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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
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アネモネの姉妹(後編)

2018.06.22 更新

「お姉ちゃん、遅くなってごめんね」
 駅から走ってきたのだろう。玄関先に現れた綾子は、息を乱し、頬を上気させていた。
 中途半端な長さの髪の毛先はあちこちに跳ね、腫れぼったい一重の眼にはアイラインすら引いていない。眉毛も髪同様にぼさぼさだ。
 洗いざらしのシャツに、くたびれたジーパン。
 みすぼらしくさえ見える恰好で電車に乗るなど、絹子には到底考えられないことだった。
 しかも――。
「はい、これ」
 いきなり両手一杯に抱えていたマーガレットの花束を差し出され、絹子は思わず顔を背けそうになる。
「花屋さんで見かけて、あんまり可愛かったから、たくさん買ってきちゃった」
「……そう。ありがとう」
 かろうじて礼を言ったが、絹子は綾子のセンスにほとほと呆れ果てていた。
 いくら姉妹とはいえ、久々に会うのに、こんな普段使いの花を持ってくるなんて。
 生花店も贈答用だとは思わなかったのだろう。ただ切っただけの花は、クラフト紙に無造作にくるまれている。
「綾ちゃん、あなた、服に花粉がついてるわよ」
「え! やだ、本当だ」
 絹子の指摘に、綾子はシャツの胸の部分を押さえた。恐らく抱えて走っている間に接触したのだろう。水色のシャツの胸元に、マーガレットの黄色い花粉が点々と付着している。
 マーガレットの花粉は厄介な代物だ。一度衣服につくと、なかなか落ちない。
 おまけに、野性的なマーガレットは、肥しのようなきつい臭いを振りまくのだ。
 絹子は自分の上質のブラウスに花粉がこぼれないように、花束をさりげなく身体から遠ざけた。
 こんなの、どこにも飾れない――。
 キッチンに持ち込むのも、リビングに置くのも嫌だった。
「今日は綾ちゃんのお祝いなんだから、気遣いなんていらなかったのに」
 本当に、余計な気遣いだ。
 絹子は内心で苦虫を噛み潰す。
「でも、すごく、可愛かったから」
 絹子の心中には全く気づく様子もなく、綾子は屈託なく笑っている。
 その無頓着さに、絹子は密かに溜め息をついた。
 どうせ綾子は、自分が気になったものにしか興味を示さない。誰かに贈り物をするときも同じことだ。自分が好きなものを迷わず差し出す。
 それが相手にどう受け取られるかなど、考えたこともないのだろう。
「とりあえず、上がってちょうだい」
 来客用のスリッパを勧め、絹子は廊下を先に立った。
「なんだか、いい匂いがするね」
 絹子の後について歩きながら、綾子が鼻をうごめかす。
「グリオットの……」
 言いかけて、絹子は言葉を呑んだ。フランス産のグリオットチェリーのことなど、綾子が知るわけもないだろう。ふと、相手よりも自分の嗜好を優先させているのは、綾子だけではないのではないかという思いが脳裏をよぎる。
 でも、私はこの子とは違う。
 絹子は慌ててその思いつきを打ち消した。
 私は妹のように考えもなく、自分の好みを誰かに押しつけているわけじゃない。より上等なものを、提案しようとしているだけだもの――。
 そのとき、綾子がなんでもないことのように呟いた。
「グリオットって、フランス産のさくらんぼのことだよね」
「え」
 思わず、絹子の足がとまる。
 まさか妹の口から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「綾ちゃん、よく知ってるのね」
「うん、ちょっとね」
 不審を隠せない絹子の口調を気に留める様子もなく、綾子が淡々と続ける。
「だって、グリオットって、フランス語でさくらんぼって意味だから。スリーズとも言うけど……」
 フランス語――?
