃん」になってしまう。それに、今の自分に潰すような暇がないことは、雪美自身が一番よく知っていた。
 泉がキッチンに立って紅茶を淹れている間に、雪美はファイルを開いてみた。
 ビオラ、リリー、ローズ、サフラン……。
 登場するのは、すべて花の名前を持つ妖精だ。
「これって……」
 ページをめくりながら顔を上げると、「うん」と泉が頷いた。
「『フローラル・テラ』と、なにかタイアップができないかと思って書いてみたんだ」
 散らかったテーブルの上に、紅茶のカップが置かれる。よほど丁寧に淹れたのだろう。たいして高い茶葉ではないのに、自分が淹れたときとはまるで違う、蘭を思わせる甘い芳香が立ち上った。
「実は、キャロに怒られたんだ。『フローラル・テラ』のことを、お姉ちゃんに任せすぎじゃないかって」
 いかにも申し訳なさそうに、泉が眉を寄せて雪美を見る。
「だから、俺もなにかできることをしたいと思って」
雪美は無言でカップに唇を寄せた。ほのかな渋みとまろやかなコクが起き抜けの喉を爽やかに潤していく。
 あのキャロラインが、そんなことを……。
「ああ見えて、キャロは結構苦労してるんだよ」
 雪美の秘かな感慨を読んだように、泉が続けた。
「駐在中の事故で、キャロは小学生のときに、ご両親を一度に亡くしているんだ」 
「事故?」
「出張先から帰る途中で、乗っていた車がスリップ事故を起こしたんだ。長距離移動中に、悪天候に見舞われたんだって」
 雪美は黙ってカップの中の紅茶を見つめる。あのお気楽そうなキャロラインに、そんな過去があったとは夢にも思わなかった。
 インタースクールに通っていたキャロラインは、その後、両親の親友だった白人夫妻と国際養子縁組を組むことになったのだという。
「アメリカは養子大国だから、肌の色が違う家族もたくさんいるんだって。両親は実の子供同然に、キャロを大切に育ててくれたそうだよ。でも……、アメリカにも色々な人がいるからね」
 泉が小さく首を横に振る。どれだけ人種の坩堝であろうと、肌の色が違う子供を差別する人がまったくいない訳ではない。人種の違う親子をとやかく言う向きもまた、同様だ。
 それを気にしたのか否かは定かではないが、キャロラインは後に日本の大学に進学することを選んだ。ところが故郷のはずの日本でも、彼女は完全に異物扱いだった。
「さすがに中学や高校とは違うから、苛めみたいなのはなかったそうだけど、誰一人として、自分から近づいてきてくれる人がいなかったんだって。どこへいっても、遠巻きにされている感じだったって言ってた」
 それは――。悪いけれど、分かる。
 下手に気を許したら、あっという間に侵食されて、こちらが駆逐されてしまいそうなのだもの。
 ポピーの花びらを思わせるキャロラインのふわふわとしたオレンジ色の髪を、雪美は思い浮かべた。
「アメリカでは東洋人だと言われ、日本ではアメリカ人だと言われるって、キャロは笑ってたよ。でも、俺、そういうことを明るく話せるキャロのこと、すごいなって思ったんだ」
 泉が少し真面目な表情でこちらを見る。
「だって、誰からも避けられるなら、自分から飛び込んでいけばいいって、キャロは言ったんだ」
 その言葉に、雪美もハッとした。
 カリフォルニアポピーの花言葉は、「私を拒絶しないでください」――。
「だからって、合鍵使って勝手に部屋に入られるのは勘弁してほしいんですけど」
「ごめん、ごめん。でもキャロは、本当にお姉ちゃんと話がしたかったんだと思うよ」
 雪美が読み終えたプロットを差し出すと、泉は頭を掻いた。
「で、どう? 面白かった?」
「うーん……。私はこういうの専門じゃないから、正直、よく、分からない」
「あのさ、まだここだけの話なんだけど、俺のデビュー作のシリーズ、アニメ化が決まったんだ」
