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にじゅうよんのひとみ

吉田恵里香(よしだ・えりか)

にじゅうよんのひとみ ブック・カバー
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第一章『おめでとう、ひとみ』前篇

2015.01.21 更新

今日に限って、丸山くんの帰りは遅かった。
玄関で靴を脱いでいる彼の背は、汗と疲労で滲んでいる。普段なら七時には風呂を済ませて家でまったりしている人なのだ。帰りが十一時をすぎるのは稀である。年に一度か二度しか行われない残業が、今日行われたらしい。
夕飯のオカズ達が、すっかり冷え切っている。総菜に頼らずに珍しく全部手作りしたのに。つくづく思う、私って本当に運がない。
「朝、食べるからね」
彼は子供をなだめるように言う。
私が怒っていると思っているようだ。どこか申し訳なさそうに、丸山くんは台所に置かれた皿を次々と冷蔵庫にしまっていく。
大葉とチーズを挟んだチキンカツ、ポテトサラダ、トマトのオムレツ、ほうれん草とお揚げのお味噌汁。どれも彼の好物ばかりである。
『外で食べてくるなら早く言ってよね。喜んでほしくて一生懸命作ったんだよ』
なんて恩着せがましいことは口が裂けても言わない。彼が連絡を忘れるのはよくあることである。それに今日は、というか、この一時間は無駄な喧嘩は避けたかった。
冷蔵庫の扉を閉めた彼は、シンクの前に立ち、顔を洗い始める。鍋底をタワシで擦るように力強く豪快な洗い方だ。
布団の上で胡坐を組んで、私はその様子をじっと見つめることにした。

丸山くんと、このアパートに住み始めて四年と少しになる。

もともと一人で住むために借りた部屋だ。二人で住むにはやや狭いが、角部屋だし日当たりも良いので気に入っている。
私と彼の靴を並べたら埋まってしまう玄関。玄関から六畳の和室を繋ぐ短い廊下にはユニットバスと洗濯機、冷蔵庫。ガスコンロが二つある台所が並ぶ。
ただでさえ狭いのだから極力、物を置かないようにしよう。そう決めた約束はあっさりと反故にされて、壁伝いに漫画や洋服、丸山くんの『本業』の作業道具が積みあげられ、それらの隙間に私のドライヤーやパンプスが突っ込まれている。

着ていたパーカーで顔を拭い、彼はそのまま服を脱いだ。丸めて放られた靴下は畳を転がり、壁に立てかけられた姿見にぶつかる。丸山くんはTシャツと赤いボクサーパンツ姿になった。最近夜は冷えるから、その格好じゃ寒いよ。そう思ったが面倒なので黙っておいた。子供じゃないのだ。寒ければ自分でどうにかするだろう。そんな私の隣に丸山くんは腰をおろした。
「お風呂沸いてるよ」
言葉を遮るように、彼は私の肩を静かに押した。私はドミノか、と脳内でツッコミながらバタンと布団に倒れる。
丸山くんは冬眠明けの熊のように、のっそりと、当然のように私に覆いかぶさった。押し付けられた胸板をクンと嗅ぐ。
汗と古びた家具の匂いがする。
シャツに手を入れて、盛り上がった筋肉を指でつつつと撫ぜた。丸山くんがくすぐったそうに身をよじる。
『副業』としてリサイクル会社で働き始めてから、彼はどんどんとたくましくなった。男らしくなった。あばら骨が浮いていた中学時代とは別人のようだ。
丸山君は昔から目は大きいのに瞼が厚く、いつもトロンと眠そうな表情をしている。彼の顔を眺めるたびに、あぁやっぱり好きな顔だなと思う。多分、私は丸山くんの顔が世界で一番好きなのだ。
昔から変わらない彼の顔と、すっかり変わってしまった体。どうしてもチグハグに思えて仕方がない。アメコミヒーローにキューピー人形の首を挿げ替えたような違和感を覚えて、いつまで経っても慣れなかった。
風呂に入る気がなさそうなので「電気、電気」と、頭上の蛍光灯を指さす。
だが彼は訴えを無視して、首筋に唇を這わせながら私のルームウェアをめくりあげた。天井からぶらさがる紐に手を伸ばしてみるが指先をかするだけで摑むことはできない。
電気を消してほしいと言ったのは、別に恥じらっている訳ではない。長い付き合いだ。今更、何を見せても恥ずかしくはない。
このタイミングで、蛍光灯の寿命がきたらしく、チカチカと点灯し始めて見苦しいからである。
彼を押しのけて電気を消すことはできるけれど、さっき言ったように、今日は無駄な喧嘩は避けたい。私は抵抗するのをやめて、静かに目をつぶった。
丸山くんが私の左手を舐める。
親指の付け根に小さな火傷跡があるのだ。二歳になったばかりの頃、父の煙草に触れてしまいできたものである。父親が煙草を絶つきっかけとなった傷だ。その傷跡を彼はいつも舐める。