 勉強嫌いの綾子は、英語だってろくに話せないはずだ。
「たまたま知ってただけだけど」
 絹子の沈黙に、綾子が照れたような笑みを浮かべる。
「そう」
 絹子も微笑して前を向いた。
「もしかして、お姉ちゃん、グリオットのお菓子を作ってくれたの?」
「グリオットのタルトを焼いてみたの」
 頷いた瞬間、綾子が歓声をあげた。
「わあ、嬉しい! グリオットって、フランスの初夏のお楽しみだよね。もしかして、生のグリオットをわざわざ取り寄せてくれたの?」
「ええ。加工されたグリオットは、甘すぎたりして、あまり美味しくないから」
 生のグリオットは透明感があって美しい。生食には向かないが、加熱することによって味に深みが増す。新鮮なものを調理すると、酸味に加えて独特のスパイス感が楽しめる。
「さすが、お姉ちゃん!」
 綾子は心底嬉しそうに、胸の前で両手を合わせた。
「グリオットのタルトって言ったら、この時期のフランスではお菓子の代表だもんね。そんな本格的なフランス菓子、日本で食べられるとは思ってなかったよ」
 妹のはしゃぎ声を聞きながら、絹子は胸の奥に微かな不快感が湧くのを感じる。
 わざわざ海の向こうから異国の旬の果物を取り寄せて菓子を焼くようなこだわりは、セレブと呼ばれる〝特別階級〟の主婦にのみ許される贅沢だと思っていた。
 一体いつから、綾子はこんな蘊蓄めいたことを口にするようになったのだろう。
 ひょっとして、最近つき合うようになった、大手出版社の編集者たちからの入れ知恵だろうか。
 所詮は無名画家のくせに――。
 黒い思いが胸に満ちる。
 ふいにマーガレットの野性的な臭いが鼻を衝き、絹子は顔をしかめそうになった。
「タルトは冷めてからのほうが美味しいから、先にお茶を淹れるわね。リビングで休んでいてちょうだい」
 綾子をリビングに案内すると、絹子はマーガレットを持って洗面所に向かった。空の洗濯籠に、マーガレットの花束を放り込む。
 本当に、臭い花。
 綾子が帰ったら、さっさと始末してしまおう。
 洗面台の鏡に向かい、絹子はブラウスに花粉がついていないかを確認した。また、無意識に唇を噛んでいることに気づく。息を吐いて肩の力を抜き、胸元に垂れる巻き髪を撫でた。
 アーモンド形の大きな眼は綺麗にカールした睫毛に縁どられ、眉も美しく整えられている。
 大丈夫。
 私はあの子とは全然違う。
 鏡の中の自分に微笑みかけ、絹子はキッチンに入った。
 お湯を沸かし、ウェッジウッドのカップを温め、ダージリンティーを丁寧に淹れる。ティーコージーを掛けたポットをトレイに載せて運んでいくと、リビングのソファで、綾子がアルバムを見ていた。
 絹子は小さく眼を見張る。
 寝室から和彦との写真を持ち出したときに、どうやら一緒に手にしてきてしまったらしい。
「そのアルバム……」
 絹子の声に、綾子が顔を上げる。
「懐かしいね、お姉ちゃん」
 姉妹二人が並んだ写真を、綾子が指さした。
 二人とも小学生の頃だろうか。長い髪を三つ編みにした利発そうな絹子はカメラのレンズを真っ直ぐに見つめ、おかっぱ頭で肥満気味の綾子はどこかあらぬ方向を見ていた。
「それにしても、この頃の私、ものすごく太ってる!」
 他人事のように、綾子が驚いてみせる。
「考えてみたら、私、中学に入るまで、炭水化物とお菓子しか食べてなかったもんなぁ……」
 それを家庭だけではなく、学校でも許されてきたのが、昭和生まれの自分と、平成生まれの綾子の違いなのだと絹子は思う。
 絹子が小学生のときには、無理やり給食を食べさせようとする教師は多少なりとも存在したが、その後のゆとり教育の実施と共に、そのような強制は随分と緩和した。
