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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
バックナンバー  123 

アネモネの姉妹(前編)

2018.05.25 更新

全粒薄力粉に強力粉と葛粉を混ぜ、ふるいにかける。
そこへ、よく泡立てた甜菜糖シロップを混ぜた豆乳を合わせて、さっくりと混ぜる。

混ぜ合わせた種をラップで包み、冷蔵庫で一時間冷やせば、タルトの生地が完成する。
冷蔵庫の扉を閉め、遠山絹子(とおやまきぬこ)はシンクの前に立った。

シンクのボウルの中には、小粒の紅色のサクランボが艶々と輝いている。
アメリカ産のダークチェリーとも、日本の佐藤錦(さとうにしき)とも違う。
この日のために、絹子はフランス産のグリオットチェリーをわざわざ取り寄せていた。

フランス菓子の代表ともいえるタルトを作るなら、旬のフルーツも本場のものを使う。
それが、絹子が結婚当初から、かれこれ四年通い続けている料理教室のマダムのこだわりだった。
酸味の強いグリオットは、コンポートにすると爽やかさが引き立つ。

アーモンドクリームを流した生地に、グリオットコンポートを敷き詰めたタルトは、大味なチェリーパイとは一線を画した繊細で贅沢な味わいになる。
ヨーロッパ帰りの料理研究家のマダムを囲むサロンのような料理教室の中で、絹子は三十四歳になった今でも最年少の生徒だった。

輸入食材をふんだんに使う料理教室は、材料費だけでもかなりの額になる。
一緒に料理を習っているのは、バブル世代と思われる裕福そうな奥様ばかりだ。

グリオットのコンポートを作る鍋にバニラビーンズを入れながら、絹子は窓の外を眺めた。
ミズキの新緑が風に揺れ、鍋をかき混ぜる絹子の白い手にちらちらと木漏れ日を落とす。
綺麗に整頓されたダイニングキッチンは、隅々まで明るい。

絹子は微かに満足の笑みを浮かべる。
周囲を見回してみても、三十半ばで都内一等地の一戸建てで暮らしている専業主婦は滅多にいない。

同世代の女たちは、既婚未婚にかかわらず、皆、髪を振り乱して仕事や日々の生活に追われている。
もっとも絹子は、今の生活に胡坐をかいているわけではない。
そこで必要とされるものを敏感に察し、常に学び、習得してきた。

資産家の息子である夫の和彦(かずひこ)と違い、自分は決してサラブレッドではない。
だからこそ、己を磨く努力は怠ってこなかった。

子供のときからずっとそうだ。
両親の期待、教師の期待、夫の期待、義父母の期待――。
自分に寄せられるすべての期待を、絹子は裏切ったことがない。

料理教室でも絹子は優等生で、旬の野菜や果物をふんだんに使用した美しくて健康的な料理をあっという間にマスターした。
家族経営の老舗専門商社で重役を務める和彦が、突然客を連れて帰っても、ちょっとしたフルコースを用意することくらい、お手の物だ。

私は常に努力している。
皆とは違う。

特に、あの子とは――。

無意識のうちに顎が上がる。
いつの間にか鍋が沸騰していることに気づき、絹子は慌てて火をとめた。
後は落し蓋をして粗熱が取れたら、コンポートは完成だ。

大方の下準備を終えると、絹子はエプロンを外し、リビングに入った。
ソファに腰を下ろし、飾り棚の上の時計にをやれば、午後二時。

妹の綾子(あやこ)がやってくるまで、まだ少し時間がある。
絹子は、作ったばかりのハーバリウムの硝子瓶をテーブルの上に並べた。

ハーバリウムは元々植物の品種を保存する「植物標本」だが、色鮮やかな花を長期的に鑑賞できる特徴が受けて、最近ではインテリアとして人気がある。

ドライフラワーやブリザードフラワーを抗酸化力の強いシリコンオイルに漬け込むため、水を換える手間もなく、半永久的に美しい姿を楽しむことができるのだ。

大ぶりの真っ赤なアネモネと、先月散ってしまったソメイヨシノの花びらが、お洒落な硝子瓶の中で、金魚のようにゆらゆらと揺れている。
花弁の散りやすい繊細な花たちも、ハーバリウムにすれば、いつまでも艶やかな外見を保つことがかなう。

