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悪夢か現か幻か

堀真潮(ほりましお)

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第4回 葛籠(つづら)

2018.11.16 更新

 三木が呼ばれて行ってみると、湊川氏は奥の座敷で、文机(ふづくえ)に座って何やら書き物をしている最中だった。
「三木先生、今日はお呼び立てして申し訳ありません」
「いえ」
 湊川氏は筆を置いて振り向き、そう言って三木に頭を下げた。
 湊川氏は貿易業を中心に幾つかの会社を経営する実業家で、世界中を飛び回っているうちに身につけたのであろう精悍さは彼を年齢よりもかなり若く見せていたが、今日は少しやつれて見えた。
「ところで先生。アレの具合はどうでしょう?」
「はい。奥様はこのところ気分もよろしいようで、お出掛けなどもされております」
 三木はこの家のかかりつけ医で、度々寝込む湊川氏の妻のため、定期的に往診していた。
「そうですか。それは良かった。仕事でほとんど家にいられないものですから心配でね」
「お気持ちは十分奥様にも伝わっているかと」
「だと良いのですが」
 お茶が運ばれてきたので会話は一時中断したが、お手伝いが出て行って襖(ふすま)が閉まると、湊川氏は一口お茶を飲んでから話を続けた。
「先生。アレは木津の事について、何か言っていましたか?」
「いいえ。特に何も」
「何も言っていませんでしたか」
 木津というのは湊川氏の古くからの友人で、この家にもよく遊びに来ていたのだが、つい先月何を思ったのか列車に身を投げ、自らの命を絶ったのだった。あまりにも突然の出来事な上、遺書も残していなかった。
 それは湊川氏にとって非常に心痛む出来事であり、そのために仕事を放り出して、南洋から急遽帰国したのだった。彼の容姿がいつもの張りを失い憔悴しているように見えるのは、そのせいかと思われる。
 湊川氏はもう一口お茶を飲んだ。三木はその喉の動きをじっと見ていた。
「木津はね、アレに惚れていたのですよ」
「はあ」
 三木は曖昧な返事をした。
「否定されないところを見ると、先生もご存知でしたか」
 そう言って笑っているのは口元だけで、湊川氏の目は少しも笑っていない。
 三木はハンケチで額の汗を拭いた。
「でしたら、アレが御用聞きやら出入りの植木職人やらを引っ張り込んで遊んでいたのもご存知でしょう。アレは、ヤエ子はそういう女なのです。淫蕩で浅薄で、とても寂しがりやな女なのです」
 湊川氏の年若い妻であるヤエ子はとても美しい人で、銀座のカフェーでホステスをしていたが、同僚と喧嘩をして店を追い出されたところを湊川氏に拾われたのだった。
 確かに我儘な甘ったれで、何かと痛いだの具合が悪いだの言って構われたがる。定期的に三木が往診していたのはそのためだ。
「私はヤエ子を責めるつもりはないのです。一年のほとんどを海外で過ごして家に居る事の方が少ないくらいですから、ヤエ子が寂しい思いをしているのは十分承知しています。木津もそんなヤエ子の気持ちを理解したのでしょう。奔放な振る舞いに対しても、一時の気まぐれなのだからと私に報告する事なく、自分の胸の内に秘めて見守っていたのです。なんという被虐的な愛し方でしょうか。木津の私への友情とヤエ子への想いは、岩に湧く清水のように純粋でした。木津は一生それを貫こうとしていたのです。ところが死んでしまった。なぜだと思いますか? ヤエ子に男ができたからですよ」
「まさか」
 三木はまたハンケチを出して汗を拭いた。暑くもないのに後から後から汗が出てくる。
 他でもない、ヤエ子の男というのは三木の事だった。
 ただでさえだらしのないヤエ子が、夫のいない間に通って来る三木に目をつけたのは当然で、それでもしばらく三木が一線を越えずに踏みとどまっていたのは、雇用主である湊川氏の存在があったからに他ならない。その頃の三木に、各界に顔の利く湊川氏に歯向かう度胸はなかった。
「ヤエ子に特定の男ができたというだけで木津にはショックだったでしょう。それまでは誰と何をしようと所詮行きずりの関係でしたからね。しかし今度は違う。木津はどれ程苦しんだでしょう。そんな時にそばに居られなかった自分が悔やまれます。ねぇ、三木先生。ヤエ子の男というのは貴方ですよね」
「それは……!」
 三木は思わず平身低頭した。しながら、ここは素直に謝った方が得策だと考えていた。潮時というやつだ。下手に逆らわず、とにかく謝ってヤエ子と手を切れば、そこまで酷い事はされないだろうと、三木は考えた。実際それしか手がなかった。
「旦那様! 申し訳ありません! 私は、その、奥様と……!」
 だが三木の話を湊川氏は遮った。
