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悪夢か現か幻か

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か ブック・カバー
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第12回 ハンカチーフ

2019.03.16 更新

 頼子がベランダで洗濯物を干していたときだ。上からひらひらと何かが落ちてきた。
 その日はよく晴れていたが、風が強かった。
 見上げた青空が四角く切りぬかれたかと思うと、それはすぐ手の届くところへとやってきた。
 強風にあおられ、どこからか飛ばされてきた洗濯物だろうと思った頼子は、ベランダの柵から少し身を乗り出してそれを捕まえた。頼子は意外とそういうことが得意だった。
 それはグレイのチェック柄の男物のハンカチで、誂えたものなのか家族が入れたものなのか、隅にグレイの糸でS・Yとさりげなくイニシャルが刺繍してあった。
 頼子はもう一度柵から顔を出して上を見上げた。
 ここは三階建てで、各フロア四戸、計十二戸の小さなマンションだ。住人のほとんどは単身者で、夫婦は頼子のところともう一部屋だけで、それも結婚したばかり。どちらの家も数年のうちには子供ができたときのことを想定して、もう少し利便性の良い広いマンションに引っ越すことを予定している。常駐の管理人はいない。
 頼子の部屋は二〇三。落ちてきた方向から考えて三〇四の部屋の物らしい。
 頼子はこのハンカチを直接持っていこうかどうしようか一瞬迷った。
 都会のこんなマンションでは引っ越しの挨拶どころか、住民同士が顔を合わせることも少ないし、たまに出くわしたとしても軽く頭を下げて会釈する程度で終わりだ。それでさえ無視する人も少なくない。
 結局、頼子はハンカチを持っていくことにした。
 このマンションはエレベーターがないので、二〇一の先にある階段を上って廊下をずっと歩き、三〇四の前まで行く。
 一階分上がるだけで、ずいぶん景色が違うものだなと頼子は思った。三〇四の前の廊下からは隣にある保育園がよく見えた。
 頼子はインターホンを押した。だが返事はない。
 もう一度押して耳を澄ませた。部屋の中でインターホンのチャイム音が響いているのが聞こえる。
 住人は朝から仕事に行ってしまっているのだろう。
 頼子はすっかり乾いているハンカチを見た。昨夜のうちに干していた物が飛んできたのだと思っていたが、ハンカチには折り目がついていた。
 奇妙に思ったものの、頼子は三〇四を後にして、自分の部屋へと戻った。
 そんな物は放っておけばいいのにと、帰宅した頼子の夫は夕食を食べながら言った。
「今度、管理人が来たときに渡しておけばいいじゃない」
「うん。それはそうなんだけどね」
 確かではないが、三〇四は女性が一人暮らししている部屋のはずだ。
 余計なお世話かもしれないが、そこに男物のハンカチ、それもイニシャルの刺繍入りとなると、噂好きのおばさんである管理人に渡すのは気が引けた。
「タイミングを見計らって、もう一度行ってみるわ」
「いいんじゃない」
 夫は関心がないようで、すぐ流行りのテレビドラマに話題を変えてしまった。 
 頼子はそれから何回か三〇四の部屋へと行ってみたけれど、どうにもタイミングが悪いのか住人に会うことができなかった。
 空振りを繰り返し、もうどうでもいいからハンカチを管理人に預けようと思い始めた頃だ。
 たまたま外出の際に顔を合わせた、二〇四の隣人に声をかけられた。
「すみません」
 確か近くの私大に通う一人暮らしの大学生だったはずだ。入居してきたときに母親と一緒に挨拶に来たのを頼子は覚えていた。
 とはいえ隣人でありながら、ふだんはほとんど接点がない。頼子は少し警戒しながら会釈をした。
「あの、何か?」
「すみません。あの……上の人、うるさくないですか?」
「え? 上の人?」
 大学生はまっすぐ上を指差している。
「三〇四の?」
 頼子が聞くと、大学生は頷いた。