 四歳の年齢差は、家庭でも学校でも大きかった。
 次のページをめくると、中学時代の絹子が現れる。
 中高一貫の女子校に通うようになった絹子は、胸にリボンを結び、ピンクベージュのブレザーと、プリーツがたっぷり入った膝丈のスカートを身につけていた。
「この制服、すごく可愛い。お姉ちゃんに、よく似合ってたよね」
 綾子が眼を細める。
「私が通った公立中学の制服なんて、グレーだよ、グレー。青春真っただ中だって言うのに、鼠色って、一体、誰がデザインしたんだろうね」
 憤慨する綾子の前に、絹子は紅茶の入ったカップを置いた。ダージリンの爽やかな香りが、明るいリビングに漂う。
「ま、私が可愛い制服着たところで、お姉ちゃんみたいにさまになるとも思えないんだけど」
 開き直ったように呟き、綾子は紅茶を一口啜った。
「美味しい……!」
「よかったわ」
 眼を見張る綾子に、絹子は優越感を覚える。
 どうせ普段はティーパックの紅茶しか飲んだことがないのだろう。絹子が常備しているダージリンは、茶葉の風味が一番増すといわれる夏摘みのセカンドフラッシュ。百グラム数千円は下らない高級品だ。お湯の温度も淹れ方も、すべて指南書にのっとって、丁寧に淹れている。
 ウェッジウッドのカップの細い取っ手に指を絡め、絹子もダージリン特有のマスカットのような芳香を楽しんだ。
 ふと、綾子が開いたままのアルバムの中学時代の自分と眼が合う。
 ピンクベージュの制服は、今でもこの界隈に住む十代男女の憧れだ。その制服に身を包んだ絹子たちは、グレーの制服姿の公立中学の女子たちを、密かに〝ドブネズミ〟と呼んで嘲笑していた。
 写真の中の絹子は、なんの悩みも迷いもないような健やかな眼差しをしている。
 でも――。
 正直に言うと、絹子は当時の自分のことをあまり思い出したくなかった。
 なぜなら……。
「お姉ちゃん」
 綾子が改まったように絹子を見る。
「なに、綾ちゃん」
 物思いに耽りかけていた絹子は、慌てて穏やかな笑みを浮かべた。
「私、小学三年生になったときにお姉ちゃんが卒業しちゃって、ものすごく心細かったんだ」
 そうだろう。
 絹子は無言でカップに唇をつけた。
 姉の自分が卒業すれば、授業の途中でなにもかも放り出して家に帰ってしまう綾子のランドセルを家まで運んでやる人間はいなくなる。
 学校の先生たちも随分と困ったはずだ。
「でも、中学と高校は、お姉ちゃんと一緒でなくてよかったよ」
 アルバムの写真に眼を落したまま、綾子が呟くように言う。
「だって、小学校に通っている間中、お姉ちゃんのことを知ってる先生や友達から、なんで姉妹でこんなに違うんだって、いっつも比べられていたんだもの。低学年のときはなんとも思っていなかったけど、高学年になってからは、やっぱり気になった。中学や高校でも同じことを言われ続けたら、さすがにきつかったと思う」
 綾子の言葉に、絹子は少し意外な気分になった。
 自分の興味の赴くままに勝手気儘をしているようにしか見えない妹が、周囲の意見を気にしていたとは思わなかった。
 もっとも、絹子は高学年になった綾子の学校生活を間近に見ていたわけではない。小学校を卒業したときは、これで気紛れな妹の尻拭いから解放されると、肩の荷が下りたような気分になった。 
「ねえ、お姉ちゃん」
 アルバムから視線を上げ、綾子が微かに眉を寄せる。
「お姉ちゃん、覚えてる? 私、小学五年生になった頃から、急に野菜食べるようになったでしょ」
「ええ……」
 カップを持ったまま、絹子は頷いた。