週に二、三度のペースで行われる性行為。

キスに愛撫、彼が押し入れからコンドームを取り出す仕草。何もかも完全にルーティン化されて色気もへったくれもない。愛情表情現ではなく日常に組み込まれた、言わばルーティンSEXだ。
別にそれに不満がある訳じゃない。自分で言うのもなんだが、それなりに幸せだと思う。ただ気が緩むと『なんだかなぁ』という気持ちが湧き上がるだけ。
その感情に名前をつけるのは怖い。だから避けている。
「いい?」と尋ねられた時には、彼は既に私の中にいた。
それと同時に後頭部に鈍い痛みが走る。
さっき電気を消そうと身をよじったせいで、布団から頭が落ちてしまったらしい。動きに合わせてゴツンゴツンと畳に頭がぶつかった。たまらず丸山くんにしがみつく。その背中は熱く汗ばんでいた。

啜り泣くような擦れた声を聞きながら、まだ彼は私との行為に、いや私自身に飽きていないのだなと、ほっとしている自分がいる。

とどめの一撃とでも言わんばかりに畳に頭を打ちつけられた。
力尽きた丸山くんの全体重が、私に圧し掛かる。
「お風呂、入って寝たら?」
汗まみれの彼に提案するも返事はなく、代わりに高イビキが返ってきた。
一度眠ってしまうと、何が起きようと朝まで目を覚まさない。私の恋人は驚くべき睡眠能力の持ち主なのだ。
このまま丸山くんの下敷きになっている訳にもいかないので、力いっぱい彼を押しのける。布団の外へ抜け出そうとしていると壁に立てかけられた姿見が目に入った。
鏡の中にある時計は十二時を指し示している。
十月七日がはじまったのだ。
姿見に映る自分に私は喋りかけた。