静かな部屋の中に、小さな電子音が響いた。
絹子はテーブルの上のスマートフォンを手に取る。
「もしもし、お姉ちゃん」

息せき切ったような綾子の声が耳朶を打った。
「早かったのね。もう駅に着いたの?」
「そ、それが……」
穏やかに尋ねた絹子を遮り、綾子が言い訳を始める。

「家を出るときバタバタして、ちょっと遅くなっちゃったの。でも、ほんの五分くらいの遅れだったんだよ。でも、この時間の都営線って、十分も間が空いてて……、地下鉄なのに、十分もこないんだよ。酷くない? それでも十五分くらいの遅れだったのに、私、私鉄って普段乗らないから、なんか反対方向に乗っちゃったみたいで、しかも、それ、急行だったから、途中で全然とまってくれなくて、今、わけ分かんない駅に着いちゃって……」

くだくだと話し続ける綾子に、絹子は内心溜め息をついた。
「分かったから、落ち着いて。私は家にいるんだから、少しくらい遅れても大丈夫よ」
絹子の言葉に、綾子が電話口で安堵の息を漏らす。

「で、今どこにいるの?」
妹から駅名を聞き出し、絹子は時計に視線を向けた。
結局、約束の時間より一時間ほど遅れることになるようだ。

綾子は幼い頃から、愚図で方向音痴だった。
今年で三十歳になるのに、妹のこういうところはいつまでたっても変わらない。

「焦らなくていいから、ゆっくりきてちょうだい」
「ありがとう……。ありがとう、お姉ちゃん」
礼を繰り返す綾子の声を半ば疎ましく感じながら、絹子は通話を終わらせた。
こんなことで腹を立てても仕方がない。

元々、あの子が約束の時間通りに現れたことなんてないんだし――。
どうせまた、出がけのぎりぎりまで寝ていたに違いない。
焦って家を飛び出し、乗り継ぎを間違えて、子供のようにべそをかいている姿が眼に浮かぶ。

互いに成人してから、二人きりで会うことは数えるほどしかなかったが、そのたびに、綾子は大幅に遅刻した。
白けた気分を切り替えようと、絹子はスマートフォンにインスタグラムを立ち上げる。
先日アップしたカボチャのバヴァロアに、三桁に及ぶ「いいね!」がついていた。

バヴァロアもタルトと同様、フランスの古典菓子の一つだが、絹子がレシピを披露したのはデザートではなかった。
干し椎茸と昆布の出汁を使った、オードブルのバヴァロアだ。
付け合わせには、旬のホワイトアスパラガスと、セルフィーユやデイル等のハーブが添えてある。

〝SILKさん、いつも素敵な写真とレシピをアップしていただき、ありがとうございます。バヴァロアと言ってもデザートではないんですね。さすがです!〟

〝和風の出汁を使っているところが新鮮です〟

〝カボチャの黄色に、ホワイトアスパラガスの白、ハーブの緑と、配色的にも最高です〟

「いいね!」とともにたくさんの称賛コメントが届いていた。
一つ一つを読みながら、絹子は自分が肯定されていく充足感を存分に味わう。

和風出汁を用いたオードブルのバヴァロアはマダムの受け売りだが、ここでそれを打ち明ける必要はないだろう。
インスタグラムはただのSNSで、営利的なものではない。
名前もハンドルネームだし、身元がばれるようなことは書いていない。

SILKこと、絹子がアップする料理やハーバリウムの画像は、常に大勢の称賛の的だった。
今日もグリオットのタルトが完成したら、綺麗に飾りつけて写真を撮ろう。
この日は表向きには綾子の〝お祝い〟だが、当の妹がこようがこまいが、実のところたいして関係がなかった。

