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悪夢か現か幻か

堀真潮(ほりましお)

悪夢か現か幻か ブック・カバー
バックナンバー  12 

第1回 溺れる男

2018.10.01 更新

 月夜の海に浮かんでいるようだ。
 錠剤を酒で流し込んでベッドに倒れると、やがてゆらゆらとそこは海になる。
 シーツを銀色(女は灰色と言ったが)にしたのは正解だった。
 絹と言いたいところだがそこは残念な化繊のサテンで、しかしサラサラとしなやかな布地は動く度にベッドの上に波を立てる。
 薬が効いてくると何もかも朦朧としてきて、体を支えるマットレスの弾力がゆるく溶け出し、いつの間にか俺は一人仰向けで海面に浮いているような感覚に陥る。
 天井の丸い照明は大きな月になる。
 大きな銀色の夏の宵の満月は、独り暮らしには贅沢なセミダブルのベッドの上で波に漂う俺を照らす。
 ゆらゆら、ゆらゆら。
 やがて遠くに穏やかな波の音さえ聞こえて来る。 
 昔々という程でもないが、こうして波に揺られながらぼんやりと過ごすのが好きだった。
 故郷は海に面した地方都市にあって、夏の海水浴シーズンには賑わうがそれ以外はさっぱりといった小さな田舎の町だ。二度と戻る気はないが、生まれた時から染み付いた海の記憶だけはどうしようもないのだなと思う事はある。
 最近、目を瞑って波に揺られ、うとうとと寄せてくる眠気に身を任せている耳元に、時折魚の跳ねるような水音がするようになった。
 ハッとして目を開けても視線は天井を向いているから見えはしないが、シーツの波の下を何かが泳いでいるのはわかる。それが動くと小さな波が起きて、俺の体も揺らぐのだ。
 人を恐れぬ性質なのか、少しずつ近付いて来る。やがてクスクスと笑い声がすると、伸ばした指先に固くざらりとした物が触れた。
 俺は少しだけ頭を動かして音のする方を見た。
 ほんの一瞬、銀色のシーツの波間に虹色の尾鰭(おひれ)がキラリと光る。
 見つかったのが可笑しいのか、はしゃぐような笑い声をあげると、それは愛らしい水音を残して幻覚の海の底へと潜っていった。
 そんなものを見るようになってはいよいよ終わりだなと思いながら、今夜も錠剤と酒を夕食代わりに、ネクタイだけ緩めてベッドに倒れ込む。
 そこはすぐに月夜の海になり、わずかな波に夢と現の間を揺れ動く。
 うねりに煽られて体がふわりと持ち上がる。下だ。下に来ている。
 思わせぶりないつもの笑い声がして、目の端に波間に消える白い指先が映る。
 俺は、ふと手を伸ばしたらその尾鰭に触れられるのではなかろうかと考えて、うつらうつらしながらも小さな水飛沫の上がった方へゆっくりと手を動かした。
 その時だった。
 不意に海の中へと引きずり込まれた。何かが腕を摑んでいる。濡れた服が重く体に纏わりつき泳ぐ事ができない。息が苦しい。もがく程に体は深く沈んで行く。
 細かい泡の向こうに何かが見えた。
 海藻のようにうねる長い髪、真珠の肌。水中から白い腕が伸びて俺の首に回される。
 人魚だ。俺の理想をそのまま形にしたような美しい女だった。それが息苦しさに朦朧とする意識の向こうで微笑んでいる。
「私を思い出して」
 女の声が聞こえたと同時に大量の水が肺に流れ込んで来て、俺は終わった……
 と思ったが、普通にベッドの上にいた。
 服も髪も、どこも濡れていない。ベッドもシーツもただのそれで、当然沈んだりしない。
 なのにひどく苦しくて、むせたと同時に吐いてしまった。
 体はだるく重い。もう一度ベッドの上に身を投げ、天井を見た。
 溺れる感覚には覚えがあった。
 まだ地元にいた時だ。中学最後の夏だったか、進路も決まらずロクデナシの親と日々ぶつかっていた俺は、夜の海に飛び込んで、溺れた。
 死にたいのかと言われても仕方のない行為だったが、その時は死ぬとかそういう事は考えていなかったと思う。ただイライラして、怒りに火照った体をなんとかしたかった。俺にとって海はそういう場所だった。ありとあらゆる感情を受け止めてくれる場所だと思い込んでいた。
 ところが月光を受けて輝く波に向かって飛び込んだ途端、潮のうねりに巻き込まれ、海中に引きずり込まれた。昼の海とは勝手が違う、暗い水底へと沈んでいく恐怖。死ぬと思ったし、死んでも構わないと思った。
 けれど死ななかった。
 翌朝、俺は少し離れた町の浜辺に打ち上げられていた。
 その時の記憶はない。
 今更思い出せと言われても、思い出せるものなど何もないのだ。
 そんな俺の虚無を知ってか知らずか、相変わらず人魚はシーツの海を気ままに泳ぎ回っている。あれから言葉を発する事はない。泡のような笑い声を立てているだけだ。
 朦朧とした頭に、時折見える鰭が眩(まばゆ)く美しい。
 俺は今度こそ触れるんじゃないかと手を伸ばした。
「痛っ!」
 鰭棘(ききょく)が刺さったと思った瞬間、夢から覚めたように俺は手を押さえてベッドの上に座っていた。もちろん周りは海などではなく、幾重にもドレープの寄った銀色のシーツの表面だ。
 だが、指先はジンジンと痛んでいる。迂闊に魚に触ると、鰭の先から出ている棘で指を刺す事がある。まさにその痛さだ。夢や幻ではない。
 見ると人差し指の先に真っ赤な血の玉が出来ている。それはゆっくり膨らむと、しゃぼん玉が壊れるようにして流れた。俺は慌ててティッシュを取って傷を押さえた。
 動悸が激しいのは錠剤のせいじゃない。
 見渡しても辺りに指を刺すような物は何もない。じゃあ、この傷はなぜついたのか。もしかするとこんなリアルな幻覚まで見るようになってしまったのか。
 どちらにしろヤバい事に変わりはない。
 こんな時は逃げるに限る。といっても俺の逃げ道など一つなのだが。
 倍量の錠剤を、瓶から直接飲む酒で流し込んで、ベッドの上に丸くなり固く目を瞑る。見ないで眠ってしまえと思えば思う程、自分が波の上にいるのがわかる。濡れて張り付く服と髪、浮力に支えられた体の感覚、水音、笑い声、冷たい手触り。
「思い出した?」
 俺はうっすらと目を開ける。あんたは誰だと聞きたいが、口がうまく動いてくれない。
「まだ?」
 人魚は美しい。色は白く、髪は黒く、唇は赤く、少女のように無邪気で残酷だ。
 水中から伸びた腕が首に回される。
「思い出して」
 同じだ。
 水の中に引きずり込まれた。吐き出す泡の向こうで人魚の髪が揺れている。
 俺は息苦しさにもがいた。
 俺にはずっとこの息苦しさがつきまとっていた。いつも息が詰まって、苦しくて苦しくて仕方がない。誰か助けてという言葉は海中で泡になって消え、水面に向かって手を伸ばすが、届くことなく体が沈んで行く絶望感。
 海の中でも外でも、俺は溺れている。
 あの暗い夜の闇で誰かが助けてくれた時のように、今も誰かの助けを待っている。
「思い出した」
 頷くと、人魚は無垢な微笑みを見せながら、唇を重ねてきた。途端に息苦しさがなくなり、魚になったかのように呼吸ができるようになった。
 あの夜の海で、俺は初めて人魚を見た。力を失い沈んで行く俺を助けてくれたのは紛れもなく彼女だ。あの時も、唇に柔らかさを感じたと思ったら呼吸ができるようになっていた。
「何の魔法?」
 問いかけた俺に、人魚はやっぱり笑うだけだった。
 俺は自分がどんな女とも本当の繫がりを持てなかった理由を思い出した。
 人魚は好奇心が強い。
 その好奇心で男に近付く。男はもう他の女では満足できなくなってしまう。
 この世ならぬ悦楽の罰は、愛情によって満たされる事のない一生の孤独。
 酷い話だ、と思った。結局奴らは怪物なのだ。
 だがそれでも構わないと思う程に、目の前の人魚は妖しく艶かしかった。魔性というのはこういうものだと俺は思った。
 これが女に溺れるという事か。
 捨てて惜しいような人生じゃない。むしろこんなに求めてもらえるのなら上等だ。
 鋭い鰭棘が刺さるのも厭わずに、俺は人魚の体を抱きしめて、眠りに落ちる時そのままに、銀のシーツの波の深くにゆっくりと静かに沈んで行った。

