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アネモネの姉妹 リコリスの兄弟

古内一絵(ふるうち かずえ)

アネモネの姉妹 リコリスの兄弟 ブック・カバー
バックナンバー  123 

「ヒエンソウの兄弟」前編

2018.07.27 更新

 ファミレス特有のチャイム音が鳴り響き、新しい客が入ってきた。
 夏季限定〝爽やか紫蘇(しそ)入りハンバーグ定食〟を食べ終えた桐生啓二(きりゅうけいじ)は、ホールスタッフに案内されている新客の姿を見るともなしに眺める。
 この時間になっても気温はまったく下がっていないようで、自分同様残業帰りらしいサラリーマン風の男は、おしぼりでしきりに汗をぬぐっていた。
 今年の夏は異常だ。ちっとも雨の降らない梅雨が例年より二週間も早く明けた途端、毎日、最高気温が三十五度を超える酷暑が続いている。夏生まれの啓二は暑さに強いほうだが、連日の熱帯夜にはさすがに身体が悲鳴をあげそうだった。
 豪雨による災害や水不足も心配だし、そろそろ本気で温暖化の防止に取り組むべきだよな――。
 氷が解け切って生ぬるくなった水を啜りながら考えていると、サラリーマン風の男が生ビールを注文した。キンキンに冷えたジョッキ入りの生ビールが脳裏をよぎり、思わず喉を鳴らす。
 だが、啓二にはまだやらなければならない仕事があった。
 ハンバーグの鉄板を下げてもらったテーブルに、A4サイズのファイルを並べる。中には、新人賞の応募原稿のプリントアウトの束がぎっしりと詰め込まれていた。
 中堅出版社に新卒入社して六年目。入社当初は営業に配属されたが、昨年ようやく念願の文芸部に異動することができた。とは言え、新人編集者である啓二に、売れっ子作家の作品を担当する隙は無い。学生時代から愛読してきた憧れの作家たちには、既にベテランの担当編集者がついている。彼らに突然の異動でもない限り、啓二にお鉢が回ってくることはない。
 新人作家に狙いをつけても、見込みのありそうな新人には他社からも一斉に声がかかるので、すぐに原稿をもらうのは至難の業だ。
 そうとなれば――。
 まだ世に出ていない原稿の中から優秀な小説を見出し、担当の座をつかむのが、文芸編集者として経験を積んでいく第一歩だ。
 番号のふられた応募原稿の束を、啓二はじっと見つめた。
 最終選考は有名作家たちに委(ゆだ)ねられるが、それまでの一次選考と二次選考の下読みは編集部で行うのが啓二が勤める出版社の習わしだ。
 たとえ最終選考に残らなくても、編集者が惚れ込んだ原稿が後に出版され、ベストセラーになった例も無くはない。
 三十になる前になんとしてでも自分の担当作品を世に出したいと、啓二は目論んでいた。
 通常、脱稿した原稿が単行本になるまでには、三ヶ月から半年の時間がかかる。新人賞の応募原稿なら、改稿時間も含めて一年以上かかることもある。
 啓二は来月で二十八歳になる。あまり悠長に構えてはいられない。
 段ボール一箱分あてがわれた応募原稿の中に、未来のベストセラー作家の原石が潜んでいることを、啓二は密かに祈った。
 もっとも、原石を探すのは中々に大変だ。
 プロの作家の原稿と違い、応募原稿は率直なだけに読みにくい。書きたいことから書いてしまう傾向があるため、時系列や視点がバラバラだったり、伏線が回収されていなかったりするものが相当ある。正直、読み通すのがつらい原稿も少なくない。それでも、とにかくすべての原稿に最後まで眼を通し、可能性を探らなくてはならない。