それに――。
下腹部にそっと手をやり、絹子は密かな笑みを浮かべる。

一般的な症状が、まだ自分の身に現れていないのは幸いだった。
おかげで、マダム仕込みの料理の腕を今しばらく振るうことができる。

ソファにもたれ、絹子は軽く伸びをした。
いずれにせよ、綾子が到着するまで相当時間がある。

絹子は画面をツイッターに切り替えて、タイムラインを眺めた。
不祥事を起こした芸能人を非難する声、案じる声、テレビドラマの感想、仕事の愚痴、誰かへの当てこすり――。
匿名の人たちの呟き(ツイート)が、大量に現れては消えていく。

次々と流れていくタイムラインを見るともなしに見ているうちに、絹子はあるハッシュタグに眼を留めた。

#花言葉診断

ハッシュタグをクリックすると、たくさんの花言葉が並んでいる。
利用者のツイートによれば、「自分にとって一番必要な言葉」が表示されるという。
名前を打ち込むと表示されるこうした診断は、おみくじ的なウェブサービスだ。 

〝すごくいいお言葉、いただきました!〟
〝まさに、それっていう状況です〟
〝蘊蓄としても面白いです〟

ほとんどのツイートがこの診断に好意的だった。
自分にとって一番必要な言葉――?

軽い好奇心に駆られ、絹子はURLをクリックしてみる。
リンク先に画面が飛び、空欄が現れた。

SILK――。
ハンドルネームを打ち込んだ後、絹子は少し考えてそれを削除した。

診断結果をツイートしなければ、それが拡散されることもない。

せっかくのおみくじなら、本名で試してみようと思い立つ。
遠山絹子。
本名を打ち込むと、すぐに診断結果が出た。

アネモネ――花言葉「嫉妬のための無実の犠牲」

絹子は小さく眼を見張る。
思わず、テーブルの上のハーバリウムに視線を移した。
大ぶりの真っ赤なアネモネが、透明な硝子瓶の中で艶やかに咲いている。

すぐに解説に視線を戻した。
西風の神ゼピュロスに恋された美しい少女は、その妻クローリスの嫉妬の怒りに触れて命を落とす。
自責の念にかられたゼピュロスは、アフロディテに頼み、亡骸を花に変えてもらう。
嫉妬の犠牲になった少女の亡骸から咲いた花が、アネモネ。

大きな花弁の美しい花だが、強い風を受ければ、儚く散ってしまう。
アネモネという言葉は、ギリシャ語の「風(アネモス)」に由来するという。

そう言えば、花言葉は大きく分けて、ギリシャ神話と聖書に起源を持つものがあるのだっけ。
解説をスクロールしながら、絹子は思いを巡らせる。

そのほかにも時代によって意味が異なり、近代のフランスでは花言葉の意味を取り違えた恋人同士が仲違いするシニカルな寓話が流行った時期があったと、ヨーロッパ暮らしの長かったマダムから聞いた覚えがある。

ここに表示されている花言葉も、たくさんの解釈のうちの一つに過ぎないのだろう。
嫉妬のための無実の犠牲。
それでも、その言葉は、絹子の心の深いところを刺激した。

〝ありがとう……。ありがとう、お姉ちゃん〟
ふいに先程の、綾子の声が甦る。

〝ありがとう、お姉ちゃん〟
あのときも、綾子はそう繰り返して泣いていた。
遠い日の記憶が脳裏をよぎる。

スマートフォンをテーブルの上に伏せ、絹子は立ち上がった。
寝室に入り、化粧箪笥の一番下の引き出しをあける。
そこには、結婚したときに母から贈られた、子供時代のアルバムが入っていた。

化粧箪笥の前の丸椅子に腰かけたまま、絹子はアルバムを開いてみた。
七五三。小学校の入学式。中学校の入学式。
懐かしい記念写真が並んでいる。

ピンク色の振袖を着たあどけない姿。
胸にリボンを結び、ブレザーを着た制服姿。
背筋を伸ばして写真の中央に写っている絹子は、いかにも〝自慢の娘〟といった佇まいだ。

まだ髪が黒々とした若々しい両親にかしずかれるようにして、カメラのレンズを真っ直ぐに見つめている。
この頃から自分は、他人にどう見られるかをはっきり意識していたと思う。