「お誕生日おめでとう、ひとみ」

たった今、私は二十四歳になった。
十月七日は、私の誕生日である。
丸山くんとの喧嘩を避けたのも、面倒な料理を頑張ったのも、今日のためだ。
私はほんの少し期待していたのである。今年こそは丸山くんが私の誕生日を覚えていてくれるかもしれないと。
昔から彼はお祝いや記念日に無頓着な人間なのだ。こちらから切りださなければ私の誕生日に気付くのは数日後だろう。駅前のコージーコーナーでケーキを買って、申し訳なさそうに帰ってくるのだ。そんな彼の姿が容易に想像できる。そして私は『なんだかなぁ』と思いつつ、馬鹿みたいに喜んでみせるのだ。
話を簡潔にまとめよう。私は彼に誕生日を祝ってほしいし、欲情してほしい。結局のところ、丸山くんが好きなのである。
姿見に喋りかけたことを、私は早くも後悔していた。最初に誕生日を祝ってくれたのが自分だなんて。虚しすぎるじゃないか。姿見から目を反らして、私は欠伸をする。まどろみに身を任せて眠ってしまいたい。二度目の欠伸をしながら、なめくじのように布団から這い出す。三十分後にはバイトに出かけなければならない。
丸山くんが脱ぎ散らかしたパーカーや靴下を拾いながら歩く。布団から六歩進めば、ユニットバスに到着である。
浴室の扉に対峙するように置かれた洗濯機に手を伸ばす。蓋を開けると、洗濯物がぎっしり詰まっていた。丸山くんが洗濯をサボったのである。ルームウェアや下着を脱いで、拾ったパーカーと共に洗濯機に突っ込む。脱衣所なんてものは我が家にはない。
浴室の扉を開ける。
狭い室内に足を伸ばせない浴槽と、使いづらい洗面台、トイレが詰め込まれている。換気扇を回し続けていても空気はじっとりとしてカビ臭い。
湯船に、ゆっくりと体を浸す。お湯はすっかりぬるくなっている。熱いお湯を足しながら、私は足先を眺めた。どの指も赤いペディキュアが剝げて、みすぼらしい。ボブが伸びて中途半端になった毛先が水面で揺れる。黒く染めたばかりなのに、もう色が抜けかかっていた。三度目の欠伸をしたあと、私は湯の中に潜り、そのまま十秒数える。子供の時からの習慣だ。鼻から吐き出した空気が小さな玉になる。玉たちが連なり登っていくのを見るのが好きなのだ。
十まで数えて立ちあがる。
顔を拭い、シャワーの蛇口をひねった。温度を調節しながら、蒸気で曇った鏡を手で擦る。
そこに映るのは、目つきが悪く、唇をへの字に曲げた裸の女だ。
濡れた髪をかきあげると、右耳に三つ、左耳に五つのピアスが露わになる。シャンプーを髪につけて思い切り泡立てながら思う。
二十四歳って、もっと大人だと思っていた。中身も外見も、大人とは程遠い。いつになったら、まともな大人に成長できるのだろうか。もう何年も前から同じ場所で足踏みをしている気がする。
時々、想像する。
私の背中にはゴムがくっ付いているんじゃないだろうかと。
それは、とても強力なゴムだ。ゴムの先は私が立つ地面へと繋がっている。大人になる前進をさせないように邪魔しているのだ。前に進むたび、背中のゴムはビヨーンと伸びる。そして、つまずいた瞬間。勢いよく縮まって元いた場所に、私を引き戻すのだ。ジタバタと足搔いても結局同じ所に戻ってしまう。次第に前に進むことが時間の無駄に思えてくる。だから前に進むことすらやめてしまう。こうして全く成長しない現状維持の私が出来上がるのだ。
きっと来年も再来年も、こうやって足踏みをして、成長のない自分や存在しない透明のゴムを憎たらしく思うのだろう。
シャンプーとリンスを終えてタオルで髪をまとめようとしたその時である。
あんぎゃあ あんぎゃあ。
シャワーに混じって、おかしな音が耳を貫いた。空耳かと思ったが、違う。あんぎゃああんぎゃあと、確かに赤ん坊の泣き声がする。最初は隣の部屋から聞こえているのだと思った。でも、それにしては声が大きすぎる。怪しみながらシャワーを止めると、更に声は大きくなった。いや、まさか。頭に浮かんだ答えを否定しながら、私は浴室の扉を開ける。特大のあんぎゃああんぎゃあは、洗濯機から聞こえてくる。恐る恐る洗濯機の蓋を開ける。
「え」と、思わず声が漏れた。
満々に押し込められた洗濯物の上に、まんまるに太った赤ん坊がいる。
状況がうまく飲み込めない。私は浴室へと戻り、何度か深呼吸をした。さっき頭を打ちつけられすぎて幻覚を見たのかもしれない。覚悟を決めて再び外に出る。赤ん坊は洗濯物の中でジタバタと足を動かしていた。赤ん坊は、私を確認すると更に力強く泣き叫び始める。
なんで赤ん坊が、洗濯機の中に?
頭の中を埋め尽くす『なんで?』を振り払いながら丸山くんの名前を呼ぶ。しかし和室から聞こえるのはガァーガァーというイビキだけだ。この泣き声の中、眠っていられる彼を逆に尊敬する。
部屋の中で、あんぎゃあとガァーガァーが入り混じっている。
くしゅんとクシャミをすると、頭のタオルが外れて、髪の毛から水滴が滴り落ちた。全裸であることを思い出した私は、床に散らばる服を適当に見繕う。部屋干ししている洗濯物から下着とタイツをもぎ取る。少し湿っていたが、そのうち乾くだろう。えんじ色のニットとデニムのショートパンツを履いて、私は洗濯機と向かい合った。
いつまでも赤ん坊をこのままにしておく訳にはいかない。仕方なく桃色の塊を抱きあげる。甘ったるく乳臭い。赤ん坊は泣くのをやめ、私の濡れた髪の毛を摑み、きゃっきゃと声をあげた。
部屋の時計は十二時三十八分。
バイトの時間は刻一刻と迫っている。深夜バイトのドタキャンはご法度だ。丸山君は起きる気配がないし、起きた所で役には立たないだろう。
残された方法はひとつ。
私はバスタオルで赤ん坊を包み抱きかかえる。赤ん坊の体は熱い。巨大なホッカイロを持っているようだ。風呂に入ったばかりなのに汗が額に滲む。化粧も髪をとかすことも諦めた。リュックを背負うと、私は赤ん坊と共に外へと飛び出した。