「え、あのレズっぽいロリっ子の?」
 思わず聞き返すと、嬉しそうに頷く。
「実は俺、その関係でキャロと出会ったんだよ」
 そう言えば、キャロラインは日本のアニメーションを海外に紹介する仕事をしていると、初日に告げられた覚えがあった。
「アニメの人気が出れば、俺のラノベもそこそこ影響力を持つんじゃないかって思ってるんだ」
 それは、確かに素晴らしいことなのだろうけれど。
「……ちょっと、『フローラル・テラ』の路線とは違うかな」
 萌え系美少女の表紙イラストを思い返し、雪美は首を傾げた。雪美が今後力を入れていきたいのは、ブライダル系やインテリア系なのだ。
「まあ、普通に考えれば、俺もそう思うんだけど」
 雪美の率直な反応に気分を害した様子もなく、泉が鷹揚に笑う。
「でもさ、反対に、俺の読者が『フローラル・テラ』に興味を持ってくれるかも。ラノベやアニメのファン層って、〝元ネタ〟探すの得意なんだよ。そこで、今までだったら絶対近づかない花屋で〝推し〟の花でも買ってくれるようになったら、それはそれですてきなことじゃないかなって思ったんだ」
「推し……?」
「そう。だから、『フローラル・テラ』でも、何気にヒロインの名前のブーケとか作ってみてよ。〝推し〟のためなら、おシャンティの壁を乗り越えるのが、俺らの気概っていうか……。ま、俺らもそうそういつまでも、〝リア充爆発しろ〟とかばっかり言っていられないってことでもあるんだよね」
 もっともらしい表情で、泉は何度も頷いてみせた。
「だってさ、おシャンティ女子が大好きなサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』だって、俺からすれば〝元祖妹萌え〟に思えるんだよね。実際、おシャンティの壁は、それほど高くないんだよ。ホールデンの妹のバブみなんて、相当なものだもの」
 半分以上なにを言っているのか分からなかったが、泉が泉なりに「フローラル・テラ」のことを考えてくれているということだけは理解できた。
「ありがと」
 ぼそりと呟いただけなのに、泉はこちらが照れるほどに赤くなる。
「いや、俺のほうこそ、本当にごめん。キャロに言われるまで、お姉ちゃんが一人で大変な思いをしていることに、ちっとも気づかなかった。俺だって、『フローラル・テラ』に育ててもらったようなものなのに」
 神妙に頭を下げられ、雪美は居心地が悪くなった。
 相変わらず、泉は「いい子ちゃん」だ。
 こんなに純粋な弟には、もしかしたらあれくらい突拍子のない相手のほうが、むしろバランスが取れるのかもしれない。
「……で、本気であの人と結婚したい訳?」
 上目遣いに尋ねると、泉は深く頷く。
「運命の相手だと思ってる」
 よくもまあ、こんなセリフを堂々と口にできるものだ。
 でも――。
 家族の中にもう一人、「フローラル・テラ」について真剣に考えてくれる人がいるという事実は、雪美の張り詰めた心を少しだけ和らげた。
「それじゃ、仕方ないね」
 溜め息交じりに告げれば、泉がぱあっと顔を輝かせた。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「その代わり、結婚式の装飾花は全部うちに注文して。家族割とか、絶対しないからね」
「了解、了解」
 満面の笑みで頷いていた泉が、ふいに「あ、そうだ」と真顔になる。
「お姉ちゃん」
「なによ」
 真剣な表情で見つめられ、雪美は少々身構えた。
「さっき、俺の作品を、レズっぽいロリっ子って言ってたけど、それ、LGBTの人に対して失礼だから」
 雪美を見据え、泉はきっぱりと言い切る。
「俺のはただのユリだから」
 なにを言っているのかさっぱり分からなかった。