 日中は文芸誌の進行や先輩編集者のアシスト作業などがあり、まとまった時間が取れないので、ここ最近、会社を出た後にファミレスで遅い食事をとりながら下読み作業をする日々が続いている。完全にサービス残業だ。
 こちらも諸々犠牲にしているのだから、今夜こそ眼の覚めるような原稿に出会いたいものだと、啓二は席を立った。サラリーマン風の男が喉を鳴らしてビールを飲んでいるのを後目(しりめ)に、ドリンクバーのマシーンで濃いめのエスプレッソを淹れる。
 隣のジュースコーナーでは、幼い二人の子供がメロンソーダを奪い合ってはしゃいでいた。周辺に遅くまであいている飲食店がないせいか、二十四時間営業のファミレスはいつきても混んでいる。二十二時を過ぎているのに、幼い子供が結構いることも驚きだ。残業帰りの若い母親たちが、子供を連れてきているらしい。
 自分が子供時代にこんな時間まで起きていたら大目玉を食らっていたところだが、それだけ世の中が変わってきたということなのだろう。三十前後の自分たちは、専業主婦の母を持つ最後の世代なのではないかと啓二は思う。
 結婚と同時に当たり前のこととして寿退社をさせられたという母は、啓二が小学校に上がる頃には毎日パートに精を出してはいたが。
 寿退社をしても、現役で仕事を続けても、どちらにせよ子供の面倒を見るのは圧倒的に母親のようだ。子連れの家族の中に、父親の姿がないことを、啓二は少々きまり悪く眺めた。
 大学時代からつき合っていた恋人とは、昨年の春に別れてしまったけれど、将来、結婚を考える相手と巡り合ったときには、自分も働き方を改めるべきかもしれない。
 そのためにも、三十までには編集者という念願の仕事で、なんらかの実績を持っておきたかった。
 出版不況――、中でも小説の部数の減少は重々心得ている。それでも、面白い物語はどんな時代でも必要とされているし、必ずや、やりようはあるはずなのだ。
 自らを奮い立たせながら、啓二はエスプレッソを片手に席に戻ってきた。
 いざ、原稿と向き合おうと一つ目の束を引き寄せたとき、テーブルの上のスマートフォンが微かな電子音をたてた。手に取ると、妹の美郷(みさと)からのメッセージが着信している。
〝お兄ちゃんと連絡取れた?〟
 吹き出しの中のメッセージに、啓二は「あ」と声を漏らした。
 そう言えば……。
 忙しさの余りすっかり失念していたが、来月の両親の結婚記念日に、兄弟妹(きょうだい)三人全員でお祝いをしようと、美郷から持ちかけられていたのだった。
 桐生家で「お兄ちゃん」と呼ばれる人物は一人しかいない。
 啓二とは四歳違いの長男、祐一(ゆういち)だ。
 その名の通り、啓二は桐生家の二番目の男児だった。 
 長男だから一、次男だから二と名づけた両親のセンスを、正直、啓二は疑わずにいられない。なぜ、生まれたときから二番目と銘打たれなければならなかったのか。
 普段あまり気にしないように心がけている不満が、むくりと頭をもたげる。いずれは誰もが生まれた家から独立し、個の人間として生きていくというのに。
 美郷が男だったら、恐らく三郷と名づけられていたのではないかと啓二は踏んでいる。
 ロット番号じゃないんだからさ――。
 スマートフォンを持ったまま、小さく鼻を鳴らした。
人は無条件に、〝二〟よりも〝一〟を上に見る。一つ違いの妹、美郷の態度がいい例だ。
 次男であろうと年子であろうと、同じく〝兄〟である事実は変わらないだろうに、美郷は決して自分を「お兄ちゃん」と呼ばない。よくて「啓ちゃん」、悪ければ呼び捨て、酷いときには「あんた」だ。