案の定、橋詰さんはカンカンだった。
橋詰さんは遅刻を心の底から嫌う男だ。十五分前行動が彼の基本である。私がした二十分の遅刻は、彼にとっては三十五分の遅刻に値するのだ。私が抱いた赤ん坊を見て、彼は眉間に深いシワを作る。
「それ、お前の子?」
「まさか違いますよ」
「分かってるよ」
橋詰さんは、ヤニだらけの歯を覗かせる。彼はバイトの先輩だ。禿げあがった額のせいで老けて見えるが、私と五つしか年が違わない。
読んでいた『幽遊白書』をカウンターに置き、彼はジロジロと赤ん坊を見回してくる。私は咄嗟に姉の子供を預かったのだと噓をつく。いるのは姉じゃなく妹なのに。突然赤ん坊が現れたと言っても信じてもらえないのは分かりきっていた。
橋詰さんにも、この赤ん坊が見えているのか。そのことに少しだけほっとする。頭がおかしくなって幻覚を見ているのではないかと不安だったのだ。
「知らないよ、店長に見つかっても」
そう言って、彼はエプロンを私に放る。遅刻も赤ん坊も見逃してくれるらしい。
漫画喫茶ミミズクはうす。
それが私のバイト先だ。
この深夜バイトを三年続けているのは、橋詰さんのおかげでもある。引き継ぎの数分間行われる、彼との会話が私はとても好きなのだ。
「ここに寝かしとけばいいさ」
橋詰さんが段ボールに毛布を敷きつめる。赤ん坊の寝床を作ってくれたのだ。
人相は悪いが、彼は私の知る誰よりも優しい。バイトを代わってと頼めば、彼はブツブツ言いつつ引き受けてくれるだろう。
だが、それはしない。
借りを作れば、橋詰さんとの距離が少し縮まる。顔見知りと知人の境にいる、今の関係を崩したくなかった。それに先月、家の契約更新をしたばかりだ。今月はしっかり稼がないといけない。
「じゃあな」と去っていく橋詰さんに会釈する。彼を見送り、私は抱いていた赤ん坊を段ボールに寝かせた。泣き疲れたのか気持ちよさそうに眠っている。赤ん坊の体はずっしりと重かった。ずっと抱きかかえていたせいで腕が痛い。洗濯機から抱きあげた時より体が大きくなったように感じるが、気のせいだろう。
エプロンを身に纏い、私は仕事に取りかかった。
仕事といってもたいしたことはない。
掃除と漫画の整理だけ。住宅地しかない駅近くのビルにある、小さな店だ。たまに酔っ払いはくるが、深夜は客もまばらで仕事は少ない。今も店にいる客は常連の三人だけ。三十分程度で仕事が終わった。橋詰さんは自分の仕事をキチンとこなす男なのである。
ここまでくれば、あとは朝まで待機だ。電車もとっくに終わっているし、新たな客はまずこないだろう。私はカウンターで読む漫画を選ぶことにした。昨日読んでいた漫画の棚に向かうが、続きが貸し出されている。三人しかいない客の誰かが持っていったのだ。やっぱり私は運がない。
適当に漫画を選びカウンターに戻った。段ボールに目を向ける。赤ん坊は先ほどと同じ体勢で眠っていた。
一仕事を終え、冷静さを取り戻した私は、改めて思う。
一体この赤ん坊はなんなのだ。赤ん坊をどうすればいいのか。私にはさっぱり分からない。警察という文字が頭に浮かんですぐ消えた。橋詰さんにさえ満足に説明できないのだ。見知らぬ刑事たちに事実を伝えられる自信はない。
今日は私の誕生日なのに。
ツイていない、では済まされない事態に巻き込まれてしまった。洗ったまま放置していた髪に指を通す。指通りは悪く、毛がすぐに絡まってしまう。二十四歳こそは大人の女を目指したかったのに。さっそく出鼻を挫かれてしまった。
カウンターに短い電子音が鳴った。レジ横のデジタル時計が深夜二時を告げたのである。
バイト終了まで、あと五時間だ。そう思った時である。
突然段ボールから、にゅっと足が伸びた。白いタイツを履いた小さな足である。
「え?」