「いや、ヤエ子と貴方の事は良いのです。言った通り、ヤエ子がそういう女である事は承知していますから。貴方とヤエ子は関係があった。しかしね、木津がそんな事で死んだとは思えないのですよ。木津は確かにヤエ子の事で傷心していたでしょうが、彼はそんな事で私の代わりにヤエ子を守る事を放棄する男ではないのです。むしろ、ヤエ子を守らねばと、より強く思ったに違いありません。そして、その一切混じり気のない友情と愛情を利用されたのです。貴方とヤエ子は関係を楽しむために、私の友人でありお目付け役でもあった木津を排除する事を考えた。なんという悪知恵か、貴方は木津に私を裏切らせました。ヤエ子にとっては、自分に気のある生真面目な男の一人や二人、涙一粒でその気にさせるなど朝飯前で、それまで木津に対してそういう態度に出なかった事が不思議です。貴方はヤエ子をそそのかした。ヤエ子の女としての魅力がどの程度のものか、あの男で試してみるといいとかなんとか、上手い事を言って焚付けた。ヤエ子は白く可憐な白百合でも装ったのではありますまいか。よよと泣いて縋って見せれば、ヤエ子がいかに寂しがりやの可哀想な女かを知っている木津が放って置けるわけがありません。そこに付け込まれたのです」
「ち、違う! 私は!」
「貴方は私との友情を裏切った事に懊悩(おうのう)する木津を、ヤエ子と一緒になってチクリチクリと責めた。木津は追い詰められた。そこでとどめだ。貴方は木津に、ヤエ子に子ができたと噓をついた。貴方の子だ、旦那様に顔向けできまい、どうするのだ、と」
「申し訳ありません!」
 三木は畳に額を擦り付けながら、湊川氏に謝った。
「私はっ! いけない事だと知りながらも! 寂しい奥様の様子を見るに見かねて! 決していい加減な気持ちではありませんでしたが、もう、もう二度とこのような事は!」
「ああ、いいのだよ。そんな事は」
「しかし!」
「いいから黙りたまえ」
 湊川氏の声には有無を言わせぬものがあった。
「言ったでしょう。私はヤエ子の遊び相手には腹がたつどころか、むしろ彼女の孤独を癒してくれた事に感謝しているのです。もちろん貴方にもですよ。しかし、私にはどうしても許せない事がある。木津です。彼は私の一番の親友だったのです。学生の頃からずっとです。それを、たかが男女の遊びの邪魔だからと弄んで死に追いやるとは、到底許せる事ではありません」
 三木はブルブルと震え、畳に頭をつけたまま身動きができなくなっていた。
 湊川氏の静かな怒りの迫力は、内臓を押し潰さんばかりの重さで三木にのしかかっていた。
「長らく世話になりましたが、我が家のかかりつけ医は別の方をお願いした。そしてヤエ子も離縁する事にした。もう二度とうちの敷居は跨げないと思ってくれ給え」
 三木は頭を下げたまま、じっと耐えていた。
「それでだね。ヤエ子は貴方と一緒に行きたいと言っているのだよ。連れて行ってやってくれるね」
 断るなど出来るはずもない。
 湊川氏にバレた時点で当然の結果だった。女で身を滅ぼした男を何人か見てきたが、まさか自分がそうなるとは思ってもみなかった。己の力を過信したせいだ。
 嵐のような後悔が唸りを上げて三木を襲っていた。
 と同時に、想定内の被害で済んで良かったと、どこかで安堵もしていた。
 自分は医者だ。ヤエ子とどこか見知らぬ土地へ行ってやり直すのもありだろう。
 三木は這いつくばるように頭を下げたまま、「はい」と答えた。
「良かったな、ヤエ子」
 湊川氏は次の間に続く襖の向こうに向かって言った。
「三木先生はお前を見捨てはしないそうだよ」
 おそらくお手伝いが控えていたのだろう、スッと襖が開く。
「ヤエ子は物覚えの悪い女で、木津に何をしたか思い出させるのにも苦労しましたが、こうして運びやすいようにひとまとめにしておきました」
 三木は顔を上げてそれを見た途端、腰を抜かして動けなくなった。
「さあ、どうぞお持ち下さい」
 次の間に置かれていたのは小さな子供が一人入れるかどうかの大きさの葛籠で、時折ガタガタと動きながら苦痛の唸りを上げていた。

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作品について

著者プロフィール

堀真潮(ほりましお)

作家。
2016年、「瓶の博物館」で第1回ショートショート大賞受賞、7,817編もの応募作の頂点に。同年12月、作品集『抱卵』で作家デビュー。

作品概要

ときに不思議で懐かしい、かと思えば恐ろしくて狂おしい──。
夢と現の境界を自由に往来する堀真潮ワールドにご案内。
夢と自覚できれば目覚めるけれど、もしどちらの世界かわからなくなってしまったら……。
さあ、どうなるかは読んでお確かめください。

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