 たとえ妹であっても、女性のメッセージを既読スルーするとろくなことにならないことを、別れた恋人との経験からも熟知している啓二は、仕方なくメッセージを返す。
〝ごめん。まだ取れてない〟
 すぐさま、液晶画面に新しい吹き出しが現れた。
〝えー、なにそれ!〟
 語尾に、凶悪な表情の猫のスタンプが連打されている。美郷の怒りの表明だ。
〝お店とかはこっちで手配するんだから、連絡くらい、ちゃんと取ってよね〟
 その〝連絡〟が、こと祐一に関しては非常に取りづらい状況にあることくらい、美郷だって承知しているはずではないか。
 少々恨めしい気持ちで、啓二はスタンプを眺める。
〝お兄ちゃんがくるかこないかで、お母さんのテンションが全然違うんだからね〟
 啓二の反論を封じるように、再びメッセージが着信した。
 それを言われると、啓二もぐうの音が出ない。母は昔から、長男の祐一を半ば信奉しているようなところがあった。兄を前にすると、表情どころか声色まで変わってしまう。
〝とにかく、他のことは私がなんとかするから、啓ちゃんはお兄ちゃんを捕まえてよ。それくらい男同士なんだからできるでしょ。お兄ちゃんへの連絡担当は、啓ちゃんだからね〟
 語尾に、ビシッと指をつきたてた猫のキャラクターのスタンプつき。
 有無を言わせぬつもりらしい。
〝分かった。努力する〟
 啓二は溜め息がてらに返信する。
 もっとも、男同士とか、そういう問題ではないと思うのだが。
 スマートフォンをテーブルの上に伏せ、啓二はエスプレッソのカップを手に取った。
 同性の兄弟であっても、啓二はこれまで祐一をそれほど近しく感じたことはない。年子の妹の美郷とのほうが、よっぽど距離が近いくらいだ。
 本当は美郷も祐一が苦手なのではないかと、啓二は密かに勘ぐった。
 体よく、兄貴を押しつけやがって――。
 エスプレッソを一口啜り、小さく舌を打つ。
 一つ違いの美郷とは、物心ついたときからよく一緒に遊んだが、四つ違いの祐一とは同室で暮らした経験はあっても、あまり遊んだ覚えがない。
 三兄(きょう)弟妹(だい)の中で、唯一昭和生まれの祐一。
 ぎりぎりゆとり世代ではなく、小・中学校での週休二日を知らない兄。
 次男の啓二と、末っ子の美郷は、どちらかと言えば放任されて育ったが、子供の頃から優秀だった長男の祐一は、両親の期待を一身に背負わされていた。特に、有名私立の付属高校を目指した受験時は大変で、祐一は早朝から勉強に励んでいた。
 努力の甲斐があり、祐一は付属高校に無事合格し、順調に有名私立大の政治経済学部に進学した。
〝お兄ちゃんの受験で疲れちゃった〟
 母のこの一言で、啓二と美郷は予備校にも通わず、地元の定員割れの公立高校に入学した。
 とは言え、兄ばかりが苦労したわけではない。それほど裕福ではなかった桐生家では、啓二が大学進学で家を出るまで、兄と弟は同じ部屋で過ごさなければならなかった。 
 あまり気の合わない兄と二人きりになるのが気まずくて、啓二は日中いつも友人宅へ出かけるようにしていた。一方、見るからに友人が多くなさそうな兄は、常に机にかじりついて勉強していた。
 あの頃祐一がしていたのが本当に努力だったのか、それとも、他にすることがなくて勉強に逃げていただけだったのか、今考えれば疑わしいと啓二は思う。
 母は成績優秀な兄を特別視し、「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と当時から世話を焼きまくっていたが、啓二から見ると、祐一は同世代の男子学生と比べていささかずれたところがあった。