アルバムから視線を上げ、絹子は鏡台の中の自分を見つめた。
くっきりとした二重瞼と大きな黒い瞳は母から、色白の細面と癖のない豊かな髪は父から。
絹子は幼い頃から、父と母の美点を受け継いで生まれてきたと、周囲に誉めそやされてきた。

でも、だからこそ、常に平均点以上を求められた。
絹子ちゃんは、可愛い。
絹子ちゃんは、賢い。
絹子ちゃんは、なんでもできる。

いつしか、それが当たり前になっていった。
それに比べて――。

アルバムをめくっていくと、途中から、もう一人の少女が現れる。
腫れぼったい一重瞼、うねうねとうねる癖毛、母とよく似た寸胴の体型はいささか肥満している。

しかも妹の綾子は、どの写真でも上の空で、まともにレンズを見ていない。
四歳年下の妹と並んでいると、誰もが綾子に同情的な眼差しを向けた。
綾ちゃんは、お父さんとお母さんの悪いところばっかり引き継いじゃったのね……。

母までが、そんなことを口にした。
もっとも当の綾子は、誰の眼にも明らかな容姿の差に、それほど頓着していないようだった。

常に他人の視線を気にしていた絹子とは対照的に、綾子は傍若無人なまでに傍目を気にしない。
自分が面白ければ、その姿が他人の眼にどう映ろうが、歯牙にもかけていなかった。

小学校に上がった頃からだろうか。
妹の集中力を、恐ろしいと思うようになったのは。

特に画用紙に向かうときの綾子には、異様な迫力があった。
クレヨンがあっという間になくなるほど、妹は線や色を執拗に塗り重ねた。

なにを描いているのか、さっぱり分からない。
綾ちゃんは〝落書き〟が好きだね。

当初大人たちは、顔や服までクレヨンまみれにしてしまう綾子を笑っていたが、正直に言うと、絹子はそんな妹のことが心のどこかで怖かった。
綾子には、自分に見えていないものが見えているようで。

見本さえあれば、絹子はなんでもうまくできる。
しかし言い換えるなら、両親や教師が示す手本がないと、どこを見ていいのかが分からない。

カメラのレンズを真っ直ぐに見られない綾子の眼が、一体なにを見ているのか。
綾子の眼に、この世界はどんな風に映っているのだろうか。

考えても考えても分からない。
ただ一つだけ分かるのは、顔や服が汚れてしまうのに気づかないほど夢中になれるものが、絹子自身には無いということだった。

しかし、そうまでして夢中になった綾子の〝お絵描き〟は、図工の教師のお眼鏡にはかなわなかった。
すべてにおいて「よくできる」だった絹子に対し、綾子は体育も図工もその他の科目もほとんどが「もっとがんばりましょう」だった。

優等生で器量よしの姉と、劣等生で不器量な妹。
この構図は、随分長い間、固定化されていた。
恐らく今でも、その範疇は無効化されていないのではないかと思う。

きっと誰も気づいていない。
美しくて優秀な姉が、愚図で不器用な妹に、猛烈な嫉妬を感じる瞬間があることに。

絹子の美点は分かりやすい。
ただ、それだけに、薄い。
皮肉なことに、そのことに一番初めに気づいたのは、絹子自身だった。

それでも絹子は、自分の優位性を保つために腐心した。
周囲の大人たちを騙すのなんて、簡単だ。愚鈍な妹の世話をする、良き姉でいればいい。

そうすれば、ずっと〝いいお姉ちゃん〟でいられる。
手本がなければなにもできない薄っぺらさを、見透かされずに済む。

絹子の悲壮な覚悟を知ってか知らずか、綾子は小学校に上がっても、自分の関心のないことにはとことん上の空だった。
長女だった絹子は父からも母からも手をかけられたが、その分、ある程度厳しい躾を受けてきた。
人前で騒ぐことは禁じられたし、食事の好き嫌いも許されなかった。

ところが次女の綾子は、なぜだかそうしたことをほとんど許されてきた。
お姉ちゃんはできるけど、綾ちゃんはできないものね――。

あきらめたようなことを言いながら、父も母も綾子を甘やかした。
容姿の劣る妹は、親の眼からも不憫に映ったのかもしれない。
食事を疎かにしてお菓子ばかり食べているせいで、綾子はいつも肥満体だった。