 それまで間食ばかりしていて、ろくに夕飯を食べなかった綾子が、いつの頃からか、決して食べようとしなかった酢の物や野菜の煮つけを、率先して食べるようになった。 
 たったそれだけのことで、〝綾子も大人になった〟と両親が誉めそやしていたことを、絹子は今でも覚えている。
 長女の自分は、そもそも幼い頃から好き嫌いをすることを許されていなかったのに。
「あれってね、実はお姉ちゃんの影響だったんだよ」
 屈託なく告げられて、絹子は一瞬言葉を呑み込んだ。
「私ね、幼いながらに色々考えてたんだよ。どうして私は、お姉ちゃんみたいに可愛くも 綺麗でもないんだろうって」
「綾ちゃんでも、そんなことを考えてたの?」
「そりゃ、考えるよ!」
 思わず口に出した絹子に、綾子が心外そうな声をあげる。
「全然、お姉ちゃんのせいじゃないけどさ、やっぱり不公平は感じてたもの」
「不公平?」
「そうだよ。これが赤の他人ならあきらめもつくのに」
 綾子は苦笑いして肩をすくめた。
「他人なら、端から持ち物が違うから、仕方がないって思えるよ。でも、同じ両親から生まれて、同じ遺伝子を持つ姉妹なのに、髪も、眼も、鼻も、口も、体型も、なんでこんなに違うのかって。ただでさえ私、子供のときから、お父さんとお母さんの悪いところばかり引き継いで生まれてきた、とか言われてたし……」
 でも――。その分、あなたは楽をしてきたはずじゃない。
 絹子は微かに眉を顰めた。
 できるのが当たり前だった姉のつらさを、できないのが当たり前だった妹が分かるはずがない。
「でね、一つだけ気づいたの」
 綾子は口調を明るく変えた。
「同じ家で一緒に育っているのに、食べてるものが違うんだって。お姉ちゃんは毎晩、夕飯は残さず食べるけど、あんまりお菓子は食べなかったよね」
 それは、物心ついた頃から夕食前の間食を固く禁じられてきたからだ。いつしかそれが、自分にとってのルールになった。本当は絹子だって、一番お腹が減る夕食前に、スナック菓子やチョコレートを思い切り食べてみたかった。
 だが、一度決められたルールを破ることが、絹子にはなかなかできなかった。
「だからね、せめて食生活だけでも、お姉ちゃんと一緒にしてみようって思ったの」
 綾子がぺろりと舌を出す。
「それで食わず嫌いしてたものを食べてみたら、結構食べられちゃった。さすがに顔の作りはお姉ちゃんみたいにはならなかったけど、ちょっとは痩せられたし、ニキビも減ったしね」
「そうだったの」
 絹子はできるだけ穏やかな表情で頷いた。
 話が一段落したところで、絹子はキッチンに戻った。シンクの上で冷ましておいたタルトを切り分ける。ざくりとナイフを入れると、グリオットのコンポートから真っ赤な汁が飛んだ。
 白いシンクに散った血液のような飛沫を、絹子はじっと見つめる。
 肥満体だった妹が急に痩せ始めた理由が、自分へのコンプレックスから発していたとは知らなかった。普通なら健気とも取れる綾子の告白を、しかし、絹子は冷静に受けとめることができなかった。
 なぜならあの頃、絹子は誰にも言えない恐れと一人で闘っていたからだ。
 中等部の二年生になってすぐ、絹子は初潮を迎えた。その頃にはほとんどのクラスメイトが同じ状況にあったので、慌てることはなかった。知識も充分備わっていたし、準備もできていた。女子校のため、男子の眼を気にする必要がないのも気楽だった。
 だが、一つだけ、恐ろしいことが起きた。 
 生理が始まった途端、絹子は太り始めたのだ。どんなに運動をしても、生理の前になると必ず体重が増加する。
 今思えば、それは黄体ホルモンの分泌が身体の代謝を下げ、栄養を溜め込もうとするためだった。