 数日後、男の溺死体が発見されたのは部屋のベッドの上だった。
「どうしてこんな所で溺れていたのでしょう」
 不可思議な出来事に、発見した大家は怯え切っていたが、不審死だというのでやって来た刑事は何て事はないように答えた。
「プラシーボ効果でしょう」
「それは何ですか?」
「暗示というやつですよ。患者にこれはよく効く薬ですと言って渡すと、それがただの栄養剤でも効果がある。思い込みが体に影響を与えるという事です。こいつが何の幻覚を見ていたかはわかりませんが、普通の状態じゃなかったのはこれを見ればわかります」
 刑事はベッドサイドの空の酒瓶と床に散らばった大量の錠剤を指差した。
「こいつが溺れたのは海なんかじゃなくて、これ。酒と薬に溺れて死んだんですよ」
 大家は納得のいく理由がついた事に少しホッとしたが、じゃあこの部屋の潮の匂いと魚のような生臭さはどこから来るのだろうと思った。

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作品について

著者プロフィール

堀真潮(ほりましお)

作家。
2016年、「瓶の博物館」で第1回ショートショート大賞受賞、7,817編もの応募作の頂点に。同年12月、作品集『抱卵』で作家デビュー。

作品概要

ときに不思議で懐かしい、かと思えば恐ろしくて狂おしい──。
夢と現の境界を自由に往来する堀真潮ワールドにご案内。
夢と自覚できれば目覚めるけれど、もしどちらの世界かわからなくなってしまったら……。
さあ、どうなるかは読んでお確かめください。

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