太る体質は、私のせいだね。
そんな綾子を、母は自己憐憫のように抱きしめた。

いつの間にか唇を噛んでいる自分に気づき、絹子はハッとする。
鏡の中から、少し険しい顔をした女がこちらを見ていた。
もう四半世紀近く前のことなのに、今も胸を離れない記憶がある。
普段、心の奥底に沈んでいるそれは、深い沼の鯉が時折水面に姿を現すように、ふいに閃く。

眼を閉じると、瞼の裏に、真夏のアスファルトが広がった。
湯気が立つほど熱されたアスファルト。

急な坂の向こうには、ぎらぎらと銀色に輝く逃げ水が見える。
二人分のランドセルを抱えた絹子は、必死に急坂を上っていた。

小学校時代、綾子はなにか気に入らないことがあると、学校にすべての荷物を置いたまま、勝手に家に帰ってしまった。
そのたび、絹子は綾子の担任の先生に呼び出された。

大丈夫です。
私が持って帰ります。
言い出したのは、絹子自身だったかもしれない。
絹子はいつだって、自分の株を上げる方策を知っていた。

悪いわね。お願いね――。
ただ、そんなふうに労われるのは最初の内だけだ。
やがてはそれが当たり前になる。
それでも上がった株を下げることはできない。

両手のふさがった絹子は、こめかみを伝う汗をぬぐうこともできず、顎を突き出して一歩一歩坂を上った。
その日はプールがあった日で、二つのランドセルのほかに、濡れた水着の入った体操着袋も持たなければならなかった。

授業とは関係のないものでも入っているのか、綾子のランドセルは酷く重い。
苦しい息の下、視線を彷徨わせると、前方に紐のようなものが横たわっている。
眼を凝らし、絹子は足をすくませた。

細くて長い、蛇の死骸だ。
怖い、嫌だ、気持ち悪い。
なにもかもを投げ捨てて、逃げ出してしまいたかった。

誰か助けて。
絹子は泣き出したい気持ちで周囲を見回した。
けれど、真昼の通学路には人っ子一人いない。
絹子は歯を食いしばり、真ん中に落ちている死骸を跨いで道を渡った。

汗だくで家に到着すると、台所で母と綾子がかき氷を食べていた。
授業の途中で勝手にクラスを抜け出したにもかかわらず、綾子は何事もなかったかのような顔をしていた。
母にもそれを咎めている様子はなかった。

二人分のランドセルを手に、呆然と立ち尽くしている絹子に気づき、綾子が屈託のない声をあげる。
「あ、お姉ちゃんに見つかっちゃった」
母と二人きりで氷を食べていた妹を、その日、絹子は激しく憎んだ。

夕刻、絹子は一人で外に出て、普段なら絶対に口を利かない、近所の悪童たちに声をかけた。
全身泥だらけになって遊んでいる、野蛮で汚らしい男子たちは、絹子に声をかけられるとたちまち有頂天になった。

「ねえ、私と綾子、どっちが可愛い?」
浮かれる男子たちを前に気が緩み、絹子はついそんなことまで口にした。

「そんなの決まってんじゃんよ」
「比べるまでもねえよなぁ」
「だって、月とスッポンじゃん」
男子たちは、にやにやと笑い合っていた。

その晩、夕食のテーブルで絹子は綾子に告げた。
「明日、ちゃんと最後まで学校にいたら、お姉ちゃんが一緒に帰ってあげるよ」
「本当? お姉ちゃん」

高学年になってから英会話クラブに入った絹子と久々に帰れると聞き、綾子は無邪気に喜んだ。
「じゃあ、ちゃんと最後まで学校にいる」
「そうね。途中で帰ったりしちゃ駄目だからね」
優しく妹を諭す姉の姿を、父も母も、眼を細めて眺めていたはずだ。

翌日の放課後、昇降口に、綾子の悲鳴が響き渡った。
綾子の靴の中に、蛇の死骸が入れられていたからだ。
「大丈夫。今取ってあげるからね」
泣き叫ぶ綾子の前で、絹子はそれを取り去ってやった。