 四月の半ばに入り、母の日の繁忙期を前に、「フローラル・テラ」の中途採用面接が始まった。
 一番大きな会議室で、営業部長の谷岡と並んで席に着いた雪美は、苛立ちを隠すことができずにいた。
 肝心な質問を繰り出そうとすると、たびたび谷岡に横から口を出される。酷いときには、完全に遮られてしまうことさえあった。
「谷岡部長、私が話している最中に、途中で口を挟むのはやめてください。妨害されているように感じますし、応募者も戸惑います」
 面接者の入れ替えの隙を狙い、雪美は声を低めて抗議する。
「いや、そんなつもりはまったくありませんよ」
 だが谷岡は、あくまでも空とぼけるつもりのようだった。
「ただ、面接時間を有効に使おうとしているだけです」
 まるで、雪美の質問を時間の無駄だと決めつけるような口ぶりだ。谷岡の背後に控えた人事課長代理の檀上は、澄ましてお茶を飲んでいる。
 歯噛みするような思いで、雪美はエントリーシートに眼を落とした。次の応募者との面接はなんとしても邪魔をされたくない。
 杉本(すぎもと)佳代(かよ)、四十二歳。高学歴で、外資系会社でキャリアを積んできた逸材だ。
 なぜ彼女のような人物が「フローラル・テラ」への転職に興味を持ってくれたのか、ぜひとも詳しく聞いてみたい気持ちがあった。
「次の人、どうぞ」
 谷岡がぞんざいな声を上げる。
 ノックもせずに扉が開き、グレーのパンツスーツの女性が部屋に入ってきた。女性が迷うことなく部屋の中央に置かれたパイプ椅子に腰を下ろした瞬間、なぜか雪美はハッとした。
 額の真ん中で黒い髪を分けた杉本佳代は、一見能面のような地味な顔立ちだが、意志の強そうな眼差しをしていた。
「あれー」
 谷岡が、面白そうに佳代を見やる。
「あなた、なにも言われてないのに、勝手に座っちゃったねぇ」
 その指摘は、古臭い面接マニュアルのイロハなのだろう。確かに今までの応募者は、こちらから「座ってください」と声をかけるまで、決して椅子に座ろうとはしなかった。
 そんなことで面接者の気勢をそごうとする谷岡の態度が、雪美は気に障った。
「ジョブインタビューですから、皆さんの前に座るのは当たり前でしょう。それとも私以外の誰かが、ここに座るんですか」
 しかし、雪美がとりなす以前に、佳代が真っ向からそう言い返してきた。不意を突かれ、谷岡も檀上も、眼を丸くしている。
「どうか、お気になさらないでください」
 雪美はすぐに笑みを浮かべた。正面から眼が合った瞬間、やはり不思議な気分に囚われる。
「まず、志望動機をお聞かせいただけますか」
 エントリーシートをめくりながら尋ねると、佳代はすっと背筋を伸ばした。
「御社の企画部に興味があったからです」
「企画部ねぇ……」
 すかさず谷岡が間に入ってくる。
「あなた、随分高学歴みたいだけれど、別にフラワーアレンジメントの資格とかを持ってる訳じゃないでしょう。デザインスタジオやブライダルの企画とかに憧れてるんだったら、実務経験のない人にはお勧めできませんよ」
 決めつけるような口ぶりに、雪美は焦った。
「まず、現場に入っていただいて、通常のアレンジメントの経験を積みながら、企画部を目指すということは充分可能です。やる気さえあれば……」
「そう、まずは現場だね。実際に人手が足りてないのは店舗なんだから」
 雪美の言葉を、谷岡が強引に奪っていく。
「でも、あなた、大丈夫かな。花屋っていうのは、綺麗なイメージだけじゃやっていけないよ。店舗の仕事は、基本、水仕事、力仕事、土仕事なんだから。店舗はアルバイトも含めて若い子ばっかりだしね」
 谷岡は暗に、佳代の年齢のことを仄めかしていた。嫌みな物言いに、雪美は顔をしかめそうになる。