 しかし当時の絹子は、初潮の訪れと共に、自分の体質が変わってしまったのではないかと不安になった。
〝太る体質は、私のせいだね〟
 綾子を抱きしめていた母の言葉が甦り、絹子は蒼ざめた。
 しかも肥満体だったはずの妹が、その頃から急に痩せ始めた。実際、当時の絹子は標準体重より遥かに痩せていたし、綾子も標準体重に近づいただけだったが、痩せていたものが太るのと、太っていたものが痩せるのでは心理的にまったく違う。
 生理前になると、むやみに甘いものが食べたくなることも、絹子を苦しめた。
 隠れてコンビニのケーキをむさぼるように口に押し込み、罪悪感に駆られ、トイレで喉の奥に指を突っ込んで吐くこともあった。夕飯だけは残さずに食べていたので、両親に気づかれることはなかったが、絹子は深夜にも度々密かにお菓子を口にしてはトイレで吐いた。
 写真の中には少しも現れていなかったけれど、中学時代の絹子は決して健やかではなかった。ようやく落ち着いたのは、高等部に入り、美容についての精度の高い知識を身につけてからだ。
 だから、絹子は今でも中学時代の自分のことを、あまり思い出したくない。
 肩で息を吐き、絹子はシンクに飛び散った血痕のような赤い汁をふき取った。切り分けたタルトを皿に載せ、生クリームとミントの葉を飾る。上出来だ。
 トレイを持って再びリビングに戻ると、綾子が眼を輝かせた。
「こんなの手作りできるなんて、お姉ちゃんって、本当にすごい!」
 絹子は無言で微笑み、綾子のカップにポットのダージリンを注いでやる。
「うわー、甘酸っぱーい。美味しーい!」
 一口食べるなり、綾子は身悶えするようにして感激した。
 絹子も一匙口に含む。アーモンドクリームのコクと、グリオットコンポートの爽やかな酸味が舌の上で絶妙に混じり合い、唾液腺が刺激された。アクセントに散らしたオートミールのそぼろも香ばしい。
「こんな美味しいタルト、高級フレンチのお店でも食べたことないよ。やっぱり、お姉ちゃんって最高」
 素直に自分を賛美する綾子を、絹子は可愛くも哀れにも思う。
 ただただ不器用なだけの不出来な妹だったら、自分だって、あんな真似はしなかったのに――。
 高等部に入った絹子が落ち着きを取り戻したのには、もう一つの理由がある。
 十六歳を過ぎ、過渡期だったホルモンバランスが整った頃から、絹子は一層美しくなった。長い髪に艶が出て、肌にも透明感が出た。一方、中学生になった綾子は、絵の才能を爆発的に開花させた。
 しかし十代の少女にとって、美貌と才能のどちらが有利に働くかは明白だった。
 綾子が絵画のコンクールで賞を取るたび、絹子は妹が好意を寄せている男子の前に姿を現した。少しでも自分に優しくしてくれる男子がいると、初心(うぶ)な綾子はたちまちのぼせ上がる。綾子が隠そうとすればするほど、絹子には手に取るようにそれが分かった。
 誘惑なんて馬鹿な真似はしない。
 妹をよろしくね――。
 そう微笑んで見せるだけで、大抵の男子は絹子のことしか見なくなる。陰で綾子が密かに泣いていたことも、絹子は全部知っていた。
 綾子への優越感が、絹子を立ち直らせたのだ。
「これ、綺麗だね」
 あっという間にタルトを平らげた綾子が、ハーバリウムの瓶を手に取る。硝子瓶の中、アネモネの真っ赤な花弁がゆらゆらと揺れた。
〝嫉妬のための無実の犠牲〟
 花言葉診断の言葉が甦り、絹子はハッと息を呑む。
 ハーバリウムの瓶を持ったまま、綾子は少し寂し気な眼差しで、テーブルの上の絹子と和彦の写真を見ていた。
 もとはと言えば和彦も、綾子の思い人だった。
 可哀そうな綾ちゃん――。
 でもそれは、あなたがいつも、私には想像がつかないものを見ようとするから。