私は髪を触ったまま、固まっていた。訳が分からず体がうまく動かない。二本の足はジタバタと動き続けている。その動きは壺から足を出した蛸のようだった。
小さな踵が地面を蹴る。中から飛び出してきたのは幼い女の子だった。
「え、なにこれ」
やっと体が動き出し、箱の中を見やる。赤ん坊の姿は消えていた。毛布を引っ張り出すも、どこにも赤ん坊はいない。
青ざめる私を他所に、女の子は店内をぴょんぴょんと走り回っている。飛び跳ねるたびにジャンパースカートが揺れた。揺れるたびに、オムツで膨らんだお尻が見え隠れする。女の子は興奮しているようで甲高い奇声を発していた。事態に気付いた三人の常連客がざわめき出す。
「ちょっと待ちなさい」
とにかく騒ぐのをやめさせよう。私は女の子を追う。狭い店内を彼女はちょこまかと逃げまわる。追いかけっこが楽しいのか、女の子は更に奇声をあげた。
やっとのこと追いついて、私は背後から手を伸ばす。ぷっくりとした腹に腕をまわして持ちあげた。特に抵抗もせず、女の子はされるがまま抱きかかえられている。汗ばんだ彼女の服には熱が籠っていた。カウンターの椅子に、彼女を座らせて深呼吸をする。ゆっくり息を整えてから私は尋ねた。
「あなた、お名前は?」
女の子は小さな両手を口に突っ込み、笑っている。開きっぱなしの唇からよだれが一筋垂れた。見た顔だが、どこで会ったのか思い出せない。私は再度同じ問いを繰り返す。
女の子は口に手を突っ込んだまま言った。
「ひぃちゃん」
彼女が名乗ったということに一瞬気付かなかった。自分の名前を呼ばれたと勘違いしたのである。父や祖母から、私は「ひぃちゃん」と呼ばれているのだ。
「ひぃちゃんのおうちはどこ?」
ひぃちゃんは両手を舐めるのに夢中で答えてくれない。
正直に言おう。
私は子供が苦手である。嫌いではないが、どう扱っていいか分からないのだ。それに大抵の子供は、私を嫌う。目つきが怖いと言って怯えられるのだ。言うことを聞いてくれない彼女に、沸々と苛立ちが湧きあがっていく。だが声を荒げて泣かれでもしたらおしまいだ。
「お口に手を入れるの一回やめてくれるかな?」
猫なで声で頼むも無視される。
「ねぇ、お願いだから」
私は彼女の小さな手を掴み、口から引っ張り出した。両手とも、すっかりふやけてしまっている。ひぃちゃんは唇と手を繋ぐよだれの糸を興味深そうに見つめていた。良かった、泣かれなくて。ほっとしながら、私は言葉を続けようとした。だができなかった。
私は見つけてしまったのだ。ひぃちゃんの左手にある火傷跡を。
それは私の手に残る跡と同じ形をしていた。間違いなく同じ傷である。ありえない答えが、私の中で導き出されようとしていた。

「ひぃちゃんって、私なの?」

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著者プロフィール

吉田恵里香(よしだ・えりか)

脚本家・構成作家
1987年神奈川県出身。所属事務所はQueen B。日本大学藝術学部在学時よりドラマの脚本や構成を手掛ける。
主な仕事に日本テレビ『恋するイヴ』の脚本、NHK Eテレ『シャキーン!』の構成、
マンガ『TIGER&BUNNY THE COMIC』(集英社)『一触即発禅☆ガール』(アスキーメディアワークス)の原作、小説『脳漿炸裂ガール』シリーズ(KADOKAWA)や『僕とあいつの関ヶ原』『俺とおまえの夏の陣』(東京書籍)の執筆など。
今作では、初の小説連載に挑戦。期待の若手著者が、アラサー共感間違いなしの『大人の階段を登れない女子の本心』を、鋭く、瑞々しく、描き出す。

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