「確かに仕事はきついですけれど、創意を生かせる工夫は店舗にもあると思います。まず、杉本さんがやってみたい企画があれば、弊社としては幅広く……」
「幅広く意見を集めるのも大事だけど、今必要なのは、店舗の即戦力だからね。肝心なのは学歴よりも、キャリアよりも、まず若さと体力だよ」
 雪美を遮り、谷岡と檀上が頷き合った。面接の主導権をなんとしてでも渡すまいとする谷岡の態度に、雪美は秘かに唇を噛む。
「見苦しい!」
 そのとき、突然厳しい声が飛んだ。
 ハッとして顔を上げれば、佳代が腕を組んでこちらを睥睨している。
「なんなのよ、この面接。もしかして、圧迫面接のつもり?」
 がらりと口調を変え、佳代は人差し指を立てた。
「大体、あんたさぁ、なんでさっきから、社長さんの質問にいちいち茶々を入れんのよ」
 指を突きつけられ、谷岡がぽかんと口をあける。背後の檀上も、すっかり色を無くした。
「随分と高学歴の女がお気に召さないようですが、そういう女性嫌悪(ミソジニー)ってみっともないだけだから、お気をつけあそばせ。あんた、女の下では意地でも働きたくないっていう、妙な自意識(イーゴ)の持ち主でしょ。日本の企業って、未だにこういうのが幅聞かせてるんだねー」
 茫然としている雪美たちの前で、佳代がいきなり立ち上がる。
 太いヒールで床を踏み、佳代は会議室の中をぐるぐると歩き回り始めた。
「なんか変だよね。あんたたち、なんかおかしいよ」
 推理をする探偵のように、佳代は自分の頭に指を当てる。
「おい、なんなんだ、君は!」
 ようやく我に返った谷岡が声を荒らげた。
「あ、分かっちゃったー!」
 途端に、佳代が谷岡に向き直る。
「この会社ってさ、最近社長が変わったばっかりだもんね。あんた、その隙に、なんか悪だくみでもしてんじゃないの」
 憤怒の表情を浮かべる谷岡に、尚も佳代は畳みかけた。
「もしかして、あんたさぁ、社内をひっかきまわして弱体化させて、最終的には大手に営業譲渡でもさせようとか企んじゃってる? もちろん、自分は大手からポストをもらう約束済みで」
 谷岡の顔から、すっと血の気が引いた。
「そんでもって、後ろにいるカマキリみたいな社員には〝俺についてくれば大手に移れる〟とか言っちゃってたりしてぇ」
 指差された檀上は、お茶に手をかけたまま完全に硬直している。
「やだ、図星ぃ? あんたも随分自分の無い男ね~」
 嘲笑われ、檀上はお茶がこぼれるほどわなわなと震え始めた。
「だったら、あんたらみたいのが面接官を務めてる時点で、この面接茶番じゃないの。応募者にだって失礼よ!」
 入ってきた当初とは別人のような甲高い声で男二人をやり込めている佳代の様子を、雪美は茫然と眺めていた。
 まさか。
 自分の眼を信じることができない。
 しかし、その「まさか」なのだ。
 あまりの変わりように、最初は全く気づかなかった。
 でも、この女性(ひと)は――。
 改めてエントリーシートに眼をやり、愕然とする。
 なにが、〝おねえちゃん〟だ。自分より、六つも年上だったとは。しかも、泉とは、一回り近くも違うではないか。
 恐る恐る顔を上げれば、髪を黒く戻し、ラメ入りのアイシャドウや、てかてかのグロスリップを落としたキャロラインがそこにいた。
「それと!」
 視線が合った瞬間、キャロラインがぐいぐい近づいてくる。
「社長さん、あんたも、もっとしっかりしなさいよ。こんな男にでかい顔されるのは、あんたに隙があるからよ」
 眼の前のテーブルに、キャロラインがバンッと手を着いた。
「こんな連中の顔色を窺って、ちんたら深夜残業なんかしてんじゃないわよ。今はあんたが社長でしょ。どうせ苦労するなら、自分のやりたいように苦労しなさいよ!」
 雪美はハッと息を呑む。
〝私、企画の仕事が好きなんです〟
 なぜかそのとき、斎藤の真剣な表情が脳裏をよぎった。