 第一に、あんなに母親に纏わりつかれて平気でいるのが、理解できない。
 おかげで啓二はそれほど束縛を受けることがなかったが、母の干渉を淡々と受け入れている兄の姿は少々気味が悪かった。
 当時、仲間内の男子学生の間で一番恐れられていた言葉は、〝マザコン〟だったからだ。
 元々兄貴は、そういうのにも無頓着だったのだろうか。
 苦いだけのエスプレッソを飲み込み、啓二は眉を寄せる。
 考えてみたら、兄貴はある意味変人だったもんな――。
 特別喧嘩をした覚えはないが、心を開いて深い話をした覚えもない。
 あの頃から、机にかじりついて勉強ばかりしていた祐一のことが、啓二にはよく分からなかった。そして祐一もまた、同じ部屋で寝起きを共にしているにもかかわらず、弟の啓二のことをまったく気にかけていなかった。
 ふいに、大音量で響き渡る尾崎豊の熱唱が甦り、啓二は苦笑した。 
 受験勉強が佳境の中三の夏、祐一は毎朝ラジカセのタイマーで尾崎豊の「十五の夜」や「卒業」を大音量でセットしていた。当時、啓二は小学五年生。せっかく寝坊を楽しみたい夏休みに、毎朝五時に咆哮するような絶唱で叩き起こされ、ほとほとうんざりした。
 おまけにその大音量の中、当の祐一はすやすやと眠っているのだ。いい加減にしろと、啓二が叫んでラジカセのスイッチを切ったところでようやく眼を覚ますのが、毎朝の決まり事のようになっていた。
 なんで、尾崎豊だったんだろうな。
 バイクを盗むことにも、学校の窓ガラスを叩き割ることにも、遥かに縁のなさそうな兄だったのに。
 おかげで、啓二は未だに尾崎豊が苦手だ。 
 たまにラジオから歌声が流れているのを耳にすると、迷惑極まりなかった夏休みを思い出してしまう。あのときは、切実に自分だけの部屋が欲しかった。
 いい思い出などほとんどない兄との同室生活だが、しかし、よいことが全くなかったわけではない。交友関係が広かった啓二は、小遣いやお年玉をつき合いであっという間に使い果たしたが、祐一はミステリーのシリーズや人気作家のアンソロジーを地道に買い集めていた。
 暇なときに兄の本棚から本を取り出して読めるのは、同室生活の数少ない利点だった。しかも選書がなかなかよく、啓二が小説好きになったのは、兄の本棚の影響と言っても過言ではなかった。
 それでも、どうしたってストレスは溜まる。
 難しい試験問題には果敢に取り組むのに、ちっとも空気を読もうとしない祐一に焦れて、啓二はたびたび苛々を募らせた。
 あるとき、あまりに頭にきて、祐一の体操着のズボンに鋏で穴をあけたことがあった。かなり大きな穴をあけてやったが、あの後、兄はどうしただろう。
 尻に大きな穴のあいたズボンを、体育の授業で着たのだろうか。
 事の顛末を、啓二はよく覚えていない。
 どの道、それくらいは可愛い腹いせだ。
 ようやく大学受験を終えたとき、自分が兄から浴びせられた、トラウマ的な一言に比べれば――。
 いつしか唇を噛んでいることに気づき、啓二はハッとした。
 今更、そんなことどうでもいい。
 嫌な思い出を払うように首を振る。
 あの兄の一言があったおかげで、かえって自分はここまでこられたのかもしれないし。
 エスプレッソを飲み干し、啓二は原稿の束を手に取った。
 さて、原石を見つけよう。
 一束、四百字詰め原稿用紙換算で約三百枚。集中して読めば、二時間弱か。時計に眼をやり、啓二は我知らず息を吐いた。今日も帰宅は午前様になりそうだ。
 読むだけで仕事してる気になれるなら、気楽なもんだよな――。
 どこかから、兄の皮肉な声が聞こえたような気がした。

