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悪夢か現か幻か

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か ブック・カバー
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第14回 海玉

2019.04.16 更新

 私は、高校を卒業するまで暮らしていた故郷へと向かっていた。特急と在来線を乗り継ぎ二時間ちょっと。さらにバスで十分、山道を行く。
 ぼんやりと車窓からの景色を眺めながら、私はポケットの中の小さな海玉の箱を触った。
 海玉というのは薄い青色の玉で、口に含むと、まるで海にいるような幻覚を見ることができる。
 それは砂浜であったり、大洋の真ん中であったり、見える景色は石の取れた場所によって様々だが、潮の香りや素足の下の砂の感触、照りつける太陽の眩しさや船の揺れ、風、飛沫など、どれもこれも、まさにその場所に居るかのように感じられるらしい。
 人の体の奥底に眠る記憶に働きかけて、海と結びつけるのだそうだ。
 私は死に行く母の為に、これを求めた。
 山間の小さな町に生まれ育った母は、一度も海を見たことがない。
 封建的な父親の顔色を窺いながら育ち、結婚してからはひたすら夫に従って姉と私を育て、義両親と夫の介護が終わった時には、自分の体が自由に耐えられなくなっていた。
 そんな母の口癖が「本物の海を見てみたい」だった。
 数年ぶりに帰った実家は古くて湿っぽく、それでいてここから逃げ出した私でも懐かしい匂いがした。
「母さん」
 呼びかけると、そこだけがやたら近代的な機械だらけのベッドの上で、母は顔をこちらに向けた。
「おかえり」
「ただいま。具合はどう?」
「うん。まあまあだ」
「姉さんは?」
「買い物」
「そう」
 胸にこみ上げてくるものはあるのに、それは何一つ言葉にならず、口から出るのはありきたりな質問ばかりだ。私はすぐに会話に窮して、取って付けたようにポケットから海玉を出した。
「これ、お土産」
「ありがとう。綺麗な石だね」
「ただの石じゃないんだ」
 私は海玉の説明をしたが、わかっているのかいないのか、母は微笑を浮かべてウンウンと頷いているだけだった。
「ほら、口を開けてみて。嚙まないように気をつけて」
 乾いた唇の隙間から玉を押し込む。母は飴を舐めるように口の中で転がした。

 私はこの海玉を、自分の住む大きな港町の舶来品屋で購入した。
「どのような海玉をご所望ですか?」
 店主は青い天鵞絨(ビロード)の生地が貼られた箱に並べられた海玉を見せてくれた。
「これは南の大洋の真ん中で採れた玉で、大海原にたった一人ボートで漂っているような気分になれます。こちらは流氷に覆われた北の海で採れた玉で、防寒具が必要なのが難点ですが、運が良ければ白熊やアザラシを見ることができます。大変珍しい海玉ですよ」
「いや、そんな大袈裟なものでなくていいんだ」
 私は言った。
「もっと身近な感じの海がいい」
 店主は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに別のを出してくれた。
「では、こちらのものはどうでしょう」
 聞けば地方の小さな海水浴場で採れた海玉だと言う。
「夏は賑やかですが、それ以外の季節は人もなく、静かで穏やかな浜です。周りの松林も綺麗ですよ」
「船は見えるか?」
「ええ。漁港が近いですし、天気が良ければ遠くを通る大きな船も見えるでしょう」
 私は母の持つ海のイメージを、幼い頃に歌ってくれた童謡の歌詞のようなものなのではないかと考えていた。
「じゃあ、それを」
 店主は他の玉より少し小振りなそれを、白い布で包んで箱に入れてくれた。

 母は目を閉じたまま、しばらく海玉を含んでいたが、やがてそれをそっと吐き出した。海風で体が冷えたらしい。
「海は風が強いんだね」
 母はそう言うと儚く笑った。
「夕陽がね」
 布団を掛け直そうとした私の手を、母は弱々しく握った。
「夕陽がとても大きかったよ」
「そう」
 握られた手を取って布団の中へ入れてやると、母はウトウトし始めた。
 それから母は時間があると海玉を口に入れるようになっていた。
「今日は綺麗な貝殻を拾ったよ」
 母は空っぽの掌を広げてみせる。
「おや、どこかに落としたのかね。見せたかったんだけど」
「また拾ってくればいいよ」
「そうだね」
 母はいつも楽しそうに海での出来事を話した。
「波っていうのは気持ちがいいね。調子に乗って膝くらいまで浸かったよ」
 だから服が濡れたと言えば、姉が着替えをさせる。
「岩場に行ったら蟹がいたよ。捕まえようとしたら挟まれた。ほら、ここ」
 指差した何もないところに私は絆創膏を貼った。
「暗くなるまでいたら、海のずっと先に灯りが見えたよ。あれはなんだろうね」
「イカ釣り船じゃないか?」
「へえ。随分と不思議な物に見えたねぇ」
 松林で松ぼっくりを拾った。
 風が強くて髪が砂だらけになった。
 釣りをしている人がいたから、釣った魚を見せてもらった……。
「海はいいねぇ」
 玉を口に含んでいない時も、母の目は水平線の果てを見つめ、耳は波の音を聞いているようだった。
「広くて、大きくて、だぁれもいなくて……」
 私は後悔した。 
 今更な言い分だとはわかっている。都会育ちの妻と母の折り合いが悪いのを理由に、母の面倒を任せっぱなしにしていた。毎日母のところへ通い、ここしばらくは泊まり込みだった姉が聞いたら呆れ顔をされるだろう。それでも、胸の奥から滲み出る苦い感覚はどうしようもない。
 母の海の話が尽きることはないが、命の引潮は容赦なく近付いて来ていた。
 そんな時だ。
 事故か故意かはわからない。
 どこにそんな力が残っていたのか、母は海玉を飲み込んだ。
 姉と私は大急ぎで医者を呼んだが、海玉は喉に詰まらず、検査でも見つからず、まるで幻のように消えてしまっていて、結局様子を見ましょうということになった。
 翌朝、母の姿は消えていて、シーツの上には小さな海玉が一つコロンと転がっていた。
 姉も私も泣かなかった。
 今にして思えば、どこかで母がこうなる事を覚悟していたような気がする。
 遺体もないまま小さな葬儀を済ませると、後はただ静けさだけが古い家をひたひたと満たしていて、時間の経過もどこかいつもとは違うようで、窓から入ってくる山の濃い緑の匂いだけが、これが現実であるという証拠のように思われた。
 誰もいなくなった家で一人になった私は、白い布に包まれた母の海玉を出して、そっと口に含んだ。
 ほのかな塩の味を感じると、視界がゆっくりと暗くなる。頭まで水に浸かっている感覚があるのに不思議と息は苦しくない。ザーザーと激しいノイズの向こうに規則正しいリズムを刻む低い音が聞こえる。この場所には覚えがあった。
 生まれる前の海。
 私は記憶の臍帯を手繰り寄せる。
 紛れもない。
 この海は、母の胎内だ。

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作品について

著者プロフィール

堀真潮(ほりましお)

作家。
2016年、「瓶の博物館」で第1回ショートショート大賞受賞、7,817編もの応募作の頂点に。同年12月、作品集『抱卵』で作家デビュー。

作品概要

ときに不思議で懐かしい、かと思えば恐ろしくて狂おしい──。
夢と現の境界を自由に往来する堀真潮ワールドにご案内。
夢と自覚できれば目覚めるけれど、もしどちらの世界かわからなくなってしまったら……。
さあ、どうなるかは読んでお確かめください。

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