「最近、夜になるとリフォームでもしているのか、機械の音とかうるさいんです。こういうのって管理会社に言った方がいいと思うんですけど、あの、そちらの部屋では聞こえたりしませんか?」 
 管理会社に訴えるにしても、なるべく味方を増やしておきたいのだろう。
 確かに夜中に多少の騒音がすることはあるが、元が大雑把な性格のせいか、あまり気にしたことはなかった。マンションは、音が天井や壁の中の空間を伝って、発信源近くではなく離れた部屋で聞こえるということもあるので、そういうことかもしれない。
「あまり気にしたことはないけど、確かに音はします。管理会社に相談するのはいいと思いますよ。必要があれば、うちも証言しますから」
「ありがとうございます」
 証言してもらえると聞いてホッとしたのか、大学生はぺこりと頭を下げると、階段の方へと歩いていった。
 その夜、頼子は階上の物音に耳を澄ませていた。
 三〇三の住人は看護師で、今日は夜勤のはずだった。
 頼子達が引っ越してきたとき、夫婦で挨拶に行ったら気さくな笑顔で迎えてくれた人だ。火・木・金は夜勤が多く、明け方うるさくしたらごめんなさいと言っていたのだ。
 だからもし、今夜物音がしたなら、それは多分三〇四の住人だ。
 そのうち、何か工具を使っているような音が聞こえてきた。真上というよりも少しずれたところからのように感じた。
 頼子はハンカチを摑むと、階段を駆け上がった。
 そっと中の様子を窺うと、人の気配があった。
 インターホンを押すと、金属製のドアを挟んでかすかにチャイムの音が聞こえる。
 だが、待てど暮らせど返事がない。
 頼子はドアに耳を近づけた。確かに何か物音がするし、人が話しているような声も聞こえる。
 もう一度、インターホンのボタンを押した。やはり返事はない。
 居留守を使われたのだと思うと気分は良くないが、あまり何度も呼び出すのもためらわれ、その夜はそのまま帰った。
 次の日の夜も頼子は物音がするのを確かめてから、三〇四の部屋へと向かった。
 しかし、住人は出てこない。中に人の気配はあるのに、もう一度インターホンを押しても、やはり出てこない。
 低く人の話し声がするのは、このままやり過ごすかどうか相談でもしているのだろうか。
「あのー、すみません!」
 頼子は思い切ってドアを叩いた。返事はない。
 人の声は聞こえなくなったが、気配は消しようがない。
「すみませーん! すみませーん!」
 今度は少し乱暴にドンドンと叩いて、様子を窺った。
 玄関先でゴトゴトと音がして、ようやくガチャリと鍵が開けられた。
「何か用ですか?」
 出てきたのはパサパサの赤い髪をした女だった。ほとんど下着姿のすっぴんで、だらしない感じは否めない。
「寝てたんだけど」
 女はいかにも迷惑といった口調で言ったが、頼子は「噓つき!」と心の中で毒づいた。こんな時間だっていうのに、なんだかわからないけど工具の音をさせて、迷惑なのはそっちじゃない。
 女の態度に頼子はイラッとした。それでなくても何度も居留守を使われて、堪忍袋の緒が切れる寸前だったのだ。
「うるさいんですけど!」
 つい声も荒くなる。
「この間から夜中にガタガタガタガタ! 迷惑よ!」
 頼子の剣幕に何ごとかと思ったのだろう。奥の部屋から一瞬男が顔を出したが、すぐに引っ込んだ。 
 やっぱり男を連れ込んでいる、と頼子はさらに頭に血を上らせた。同じマンションにこんなふしだらな女がいることが許せなかった。
「みんなうるさいって言ってますよ!」
「ああ、そう」
 女は面倒臭そうに言うと、ドアを閉めようとした。
「待ちなさいよ! あなた昨日来たときも居留守使ったでしょう! いい加減にしてください!」
「わかったわよ」
 女は赤い頭を搔いた。強いタバコの臭いがして、頼子は一歩退いた。その隙にドアを閉められてしまった。鍵とドアチェーンを掛ける音がする。断固とした拒絶の音だ。
「な、何よ! 偉そうに!」
 頼子はプンプン怒りながら、自分の部屋へと戻った。
 玄関を開けようとして、手にハンカチを握っていたことに気がついたが、腹立たしいのでそのままゴミ箱に突っ込んだ。