「もし気に入ったなら、そのハーバリウム、タルトの残りと一緒にお土産にしようか」
「本当?」
 綾子の顔が一瞬輝く。
「もちろんよ。今日は綾ちゃんのお祝いなんだし」
「そのことなんだけど……」
 綾子が再び考え込むような表情になった。
「優勝したのは、すごく光栄だし、嬉しいんだけど」
 大手出版社のコンペティションで優勝して以来、綾子のところには、ひっきりなしに装画の仕事の依頼が入るようになったという。
「有名な作家さんの新作も先に読めるし、ベストセラーの表紙に自分の絵が使われるなんて、夢みたいな話だよね」
 自らに言い聞かせるように続ける綾子の口調は、なぜか暗い。話を聞いているうちに、絹子は自分の胸がざわつき始めるのを感じた。
 こういうところが嫌なのだ。
 単純に姉の絹子を称賛したり、優し気な男に簡単に参ってしまったりするところは可愛いのに、こと絵画が絡んでくると、綾子がなにを考えているのか分からない。
 仕事の依頼がたくさんあるなら、結構なことではないか。ただでさえ、芸術で食べていくことは難しいのだから。 
「だって、綾ちゃん、仕事が欲しかったから、コンペに参加したんでしょう」
「その通りなの」
「だったら、ありがたいことじゃない。おかげでアルバイトもやめられたんでしょう?」
「うん……」
 煮え切らない妹の態度に、絹子は内心苛々する。
 今日だって、綾子が喜び一杯でやってくるのだとばかり思い込んでいた。そうであれば、一番盛り上がったところで、話を優しくすり替えてやるつもりだった。
 絹子は自分の下腹部にそっと手を添える。 
 現在絹子は和彦の子供を妊娠している。安定期までまだ間があるが、このことを打ち明ければ、今は綾子の栄光に浮かれている両親の関心も、一気に初孫の誕生に傾くだろう。
 どれだけ物分かりのいい建前や綺麗ごとを並べたてようと、古来より出産は、女にとってなによりも大きい。コンペティションの優勝よりも、ずっとずっとおめでたい。
 でなければ〝子なし女は負け犬〟などという発想が、あんなに流布されたはずがない。
 幸せなのは、この私。
 勝手気儘に好きなことばかりしてきた妹ではなくて、きちんと規律を守って生きている、この私。
「それとも注文で絵を描くのが嫌なの? でも、そんなことを言ってたら、一生仕事なんてできないじゃない」
 我知らず、絹子の口調が強くなった。
「綾ちゃんだって、いつまでも子供じゃないんだから」
 リビングに沈黙が流れる。やがてハーバリウムをテーブルに戻し、綾子が溜め息を漏らすように笑った。
「さすがはお姉ちゃんだね……」
 屈託のない眼差しで、綾子が絹子を見る。 
「お姉ちゃんの言うことって、いつも正しい。私はしょっちゅう自分のことが分からなくなっちゃうけど、お姉ちゃんの言葉を聞いてると、ことごとく腑に落ちる。やっぱり、私はまだ子供なんだよ。多分、今回の優勝は、早すぎた」
「え?」
 綾子の言葉の意味が分からず、絹子は混乱した。三十歳にもなって、一体なにを言い出すのか。
「でも、おかげで決心がついた」
 いつの間にか、綾子が晴れ晴れとした表情になっている。
「お姉ちゃん、私、パリに美術留学しようと思ってるの」
 その言葉に、絹子は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 分からない――。
 やはり私には、この子の眼がなにを映しているのかがさっぱり分からない。せっかくつかんだチャンスをみすみす捨てて、なんの保障もない海外留学にいくなんて。
「だって、私もう三十だよ。きっとこれが最後のチャンスだよ」
 チャンス?