〝インスタでも、『フローラル・テラ』の薔薇の花を敷き詰めたブライダル相談コーナーに座るのが夢だって言ってくれてる人たち、結構多いんです〟
 そうだった。
 雪美の胸に、久しく忘れかけていた情熱が込み上げる。
 別に、祖父や父のためだけではない。自分だって、好きでこの仕事を続けてきたのだ。
 ついプレッシャーに負けて、一番肝心なことを見失いかけてしまっていた。
 雪美は植物を育てるのが上手だな――。 
 口癖のようだった父の言葉が甦り、雪美は目蓋をきつく閉じる。父は決して〝おひとりさま〟の自分を憐れんで、社長に任命した訳ではない。
 ごめんね、お父さん。こんな簡単なことに、気づけなかったなんて……。
 雪美を疑っていたのは、谷岡でも檀上でもない。社長としての自信を持ち切れなかった、弱い己自身だ。
 目蓋の裏に、熱い涙が湧いた。
 父が自分を三代目に選んだのは、純粋にその才能を買ってくれていたからだ。
 植物を長持ちさせ、よい花を咲かせるためには、剪定や間引きが必要になる。ようやく雪美は、その覚悟を決めた。
「谷岡さん」
 キャロラインが見守る中、雪美は背筋を正して谷岡に向き直る。
「もし、私にご不満があるなら、どうぞここを去ってください」
 谷岡を見据え、雪美はきっぱりと告げた。
「『フローラル・テラ』は、私の会社です」
 
 セキュリティーを解除してオフィスに入ると、早朝にもかかわらず五月の初夏めいた日差しが、オフィス一杯に差し込んでいた。
 雪美はこの日も一番に出社した。いよいよ間近に迫ってきた母の日に向けて、すべての店舗の店頭(ファサード)を一層バージョンアップさせるのだ。各店舗から寄せられたディスプレイ案のファイル一つ一つに眼を通す。流行のハーバリウムを取り入れたギフトセットの受注がなかなか好評のようだ。
 ステンレス製の如雨露で観葉植物に水をやりながら、雪美は腰を伸ばした。
 相変わらず、毎日が慌ただしい。業務は山積みで、業績は厳しい。
 キャロラインが現れた面接の翌日、営業部長の谷岡が辞表を提出してきた。壇上をはじめ、何人かの社員たちもそれに続いた。
 ベテランの谷岡が抜けた穴は、そう簡単には埋まらない。けれど、残った営業部員たちが精一杯頑張ってくれている。
 デスクにつき、雪美はパソコンを立ち上げた。
 一通りメールをチェックし、ツイッターの公式アカウントを開いてみる。
 深紅のビゼット、濃い紫のノビオバイオレット、鮮やかなピンクのチェリオ……。美しくディスプレイされた色とりどりのカーネーションに、たくさんの「いいね」やリツイートがついている。特に、日本で開発された世界初の青色のカーネーション、ムーンダストは人気がある。
 ふと雪美は、トレンド欄を眺めた。
 そこに、常連だった「花言葉診断」のハッシュタグはない。少し前に、突然診断が削除されてしまったのだ。作成者のアカウントも、今は消えている。
 フォロワーたちのツイートによれば、「伝えたかった相手に診断が届いたため、役割を終えた」という作成者からのコメントがあったらしい。
 カリフォルニアポピー――花言葉「私を拒絶しないでください」。
 最後の診断結果が、頭の片隅に浮かぶ。
 初めてそれを見たときは、心の裡を言い当てられた気がして、居心地が悪くなった。
 でも、きっと、誰だってそうなのだ。
「私を拒絶しないでください」
 この世の中は、多くの人たちがそう思いながらも、複雑にかかわり合って生きている。
 それは恐らく、谷岡と共にこの会社を去っていった社員たちも、同じだったのだろう。たとえ拒絶や嫌悪や陰謀が前面に押し出されていたとしても、人の心の奥底には、「受け入れられたい」という願望が秘められているに違いない。