 それから数日後、買い物から帰るとマンションの前が騒然としていた。入り口にはブルーシートが張られていて中に入れない。
 周りを取り囲む野次馬に交じって、隣人の大学生と噂好きの管理人、それと管理会社の人だろうか、スーツ姿の男が何人かいた。
「何かあったんですか?」
 人混みをかき分けて、頼子は大学生と管理人の側に近寄って聞いた。
「それが大変なことになったのよ!」
 噂好きの管理人が大げさなアクションで言った。
「三〇四で事件が起きたの。それも殺人事件!」
「え?」
 隣の大学生は吐き気を堪えているかのように、真っ青な顔で黙りこくっている。代わりに管理人が早口で説明した。
「それがね、この二〇四の人が天井にシミができたっていうから見に行ったのよ。それが結構大きなシミでね、最近騒音も酷かったって言うじゃない。とにかく天井のシミは弁償してもらわなきゃいけないし、この際だから色々注意しておこうと思って、ほら、あそこの人感じ悪かったでしょ? それで部屋に行ったんだけど、開けてくれやしないの」
 頼子はドキッとしたが、管理人は構わず続けた。
「でね、とにかく天井のシミをなんとかしなきゃいけないから、管理会社に連絡して、社員さんに来てもらって、警察の方にも立ち会ってもらって部屋を開けたの。ほら、水漏れとかだと困るでしょ。そしたら……」
 管理人は大学生に聞こえないように声を潜めた。
「あったのよ。バラバラ死体」
「えっ!」
 頼子が思わず大きな声を出したので、管理人はシーッというポーズをした。
「で、今住人の女が警察に連れて行かれたとこ」
「……そうですか……」
 この事件は、大物芸能人の熱愛発覚まで、数日にわたってワイドショーで取り上げられていた。
 犯人は三十代前半の独身OL(頼子の目にはもっと老けて見えた)であること、殺されたのは交際相手の会社員であること、状況から共犯者がいるのではないかと推測されること……。
 あれから隣の大学生は部屋に戻っていない。どうやらそのまま引っ越すらしい。当然だろう。自分の頭の上で殺人事件が起こったのだ。
 頼子達夫婦も近々引っ越すことにしている。
 頼子は例のハンカチについて警察には話さなかった。
 被害者のイニシャルとは違ったけれど、もしあれが命の危険を察したSOSだったとしたら……。
 メッセージをちゃんと受け取って警察に連絡していれば、せめてハンカチを管理人に渡していれば、騒音の話が出てすぐに管理会社に連絡していれば……。
 彼は殺されずに済んだのではないだろうか。
 頼子は頭を振って自分に言い聞かせた。
 あのとき、居留守にも負けず何度も三〇四には行った。できることはやったのだ。もう考えてはいけない。第一あのハンカチはもう捨ててしまったのだ。
 そう。考えちゃいけない。そんな暇があったら夫が帰ってくる前に夕食の支度をしなければ。頼子はエプロンを着けてキッチンに立った。
 いつもより品数が多いのは、料理をしていれば多少気が紛れるからだ。
 やがて玄関のチャイムが鳴った。いつもより少し早いのは嬉しかった。やはり一人は不安だ。頼子はホッとして、エプロンで手を拭きながら急いで迎えに出る。
 ドアチェーンを外し、鍵を開けた。
「お帰りなさい!」
 無防備に開けたドアの向こうに立っていたのは夫ではなかった。
 男の顔には見覚えがあった。隣の保育園の保育士だ。園児を連れて近所を散歩している姿を何度も見ている。男の保育士は珍しいので、顔を覚えていた。
 それにしてもなぜうちに来たのだろう。
「あ、すみません」
 夫と他人を間違えてしまったことに頼子はドギマギしてしまったが、男はいたって静かな声で名乗った。
「初めまして。S・Yです」
 頼子はドアを閉めようとしたが間に合わなかった。
 警察が捜している共犯者。あの日、一瞬だけ見た男の顔を頼子はようやく思い出した。
「ハンカチを、返してもらえませんか?」
 もう少し、もう少しだけ逃げ延びられれば夫が帰ってくる。
 だが震える手で閉めようとしたドアは、ジリジリと開かれていった。

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作品について

著者プロフィール

堀真潮(ほりましお)

作家。
2016年、「瓶の博物館」で第1回ショートショート大賞受賞、7,817編もの応募作の頂点に。同年12月、作品集『抱卵』で作家デビュー。

作品概要

ときに不思議で懐かしい、かと思えば恐ろしくて狂おしい──。
夢と現の境界を自由に往来する堀真潮ワールドにご案内。
夢と自覚できれば目覚めるけれど、もしどちらの世界かわからなくなってしまったら……。
さあ、どうなるかは読んでお確かめください。

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