 文芸誌の校了間際の編集部は、二十二時を過ぎてもほとんどの編集部員がパソコンに向かっている。著者の赤字修正と念校を照らし合わせ終えた啓二は、一息ついてデスクから立ち上がった。
 暗い渡り廊下を歩き、売店コーナーに向かう。
 ふと、今日は週末だったかと思い至る。土日も原稿を読んでいるせいか、曜日の感覚があやふやだ。このところ、月日が経つのが無暗に早く感じられる。
 このままあっという間に三十になって、気づいたときには、すっかりオヤジになってたりして――。
 冗談ごとでは済まなそうな着想を、啓二は慌てて振り払う。
 社員の間で〝ガス室〟と呼ばれているガラス張りの喫煙所の先に、カップラーメンやスナック菓子やバナナ等の軽食も買える、自動販売機が並んでいた。
 無料のコーヒーを紙コップに注ぎ、チョコレート菓子を買う。今夜はファミレスにいく余裕もないかもしれない。先輩社員が虚ろな表情でタバコをふかしている姿をガラス越しに眺めながら、啓二はほとんど香りのないコーヒーを一口飲んだ。
 まあ、ファミレスのメニューもそろそろ飽きてきたけどね……。
 ここ一、二週間、会社を出た後も下読みに精を出してきたにもかかわらず、二重丸をつけたくなるような原稿には未だ巡り合っていない。一体いつ面白くなるのだろうと辛抱しながら読んでいても、そのままなんの進展も見せずに呆気なく終わってしまうものがほとんどだ。
 破綻していてもよいから、もっと個性的で面白い原稿が読みたい。
 もしかしたら段ボールの当たりが悪かったのだろうか。
 己の籤運のなさを微かに恨みながら、啓二はチョコレート菓子を口の中に放り込んだ。頬の裏側で菓子を転がし、胸ポケットからスマートフォンを取り出す。
 メールの受信ボックスを開いてみると、やはり返信はない。
 空のボックスを睨み、啓二は鼻から息を吐いた。
 これだけメッセージアプリが普及している現在、連絡手段がメールのみということ自体、どうかしている。
 先週、妹の美郷から一方的に兄への連絡を押しつけられて以来、啓二は何度か祐一のアドレスにメールを送っているが、今のところ、なしのつぶてだ。
 しかも、これって、フリーアドレスだよな。
 随分昔に聞いた祐一のアドレスを、啓二は改めて確認した。ひょっとすると、祐一はスマートフォンを持っていないのかもしれない。まさかとは思うが、どこかのネットカフェにでも入らないと、メールを確認できない状態なのだろうか。
 啓二は暗い窓の外をじっと見つめた。
 実のところ、現在の祐一は半ば行方不明のようなものなのだ。
 三人の兄弟妹の中で一番成績優秀だった祐一が、後にこんな状況になるとは、恐らく、桐生家の誰もが予想だにしていなかったに違いない。
 少々調子外れではあったものの、優秀な兄の未来は、順風満帆なはずだった。それが証拠に、有名私立大学の付属高校に合格した祐一は、その後も難関と言われる政治経済学部に進学し、早々に外資系証券会社に就職を決めた。
 あの出来事さえなければ、兄は今だってエリート街道を突き進んでいたに違いない。しかし、それは突然やってきた。
 リーマンショック――。平成最大の経済危機。
 ようやく盛り返していた経済が一気に失墜し、数年続いていた売り手市場が瞬く間に息を潜めた。呑気に長い夏休みを過ごしていた直後に、祐一は内定取り消しの知らせを受けたのだ。
 それがどれほど大変なことだったのか、今の啓二なら理解できる。
 特に、敷かれたレールの上ばかりを走ってきた祐一にとっては、青天の霹靂のような出来事だったに違いない。
 だが当時は、啓二自身が大学受験を控えていて、兄を慮るどころではなかった。のんびりとした地元の公立で高校生活を謳歌した反面、受験勉強は本当に大変だった。
 だから――。
 あのとき、兄がどんな心境で自分にその言葉をぶつけてきたのか、深く思いを馳せることができなかった。