 父にも、母にも、弟にも、私にも、その切望はきっとある。
私のことを好きな人にも、私のことを嫌いな人にも。
花言葉診断を作った女子中学生にも。診断を利用してきたあまたの人たちにも。
 もっと言えば、膨大にして深遠な花言葉を延々と紡いできた、古(いにしえ)の人々もまた。
 距離を測り、距離を誤り、支え合い、傷つけ合い、信じながら、疑いながら、愛しながら、憎みながら、これからも願いを込めて生きていく。
 どうか、私を拒絶しないでください――。
 公式アカウントを閉じ、雪美はじっと眼を閉じた。
 色とりどりの花々が、様々な人の心を映すように揺れている。
 さて……。
 目蓋をあけ、雪美は業務用のドキュメントを開いた。
 この繁忙期を乗り越えたら、次は泉とキャロラインのブライダルだ。結婚式の装飾には薔薇を使うのが一般的だが、今回はポピーを大量に使用してやろうと、雪美は企んでいる。カラフルでふわふわと漂う毒をはらんだ花は、キャロラインにぴったりだ。
 面接後、雪美はキャロラインにメッセージを送った。
〝ありがとう。あなたのおかげで眼が覚めました。弟のことをよろしくお願いします〟と。
 不採用通知と一緒にだ。
〝なーんだ、ユキミンとキャッキャウフフしながら働きたかったんだけどな〟
 どこまで本気なのか分からない返信を思い返し、雪美はそっと苦笑する。
 今では雪美は、弟の泉が一つの作品を書くために、膨大な資料を読み込み、何日も徹夜をし、ぼろぼろになりながら執筆に励んでいることも理解できるようになっていた。
 再び髪をオレンジ色に染め、目蓋をラメでキラキラと光らせたキャロラインから、締め切り間際の泉を隠し撮りした動画が送られてきたからだ。
 六歳年上の義妹は、これからも大いに毒をまき散らしてくれるに違いない。
 花の精たちを主人公にした今度の泉の新しい小説に、オレンジ色の毒持ちヒロイン「ポピー」も登場させるように提案してみようと雪美はほくそ笑む。
 オフィスに人の気配を感じて視線を向けると、西野経理部長が席に着くところだった。
 谷岡から辞表を提出されたとき、雪美は西野も後に続くものだとばかり考えていた。だが西野は、「フローラル・テラ」に残ってくれた。
「西野部長、今日も早いですね」
 声をかければ、「繁忙期ですから」と仏頂面で応じられる。
どうせ苦労をするなら、自分のやりたいように苦労をしろ。
 キャロラインのこの言葉にも、雪美は深く胸を衝かれた。
 事実、今の雪美は他人の顔色ばかり窺っていたときと違い、プレッシャーはあってもストレスは少ない。ベテランの谷岡に抜けられ、大きな痛手を負いながらも、新しい企画への情熱がふつふつと湧いてくる。そんな社長の姿に、若手社員たちも、少しずつ落ち着きを取り戻し始めているようだった。
 仕事である以上、苦労はつきものだが、一人一人の従業員がそれを含めて楽しめる環境を作りたい。それもまた、雪美の新しい目標の一つだ。
「頼りにしてます」
 思わず言葉をこぼすと、西野が一瞬キーボードを叩く手をとめる。
「こちらこそですよ、社長」
 間仕切りの向こうで背中を向けている西野の表情は見えないが、その声は真っ直ぐだ。
 ああ、ここにも。
 私を受け入れてくれる人がいた。
 父と自分を見守ってきた観葉植物の緑がじんわりと滲む。
 陽光があふれるオフィスの中で、雪美と西野はそれぞれの業務に没頭していった。

          完

~単行本『アネモネの姉妹 リコリスの兄弟』は7月に小社より発売の予定です~

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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