あのとき指先に当たった鱗の感触。
靴の中からぞろりと出てきた蛇の重さ。
今思い出しても、背筋が泡立つ。

「お姉ちゃん、ありがとう……。ありがとう、お姉ちゃん」
涙で顔をべたべたにしながら、綾子は繰り返していた。

ありがとう、お姉ちゃん――。
電話口の綾子の声が、あの日の綾子の泣き声に重なる。
いいのよ、綾子。
いくらでも優しくしてあげる。
私はあなたの〝いいお姉ちゃん〟なのだから。

バカな男子たちを焚きつけて、蛇の死骸を靴の中に入れさせたのは、実は私だったけれど。
でも、それくらい仕方ない。
だって、あなたは狡いもの。

私は〝いい子〟でなければ許されないのに、なんの努力もしないあなたはどうしてそんなに簡単に誰からも許されるの?
それに――。
お手本に倣うしかない私と違い、あなたは平然と自由になれる。

綾子の絵の才能が爆発的に開花したのは、中学に入った頃だ。
小学校卒業後、絹子は中高一貫のお嬢様学校に進学した。
妹の綾子は、公立の落ちこぼれのはずだった。

ところが中学生になった途端、それまで笑われるだけだった綾子の絵が、急に学生コンクールの賞を取るまでになった。
絹子がずっと恐れていた、綾子の怖さは本物だった。

勉強嫌いの妹が美大に進学することはなかったが、独学で絵を続け、最近、ついに大手出版社の装画コンペティションで優勝した。
今後、綾子の作品は、ベストセラー作家の本の表紙を飾ることになるという。

再び険しい表情を浮かべていることに気づき、絹子は緩やかに口角を上げた。
いつもの余所行きの顔が、三面鏡の中にいくつも連なる。

アルバムを閉じて、絹子は立ち上がった。
寝室に飾ってある夫との写真を手に、リビングに戻る。
和彦と顔を寄せ合っている、とりわけ幸せそうな写真を、アネモネのハーバリウムの隣に置いてみた。

そろそろ妹が最寄り駅に到着するだろう。
お茶の準備をして、グリオットのタルトの仕上げに取り掛かろう。
エプロンをつけながら、絹子は下腹部にそっと手を当てた。

今日は名目上は妹のコンペティション優勝のお祝いだけれど、本当はもう一つ目的がある。
綾ちゃん――。
あなた、和彦さんのことが好きだったでしょう。
ボランティア活動で知り合ったときから、ずっと。

夫の和彦とは、震災ボランティアの集会で知り合った。
会社のCSR活動の一環で、ボランティアの指揮を執っていた和彦に、綾子はすっかりのぼせあがった。

苦労知らずのお坊ちゃまの理想主義に趨(はし)った言動は、ベテランボランティアたちの失笑を買うこともあったのだが、世間に疎い綾子は純粋に傾倒した。
和彦のノーブルな佇まいも、綾子には新鮮だったのだろう。

綾子自身は隠していたつもりだったかもしれないが、絹子には、手に取るようによく分かった。
だから、和彦に近づいた。
老舗専門商社の御曹司も、放課後泥だらけになって遊んでいた男子も大差ない。
その気にさせて、手玉に取ることなんて簡単だ。

求められているものならよく分かる。
彼らは押しなべて、単純で残酷だから。

彼らのシンプルな欲望は、分かりやすい絹子の美点にあっさりと囚われる。
綾子が初めて画廊から声をかけられたとき、絹子は和彦との結婚を決めた。
妹だけが幸せになることは許せない。

嫉妬のための無実の犠牲――。
それは綾ちゃん、あなたのことかもしれないね。

幸せなのは、あなたではなくて、この私。
それをしっかりと分からせてあげる。

オーブンからタルトの焼けるいい匂いが流れだした頃、チャイムが軽やかに鳴った。
エプロンを外し、髪を整え、絹子は聖母の如く優しい笑みをその顔に上らせる。
アネモネの妹、綾子がやってくる。

続く

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著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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