〝本を読むだけで勉強してる気になれるなら、気楽なもんだよな〟
 苦労を重ねてようやく第一志望の大学の文学部に合格した啓二に、祐一は言い放ったのだ。
〝でも文学部は就職できないから、これでお前の人生終わったな〟
 普段無口な兄が投げつけてきただけに、その一言は、今でも胸の奥底に突き刺さっている。
 やり直しの就職活動に駆け回る祐一を、相変わらず母が甲斐甲斐しく世話を焼いているのを後目に、啓二は家を離れることにした。
 アルバイトのかけ持ちはきつかったが、念願の一人暮らしが待っていた。マイペースすぎる祐一に振り回される日々から解放され、伸び伸びとした自由を存分に味わった。ぶつけられた言葉を呪縛にしないためにもと、勉強や人脈作りにも精を出した。
 兄の言葉への反発が、自分の大学生活に活を入れていた側面もあったのかも分からない。
 しかし、久々に実家に電話をしたとき、結局就活に失敗した祐一が、突然放浪の旅に出たと父から聞かされたときは耳を疑った。
 北海道の先端から、沖縄の離島まで。
 以来、祐一は未だに「自分探し」を続けている。その場しのぎのアルバイトをしながらシェアハウスを転々と移り住み、バックパッカーのような毎日を送っているらしい。
〝祐一は昔から、分かりやすいマニュアルに沿って一直線みたいなところがあったけれど、いきなり内定を取り消された段階で、どっかのネジが飛んじゃったのかもしれないなぁ……〟
 桐生家では、母に比べて圧倒的に影の薄い父が淡々と語るのを、啓二は唖然として聞いていた。そんな状況にもかかわらず、母が以前と同様に「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と連呼しているのにも驚かされた。母にとっての祐一が、いかに特別かを思い知らされた気分だった。
 三十過ぎた今も、自分探しとはね……。
 チョコレート菓子を噛みながら、啓二は苦い笑みを浮かべる。
 難関と言われる政治経済学部を卒業した兄が行方不明で、〝人生終わり〟の文学部を卒業した自分が、一企業でこうして深夜残業をしているとは皮肉なものだ。
 気楽なのは、一体どっちだよ。
 飲み終えたコーヒーの紙コップをゴミ箱に放り、啓二は踵を返す。
 オフィスに戻る途中、〝ガス室〟から出てきた先輩編集者と出くわした。
「お疲れ様です」
 頭を下げた啓二に、先輩は「おお、桐生」と顎をしゃくる。
「どうよ、新人賞、めぼしい原稿あったか」
「なかなか難しいですね」
「今のところ、俺の箱もさっぱりだなぁ」
 疲れ切った顔の先輩と連れ立って、編集部へと戻ってきた。
「お前、悪いけど、公式ツイッターで新刊の感想、リツイートしといてよ」
 席に着きつつ、先輩編集者が声をかけてくる。
「自分の新刊の感想ツイートがうちの公式に出てないと、先生ご機嫌が悪くってさ」
 売れっ子作家の担当も、それはそれで気を遣うらしい。
「分かりました」
 啓二は頷いて、スリープ状態だったパソコンを立ち上げた。
 公式ツイッターのブラウザを開き、新刊の検索を始める。人気シリーズの最新刊だけに、大勢のツイッターユーザーがコメントを呟いていた。好意的なツイートをリツイートして拡散していくのも、地味だけれど大切な仕事の一つだ。
 タイムラインを眺めているうちに、啓二は繰り返し流れてくるハッシュタグに眼をとめた。
 #花言葉診断
 その人に一番必要な言葉が出てくると、最近話題の診断だ。
 解説も中々本格的だと、新書を担当する編集者が話していたことを思い出す。ツイッターで話題を呼んだテキストが、新書で発売されることも少なくないご時世だ。こうしたコンテンツは、決してバカにできるものではない。
 必要な言葉、か――。
 ふと好奇心に駆られ、啓二はURLをクリックした。リンク先の空欄に、フルネームを打ち込んでみる。
 すぐさま、診断結果が現れた。