 絹子は綾子を茫然と見返した。
「一応そのために、フランス語だけは習ってたんだ。向こうで悔いが残らないようにしっかり美術の勉強をして、それからきちんと仕事に向き合いたい。最近私、締め切りに追われすぎて、自分がなにを描きたいのかよく分からなくなってたんだよね。こんなふうに流されちゃ、駄目なんだ」
 ああ、それで、グリオットの意味を知っていたのか。
 綾子の毅然とした表情を見つめながら、絹子はぼんやりとどうでもいいことを考える。
「お姉ちゃん、ありがとう。でも、ハーバリウムはやっぱりいらない」
 明るい笑みを浮かべ、綾子はハーバリウムと、和彦と絹子の写真を交互に眺めた。
「とっても綺麗だけど……。私、枯れない花って、あんまり好きじゃないから」
 その瞬間、絹子は自分と妹の違いを思い知った気がした。
 私は、枯れるのが怖い。たとえそれが、硝子瓶の中に閉じ込められた生命力のない花だとしても、美しい状態を保っていたい。
マニュアルを重んじるのも、規律を守るのも、妙な挑戦をして失敗をしたくないからだ。
 けれど綾子は違うのだ。
 小学校時代、重いランドセルを置き去りにして、自由に学校を出ていってしまった幼い妹の姿が瞼の裏に甦った。
 多分この子は、もう帰ってこない。
 絹子の背筋が冷たくなる。
 妹がいってしまう。
 両親のことや、常識や、日常的な瑣末なことの数々を、すべて姉の私に押しつけて。
 自分だけの世界へいってしまう――。
 器用に見えて、手引書がなければなにもできなかった絹子は、不器用に見えて、なにもないところから必ず自分だけの道を見つけ出す綾子のことが、ずっとずっと怖かった。
 だからこそ優位性を見せつけて、妹を手元に縛りつけておきたかった。
 でも、結局は無駄だった。
 初恋の男子や和彦は奪えても、妹の才能と自由な心を奪うことは永遠にかなわない。
 なぜなら綾子は、枯れることの勇気を知っている。決して失敗を恐れない。
 潔く枯れることのできる花だけが、真に咲き誇ることができるのだ。
 対して自分は、硝子瓶の中の花だ。美しいだけで、匂いもなければ活力もない。
 妹への優越感を示すために模範的な解答ばかり求めてきた自分と、ときに悔し涙を流しながらも己だけの可能性を追求してきた妹。
 嫉妬のために犠牲になったのは、一体どちら――?
 絹子の脳裏で、ハーバリウムの硝子瓶が粉々に割れた。
 シリコンオイルに浸かっていたアネモネの鮮やかな花弁が、ばらばらと散り落ちる。
 グリオットタルトの土産を手にした綾子が帰ってしまうと、絹子はふいに突き上げてくる吐き気に襲われた。
 洗面所に駆け込み、胸を押さえて嘔吐する。食べたばかりのグリオットが、深紅の嘔吐物になって流れ落ちた。初めての悪阻(つわり)だった。
 口元をぬぐうと、洗濯籠に放り込んだマーガレットの野性的な臭いが鼻を衝く。
 再び気分が悪くなり、絹子は洗面台に手をついた。
 視線を上げれば、鏡の中に血の気のない女の顔が映っている。中学時代、太り始めた自分と痩せ始めた妹が怖くて、深夜に嘔吐を繰り返した記憶が甦る。
 ふと、絹子は自分の下腹に手をやった。
 私にはこの子がいる。そう思うと、妹への執着が微かに薄れる。
 だが同時に、恐ろしい予感が湧いてきた。
 生まれてくる子が男でも女でも、誰かとの比較の中でしか価値観を見出せない自分は、きっと毒母になる。
 嫉妬のための無実の犠牲。
 まさか、それは――。
 絹子はゆっくりと自分の腹を撫で回した。
 もう一度鏡を見れば、蒼ざめた聖母の顔がそこにある。 

               第一話「アネモネの姉妹」完
               第二話「ヒエンソウの兄弟」(7月下旬公開予定)に続く

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作品について

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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