 ヒエンソウ――花言葉「私の心を読んでください」
 
 ヒエンソウ?
 聞き慣れない花の名に、啓二はもう一つブラウザを開いて画像検索してみる。眼の前に、青や紫やピンクの花びらを軽やかに咲かせた可憐な花が、ずらりと並んだ。
 漢字では「飛燕草」と書くらしい。啓二が花びらだと思った部分は実は萼(がく)で、翼を広げたような萼の部分が燕の飛ぶ姿を想起させるために、この名がついたという。
 画像検索のブラウザを閉じ、啓二は診断の解説に眼をやった。
 燕が舞い飛ぶ姿にたとえられるヒエンソウは、本来キンポウゲ科のコンソリダ属だが、かつてはデルフィニウム属に分類されていたことがある。デルフィニウムはギリシャ語のイルカ。燕にもイルカにもたとえられた花が、本質を知ってほしいと密かに願い、こうした花言葉がついたのかもしれない。
 ふーん、成程ね……。
 啓二は足元の段ボールに眼をやった。
 まだ手付かずの応募原稿が、たっぷりと詰まっている。まさに、「私の心を読んでください」といった状態だ。
「桐生、そろそろ俺は帰るぞ」
 向かいのデスクの先輩が立ち上がった拍子に、啓二はハッと我に返る。
「お疲れ様です」
「お前も切りのいいところで、いい加減帰れよ」
 帰り支度を終えた先輩は、足を引きずってオフィスを出ていった。気がつくと、もうほとんどの編集部員が残っていない。壁にかけられた時計に眼をやれば、既に二十三時時を過ぎていた。
 週末の終電は地獄だし、自分も帰るか。
 段ボールの中から、土日に読む用の原稿を引き抜く。その一番上の原稿のタイトルに、ふと視線がとまった。
「南国(なんごく)飄飄(ひょうひょう)」
 なんだか変わったタイトルだ。プロローグだけ読んでみようかとページをめくる。
 その瞬間、頭の中に、石垣島の青い海の情景が広がった。
 なんだ、これ。
 プリントアウトされた文字の向こうから、南の島の強烈な陽光が降り注ぎ、海の潮の匂いをはらんだ風が吹いてくる。
 啓二は胸の鼓動がどきどきと速まってくるのを感じた。
 これまで読んできた応募原稿とまったく違う。主人公の視点の風景が色彩豊かに溢れ出し、ページをめくる手がとまらない。
 プロの作家が書いた本を読んでいるときと同じ興奮が、胸の奥から湧いてくる。
 いつしか啓二は、物語の世界に引きずり込まれていた。
 主人公は、なにやら訳のありそうな無気力な青年だ。過去の挫折を匂わせる青年が、南の果てを目指して、バックパックで旅をしている。
 言ってみれば、手垢のついた「自分探し」的な展開だ。
 しかしそこに、かつて少年兵として太平洋戦争に参加した老人が登場したことで、ぐっと世界観が広がった。
 あっという間に第一章を読み終えたが、色彩豊かで滑らかな文体は衰えるどころか、益々勢いを増している。先が気になって、ページをめくらずにいられない。
 それに――。
 なんだろう。この既視感。
 バックパッカーと、自分探しというキーワードのせいか、主人公が兄の祐一と重なって見えてくる。頭でっかちな意固地さも、空気を読めない不器用さも、なにもかもがそっくりに思えてきて仕方がない。
 子供の頃から理解できないと思い続けてきた兄の心の裏側を読んでいるようで、啓二はごくりと固唾を呑んだ。
 まさか、この原稿を書いたのは、兄本人ではあるまいか。
 先入観を持たずに原稿を読むため、応募者のプロフィールと原稿は別々に保管されている。今すぐ、この番号の応募者の個人情報を照会したくなり、啓二は息を荒くした。
 もっとも、個人情報を保管しているデスクの社員はとっくに帰ってしまっている。
 いくらなんでも興奮しすぎだと、啓二は己をたしなめた。
 大体、文学部をあれだけバカにしていた兄が、小説など書く訳がない。
「うわ!」
 しかし、主人公の内面が描かれる第二章を読み進めていくうちに、啓二は思わず声をあげた。
 高校時代の回想シーン。
 主人公はそうとは知らず、穴のあいた体操着を着用し、クラスの主流派の男子たちから散々に嘲笑される。
 祐一の体操着のズボンに鋏で穴をあけたことを思い出し、啓二は全身を震わせた。
 やはり、この原稿の作者は祐一だ。
 思えば、子供の頃、小遣いのほとんどを本を買うのにつぎ込んでいた兄だ。文学部をバカにしていながら、そのくせ祐一は、本心では文学に憧れていたのかもしれない。
 震えた手がマウスに当たり、ブラックアウトしていたパソコンが立ち上がる。

「私の心を読んでください」

 ディスプレイに浮かんだ花言葉に、啓二は大きく眼を見張った。

                     「ヒエンソウの兄弟」後編に続く

バックナンバー  123 

著者プロフィール

古内一絵(ふるうち かずえ)

1966年東京都生まれ。日本大学卒。映画会社勤務ののち、2010年『快晴フライング』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、11年に同作でデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。
主な著作に『マカン・マラン - 二十三時の夜食カフェ』、『十六夜荘ノート』、『キネマトグラフィカ』などがある。

作品概要

兄弟姉妹――。それは、一番近くにいる謎。
書店員から圧倒的支持を受ける作家による、人間の内面を描き切る連作短編。

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